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第十八章
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辺りには、血の匂いが立ち込めていた。どす黒い赤が、僕の目の前の色彩の全てだった。
頬を伝って男の血が、口中に忍び込む。
喉が渇いていた。しかし、どうしようもなく疲れていて、冷蔵庫までは行けそうになかった。
目の端に、指先から滴り落ちる物が見えた。
僕は、渇きを癒やすために、指先を舐めとる。
美味しいとも、不味いとも思わなかった。ただ、水分を欲していた。まだ、呻き続ける男の、腹部の血溜まりに指を浸しては、ぺちゃぺちゃと舐めた。
金属音が聞こえた。玄関扉が開く。僕はボンヤリと、現れる人影を見ていた。女だった。
女は僕を見ると、短い悲鳴を、必死に噛み殺していた。
『母さん、どうしたの?』
女の後ろから姿を見せた少年は、僕を見て、目を見開いた。女が慌てて、少年の口を塞ぐ。
少年の悲鳴は、口から漏れることはなかった。
女は泣きそうな声で、電話を掛け始め、少年は、座り込んでしまった。
(誰かに似てる)
僕は誰かを思い出そうと、少年を見つめた。
(僕だ。僕に似てる)
僕よりは少し男らしかったけど、確かに僕に似ていた。
『あき』
僕が呼ぶと、少年は再び悲鳴を上げそうになったが、必死に噛み殺した。ガタガタと、震えているのが分かった。
オマエガアキカ。
オマエガボクヲコンナフウニシタンダ。
頭の中には、呪詛の言葉が渦巻いていた。
八月も三分の二が過ぎた登校日、圭の乗る電車の時間に合わせて登校した。狙い通り圭を捕まえ、一緒に校門をくぐろうとした時、麻上。と呼ぶ声が聞こえた。
「会いたかったぜ」
襟章を確認すると、二年五組の田原。
しかし圭は記憶にないらしく、「誰?」と、涼介に聞こえる程度に呟いた。
「お前の保護者、立花総合病院に勤めてんだろ」
「はい」
「ホモなんだってな。そこに勤めてる従姉妹が言ってた」
「はい、そうです」
田原は、圭が言葉に詰まるとでも思っていたのだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
周りの足が止まる。好奇心に満ちた表情を浮かべて。
「ホモと一緒に住んでて、なにもないってことはないよな。なぁ、教えろよ。男同士って、どうやるんだ?」
「人に聞く前に、まずは自分のことを話すのが、礼儀ではありませんか?」
まるで、名前を聞くならまず、名乗るのが礼儀でしょう。程度の様子で、圭は返す。
(ここで聞くこと?)
へへ。と、笑って、ニヤケ顔。
「俺は女としかやってないけどな。気持ち良かったぜ」
「もちろん、合意の上で」
「一応な」
「一応?」
「妊娠が怖いとか、痛いのが嫌だっつうから、じゃあ、別れるってな」
「私なら、即別れますね」
「だよな。彼女のくせにやらせないって」
「違います。私が彼にそんなことを言われたなら。です」
え! と、田原はもちろん、周りからも驚きの声が上がった。
「彼? 彼って」
「他に誰がいます?
それとも貴方は私を、同居していれば誰とでも、そのような関係を持つような軽い人間だと思って、そんな質問をしたのですか?
