進まない時間 前編

岡倉弘毅

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第四十六章

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 警察官から事情を聞かれて、開放されたのは二時過ぎだった。圭は意識を失い、救急車で運ばれて行ったらしい。
 涼介は罪には問われない。圭を助けようとしたが、気が動転してしまい、圭に傷を負わせてしまった。との説明で、納得してくれた。
 唯一の目撃者、明も、同意した。水野は麻上に切り付けて、呆然としていた。と。
 本当にそう見えたのだろうか? 明の目には怒りがあった。
 明に引き倒された後、動くことができなかった。とうとうやってしまった。後悔の念がありながら、心の底では、興奮していた。
 恐怖と絶望感に支配された圭の顔を見て、理性を失った。圭はもはや友人ではなく、獲物でしかなかった。忘れられない。圭の怯える姿と、腕を染める赤い血液。サディスティックな感情が、ずっと燻り続けている。
 生徒は騒動直後に帰され、部活動も強制的に休みになり、校内はひっそりとしていた。鞄を教室から持ち出し、玄関に向かうと、明の姿が確認できた。
「俺の部屋に来い」
 明は、怒りを殺した低い声で、涼介に向かって言った。
「あんたの部屋?」
「そう、俺の……いや、兄さんの部屋に」
 涼介は明を睨んだ。
「来い。お前の罪を知る場所に」
「僕の罪を知る場所に」
 そうかも知れない。涼介は思った。あの部屋は、涼介の罪を覚えているに違いない。

