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天使と出逢った日 -Side Ghislain-
08.
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案内された家に入ると、物はそう多くないものの綺麗に整頓された気持ちの良い空間だった。
壁にかかる花や風景の描かれたタペストリーや、窓際に生けられている小さな花が可愛らしい。
そう多くを知っているわけではないが、ノエルらしい部屋だ、と思った。
初めて入るのに、なぜだか帰ってきた、というような気分になってほっと息を落とす。
お茶でも入れると言うノエルを手近な椅子に座らせて、話を聞いて欲しいと頼む。
座ってと言われたが、俺が椅子になど座れるわけがない。
ノエルの手を握って、膝をつく。
まずは、あの日の礼からだろう。
「改めて、あの時の礼を──本当に助かった、ありがとう。ノエルが現れたあの時、聖なる日に遣わされた天使だと思った」
「て、天使!? いやいやいや、私はただフラれた憤りを発散していただけで……その、襲っちゃった、ようなものだったし……」
「それでも、ノエルにとっては重くて仕方なかっただろう俺を支えて小屋まで案内してくれた。それだけでも素晴らしい女性だと思っていたのに──大胆に跨って懸命に俺を飲み込んで、キツかっただろうに俺を気遣う姿に、一発でやられた」
愚かだった俺を優しく包み込んでくれたあの日のノエルを思い出すと、それだけで昂りそうになる。
が、それと同時に激しい自己嫌悪にも陥るのだ。
「もっと優しくしてやれば良かったと、王都に戻ってからも後悔ばかりだった。毒のせいもあったとはいえ、乱暴にしてしまって、本当にすまなかった」
俺はあの日言い足りなかった謝罪をもう一度口にすると、ノエルはそんな事ないと慌てたように首を振った。
「ジスランはすごく優しくしてくれたじゃない! そ、そりゃ途中からは、ちょっと……かなり激しかった、けど……でも、すごく気持ち良かったし……」
「ノエル……」
あぁ、やはりノエルは天使以外の何者でもない。
その優しさと、頬を染めて俯いたあまりの可愛らしさに、思わず握っていた手に力が籠る。
と、ゆるゆると手を振られた。
「アルイクスを必要とされてた方はお元気になったって話だし、あの時のお礼とか、本当に良いの。私だってジスランを利用したんだもの。お礼を言われるのは、正直、ちょっと困る……」
礼だって謝罪だって、いくら言っても足りないくらいなのだが、あまりしつこくして鬱陶しく思われてしまっても困る。
俺は今はこれ以上言葉を重ねることはやめる事にした。
「──ならば、あの時の話はこれで最後にしよう。ノエルに、最大の感謝を」
そうしてノエルの手を持ち上げて両の手の甲に口付けを落とすと、ひぇっ!? と可愛い悲鳴が上がった。
顔を真っ赤にしたノエルは、やはりとても可愛らしい。
ノエルの手を下ろして、ここからが本番だと気合を入れ直してノエルを見上げると、ノエルが小さく息を飲んだのが分かった。
途端にオロオロと視線を彷徨わせたノエルから「いつまで居られるの? お仕事あるから、そう長くは居られないんでしょう?」と問われて、俺は遂にこの時が来てしまったかと視線を逸らす。
そうしてどうか失望などしてくれるなと願いながら、騎士を辞めた事、家名も棄てた事を伝えると、ノエルは飛び上がらんばかりに驚いているようだった。
