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chapter1
step.1 失恋とカシスソーダ
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僕は夜の繁華街で、ドミノ倒しにされていた自転車を黙々と起こしていた。
先ほど、酔っ払いのオジサンが蹴り倒していったやつだ。
道行く人がコチラを疑わしい目で見てくるが、犯人は僕ではないです。あしからず。
「……ふぅ。これで良しと」
元通りになった自転車たちを眺めて、僕は眼鏡を外した。
額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い、かけ直す。
一日一善。出来るなら、二善、三善。
『人の役に立つことを』なんて、大それたことは考えていない。
良いことを重ねれば良いことが戻ってきてくれる――僕の行動原理は、そんな下心だ。
「さて……」
踵を返し、僕は当初の目的だったバーへ向かった。
店はいつもと変わらず盛況のようで、薄暗いガラス越しに人影がうごめいているのが見える。
次に来る時は、少なくともこんなに惨めな気持ちではなかったはずなのに……相変わらず過ぎて、笑い出したい。
僕は自嘲を飲み込むと、扉を押し開けた。
街の喧騒がクラブミュージックに取って代わる。クーラーの冷風とざわめき、それからタバコの香りに出迎えられる。
「あら~、伝ちゃんじゃないの。いらっしゃい!」
真っ先にこちらに気づいたのは、アルバイトのイサミさんだった。
格闘技で鍛えた腕を振って、僕をいつものカウンター席に座るよう誘う。
「ひと月ぶりくらいかしら? 全然音沙汰ないから、心配しちゃったわよ」
「いろいろありまして……あの、今日はマスターは?」
「ギックリ腰やっちゃってしばらくお休み」
イサミさんはそう言って顔を顰めると、大袈裟に腰を叩いた。
「そうだったんですか……」
来て早々帰るわけにもいかず、席について適当な一杯を頼む。
すると、オーダーに取り掛かったイサミさんが付け睫毛を瞬かせた。
「あら、やだ。伝ちゃん、目真っ赤よ。泣いたの?」
「えっ……」
僕は眼鏡を外して、目の付け根を指で揉む。
ちょっと花粉が……は、この梅雨の時期におかしいか。
「く、来る前にタマネギ料……」
やっと捻り出したウソを、イサミさんの素っ頓狂な声が掻き消した。
「もしかして失恋? だから最近来なかったんだっ!?」
店中に響き渡る声に、何事かとみんなの視線がコチラに向いた。
けれどそれも短い間のことで、いつものイサミさんの反応だと分かるとそれぞれの雑談に戻っていく。
「ハハ、ハ……」
僕は乾いた笑いを落とすしかない。ドンピシャだ。
今日はその報告を、長年恋愛相談していたマスターにするべくやって来たのだった。
「えー、あの友達の子でしょ? うちにも良く一緒に来てた……結構仲良くやってたじゃないの」
「いえ、どうでしょう……仲良く思ってたのは僕だけだったみたいで……」
「あらあら……」
イサミさんは自分のことのように悲しげにしながら手早くお酒を作る。
「まっ、切り替えていきましょ。人間の半分は男なんだからさ」
それからグラスを僕に差し出して、そう言った。
「そうですね。……でも、恋愛はもういいかなって」
「失恋の時はみんなそーいうのよ。弱気になっちゃダメダメ」
僕はグラスをそっと手で包み込む。
それからポツリと呟いた。
「……セミは」
「は? セミ?」
「はい。セミは17年土の中にいて、いざ外に飛び出しても4割は交尾できずに死んでいくんです。まあ、僕の人生もそんなもんです」
「なんでセミと比べてんのよ!? あんた人間でしょうが!」
イサミさんがゴツい身体を揺らして、ケラケラと笑う。
僕はお酒をすすった。ちょっと強めのアルコールが傷付いた心に染み入っていくようだ。
「伝ちゃんって、ほんっとオモシロイわよねー。セミと比べるなんて聞いたことないわよー」
その時、
『つまんない上にキモイとか最悪だな』
たまたま聞いてしまった友人たちの会話を思い出して、息が引きつった。
「僕は……面白くなんて、ないです」
「えっ? あっ、ちょっとっ……!」
グラスを掴んで一気にお酒を仰ぐ。