 部屋は、夢の中の通りだった。壁を覆う医学書、その反対側に置かれた机。
 そして、窓際に置かれたベッドと、カーテンの向こうで揺れる、青い蜜柑。
 明はベッドに腰掛けると、涼介を真正面から睨み付けた。それに対して涼介は、挑戦的に笑むと、周りを見渡す。
 今、涼介が立っている場所は、あの日、服が散らかっていた辺りだ。ベッドからこんなにも近いのに、あの日、涼介はここに辿り着くのに、かなりの時間を要した。
「お前は、大事な人間を殺さずにはいられないのか?」
 涼介は、明に視線を戻した。
「どういう意味?」
「麻上を殺そうとしていた」
 違う。と言いたかった。殺したいのではなく、刺したかったのだ。そうして、血を啜りたかっただけだ。
 等と言ったところで、他人には、殺すと変わりはあるまい。
「先輩は、勢い余っただけだよ。あんただって、そう説明してたでしょ。殺そうなんて、思うわけないでしょ? 普通の人間なら」
「普通の人間なら、な。
 俺はお前が普通だなんて思っちゃいない。人殺しが、普通なわけないだろう? 麻上を騙してるのか?」
「先輩は知ってるよ。話したから。それでも、以前と変わらずにいてくれた。もっと、好きになっちゃった」
「お前、男が好きなのか?」
「なに言ってんの? 先輩は、友達だよ」
「兄さんは?」
「好きなわけないだろう。初対面だったんだよ」
「それじゃあなぜ、兄さんを殺した」
「それより、なぜセックスしてたか、聞いて欲しいな」
 明が、微かに視線を逸らした。
「聞きたくない? そうだよね。普通は聞きたくないよね」
 涼介は移動すると、机の前に置かれた椅子に座る。
「ねぇ、あんたの兄貴の名前教えてよ」
「武。知らないふりか?」
 武かぁ。涼介は初めて、男の名前を口にした。
「男らしい、いい名前だな。
 でさ、あんた、僕をどうしたいの? 言っておくけど、僕の犯罪歴は残ってないよ。あんたの親が、武を自殺で処理したからね」
「初対面って、嘘だろう? 兄さんはずっと前から、お前のことを」
「なにを根拠に、そんなこと言ってんの?」
 明は一冊のノートを、机の上に放り出した。
 涼介はなん頁か捲ると、ノートを二つに引き裂いた。
「彼。が僕だって証拠がどこにあるのさ」
「ある男から聞いた。彼は、当時中学生で、異性愛者だって」
「さっき、僕を同性愛者かって聞かなかった?」
「違う。と、答えただろう?」
「当時中学生で、異性愛者だったら、あんただって該当するよね」
 明の目の、怒りが増したのが分かった。
「あんたと僕、似てると思わない?
 今でこそあんた、男らしいけど、あの時はまだ、可愛い感じだったよね。髪の毛の癖も似てるし」
「似てない」
「なんで、ナイフがあったと思う?」
「お前が持ち込んだんだろう?」
「へぇ、僕が持ち込んで、枕元に置いたの? 何のために?」
「殺そうとしていた。兄さんが浮気をしていて、嫉妬したお前は」
「枕元にナイフ置いてんのに、なんとも思わないほど、武ってバカだったの?」
 涼介は、フフフ。と笑うと、怖かったよ。と、明るく言った。
「ナイフで脅されて、犯されて。もう、このまま殺されるんだろうな。って、ずっと考えてた」
「そんなこと、兄さんがするわけない!」
「そうだよね。そう思うよね。
 でもさ、中学生相手にセックスしてる時点で、大問題じゃない?」
 明は唇を噛んで、反論できずにいるらしい。
「僕、知ってるよ。武が好きだった相手。知りたい?」
「お前だろう」
 不自然に、即答だった。
「言っただろう、僕は初対面だったんだよ。
 聞きたくないよね。
 武は狂っていた。愛する相手を抱きたくて、抱けなくて」
 明は震え出した。
「黙れ!」
 苛立つ声で怒鳴ると、立ち上がり、涼介に向かい、両手を伸ばした。
 涼介の細い首に、明の両手が絡む。
「黙れ! 黙れ!」
 涼介の体を背もたれに押しつけ、しかし、倒れないためだろう、座面に左足を乗せた。
「兄さんを殺して、今度は麻上まで。
 狂っているのは、お前の方だ!」
 迷いのない力で、明は涼介の首を絞め続ける。涼介は息苦しさの中、机の上に手を伸ばし、シャープペンシルが、指に触れた。
 涼介はそれを掴むと、躊躇無く明の首に叩き込んだ。
 首から手が離れた。シャープペンシルを乱暴に引き抜く。悲鳴を上げて、明は床に倒れ込んだ。
「あんたは僕から、全てを奪わなきゃ気が済まないの? 人生も、圭も」
 机の引き出しを開ける。目当ての物はすぐに見つかった。折り畳み式のナイフ。
「武が好きだったのは、あんただよ、アキ」
 嘘だ。掠れた声で、明は反論する。うそだ。ウソだ。 
 涼介はナイフで、明の喉元を掻き切った。
「嘘だと思うなら、あの世で武に聞いてこい!!」
 呻き声を、絞り出す明の学生服の合わせ目を、ナイフを使ってはだけると、腹部を刺す。
「武は、死ねただけ幸せだ。僕は生きているからこそ、苦しみ続けなきゃならない。
 お前は、僕からなにもかも奪うつもりだろ。人生も、圭も、武も!
 お前さえいなければ!」
 怒りと、燻り続けた衝動が、ナイフを動かし続けた。
 身体の奥から、快楽のうねりが押し寄せる。禁断の行為をねだっている。
「あ……あぁ……」
 もう明は、ピクリともしなかった。
「う……ぅあぁ……」
 もう一度得たかった、もう一度感じたかった、あの快楽を!
 最後の一撃は、床に埋もれる。血で手を滑らせ、涼介の指をも傷つけた。
 荒い息を吐きながら、手の平を明の腹部に当て血を、口元に誘った。
 舌で舐め取り、飲み下す。
 怠い身体を必死の思いで支えると、顔を覗き込む。かつて殺した男が、そこにはいた。
 三年ぶりに口付ける。
「やっと、あんたの名前を知ったよ。あんたは僕の名を知らないままだったけどね」
 時計を探す。やはり、あの日と同じく、時計は見つからなかった。
「あんたの時間も、止まったままだったのか。あんたも、被害者だったのかな、アキ」
 疲れていた。疲れ切って、もう、動きたくはなかった。しかしまだ、涼介にはやるべき事が残っていた。
 ポケットからスマートフォンを取り出すと、連絡先を呼び出した。
「先生、僕、今ね……」
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