驚いた後に見る見る青褪めていくノエルが何を思ったのかが分かって、俺は首を振る。
「放棄したから、もう何も持っていない。騎士でもなくなったから、今は職もない。それでも、ノエル──」
俺は請うようにノエルを見上げる。
「何も持たない俺だが、どうか俺と生涯を共にしてはくれないだろうか」
「しょーがい……?」
ぽかんとしたように呟いたノエルの、少し冷たくなっている指先に祈るような気持ちで口付ける。
「ノエルを愛している。死が分とうとも、ノエルだけを想い、愛し、守ることを誓う。だから、ノエル。どうか俺の手を取って欲しい」
「え……あ……愛……? ジスランが、私、を……?」
「昨晩だって、あんなに刻み込んだだろう?」
信じられない、とでも言いた気な表情を見せたノエルに、俺の気持ちはちっとも届いていなかったのかと拗ねたいような気持になってその手の甲を撫でる。
「ノエルだって、俺を忘れられなかったのだろう? 他のやつでは物足りなかった、と。それに好きだとも、言ってくれた」
「そ、れは………」
俯いたノエルは、そのままふつりと黙り込んでしまう。
待ってみても、返事は貰えなかった。
やはり騎士でもない、どころか職もないような男では受け入れてなど貰えないかと肩を落とす。
「やはり俺では、駄目なのだな」
「ジスラン……」
俺の呟きに、ノエルは泣きそうな表情を見せた。
あぁ、きっと今ノエルは物凄く困っているのだろう。
優しいから、どう断れば良いのか悩んでくれているのかもしれない。
「ふざけるな」と、すげなく断れば良いものを。
優しいノエルの事だ。縋り付いて頼むから俺を側においてくれと懇願すればもしかして、などと思う。
だがそんな事をしては、この先一生ノエルを困らせる事になるだろう。
愚かな事をしでかしてしまう前に、早くこの家から立ち去らなければ──。
一度ぐっと口を引き結ぶと、俺はすまなかったと言って立ち上がって踵を返す。
そうしてドアに手をかけて──何か最後に一言、と考える。
謝罪も感謝も、もう要らないだろう。
幸せに、ではあまりに未練たらしいだろうか。
悩んで、結局「元気で」と伝えると、俺は零れそうになる涙を堪えてノエルの家を後にした。
振られる覚悟はしていたはずだ。
だと言うのに、俺は思ったよりもずっとショックを受けているようだった。
これからどうすべきかと、おぼつかないままフラフラと歩く。
この町の先はもう隣国で、隣国とは特に諍いもなく長年穏やかな国交が続いている。
いっそこのまま隣国へでも渡ろうか。
そう思いついて、そして思い出す。
──あぁ、その為にはネージュだ。
そうだ、まずは宿屋へ戻ってネージュを引き取って、そしてそのままこの町を出よう。
ぼんやりとそんな事を考えていた俺の耳に音が届いた気がして、顔を上げる。
ノエルに名を呼ばれた気がしたなど、有り得ないのに。
己のあまりの未練がましさに苦笑を零して、けれど最後に一目だけ、ノエルの暮らす家だけでも見ておこうと振り返って──俺は我が目を疑った。
家の前で、ノエルが蹲っていたからだ。
幻覚だろうか、と思う。
幻覚であるなら、あの夢のような微笑むノエルを見たかった、と思った俺の耳に、また小さな声が届いた。
幻覚の次は幻聴か、とも思ったが、俺の足はのろのろと元来た道を戻る。
「ノエル……?」
近づくと、それはやはり幻覚でも幻聴でもないようだった。
ノエルが、俺の名を呼びながら泣いている。
何故、そんな悲しそうに泣く?
何故、そんなところで蹲っている?