それから少し乱暴にグラスを置いた。
「面白い人間だったら、もう少し魅力があったでしょうし……そうしたら恋だって……きっと、うまくいきました……」
僕は呻くように言う。
僕が密かに想いを寄せていた友人は、僕をなんでも言うこと聞く便利なヤツだと言った。
それを『お前のこと好きなんじゃねぇの?』と揶揄されて、『キモ』と吐き捨てた。
つまらない上にキモイなんて最悪だと、彼らは声を上げて笑っていた。
「伝ちゃん……」
イサミさんが、凛々しい眉を申し訳なさそうにハの字に下げる。
それを見て、僕は酷い自己嫌悪に陥った。
こういう時、笑いに出来るような、気の利いた言い回しが言えたらよかったのに。
相手に気を遣わせるなんて、痛々しくて……本当につまらないヤツだ。
(……ダメだ。帰ろう)
自己嫌悪と自己否定が止めどもなく膨らんでいくのを感じて、僕は黙々とお酒を流し込むと財布を取り出した。
左隣から声をかけられたのは、そんな時だ。
「なあ。失恋したってホント?」
「はい?」
訝しげにそちらへ目を向ければ、驚くほど顔形の整った男が僕を見ていた。
年齢は同じくらい。肩口にかかるほどの長めの髪はワインレッドで、緩くウェーブがかかっている。
ゆったりと大きめなTシャツに、ヴィンテージなジーパン。
顎を僅かに持ち上げて挑発的にコチラを見やる所作は、まるで映画のワンシーンみたいだ。
彼は気さくな様子で、グラスを手に僕の隣の空いた席に移動してきた。
「ちょっと類ちゃん。急に失礼よ」
類と呼ばれたその男は、人差し指を唇に当ててイサミさんを黙らせると、僕に向かって続けた。
「それでどうなんだよ? 振られたの?」
覗き込んでくる瞳に思わず吸い込まれそうになる。
僕は顔を背けると口を開いた。
「……あなたには関係ないでしょう」
「あるんだな、それが。ずっとあんたのこと狙ってたから」
この人はなんて言った? 狙ってた? 僕を? 何のために?
「俺は頼久類(らいく・るい)。よろしく」
差し出された手をまじまじと見つめる。
すると、彼は僕の手を無理やり取って握りしめてきた。
「……っ」
慌てて手を引っ込める。
「待ちなさいってば。あなた、失恋したばかりの相手にデリカシーなさすぎよ」
「そういうヤツに一番効く薬は、新しい恋だろ」
「それは……まあ、そうだけど」
「ちょっ、イサミさん! 納得しないでくださいよ!」
「でもその通りだし」
「そんな簡単に気持ちを切り替えられたら苦労しません……!」
進学を機に、僕は寮を逃げるようにして飛び出しアパートで一人暮らしを始めた。
それからは毎日、紙を噛むような日々だ。
仲良くしていた友人たちに『便利』と思われていたこともショックだったし、何より好きな人にキモイと言われて、立ち直れなかった。
いろいろと恋愛相談をしていたマスターに、結末の報告をと思い続けて2カ月、ようやく今日、このバーに来ることができたのだ。
新しい恋なんて、欠片も考えられる状態じゃない。
「気持ちなんて切り替えなくていい。俺が忘れさせてやるよ」
類さんの力強いセリフに「うふっ」とイサミさんが噴き出す。
それに彼は肩を竦めた。
「……イサミちゃん、ちょっと向こう行っててくれない?」
「そうね。邪魔者は退散するわ」
「えっ、ま、待ってくださいよ。お会計っ……」
「後で類ちゃんに請求するから、適当に切り上げていいわよ~。おかわりが必要な時は呼んでね♡ うふふふふ……」
「そんな……僕は帰りたいんです……っ!」
イサミさんはさっさと別のお客さんの下へ向かってしまう。
僕は仕方なく助けを求めるように伸ばしかけた手をおずおずとグラスに戻すと、飲み物に視線を落とし、唇を引き結んだ。
「……」
気まずい沈黙が流れる。
グラスの中で、カラリと氷が音を立てる。
類さんの視線を感じて頬がピリピリする。
「……僕は宗教にもビジネスにも興味ありませんから」
やっとのことで、僕はそんな言葉を搾り出した。
「あん? なんでそうなる?」
「だって……それ以外に、僕に声をかける理由が思いつきません」
「さっきも言ったろ。あんたのこと口説きたいんだよ」
「それがおかしいって言ってるんです。僕はあなたのことを知らない。あなただって……」
「俺は知ってる」
「知ってる……?」
何処かで会ったことがあるのだろうか。
