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chapter3

step.21-7 理想と現実

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 常連客のオジサンはカツラを拾って頭に乗っけると、怒濤の勢いで類ちゃんを罵倒し始めた。
 類ちゃんはひとつも怯まず言い返したから、今にも殴りかからんばかりの勢いのオジサン を、ボクと彼のツレのお客さんとで抑えなくちゃならなかった。

 さすがに騒ぎを聞きつけて父が慌ててやって来た。

 バイトの非礼を詫びようとした父だったけど、類ちゃんからオジサンが言っていたことを聞いて表情を一変させた。
 カツラのオジサンは、父の静かな事実確認に逆ギレした。

……普段温厚な父が怒ったのをボクは初めて見たかもしれない。

 父は、ビールをかぶったお客さんに淡々とタオルを差し出すと、出禁を言い渡しそのまま店から追い出した。
 ツレのお客さんも彼の態度に思うことがあったのか、最後まで喚きたてる彼を庇うことはなかった。

「あんな真似して、悪い評判流されたらどうするの」
 思わぬ対応に、ボクは呆れ返って父に言った。

「家族のこと侮辱するようなヤツは客じゃないよ」

 父は気にした風もなく肩を竦める。

「店長。すみませんでした」

 そんな父に類ちゃんが深く頭を下げた。
 父は苦笑すると、ボクにするみたいに彼の頭をくしゃりと撫でてから、他のお客さんに騒ぎを謝ってからキッチンに戻っていった。

* * *

 バイトを終えると、ボクと類ちゃんは言葉少なに駅まで歩いた。
 飲み屋が並ぶ通りはもう深夜を回るというのに賑やかだ。

「……なんであんなことしたの」

 思い切って口を開くと、彼はチラリとボクを見て直ぐに前を向いた。

「手が滑ったんだよ」

「嘘つき。完全にぶっかけてたじゃん」

「そうだっけ」

 もしかしなくても、類ちゃんはボクのことを庇ってくれたのだろう。
 ちょっと嬉しくて、ちょっと申し訳なくなった。何故なら……

「……あの人が言ってたこと、間違ってないんだよ」

 呟くと、類ちゃんは歩く速度を緩めた。

「本当にボクの母さんはどうしようもない人で……その人と一緒にいるボクは、たぶんどっかズレてて、おかしいんだ」

「……別に、お前のことおかしいと思ったことないけど」

「じゃあ、なおさら腹立つよ」

 ボクは捨てばちになって鼻で笑った。

「まともでいようって必死に生きてるのに、母さんのせいであんな風に言われるんだからさ」

 ズボンのポケットに手を突っ込んで、背を丸める。
 言葉が棘のように胸に深く刺さった。
 やり切れなさと、自己嫌悪に胃がチクチクする。

「……嫌いなんだ、母親?」

「……」

 嫌いだと宣言できたなら、どんなに良かっただろう。
 ボクはしばらく夜の街の喧騒に耳を傾けてから、ポツリと言った。

「……うちさ、父親が3人いんの」

「3人? 離婚したってこと?」

 ボクは首を左右に振る。

「2番目と3番目の姉ちゃんと、4番目の姉ちゃんと、1番目の姉ちゃんとボクで父親が違うんだ。わかる? この意味」

 類ちゃんはちょっと考えるようにした。
 ボクは続けた。

「父親3人とも同時進行なの。離婚も結婚もしてない。しかも、訳わかんないことに父さん同士も仲良いんだよ」

「ああ、そういうこと……」

「ボクはさ、物心つくまでこの環境が普通だと思ってたんだ。でも」

 続く言葉は、舌の上で苦く溶けた。
 脳裏に過るのは、親戚や知り合いの大人たちの声だ。

 ーーお母さん、会う度に違う男の人連れてるのね。
 ――ニャン太くんって可哀想。お母さんがちゃんとしてなくて。

「だんだん世間の目がちゃんと見えるようになってきて、母さんは普通じゃないって気付いて……」

 歩みを止める。
 街灯に照らされて、黒い影が足元に長く伸びている。

 類ちゃんはボクの手を引くと、近くの自販機に向かった。それから、彼は2本コーラを買うと1本をボクに手渡した。

 ボクはお礼を言ってそれを受け取ると、ぼんやり通りを見やった。車のライトが光を引きずって流れていく。

 缶のプルタブを引っ張りながら、ボクは口を開いた。

「……ボクなんかはほら、男だからまだいーんだけど。姉ちゃんたちは女ってこともあって、だいぶ嫌な目に遭ってたりして。ホント……母さんにはちゃんとして欲しいんだけどさ」

 肩を竦める。
 類ちゃん何も言わずに缶を仰ぐ。

「でも、じゃあ今日からお父さんはひとりね、ってなっても、ハイわかりましたーとはならないわけ。ボク、父さんたちのこと好きなんだよ。だから、今さらいなくなられると悲しい」

 母はあまり家庭環境のことを気にするタイプじゃないけど、だからって大っぴらにしているわけでもない。
 父さんたちは時と場所に合わせて、親戚のオジサンのフリをしたりした。
 ボクは大好きな父がそんな真似をしなくちゃならない環境がイヤだと思った。