俺を追って、転んだのだろうかと。
さすがにそれは都合の良すぎる考えだろうかと思ったその時、俺の耳は今度こそはっきりとノエルの声を捉えた。
「ジスラン……っやだよぉ……」
いかないで、と続いたノエルの泣き声に、俺はもう何も考えられなくなって駆け寄ると、その身体を抱き上げた。
触れられた。
温かい。
幻覚ではなく、それは本当にノエルで。
だけど都合の良い白昼夢かもしれない、と思っていると、涙を零しながら呆然としたように俺を見つめていたノエルの大きな瞳から、更に涙が溢れ出した。
「……っじすら……や、だ……いっちゃ、やだ……!」
「ノエル……」
ぎゅうっと抱きつかれて、俺はまだ夢を見ているような不思議な気分のままノエルを抱き返す。
「いや、なの……離れたくないの……でも、でも、ジスランは元の生活の方が幸せなんじゃないかって……私は田舎者で、美人でもなくて、頭だって良くなくて……苦しんでるジスランを利用したサイテーな人間で……っ私なんか、全然、ちっとも、ジスランに、釣り合ってなくて………っ」
「ノエル」
まだどこか信じられずにいた俺は、もう一度ノエルの顔を見たくて少し身体を離そうとした。
けれど、首に回されていた腕に慌てたように力が籠る。
「や……っやだっ……行かないでっ……! 身体だけで良いからっ! ジスランの、好きにして良いから……! 行かないで……っ側にいさせて……っ!」
行かないでと繰り返してしがみついてくるノエルの温もりに、ようやくこれは現実なのだと実感する。
あぁ、俺はここに居て良いのだろうかと思うのと同時に、あまりに泣いてしゃくり上げているノエルの苦しそうな様子に、早く落ち着かせなければとも思う。
「行かない。ここにいるから、ノエル。顔を見せてくれ」
優しく背中を叩きながらそう言うと、ノエルがおずおずと顔を上げた。
その涙を拭ってやりたくて、ノエルをそっと下ろしてその両頬を包み込む。
「あぁ、可愛い顔が台無しだ……頼むから、もう泣かないでくれ」
ぽろぽろと零れ落ちている宝石のような涙を指で拭う。
先ほどのノエルの言葉から察するに、どうやら俺が元の生活に戻る方が良いと思っているらしい。
しかも何故か俺に釣り合っていない、などとおかしな事を言っていた。天使のようなノエルに釣り合っていないのは、俺の方だと言うのに。
「元の生活は、家には何の未練もないし、お護りすると決めた方の為に働けることは誉れではあったが──ノエルの言う幸せとは、違うように思う。だがその方を、ノエルのおかげで救う事が出来た。ノエルは俺を救ってくれた天使だ。毒からだけでなく、本物のアルイクスを授けてくれたおかげで、俺は今、生きてここに居られる」
「え……?」
生きて? と目を瞬かせたノエルの、泣いたせいか赤くなっている瞼に、あとで冷やしてやらなければと思いながら唇を寄せる。
「だから私なんか、などと言わないでくれ。身体だけなんて、そんな事はしない。言っただろう? ノエルを愛していると──だから、むしろ俺が頼みたい。ノエルの側にいさせて欲しい。俺の心も身体も、全てノエルに捧げよう。俺の全てを、ノエルの好きにしてくれて構わない」
「……そん、な……」
ぱちぱちと瞬いているノエルの眦から、また涙がぽろりと頬を滑り落ちた。
それをそっと拭いながら、俺はもう一度だけ、ノエルに問うた。
「もう一度だけ、聞かせてくれ──。ノエル、これからの人生、俺と共に……いや。ノエルの側に、俺を置いてくれないか」
「っ……私で、良いの……?」
「ノエルが良い。ノエルでなくては駄目だ」
ノエルの手を請うように握ると、ノエルはくしゃりと顔を歪めて、そうして俺の胸に顔を埋めてきた。