思わず僕は類さんの方を見た。
彼はグラスについた唇の跡を親指の腹で拭いながら続けた。
「あんたの名前は、洞谷伝(どうや・でん)。今年の4月から旧帝大の院生。あと、塾で講師のアルバイトをしてる。性格は真面目で純朴。毎週火曜と土曜、この店に通ってる。友人のことが好きで、絶賛片思い中……だった」
「なんでそんなこと……し、調べたんですか?」
目を瞬いた僕に、類さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「恋する乙女心に免じて許してくれるとありがたいが……気を悪くしたんなら、謝るよ」
そう言いながらも悪びれた様子はない。
「ま、こんな表面的な情報じゃなんの意味もない。俺はあんたのこと、もっと知りたい。
だから今日、思い切って声をかけたんだ」
「どうして、僕なんですか。こんな地味な男にどうして興味なんて……」
「そんなの魅力的だからに決まってるだろ」
こともなげに言う。僕はぎゅっと眉根を寄せた。
「答えになっていませんよ。それに……魅力的っていうのは、あなたみたいな人を言うんです」
「へえ? それって、俺に魅力を感じてるってこと?」
「……っ! い、今のは一般論で……っ!」
「なんだ、残念」
クスクスと類さんが笑う。
涼しげな目元にシワができて、随分と柔らかな印象になる……
僕は自分が彼の笑顔に目を奪われていることに気付いて、慌てて俯いた。
瞬く間に心臓の鼓動が速度を上げていく。羞恥心で顔が熱い。
もう恋はしないと、イサミさんに言ったばかりなのに。
(舌の根も乾かないうちにこんな……まるで誰でもいいみたいじゃないか)
失恋による情緒不安定は根深く、ふた月足らずではまともな思考を取り戻すことは不可能らしい。
「すみません、僕――帰りますね」
僕は今度こそ席を立った。
「え、なんで。俺、怒らせるようなこと言ったか?」
「いえ、そうではなくて……」
このまま、あなたのペースに飲まれるのが怖い。なんて、そんなことを馬鹿正直に言えるわけがない。
「…………この後、用事があるんです」
か細い声で続けて、僕は財布から取り出したお札をカウンターに置いた。
「金はいいよ。支払いは俺、ってイサミちゃんが言ってたろ」
「奢ってもらうの好きじゃないんですよ。……それじゃあ」
「あっ、なあ……! 次は初めからあんたの隣に座っていい?」
咄嗟に腕を掴まれる。
触れた場所が熱い。僕の身体は何か重大なエラーを起こしているらしい。
「ごめんなさい。もうこのお店には来ませんから。……さようなら」
僕は彼とは目を合わせずに、そっと掴む手を押しやった。
先ほど、酔っ払いのオジサンが蹴り倒していったやつだ。
道行く人がコチラを疑わしい目で見てくるが、犯人は僕ではないです。あしからず。
「……ふぅ。これで良しと」
元通りになった自転車たちを眺めて、僕は眼鏡を外した。
額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い、かけ直す。
一日一善。出来るなら、二善、三善。
『人の役に立つことを』なんて、大それたことは考えていない。
良いことを重ねれば良いことが戻ってきてくれる――僕の行動原理は、そんな下心だ。
「さて……」
踵を返し、僕は当初の目的だったバーへ向かった。
店はいつもと変わらず盛況のようで、薄暗いガラス越しに人影がうごめいているのが見える。
次に来る時は、少なくともこんなに惨めな気持ちではなかったはずなのに……相変わらず過ぎて、笑い出したい。
僕は自嘲を飲み込むと、扉を押し開けた。
街の喧騒がクラブミュージックに取って代わる。クーラーの冷風とざわめき、それからタバコの香りに出迎えられる。
「あら~、伝ちゃんじゃないの。いらっしゃい!」
真っ先にこちらに気づいたのは、アルバイトのイサミさんだった。
格闘技で鍛えた腕を振って、僕をいつものカウンター席に座るよう誘う。
「ひと月ぶりくらいかしら? 全然音沙汰ないから、心配しちゃったわよ」
「いろいろありまして……あの、今日はマスターは?」
「ギックリ腰やっちゃってしばらくお休み」
イサミさんはそう言って顔を顰めると、大袈裟に腰を叩いた。
「そうだったんですか……」