先程の質問ですが、申し訳ありません、私には返答しかねます。なぜなら、私にはそういう経験がありませんので」
怒っているらしく、いつも以上に言葉遣いが丁寧である。
「そんなわけないだろう。彼氏で、同居してんなら、当然やることやってるよな」
「恋人であるとの確認は、宣言です」
「宣言?」
「お互いが、お互いだけのものだとの、宣言にすぎません。肉体関係を持つための、いいわけではないのです。
彼は私が、人に触れるのも、触れられるのも嫌いなのを知っているので、未だ、手すら握っていないのが現状です。
貴方に、そんな恋愛ができますか? 女性を、性欲の捌け口のように扱う貴方に」
挑戦的に、圭は笑う。田原は、気まずそうに周りを気にし始めた。
「どうしても知りないならば、今度彼が来た時、直接質問してください。もしかしたら、実践で教えて下さる方を、紹介してもらえるかもしれませんよ。妊娠の不安もありませんから、貴方向けかもしれませんね」
周囲から、女子の笑い声が、さざなみのように聞こえた。男子は一様に、顔を引きつらせている。
「行きましょう」
「はぁい」
周りも、動き始めた。視線を感じる。
「先輩、怒ってる?」
「当然です。何様のつもりなのでしょうね、彼は。女性の方がリスクは大きいのですから、慎重になるのは当たり前です。それを、無責任な」
「でも、先輩、大丈夫?」
「誰も、私が異性愛者だなんて思ってはいませんよ。これで山上先生に対する疑惑も解けますから、良かったかもしれません」
全校集会、大掃除が終わり、ざわついた教室で担任が、苦虫を噛み潰したような顔で、不純異性交遊についてこんこんと説教をした。開放された生徒達はの目は、好奇心で輝いている。
「あれってやっぱり、朝の騒動が原因だろ?」
「田原先輩、呼び出されたって。麻上先輩の逆襲だよ。頭良いよな。
涼介、知ってたのか?」
「何を?」
「麻上先輩の彼氏」
涼介はどう答えようかと迷ったが、今更隠しても仕方がない。
「知ってたよ」
「あれ、本当かな? 手も握ってないって」
正直に言えば、涼介も疑っていた。見るからにストイックな圭だとて、高校生男子、興味は皆無ではないだろう。しかも、相手は大人なのだから。
「ないね」
しかし、生活に加わると、隼人がいかに、圭を大事にしているかが、うんざりするほど分かる。あの調子では、圭が誘ったとしても、手は出せまい。
「すっごく先輩を大事にしてるからね。
じゃ、僕、帰るね。バイバイ」
迂闊なことを話す前に。と、早々に逃げる。
いつも通り、二年二組で、圭と合流した。
「山上先生に、用があります」
はい。と、素直に返事。予想は付いていた。
山上は、圭を見ると、口笛を吹いた。
「今、一番ホットな男の登場か。職員室でも、九割が麻上の話をしてるぜ」
「同性愛に、なんの問題がありますか?」
「同居してるってのは、それだけで下世話な想像させるもんなんだよ」
「妊娠するわけでなし」
「どっちがするのか、お伺いしたいね。
幸い、長瀬君との同居と、お前を任せるってことを、後見人から正式に報告されてるから良かったものの」
「ゲイだという理由で、退学にはできません」
「そりゃあそうだけどな。まぁ、あんまり騒ぎを起こすな。
ま、今回も巻き込まれたって、分かっちゃいるけどな」
山上は、心配気な目を向けた。
「気をつけます」
素直に答えると圭は、鞄から一冊の本を取り出し、山上に渡した。
「サンキュー」
「では、失礼します。
心配かけました」
口元で笑うと、頭を下げた。
頬を伝って男の血が、口中に忍び込む。
喉が渇いていた。しかし、どうしようもなく疲れていて、冷蔵庫までは行けそうになかった。
目の端に、指先から滴り落ちる物が見えた。
僕は、渇きを癒やすために、指先を舐めとる。
美味しいとも、不味いとも思わなかった。ただ、水分を欲していた。まだ、呻き続ける男の、腹部の血溜まりに指を浸しては、ぺちゃぺちゃと舐めた。
金属音が聞こえた。玄関扉が開く。僕はボンヤリと、現れる人影を見ていた。女だった。
女は僕を見ると、短い悲鳴を、必死に噛み殺していた。
『母さん、どうしたの?』
女の後ろから姿を見せた少年は、僕を見て、目を見開いた。女が慌てて、少年の口を塞ぐ。
少年の悲鳴は、口から漏れることはなかった。
女は泣きそうな声で、電話を掛け始め、少年は、座り込んでしまった。
(誰かに似てる)
僕は誰かを思い出そうと、少年を見つめた。
(僕だ。僕に似てる)
僕よりは少し男らしかったけど、確かに僕に似ていた。
『あき』
僕が呼ぶと、少年は再び悲鳴を上げそうになったが、必死に噛み殺した。ガタガタと、震えているのが分かった。
オマエガアキカ。
オマエガボクヲコンナフウニシタンダ。
頭の中には、呪詛の言葉が渦巻いていた。
八月も三分の二が過ぎた登校日、圭の乗る電車の時間に合わせて登校した。狙い通り圭を捕まえ、一緒に校門をくぐろうとした時、麻上。と呼ぶ声が聞こえた。
「会いたかったぜ」
襟章を確認すると、二年五組の田原。
しかし圭は記憶にないらしく、「誰?」と、涼介に聞こえる程度に呟いた。
「お前の保護者、立花総合病院に勤めてんだろ」
「はい」
「ホモなんだってな。そこに勤めてる従姉妹が言ってた」
「はい、そうです」
田原は、圭が言葉に詰まるとでも思っていたのだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
周りの足が止まる。好奇心に満ちた表情を浮かべて。
「ホモと一緒に住んでて、なにもないってことはないよな。なぁ、教えろよ。男同士って、どうやるんだ?」
「人に聞く前に、まずは自分のことを話すのが、礼儀ではありませんか?」
まるで、名前を聞くならまず、名乗るのが礼儀でしょう。程度の様子で、圭は返す。
(ここで聞くこと?)
