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 三条河原に、晒し首やって。壬生狼みぶろらしぃわ。

 そんな噂話を耳にした君菊は、三条河原に急いだ。誰の首が晒されているのかは解らない。ただ『壬生狼』としか聞かなかった。

(どなたの首が晒されてはるんやろ……)

 それが、恋しい男の首である可能性もある。そうでないことを祈りながら、君菊は三条までの長い道のりを急いでいた。土方と別れたのは、去年の末だった。十二月十三日は正月の支度を始めるものだが、とても正月の支度など言っているような風情ではなかった。というのも、徳川慶喜は大政奉還を上奏し、十二月九日には、王政復古の大号令が発せられ、同日、京都守護職並びに京都所司代が廃止されるという急展開を迎えていたからだった。京都守護職は、会津候・松平容保が職に就いていた。

 そもそも、過激志士達の民家や商家に対する押し込みなどが横行し、京の治安は著しく悪化していた。その、京の市中及び御所、二条城などの治安を維持する為に、文久二年に設けられたものである。この翌文久三年が、浪士隊上洛の年だ。

 京都見廻組や新撰組は、京都守護職である会津候の支配下に入ったというわけであった。つまり、十二月九日を以て、新撰組は意義を失ったのである。運良く、その後、新撰組には二条城警護を仰せつかり、解散を免れたが、この時『新撰組』の名前を名乗り続けているのは、不適当であったので改名を迫られたが拒否した。そのまま、ずるずると、新撰組の呼称を続けることになる。

 君菊は、この頃、土方のことは諦めていた。土方からの文は、ここ数ヶ月絶えていたし、大政奉還が為ったからには、土方は京に残る理由もない。郷里に戻るものだろうと考えて居た。京雀はおしゃべり好きだ。あちこちで、噂を囁く。他愛もない噂話ではあるが、幕府と薩摩・長州が、ついに戦になるというものを聞いてから、君菊は、もう、二度と、土方に逢うことはないのだと、覚悟していた。

 十二月十三日の夜更けだった。闇夜に紛れるように、黒装束の男が君菊の家をおとななった。土方だった。新撰組の、制服を着ていた。この頃、新撰組の制服は、あの有名な、浅葱色のだんだら山形の羽織ではなかった。黒装束だった。

 あの浅葱は、芹沢鴨の作ったものであると言う。文久三年の四月頃、芹沢・近藤ら浪士隊京都残留組十四人の為に作られた。有名な山形模様は、忠臣蔵の四十八士が、吉良邸討ち入りの際に着ていたものということだ。事実はどうあれ、錦絵や歌舞伎ではそうなっている。そして、あの鮮やかな浅葱色である。

 一般に、『浅葱』というと、『浅葱裏』というように田舎武士のことを指したり、『水浅黄』というごくごく薄い浅葱色が囚人服の色だったこともあったので、囚人の隠語にもなっている。武士にとっては、切腹の際の装束の色でもあった。あまり、良い印象を与えるものではないかも知れないが、あの色は、義の色だった。

 忠義の為に死んだものの血は、碧玉になると伝えられている。この為、義の為に流れる血を『碧血』と言う。新撰組の羽織は、その色だ。

 いつの頃からか、新撰組は、浅葱の制服を着用しなくなった。その代わり、黒の羽織に、黒い袴。新撰組の隊士たちは、基本的に単独行動をしない。何人か連れ立っていく。ざくざくと、京の町を行く、黒装束の集団が居れば、それは異様な風景だっただろう。

 君菊は、黒装束の男に「よう来ぃはりました。おあがりやす」と、家に上がるように勧めた。幾らか躊躇っていた男……土方は、「いや」と言って家には上がらなかった。上がりかまちに腰を下ろして仕舞ったので、君菊は仕方が無く、傍らに座った。

(存外、律儀な所もあるのやなぁ)と君菊は内心感心していた。土方の用向きは解っている。あしたには、京を離れるというのだろう。土方は、よほど、切り出しにくいのか、黙ったままであった。

「……このお姿でいらっしゃるんは、お珍しいわ」と君菊は言う。真っ黒な黒装束。京雀たちは、この姿の土方を見慣れているのだろうが、君菊は、違和感を感じる。

「男前やから、何をお召しになってもお似合いですけど、うちは、いつもの着流しの方が、土方はんらしゅうて、好きですわ」

「似合わないかな」と土方は首をかしげて見せた。「これは、新撰組の隊服なのだ。みんな、この黒一色だ」

「土方はんは、その隊服、お召しになって、どこにいかれるんどす?」

 土方は、一度、目を伏せた。「それは」と小さく、呟いたような、気がした。

「本当に……土方はんは、れないお方やわ。戦に行かれるんですやろ?」

 土方はゆっくりと頷いた。「……二度と、京には戻ってこないだろう。旦には、出なければならない」

「それで、お別れを言いにきて下さりましたの?」

「ああ。……今生、逢うこともない」

 す、と土方は立ち上がった。「世話になったな」あまりにも素っ気なく、土方は言う。君菊は、そこはかとない、落胆を覚えた。他にも女が居るのは知っているが、囲われていたのは自分だけだと言うことも知っている。それは君菊にとって小さな自負でもあった。だというのに、この、あっさりした態度である。無理だとは解っていたが、添ってみたいと思ったこともあったというのに、この男は、やはり、情れない。