来て早々帰るわけにもいかず、席について適当な一杯を頼む。
すると、オーダーに取り掛かったイサミさんが付け睫毛を瞬かせた。
「あら、やだ。伝ちゃん、目真っ赤よ。泣いたの?」
「えっ……」
僕は眼鏡を外して、目の付け根を指で揉む。
ちょっと花粉が……は、この梅雨の時期におかしいか。
「く、来る前にタマネギ料……」
やっと捻り出したウソを、イサミさんの素っ頓狂な声が掻き消した。
「もしかして失恋? だから最近来なかったんだっ!?」
店中に響き渡る声に、何事かとみんなの視線がコチラに向いた。
けれどそれも短い間のことで、いつものイサミさんの反応だと分かるとそれぞれの雑談に戻っていく。
「ハハ、ハ……」
僕は乾いた笑いを落とすしかない。ドンピシャだ。
今日はその報告を、長年恋愛相談していたマスターにするべくやって来たのだった。
「えー、あの友達の子でしょ? うちにも良く一緒に来てた……結構仲良くやってたじゃないの」
「いえ、どうでしょう……仲良く思ってたのは僕だけだったみたいで……」
「あらあら……」
イサミさんは自分のことのように悲しげにしながら手早くお酒を作る。
「まっ、切り替えていきましょ。人間の半分は男なんだからさ」
それからグラスを僕に差し出して、そう言った。
「そうですね。……でも、恋愛はもういいかなって」
「失恋の時はみんなそーいうのよ。弱気になっちゃダメダメ」
僕はグラスをそっと手で包み込む。
それからポツリと呟いた。
「……セミは」
「は? セミ?」
「はい。セミは17年土の中にいて、いざ外に飛び出しても4割は交尾できずに死んでいくんです。まあ、僕の人生もそんなもんです」
「なんでセミと比べてんのよ!? あんた人間でしょうが!」
イサミさんがゴツい身体を揺らして、ケラケラと笑う。
僕はお酒をすすった。ちょっと強めのアルコールが傷付いた心に染み入っていくようだ。
「伝ちゃんって、ほんっとオモシロイわよねー。セミと比べるなんて聞いたことないわよー」
その時、
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「僕は……面白くなんて、ないです」
「えっ? あっ、ちょっとっ……!」
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それから少し乱暴にグラスを置いた。
「面白い人間だったら、もう少し魅力があったでしょうし……そうしたら恋だって……きっと、うまくいきました……」
僕は呻くように言う。
僕が密かに想いを寄せていた友人は、僕をなんでも言うこと聞く便利なヤツだと言った。
それを『お前のこと好きなんじゃねぇの?』と揶揄されて、『キモ』と吐き捨てた。
つまらない上にキモイなんて最悪だと、彼らは声を上げて笑っていた。
「伝ちゃん……」
イサミさんが、凛々しい眉を申し訳なさそうにハの字に下げる。
それを見て、僕は酷い自己嫌悪に陥った。
こういう時、笑いに出来るような、気の利いた言い回しが言えたらよかったのに。
相手に気を遣わせるなんて、痛々しくて……本当につまらないヤツだ。
(……ダメだ。帰ろう)
自己嫌悪と自己否定が止めどもなく膨らんでいくのを感じて、僕は黙々とお酒を流し込むと財布を取り出した。
左隣から声をかけられたのは、そんな時だ。
「なあ。失恋したってホント?」
「はい?」
訝しげにそちらへ目を向ければ、驚くほど顔形の整った男が僕を見ていた。
年齢は同じくらい。肩口にかかるほどの長めの髪はワインレッドで、緩くウェーブがかかっている。
ゆったりと大きめなTシャツに、ヴィンテージなジーパン。
顎を僅かに持ち上げて挑発的にコチラを見やる所作は、まるで映画のワンシーンみたいだ。
彼は気さくな様子で、グラスを手に僕の隣の空いた席に移動してきた。
「ちょっと類ちゃん。急に失礼よ」
類と呼ばれたその男は、人差し指を唇に当ててイサミさんを黙らせると、僕に向かって続けた。
「それでどうなんだよ? 振られたの?」
覗き込んでくる瞳に思わず吸い込まれそうになる。
僕は顔を背けると口を開いた。
「……あなたには関係ないでしょう」
「あるんだな、それが。ずっとあんたのこと狙ってたから」
この人はなんて言った? 狙ってた? 僕を? 何のために?
