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しおりを挟む武田攻めのために三月上旬に安土を発った信長は、諏訪(長野県諏訪市)、甲府(山梨県甲府)と移り、駿河遠江(静岡県中西部)、三河を回って尾張、岐阜と上り、安土に戻ったのは四月の末だった。三河では、信長の同盟者である三河殿(德川家康)から接待を受けたらしい。三河殿は、信長一行のために宿舎を建て、橋を架け替え、沿道の木々をなぎ払い、小石の一つまで取り除いていたらしい。
安土帰還後、自身の生誕日である五月十二日には、全国から諸侯を集めて参拝させ、催し物をするという。城内は、内々に支度が進められていたので、さしたる混乱は無かったが、信長は、
「乱! 城下に参るぞ」
と安土の町を行く事が多く、私も相伴した。城の大手門から真っ直ぐに伸びる大路を下って行く途中は、豪華な大名屋敷が目を楽しませる。信長が「立派なものを作れ」と命じていたので、安土城の周囲を固めるのに相応しい美々しい邸が続く。さらに直参の家臣達の邸、大寺院、女中や侍たちの住む長屋などが軒を連ねている。それから、安土の町に入ると、人で溢れて、中々、進む事が出来ない。人が多いせいか、土埃が常に舞っているようで、埃っぽい。さすがに、信長の姿は城下に知れ渡っているので、町の者達は、「上様のお越しじゃ」と道を譲る。
「ああ、余の事は良い。気を使うでない」と信長は笑いながら言うが、町の者達は率先して道を譲る。さぞや、怖れられているのだろうと思いきや、町の女や子供達は、
「お殿様、今日は、お小姓衆と町歩きで御座いますか?」とか、
「白餅をお一つどうぞ。お小姓さま達も」などと親しく声を掛けてくる。それを、信長は眼を細めて見るだけで、何も咎めないのが、不思議だった。
「それはそうと、お殿様。何かお祭りをやると聞きましたが」
一人が問いかけると、折り重なるように他の女が早口に聞く。
「そうそう、十二日に安土で祭りをやるって、そこの辻に高札が立ってましたよ。何の祭りなんです? また、戦にお出になるのですか?」
「うむ。宣教師の国には、己の生まれ日を祝う習わしがあるらしい。であらば、余の生まれ日を、この安土の祭りとし、皆、一同に安土に集い、寿ぐが良かろうと思うてな。この安土を己の本尊として信仰し、一度参れば、富が増し、貧しいものも皆、豊かになる。寿命八十まで伸び、病はたちどころに消え安らかになるであろう……余を信じ、深く帰依すればの話であるが」
信長は、冗談めかした口調で言うが、おそらく本心だった。寿命やら、病が癒えると言うのが本心でないにしても、「皆」が信長の許に、平等で、豊かで満ち足りた生活が出来るようにと、今まで働いてきたのだろう。その望みすら、空しい、と信長が思うのならば、少し、寂しい。
「生まれ日ですか。あたしなんか、いつに産まれたのか、良く解らないですよ。母さんは辰の日だか、巳の日だかって言ってましたけれど」
「私は、十六夜の日だって聞いたわねぇ」
「ほれ、そうであろう。生まれ日が解らぬものが、祝えぬのも哀れゆえ、この国では、余の生まれ日を、皆の生まれ日代わりに寿げば良いと言う事にした」
無茶苦茶な気もしたが、不思議に道理が通っているようにも思えた。とにかく、次の五月十二日の祭りというのは、信長自身の生誕を祝え、と言う事ではなく、皆のために企てた祭りなのだろうと言う事は解った。
「そなたらも、充分に楽しむが良い」と女達に言い残して、信長は更に安土の町を歩き続けた。その中に、一軒、瑠璃色の瓦屋根の建物があった。屋根の天辺に十字架が掛けられて居るのを見ると、ここは、宣教師の邸か、聖堂であるのだろう。美しい、深い、瑠璃色の屋根瓦は、安土城のものと同じ彩で、最近私が忘れかけていた、故郷の空の彩だった。信長は、じっと、その青い瓦屋根の建物を見ていたが、不意に口を開いた。
「あの神学校にいる宣教師に頼めば、印度か、呂宋にまでは運んでやれるかも知れぬ。そなたの生国がどこか知らぬが、そなたにとって、この日本よりは、住みやすいところであろう。親類縁者が居るかは解らぬが、仲間は居るかもしれぬ」
仲間が居ようが居まいが、私はここが良い。この国が良い。いつまで側に居る事が出来るか解らないが、私は、ここに居たい。
(上様、お側に)そう言いたいと思って、口を開けてみるけれど、喉の奥からは「ヴェー」とか「ぐぁ」とかいう、みっともない、潰れたカエルのような音が漏れるだけで、言葉にならない。
「ん? そなた。この国に残りたいのか?」
信長は振り返った。意外そうな顔をしていたので、私は、身体をばたつかせながら、大きく頷いて、呻き声を上げた。
「よし、そなたは、宣教師には引き渡さぬ事とする。それで良いな」
信長は、微かに微笑んで、踵を返し、城への道をゆっくりと歩いた。
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