「……っ身体だけとか、そばに、置くとかじゃなくて……一緒に、おしゃべりして、笑ったり、泣いたり、たまにケンカも、したり……して……一緒に、生きたい……ずっとずっと、一緒に、いたいの……私を、ジスランのお嫁さんに、してください……っ」
「ノエル……!」
幻聴か、と思うよりも前に、俺はノエルを抱き締めていた。
そうして何度も何度も、少し涙の味のする唇を、何度も味わった。
「ノエル、一生大切にする」
合間に囁けば、ノエルはまだ涙を零しながらも、微笑んだ。
「うん……私の心も身体も、全部全部、ジスランでいっぱいにして」
そんな可愛い事を言われて、俺はぎゅうっとノエルを抱き締めた。
壁にかかる花や風景の描かれたタペストリーや、窓際に生けられている小さな花が可愛らしい。
そう多くを知っているわけではないが、ノエルらしい部屋だ、と思った。
初めて入るのに、なぜだか帰ってきた、というような気分になってほっと息を落とす。
お茶でも入れると言うノエルを手近な椅子に座らせて、話を聞いて欲しいと頼む。
座ってと言われたが、俺が椅子になど座れるわけがない。
ノエルの手を握って、膝をつく。
まずは、あの日の礼からだろう。
「改めて、あの時の礼を──本当に助かった、ありがとう。ノエルが現れたあの時、聖なる日に遣わされた天使だと思った」
「て、天使!? いやいやいや、私はただフラれた憤りを発散していただけで……その、襲っちゃった、ようなものだったし……」
「それでも、ノエルにとっては重くて仕方なかっただろう俺を支えて小屋まで案内してくれた。それだけでも素晴らしい女性だと思っていたのに──大胆に跨って懸命に俺を飲み込んで、キツかっただろうに俺を気遣う姿に、一発でやられた」
愚かだった俺を優しく包み込んでくれたあの日のノエルを思い出すと、それだけで昂りそうになる。
が、それと同時に激しい自己嫌悪にも陥るのだ。
「もっと優しくしてやれば良かったと、王都に戻ってからも後悔ばかりだった。毒のせいもあったとはいえ、乱暴にしてしまって、本当にすまなかった」
俺はあの日言い足りなかった謝罪をもう一度口にすると、ノエルはそんな事ないと慌てたように首を振った。
「ジスランはすごく優しくしてくれたじゃない! そ、そりゃ途中からは、ちょっと……かなり激しかった、けど……でも、すごく気持ち良かったし……」
「ノエル……」
あぁ、やはりノエルは天使以外の何者でもない。
その優しさと、頬を染めて俯いたあまりの可愛らしさに、思わず握っていた手に力が籠る。
と、ゆるゆると手を振られた。
「アルイクスを必要とされてた方はお元気になったって話だし、あの時のお礼とか、本当に良いの。私だってジスランを利用したんだもの。お礼を言われるのは、正直、ちょっと困る……」
礼だって謝罪だって、いくら言っても足りないくらいなのだが、あまりしつこくして鬱陶しく思われてしまっても困る。
俺は今はこれ以上言葉を重ねることはやめる事にした。
「──ならば、あの時の話はこれで最後にしよう。ノエルに、最大の感謝を」
そうしてノエルの手を持ち上げて両の手の甲に口付けを落とすと、ひぇっ!? と可愛い悲鳴が上がった。
顔を真っ赤にしたノエルは、やはりとても可愛らしい。
ノエルの手を下ろして、ここからが本番だと気合を入れ直してノエルを見上げると、ノエルが小さく息を飲んだのが分かった。
途端にオロオロと視線を彷徨わせたノエルから「いつまで居られるの? お仕事あるから、そう長くは居られないんでしょう?」と問われて、俺は遂にこの時が来てしまったかと視線を逸らす。
