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しおりを挟むそれから数ヶ月経った八月四日の深夜。信長はお妻木の方の部屋を訪った。蝉が煩く鳴く、蒸し暑い夜だった。訪ったというより、踏み込んだ、というのがしっくり来るような有様で、就寝前だったのか、夜着の裾を乱し、息を切らして信長は現れた。信長の取り乱した姿に、竹は、「お方様は、つい先程、息を引き取られました」と涙声で言うと、床に突っ伏して、声を上げて、人目も憚らず、わあわあと泣いた。
お妻木の方は、まるで、眠っているような、穏やかな死に顔だった。信長は、その傍らに立ち、お妻木の方が動き出すのを、睨み付けるような眼差しで見守っていたが、やがて、もう二度と目を開く事はないと悟ると、何か言いたげに唇が動いたが、唇は震えて、声にならなかった。
手でも取って、その死を悼むのかと思いきや、信長は獣の雄叫びのような、唸り声を上げた。故郷の森の中で聞いた、群れをはぐれた野犬の遠吠えのような、悲痛な声に聞こえた。声は、ビリビリと障子戸を揺らす程の大音声だったが、ピタリと止み、側に控えていた乱が心配そうに信長を見上げた。信長は、虚ろな目をしていたが、急に眼球を血走らせ、「乱、刀を貸せ」と、聞いた事もないような、低い声で乱に命じた。地鳴りのような声だった。私は、恐ろしくなって膚がざわめいた。
乱は腰に佩いていた脇差を信長に捧げた。主の行動が読めず、当惑しているようで「上様、如何なさいましたか」と聞く。信長は答えずに、ス、と鞘を払った。銀色に冷たく輝く刀身は、燭台の橙色の光を揺らめかせて、息を呑む程、美しかった。
「そなた。お妻木を、楽しませ、息災にさせよと言うたではないか」
怒りに震える信長の声を浴びながら、私は身体を動かす事は出来ずにいた。このままでは、斬られる、とは解っていても、呼吸も出来ない。怒りに満ちた姿に、魅入られていたのかも知れない。小柄な信長の腕が大きく振り上げられる。ギラリと刃が光った。切っ先が天井近くにある。勢い良く振り下ろされれば、この鋭い刃で、身体は真っ二つに分断されるだろう。おかしな程に心臓が高鳴る。逃げよう―――と思うのに、呼吸が上がる。苦しい。石になったように、どうしても身体が動かない。全身が震える。荒い呼気をする口からは、ピィと、滑稽な笛のような音が漏れた。それでも信長の殺気は、私に真っ直ぐに向けられていた。許しを請う事すら、私には出来なかった。このまま、お妻木の方の死に相伴するのか、と瞼を閉じて、死を覚悟した頃、
「お待ち下さいませ、上様!」と自らの身を省みず、乱が、私と信長の間に割って入った。
「乱! 退かねば、そなた諸共に斬るぞ!」
今まさに、私を殺そうとしたのを止められて、信長は苛立たしげに乱を睨め付けた。
「退きませぬ! このものは、宣教師より贈られたもので御座います。その命を上様御自らがお取りになったと聞けば、宣教師どもと、彼らの国の王に、上様が侮られます。どうぞ、お止め下さいませ!」
信長の足に額を擦りつけるように、乱は懸命に私の助命を訴えていた。浅葱色の小袖の背が、びっしょりと汗に濡れて濃い色に染まっている。私は、乱が、文字通り命がけで私の命を救おうとしているのを知った。
私の命など取るに足りぬものだ! と乱に訴えたかったが、私は、伝える言葉を持たない。今程、それが悔しかった事はない。私は、決死の覚悟で、信長と乱の間に割り込んで、子供のように、大きく身体をばたつかせて暴れた。苛立たしげに顔を歪めた信長から、殺気が薄れて行くのが解った。
「小姓部屋の隣に納戸があろう。目障りゆえ、そこに押し込めよ。二度と、見とうない」
信長は、それきり何も言わず、しばらくの間、お妻木の方の安らいだ死に顔を見つめていたが、ふいに興味を無くしたような素っ気なさで踵を返すと、部屋の外へと立ち去っていった。乱も、呆気に取られて、床に尻餅をついたが、我に返ると立ち上がり、私を抱えるようにして連れだった。そう言えば小姓部屋の納戸に閉じ込められるらしい。
「上様は、激しいお気性ゆえ刃を向けられたが、あれは、上様の哀しみが深いせいであって、そなたを憎んだり恨んだりするゆえでははい。屹度、上様のお側に戻る事もあろう」
乱の言葉に私が頷いて同意した時、廊下の向こうから、けたたましい音を立てて男が駆けて来るのが解った。
男が一人。供も付けずに、城内だというのに無遠慮に走るのは、惟任だった。義妹の死を受けて駆けつけたのだろう。乱は、廊下を譲り、深々と頭を垂れていたが、惟任はそれに気付かぬ程に取り乱し、とりあえず引っかけてきたという風情の濡れ鼠のような灰色の小袖と妙に鮮やかな緑色の葛袴姿で、お妻木の方の部屋へと駆けて行く。以前に見かけた惟任は、身なりも整った穏やかな人という印象だったが、胸元も乱れ、袴も皺だらけだった。血の繋がりはないとは言え、「妹」を亡くすのはさぞ辛かろう。
私も、胸に穴が空いたような、空虚な気持ちだ。近しい人ならば、尚の事、辛いだろう。
「窮屈だろうが、暫しここで過ごすように。逃げようとすれば、今度こそ、上様はそなたの命を取ろう。どうか、大人しくして欲しい」
乱は、ゆっくりと言った。乱の真剣な眼差しに、私は、大きく頷いた。小姓部屋は、二の丸にあった。二の丸の奥に、広い板敷きの部屋があり、邸を与えられていない小姓などはここに寝泊まりしているらしい。小姓部屋の隣の納戸は黴びているのか、不潔な、粉っぽい空気だった。
「解ってくれたようで安堵した。今までのように、顔を見せる事は出来ぬかも知れぬが、日に一度は必ず来る事にする」
乱の言葉は心強かった。乱は、命を懸けてまで、私を守ってくれたのだ。せめて礼を言いたい、と私は思案していると、足に何か当たるのに気がついた。そこに、羽が数枚落ちていた。それは、私の持ち物だったもので、青い―――安土城の屋根瓦と同じ、私の故郷の空と同じ、見事な瑠璃色をしているはずだった。私は、それを一枚、乱に差し出した。乱は、驚いて目を丸くしたが、私の気持ちを汲んでくれたらしい。羽を受けとると「有り難う」と、はにかんだように笑った。乱は「それでは、私は上様のお側に戻るゆえ」と納戸から去っていった。埃っぽい納戸は、戸を閉められてしまうと灯り一つ無いので、とにかく暗い。夜目の利かない私は、いつまでも目が慣れなかったので、目を閉ざして、お妻木の方の亡骸を、じっと見つめていた信長の事を思い出していた。信長はあの時、何を思っていたのか。空しさを噛み締めていたのか、私には解らない。
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