「……普通の家に生まれたかったなって思う」

 母を愛していると言えないことが苦しかった。だって彼女は間違ってる。

 と、類ちゃんが手の内で缶を弄びながら言った。

「そもそもさ……普通ってなんだよ」

 ボクは小首を傾げる。
 類ちゃんは缶を見下ろしたまま続けた。

「もしも、父親ひとり、母親ひとり、それから子供がいたりいなかったり、ついでに婆ちゃん爺ちゃんがいて……っていうのが『普通』なら、俺んちも普通じゃねぇな。父親しかいねぇし」

「え……」

「うち、父子家庭ってやつ。母親、物心つく前に死んだ」

 何でもないことのように告げられた言葉に、ボクは息を飲んだ。
 彼の家庭の話を聞いたのは初めてだった。……自分も今日、初めて話したんだけど。

「る、類ちゃんのは……全然話が違うよ。ボクんちの事情と同じように考えたらダメなヤツだと思う」

「なんで?」

「だって……好きで君のお母さんがいなくなったわけじゃないじゃない。ボクの母さんは自分の意思で普通じゃないのを選んでるんだよ」

「じゃあ、離婚するって決めた家も普通じゃねぇの」

「いやいや、そうじゃなくて……」

 だんだん頭がこんがらがってくる。
 類ちゃんは缶を傾けると、空になったそれをゴミ箱に放った。

「わかんねぇなぁ。つまり、相手がゼロかひとりなら普通で、ふたり、3人ってなったら普通じゃねぇってこと?」

「そう、そうだよ。訳わかんないじゃん。好きな人が何人もいるって」

「わけわかんなくねぇじゃん。みんな好きで大事なんだろ」

「えぇー……なに、類ちゃんも好きな人何人もいるタイプなわけ?」

「いや、違うけど……」

「じゃあ、何でそんな風に庇うのさ」

「庇ってるわけじゃねぇよ。理解できねぇからって否定すんのは違うと思ったの。それに、俺はお前の母親と会ったことねぇからさ。もしかしたら話聞いてみたらわかるかもしんねーし」

 彼はボクの方を向いた。薄茶色の瞳に街の光がきらめく。

「そもそもの話さ、本人同士が納得してんなら、どんな風に付き合ってようがどーでもいいじゃん」

「それはそうだけど……家族からしたら、たまったもんじゃないよ」

 ボクは溜息をひとつこぼした。

「……相手が何人もいたら、愛情も分散しちゃいそうだしさ」

「分散してんの?」と、類ちゃんがあっけらかんとして問う。

「知らないよ。父さんたちがどう思ってるかなんて」

「いや、お前のことだよ。寂しいって思うことあんの。姉ちゃんたくさんいるんだろ?」

 ボクは目を瞬いて、類ちゃんを見返した。

「ボクは……」

 姉とボクで扱いが違う……といったことはなかったように思う。
 母さんはどんな小さなことでもボクの話を最後まで聞いてくれるし、鬱陶しいくらいに抱きしめてキスしてくる。それは姉に対しても同じだ。父も……全く血のつながりなんて気にしてる素振りはない。

「寂しいと思ったことは……ない、かも」

 そんな風に考えたことがなくて、ちょっと混乱した。
 右の人差し指を噛んで思案を巡らせる。
 ボクは一体、何に不満を感じているんだろう。どうして母を見る度に心がささくれたって自分のことがイヤなるんだろう。

 類ちゃんはスクールバッグを背負い直すと、前に視線を戻した。

「お前はさ、たぶん普通の家に生まれたかったとか思ってなくて……家族とか母親に対する評価が、周囲のと自分のが一致してないからモヤモヤしてんじゃねぇの」

 言葉に顔を持ち上げる。
 彼はボクと目が合うと、いつものあのニヤリとした力強い笑みを浮かべた。

「お前は母親のことも家族のことも大好きなんだよ。それって、見てればわかるぜ?」

「で、でもっ……」

「お前の好きな家族がフツーとずれてたって何の問題もねぇじゃん。とやかく言う外野はお前の家族じゃねぇし、お前の人生の責任取ってくれるわけでもねぇ。そんなヤツらのこと気にして、気分悪くなってるなんてクソ無駄だよ」

 ボクは無意味に唇をパクパクさせて、類ちゃんを見つめる。
 ふいに鼻の奥がツンとして、慌てて唇を引き結んだ。

 ……ずっと、非難されるような相手を好きと言ってはダメなんだと思ってた。

「母さんのこと……好きって、言っていいのかな」

「ダメなわけあるかよ」

 ボクは束の間コーラを見下ろすと、一気に飲み干した。
 空になった缶を手の中で潰して、ゴミ箱に投げ入れると小気味良い音が耳に届く。

「……ありがと」

 俯いたままポツリと言えば、類ちゃんは「なにが?」とすっとぼけた。

「今日のもろもろ。……スッキリしたっていうか」

「そりゃ良かった。俺もあの人、地毛かどうか気になってたんだよな」

「そっちじゃないよ」と、ボクは心の中でぼやく。

 何事も軽くこなしてしまう類ちゃんに子供染みた対抗心を燃やして張り合ってきたけれど、ああ、敵わないなと思った。
 類ちゃんはしなやかだ。しなやかで、自然で、優しい。
 完全敗北を認めながら……でも、ボクはちっともイヤな気持ちにはならなかった。
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