そうしてどうか失望などしてくれるなと願いながら、騎士を辞めた事、家名も棄てた事を伝えると、ノエルは飛び上がらんばかりに驚いているようだった。
驚いた後に見る見る青褪めていくノエルが何を思ったのかが分かって、俺は首を振る。
「放棄したから、もう何も持っていない。騎士でもなくなったから、今は職もない。それでも、ノエル──」
俺は請うようにノエルを見上げる。
「何も持たない俺だが、どうか俺と生涯を共にしてはくれないだろうか」
「しょーがい……?」
ぽかんとしたように呟いたノエルの、少し冷たくなっている指先に祈るような気持ちで口付ける。
「ノエルを愛している。死が分とうとも、ノエルだけを想い、愛し、守ることを誓う。だから、ノエル。どうか俺の手を取って欲しい」
「え……あ……愛……? ジスランが、私、を……?」
「昨晩だって、あんなに刻み込んだだろう?」
信じられない、とでも言いた気な表情を見せたノエルに、俺の気持ちはちっとも届いていなかったのかと拗ねたいような気持になってその手の甲を撫でる。
「ノエルだって、俺を忘れられなかったのだろう? 他のやつでは物足りなかった、と。それに好きだとも、言ってくれた」
「そ、れは………」
俯いたノエルは、そのままふつりと黙り込んでしまう。
待ってみても、返事は貰えなかった。
やはり騎士でもない、どころか職もないような男では受け入れてなど貰えないかと肩を落とす。
「やはり俺では、駄目なのだな」
「ジスラン……」
俺の呟きに、ノエルは泣きそうな表情を見せた。
あぁ、きっと今ノエルは物凄く困っているのだろう。
優しいから、どう断れば良いのか悩んでくれているのかもしれない。
「ふざけるな」と、すげなく断れば良いものを。
優しいノエルの事だ。縋り付いて頼むから俺を側においてくれと懇願すればもしかして、などと思う。
だがそんな事をしては、この先一生ノエルを困らせる事になるだろう。
愚かな事をしでかしてしまう前に、早くこの家から立ち去らなければ──。
一度ぐっと口を引き結ぶと、俺はすまなかったと言って立ち上がって踵を返す。
そうしてドアに手をかけて──何か最後に一言、と考える。
謝罪も感謝も、もう要らないだろう。
幸せに、ではあまりに未練たらしいだろうか。
悩んで、結局「元気で」と伝えると、俺は零れそうになる涙を堪えてノエルの家を後にした。
振られる覚悟はしていたはずだ。
だと言うのに、俺は思ったよりもずっとショックを受けているようだった。
これからどうすべきかと、おぼつかないままフラフラと歩く。
この町の先はもう隣国で、隣国とは特に諍いもなく長年穏やかな国交が続いている。
いっそこのまま隣国へでも渡ろうか。
そう思いついて、そして思い出す。
──あぁ、その為にはネージュだ。
そうだ、まずは宿屋へ戻ってネージュを引き取って、そしてそのままこの町を出よう。
ぼんやりとそんな事を考えていた俺の耳に音が届いた気がして、顔を上げる。
ノエルに名を呼ばれた気がしたなど、有り得ないのに。
己のあまりの未練がましさに苦笑を零して、けれど最後に一目だけ、ノエルの暮らす家だけでも見ておこうと振り返って──俺は我が目を疑った。
家の前で、ノエルが蹲っていたからだ。
幻覚だろうか、と思う。
幻覚であるなら、あの夢のような微笑むノエルを見たかった、と思った俺の耳に、また小さな声が届いた。
幻覚の次は幻聴か、とも思ったが、俺の足はのろのろと元来た道を戻る。
「ノエル……?」
近づくと、それはやはり幻覚でも幻聴でもないようだった。
ノエルが、俺の名を呼びながら泣いている。
何故、そんな悲しそうに泣く?
何故、そんなところで蹲っている?