「俺は頼久類(らいく・るい)。よろしく」
差し出された手をまじまじと見つめる。
すると、彼は僕の手を無理やり取って握りしめてきた。
「……っ」
慌てて手を引っ込める。
「待ちなさいってば。あなた、失恋したばかりの相手にデリカシーなさすぎよ」
「そういうヤツに一番効く薬は、新しい恋だろ」
「それは……まあ、そうだけど」
「ちょっ、イサミさん! 納得しないでくださいよ!」
「でもその通りだし」
「そんな簡単に気持ちを切り替えられたら苦労しません……!」
進学を機に、僕は寮を逃げるようにして飛び出しアパートで一人暮らしを始めた。
それからは毎日、紙を噛むような日々だ。
仲良くしていた友人たちに『便利』と思われていたこともショックだったし、何より好きな人にキモイと言われて、立ち直れなかった。
いろいろと恋愛相談をしていたマスターに、結末の報告をと思い続けて2カ月、ようやく今日、このバーに来ることができたのだ。
新しい恋なんて、欠片も考えられる状態じゃない。
「気持ちなんて切り替えなくていい。俺が忘れさせてやるよ」
類さんの力強いセリフに「うふっ」とイサミさんが噴き出す。
それに彼は肩を竦めた。
「……イサミちゃん、ちょっと向こう行っててくれない?」
「そうね。邪魔者は退散するわ」
「えっ、ま、待ってくださいよ。お会計っ……」
「後で類ちゃんに請求するから、適当に切り上げていいわよ~。おかわりが必要な時は呼んでね♡ うふふふふ……」
「そんな……僕は帰りたいんです……っ!」
イサミさんはさっさと別のお客さんの下へ向かってしまう。
僕は仕方なく助けを求めるように伸ばしかけた手をおずおずとグラスに戻すと、飲み物に視線を落とし、唇を引き結んだ。
「……」
気まずい沈黙が流れる。
グラスの中で、カラリと氷が音を立てる。
類さんの視線を感じて頬がピリピリする。
「……僕は宗教にもビジネスにも興味ありませんから」
やっとのことで、僕はそんな言葉を搾り出した。
「あん? なんでそうなる?」
「だって……それ以外に、僕に声をかける理由が思いつきません」
「さっきも言ったろ。あんたのこと口説きたいんだよ」
「それがおかしいって言ってるんです。僕はあなたのことを知らない。あなただって……」
「俺は知ってる」
「知ってる……?」
何処かで会ったことがあるのだろうか。
思わず僕は類さんの方を見た。
彼はグラスについた唇の跡を親指の腹で拭いながら続けた。
「あんたの名前は、洞谷伝(どうや・でん)。今年の4月から旧帝大の院生。あと、塾で講師のアルバイトをしてる。性格は真面目で純朴。毎週火曜と土曜、この店に通ってる。友人のことが好きで、絶賛片思い中……だった」
「なんでそんなこと……し、調べたんですか?」
目を瞬いた僕に、類さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「恋する乙女心に免じて許してくれるとありがたいが……気を悪くしたんなら、謝るよ」
そう言いながらも悪びれた様子はない。
「ま、こんな表面的な情報じゃなんの意味もない。俺はあんたのこと、もっと知りたい。
だから今日、思い切って声をかけたんだ」
「どうして、僕なんですか。こんな地味な男にどうして興味なんて……」
「そんなの魅力的だからに決まってるだろ」
こともなげに言う。僕はぎゅっと眉根を寄せた。
「答えになっていませんよ。それに……魅力的っていうのは、あなたみたいな人を言うんです」
「へえ? それって、俺に魅力を感じてるってこと?」
「……っ! い、今のは一般論で……っ!」
「なんだ、残念」
クスクスと類さんが笑う。
涼しげな目元にシワができて、随分と柔らかな印象になる……
僕は自分が彼の笑顔に目を奪われていることに気付いて、慌てて俯いた。
瞬く間に心臓の鼓動が速度を上げていく。羞恥心で顔が熱い。
もう恋はしないと、イサミさんに言ったばかりなのに。
(舌の根も乾かないうちにこんな……まるで誰でもいいみたいじゃないか)
失恋による情緒不安定は根深く、ふた月足らずではまともな思考を取り戻すことは不可能らしい。
「すみません、僕――帰りますね」
僕は今度こそ席を立った。
「え、なんで。俺、怒らせるようなこと言ったか?」
「いえ、そうではなくて……」
このまま、あなたのペースに飲まれるのが怖い。なんて、そんなことを馬鹿正直に言えるわけがない。
「…………この後、用事があるんです」
か細い声で続けて、僕は財布から取り出したお札をカウンターに置いた。
「金はいいよ。支払いは俺、ってイサミちゃんが言ってたろ」
「奢ってもらうの好きじゃないんですよ。……それじゃあ」
「あっ、なあ……! 次は初めからあんたの隣に座っていい?」
咄嗟に腕を掴まれる。
触れた場所が熱い。僕の身体は何か重大なエラーを起こしているらしい。
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