「……お気をつけやす」と君菊は頭を下げた。そっけなさを詰りたい気持ちにも為ったが、何を言っても、この男には届かないことも、良く、君鶴は知っている。

「君菊」と土方は呼びかけた。何を言おうとしているのか、君菊は解らなかったが、訊きたくはないと思い、先に、口を開いた。

「ええどす。土方はんは、雁みたいなお人やから。春がたら北へ北へと帰っておしまいになる………雁をうても、仕方がありまへんもの」

「……ああ、いつか、聞いた和歌だったな。『春霞立つを見捨てて行く雁は』………」

「『花無き里に住みや慣らえる』」

 君菊は土方をじっと見つめた。土方は、微苦笑していた。「雁ならば、次の冬に又、るだろう。俺は、もう、京に来ることはない」

「死んで仕舞われるおつもりどすか?」

「いつでも、その覚悟だ。朝起きた時に、今日は死ぬ日かも知れないと思う。毎日、そんなものだったよ。戦に出ようが、出まいが……、いつでも、死ぬことを考えて居る」

 土方は、一瞬、遠い目をした。(ああ、遠い……)と君菊は思った。手を伸ばしたくなったが、やめておいた。どうせ、届かないのだ。

「埋もれ木の 花の雪とぞ散りにける 消ゆるものとて 匂い残さん」

 君菊の詠んだ和歌に、土方は小首を傾げた。「聞いたこともない和歌だ」

「花を咲かせずに上巳に消えた方がおられましてなァ」と君菊は謡うように言った。ぴくり、と土方の片頬が引きつった。「雪の……雪の降りしきる中やったそうどす。楽浪ささなみの近江の海のお殿さんやったと………。その方を悼んで、ある方が詠まはった句がありましてな。『ふりなからきゆる雪あり上巳こそ』だったと思います。土方はん、知ってますやろか」

 ことさら険しい顔をした土方は「知らんな」と言い切った。君菊の意図を、計ることが出来ずに苛立っているようにも見えた。

『ふりなからきゆる雪あり上巳こそ』

 土方が知らないはずがない。この句は、土方のものだ。わざわざ、井伊候のに際して詠んだものだ。しかも、この句には、土方は最大の敬意を払っている。句集に綴った時、句の下に自身の雅号を記しているのだが、他の句には己の雅号である『豊玉』の『豊』のみを記しているが、この句には、『豊玉』と署名している。

 上巳は、三月三日の桃の節句の事を指す。井伊候のは、三月三日。季節外れの雪が舞う中、起きた。江戸城の西、桜田門で起こった。水戸出身の浪士達による、大老暗殺。

 世に言う『桜田門外の変』である。

 土方は、丁度、その前の年の上巳に、天然理心流の牛込の道場に入門している。三月に舞った珍しい雪だった。朝方の寒さにいつもよりも早く目を冷ました土方は、雪が降り積もっていることに気がついた。雪の美しさに心奪われて、町に出ただろう。そして、市中が、動乱の中にあることを知っただろう。

 井伊直弼は、さきの彦根藩主の十四男であった。自らを、咲くことのない『埋もれ木』と称して、風雅な生活を送っていたという。部屋詰めで、一生を終えなければならない末弟の、せめてもの反抗だろう。

「あら、土方はん、知りまへんの?」君菊は不思議そうな顔をした。土方は、酷く不愉快そうな顔をしていた。

「知らぬものは知らん」と突っぱねる土方に、君菊は、ころころと笑った。

「……おかしな話ですなぁ。豊玉宗匠の句は、土方はんのほうが、お詳しいですやろ?」

「何がいいたいんだ。君菊」

 苛立たしげに聞いた土方に、君菊はにこり、と笑った。

「待ちますえ」

「待つ? ……俺は、二度と、京には戻らないと、言ったが」

 不審そうに聞く土方に、君菊は笑って答えた。

「なんえ、土方はん、帰るところの一つや二つもってへんと、安心して戦にいかれへん気がしてなぁ。きっと、土方はん、戻って来はります。うちのところやうてもかましません。……せやから、うち、京で待ちますえ。また、冬がたら、お戻り下さい」

「冬か……」と土方は遠い目をした。「そういえば、近藤さんが、出かけに言っていたな。また、京に戻る気がすると言っていた。しかし……約は出来ん。戻ると、約することは出来ん」