俺を追って、転んだのだろうかと。
さすがにそれは都合の良すぎる考えだろうかと思ったその時、俺の耳は今度こそはっきりとノエルの声を捉えた。
「ジスラン……っやだよぉ……」
いかないで、と続いたノエルの泣き声に、俺はもう何も考えられなくなって駆け寄ると、その身体を抱き上げた。
触れられた。
温かい。
幻覚ではなく、それは本当にノエルで。
だけど都合の良い白昼夢かもしれない、と思っていると、涙を零しながら呆然としたように俺を見つめていたノエルの大きな瞳から、更に涙が溢れ出した。
「……っじすら……や、だ……いっちゃ、やだ……!」
「ノエル……」
ぎゅうっと抱きつかれて、俺はまだ夢を見ているような不思議な気分のままノエルを抱き返す。
「いや、なの……離れたくないの……でも、でも、ジスランは元の生活の方が幸せなんじゃないかって……私は田舎者で、美人でもなくて、頭だって良くなくて……苦しんでるジスランを利用したサイテーな人間で……っ私なんか、全然、ちっとも、ジスランに、釣り合ってなくて………っ」
「ノエル」
まだどこか信じられずにいた俺は、もう一度ノエルの顔を見たくて少し身体を離そうとした。
けれど、首に回されていた腕に慌てたように力が籠る。
「や……っやだっ……行かないでっ……! 身体だけで良いからっ! ジスランの、好きにして良いから……! 行かないで……っ側にいさせて……っ!」
行かないでと繰り返してしがみついてくるノエルの温もりに、ようやくこれは現実なのだと実感する。
あぁ、俺はここに居て良いのだろうかと思うのと同時に、あまりに泣いてしゃくり上げているノエルの苦しそうな様子に、早く落ち着かせなければとも思う。
「行かない。ここにいるから、ノエル。顔を見せてくれ」
優しく背中を叩きながらそう言うと、ノエルがおずおずと顔を上げた。
その涙を拭ってやりたくて、ノエルをそっと下ろしてその両頬を包み込む。
「あぁ、可愛い顔が台無しだ……頼むから、もう泣かないでくれ」
ぽろぽろと零れ落ちている宝石のような涙を指で拭う。
先ほどのノエルの言葉から察するに、どうやら俺が元の生活に戻る方が良いと思っているらしい。
しかも何故か俺に釣り合っていない、などとおかしな事を言っていた。天使のようなノエルに釣り合っていないのは、俺の方だと言うのに。
「元の生活は、家には何の未練もないし、お護りすると決めた方の為に働けることは誉れではあったが──ノエルの言う幸せとは、違うように思う。だがその方を、ノエルのおかげで救う事が出来た。ノエルは俺を救ってくれた天使だ。毒からだけでなく、本物のアルイクスを授けてくれたおかげで、俺は今、生きてここに居られる」
「え……?」
生きて? と目を瞬かせたノエルの、泣いたせいか赤くなっている瞼に、あとで冷やしてやらなければと思いながら唇を寄せる。
「だから私なんか、などと言わないでくれ。身体だけなんて、そんな事はしない。言っただろう? ノエルを愛していると──だから、むしろ俺が頼みたい。ノエルの側にいさせて欲しい。俺の心も身体も、全てノエルに捧げよう。俺の全てを、ノエルの好きにしてくれて構わない」
「……そん、な……」
ぱちぱちと瞬いているノエルの眦から、また涙がぽろりと頬を滑り落ちた。
それをそっと拭いながら、俺はもう一度だけ、ノエルに問うた。
「もう一度だけ、聞かせてくれ──。ノエル、これからの人生、俺と共に……いや。ノエルの側に、俺を置いてくれないか」
「っ……私で、良いの……?」
「ノエルが良い。ノエルでなくては駄目だ」
ノエルの手を請うように握ると、ノエルはくしゃりと顔を歪めて、そうして俺の胸に顔を埋めてきた。
「……っ身体だけとか、そばに、置くとかじゃなくて……一緒に、おしゃべりして、笑ったり、泣いたり、たまにケンカも、したり……して……一緒に、生きたい……ずっとずっと、一緒に、いたいの……私を、ジスランのお嫁さんに、してください……っ」
「ノエル……!」
幻聴か、と思うよりも前に、俺はノエルを抱き締めていた。
そうして何度も何度も、少し涙の味のする唇を、何度も味わった。
「ノエル、一生大切にする」
合間に囁けば、ノエルはまだ涙を零しながらも、微笑んだ。
「うん……私の心も身体も、全部全部、ジスランでいっぱいにして」
そんな可愛い事を言われて、俺はぎゅうっとノエルを抱き締めた。
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