下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉

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「礼儀作法を教えてやろう」
 星綺が唐突にそう言い放った。
「流れるだけの時を共に過ごすのも悪くはないが、時間は有限。意味のあるものにしたいだろう?」
「いきなりどうしたのよ」
「いや、なに。以前から考えてはいたんだ。ここを出て、どうやって生きていこうと考えているかは知らんが、芸は身を助けるぞ? 貴族流の礼儀作法ができれば短期の賃仕事も得やすいだろう」
 得意気に説明する星綺をまじまじと見つめる。
 私には利点の大きい話だ。だが、うまい話には裏がある。彼女が何を企んでいるのか見えない。
 なかなか頷かない私を見て星綺は不満気に口を尖らす。
「なんだ、わたしでは不満か? 基礎程度、教えることなど造作ないというに」
 外見相応に拗ねる姿は大変可愛らしい。弟のいる身として、年下には弱いのだ。
 結局、その申し出を受けることにした。

 私たちが会う場所は四阿や談話室が多くなった。
 星綺がして見せた動作を見よう見まねで何度も繰り返す。
 基本だけとは言っていたが、さすがは貴族流。その基本がいように多い。
 星綺いわく、後宮に合わせたらしく、家によってはまた細かなところが異なるらしい。なんと面倒な。
 ようやく教えられたことがたどたどしいながら一人でできるようになった頃、星綺が府庫に行くと言い出した。
 彼女は唐突だが、本人の中では全てが繋がっている。私が理解できる範疇はとうに超えているというだけだ。
 ならばついて行くしかあるまい。今の私は教えを請う立場なのだから。

 府庫に着き、慣れた手つきで書を集めた星綺は、それを数冊束にして私に差し出した。
「わたしたちでは持ち出せないから写本を作るぞ」
「……それ、全部?」
 思わず顔が引き攣る。そんなことはお構いなしに星綺は肯定する。
「無論わたしも手伝う。心配するな」
 彼女は言うが、全然安心できやしない。たかが数冊、されど数冊。算盤は得意だが読み書きは最低限しか学んでいないのだ。
 不安しかないまま始まった写し作業は、私ばかりが手間取った。
 私が二頁写すうちに、彼女は五頁を写し終えている。どう考えても文字を書き慣れた人間の速度だ。
 母が庶民だとは聞いているが、富裕層だったのだろうか? 考えてもせんなきことだが。
 当然今日中に終わるはずはなく、持ち出した書は全て元に戻しに行く。纏めた書を私が持ち、星綺が棚に収める。
 そうして最後の一冊をしまい終えたとき、戸を引く音が聞こえた。足音は皇城側から聞こえる。
 私のいる場所からは何も見えないが、星綺のいる場所からは見えたのだろう。大きく目を見開いた彼女は、私の腕を強く引いた。星綺と目線が揃う。私に詰め寄り、手で口を塞いだ。
 突然のことにもがいていると、彼女は口だけで静かにと伝えてきた。そしてゆっくりと陰へ身を潜める。
 足音が次第に大きくなってゆく。口に触れている星綺の手が強張っているのがわかる。お嬢様のようだと思っていたが、しかし、彼女の手はお嬢様のそれとは程遠い。滑らかではあるが、マメがあって硬い。
 そんなどうでもいいことを考えていた私の視界遠くに、人の姿が映り込んだ。知らない人だが、位は高そうだ。なんでこんなところに足を伸ばしているかはわからないが。
 そのまま何事もなく足音は遠のき、再び戸を引く音が聞こえ、ようやく星綺の拘束が解けた。
 へたり込んだ私は、久々の新鮮な空気に咳き込んだ。咳のせいで涙目になりつつ、星綺をなじる。
「いきなり何するのよ」
「さっきの人が誰だかわかるか?」
 話の脈絡がわからないままに首を横に振る。
「宰相だ」
 思わぬ答えに思考が停止した。
「陛下の、側近の、宰相だ」
 区切りながら繰り返した星綺は私が聞き逃したとでも思ったのだろうか?
 衝撃的すぎて受け入れがたかっただけだ。なんだってそんな人がこんなところに……。
「でも、隠れる必要はなかったんじゃないの?」
「何を言ってるんだ脱走計画者」
 真顔で言われた。私も真顔になった。
 宰相様が手ずから処罰するようなことではないが処罰対象には変わりない。命拾いした、のか……?
 いや違う。私の運命は全て星綺が握っていた。
 解放時刻ギリギリまで粘ったあと、見つからないようにこそこそ室に戻った。
 この時の私は、何故星綺が宰相様を特定できたのかなど欠片も気にしていなかった。
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