へへ。と、笑って、ニヤケ顔。
「俺は女としかやってないけどな。気持ち良かったぜ」
「もちろん、合意の上で」
「一応な」
「一応?」
「妊娠が怖いとか、痛いのが嫌だっつうから、じゃあ、別れるってな」
「私なら、即別れますね」
「だよな。彼女のくせにやらせないって」
「違います。私が彼にそんなことを言われたなら。です」
え! と、田原はもちろん、周りからも驚きの声が上がった。
「彼? 彼って」
「他に誰がいます?
それとも貴方は私を、同居していれば誰とでも、そのような関係を持つような軽い人間だと思って、そんな質問をしたのですか?
先程の質問ですが、申し訳ありません、私には返答しかねます。なぜなら、私にはそういう経験がありませんので」
怒っているらしく、いつも以上に言葉遣いが丁寧である。
「そんなわけないだろう。彼氏で、同居してんなら、当然やることやってるよな」
「恋人であるとの確認は、宣言です」
「宣言?」
「お互いが、お互いだけのものだとの、宣言にすぎません。肉体関係を持つための、いいわけではないのです。
彼は私が、人に触れるのも、触れられるのも嫌いなのを知っているので、未だ、手すら握っていないのが現状です。
貴方に、そんな恋愛ができますか? 女性を、性欲の捌け口のように扱う貴方に」
挑戦的に、圭は笑う。田原は、気まずそうに周りを気にし始めた。
「どうしても知りないならば、今度彼が来た時、直接質問してください。もしかしたら、実践で教えて下さる方を、紹介してもらえるかもしれませんよ。妊娠の不安もありませんから、貴方向けかもしれませんね」
周囲から、女子の笑い声が、さざなみのように聞こえた。男子は一様に、顔を引きつらせている。
「行きましょう」
「はぁい」
周りも、動き始めた。視線を感じる。
「先輩、怒ってる?」
「当然です。何様のつもりなのでしょうね、彼は。女性の方がリスクは大きいのですから、慎重になるのは当たり前です。それを、無責任な」
「でも、先輩、大丈夫?」
「誰も、私が異性愛者だなんて思ってはいませんよ。これで山上先生に対する疑惑も解けますから、良かったかもしれません」
全校集会、大掃除が終わり、ざわついた教室で担任が、苦虫を噛み潰したような顔で、不純異性交遊についてこんこんと説教をした。開放された生徒達はの目は、好奇心で輝いている。
「あれってやっぱり、朝の騒動が原因だろ?」
「田原先輩、呼び出されたって。麻上先輩の逆襲だよ。頭良いよな。
涼介、知ってたのか?」
「何を?」
「麻上先輩の彼氏」
涼介はどう答えようかと迷ったが、今更隠しても仕方がない。
「知ってたよ」
「あれ、本当かな? 手も握ってないって」
正直に言えば、涼介も疑っていた。見るからにストイックな圭だとて、高校生男子、興味は皆無ではないだろう。しかも、相手は大人なのだから。
「ないね」
しかし、生活に加わると、隼人がいかに、圭を大事にしているかが、うんざりするほど分かる。あの調子では、圭が誘ったとしても、手は出せまい。
「すっごく先輩を大事にしてるからね。
じゃ、僕、帰るね。バイバイ」
迂闊なことを話す前に。と、早々に逃げる。
いつも通り、二年二組で、圭と合流した。
「山上先生に、用があります」
はい。と、素直に返事。予想は付いていた。
山上は、圭を見ると、口笛を吹いた。
「今、一番ホットな男の登場か。職員室でも、九割が麻上の話をしてるぜ」
「同性愛に、なんの問題がありますか?」
「同居してるってのは、それだけで下世話な想像させるもんなんだよ」
「妊娠するわけでなし」
「どっちがするのか、お伺いしたいね。
幸い、長瀬君との同居と、お前を任せるってことを、後見人から正式に報告されてるから良かったものの」
「ゲイだという理由で、退学にはできません」
「そりゃあそうだけどな。まぁ、あんまり騒ぎを起こすな。
ま、今回も巻き込まれたって、分かっちゃいるけどな」
山上は、心配気な目を向けた。
「気をつけます」
素直に答えると圭は、鞄から一冊の本を取り出し、山上に渡した。
「サンキュー」
「では、失礼します。
心配かけました」
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