「あら、せやったら、絶対に戻らへんとも、お約束できへんと違いますか? ………構しません。どうせ、土方はんは、情れない男はんやから」

「そうか」と土方は表情を和らげた。「今生の形見など、本当は用意しようと思っていたのだが……、なにぶん、急だったのだ」

「そないなもの、いりまへん。御文もいりまへん。土方はんの無事でしたら、風の便りで聞こえてきますわ」

「俺の所には、お前の様子は届かんだろう」拗ねたよう言う土方は、子供のようだと君菊は思った。この男から、君菊は血の匂いを感じたことはない。それが、不思議だった。京雀が言うには、この男は『きちがい』と呼ばれるほど、人を斬ってきたはずなのだ。ところが、君菊の前の土方は、存外、子供っぽいし、素直だった。穏やかな男だった。

「じゃあ、土方はんが、寂しくなったころ、御文を差し上げます」

 寂しくなんかなるか、と一瞬憤慨し掛かった土方だが、「じゃあ、俺の所に、お前からの文は来ないな」とそっけなく言った。君菊は、くすくすと笑った。

(いつもいつも、寂しそうにしてはるくせに)と土方の強がりを笑う。土方は、群れの中には居ない。群れの近くにいて、群れを傍観する癖がある。本当は、あの群れの中に入りたいのに、それが出来ない。いつもいつも、独り、という顔をしている。それを吹っ切るように無理矢理顔を上げて歩いて行く。いつも、無理をしているのだ、と君菊は知っている。「何かあれば、武州の実家や、日野宿の佐藤彦五郎ではなく、常州玉造の平間重助方に文を貰いたい」

 玉造の平間重助。君菊はこの名前に聞き覚えがあった。元、新撰組隊士で、たしか、芹沢鴨の傳役のような男だったはずだ。だが、余計なことは言わなかった。「わかりました、何かあったら、平間はん宛てに御文差し上げますわ」

 余計な事を聞かなかった君菊に、土方は幾らか安堵しているようだった。聞かれたくないことは、この男には沢山あるのだろう、と君菊は思う。何人もの同胞を殺し、そして今の立場を手に入れた。新撰組の隊士達は、『幕臣』に取り立てられた。近藤は『御目見得以上』、土方は『見廻組肝煎』である。世が世なら、大出世だ。

「……お気を付けてお行きやす」

「ああ」と土方は短く答えた。一瞬、視線が絡んだ。今生の別れなのだと、解ったが、努めて、いつも通りに土方を送り出した。

(土方はんは……、きっと、戦に出て、北に帰って行ったら、うちのことなんか、忘れてしまうやろうなぁ)

 土方の背を見送ったが、すぐに深い宵闇に消えた。土方は灯りを持たなかったし、君菊も灯りを渡さなかった。用心の為に灯りを持たずに来たのが解っていたからだった。それに、月明かりで、十分、歩いていくことが出来る。月は、冴え冴えと、冷たい光を放っていた。十二月の京は、寒い。吐息は凍り、足下から冷やされる。その凍てつく空気の中を振り返りもせずに、土方は不動堂村の新撰組屯所に戻っていった。

 手も足も凍えるまで、君菊は土方を見送っていた。何刻も、土方の背中を見送って立ち尽くしていた。

 それから、半年も経たない。

 半年も経たないというのに、『壬生狼が晒し首』だという。

 伏見の戦いの顛末も、そこからの甲州での戦いも、君菊は聞いていた。土方の名を聞く度、ドキリ、と心臓が跳ねる。ここに帰らなくても、無事でさえ居てくれれば良い……と思う気持ちだった。君菊が知っているのは、甲州の戦いで土方たちが大敗を喫したこと、江戸城が明け渡されたことくらいのものだった。

 だから、晒し首が、いかなる罪状なのかも、解っていない。だからこそ、北野から三条河原までの道のりを急いだのだった。三条大橋はいつも人通りが激しく、賑わっている。三条大橋から三条河原を見下ろすもので、橋の片側に人集りが出来ていた。河原にも、人が沢山いた。皆、『壬生狼の首』を見に来たのだろう。

 君菊は人混みをかき分けながら、三条河原に降りた。「いや、惨いもんやなァ」と見知らぬ男が話しかけてきた。「江戸で三日三晩晒された挙げ句、酒漬けにされて、京まで持ってきたんだと」

「……壬生狼と聞きましたけど……、どなたが晒されてはりますの?」

「おや、あんたさん、新撰組にゆかりでもあったのか? ……見たところ……まぁ、えらい別嬪やから、局長さんの、いろでもやってはったの? せやったら、残念やけど、あんたのいい人は、あそこで晒し首やわ」

「それは、新撰組の、近藤はん……ということですやろか」

「そや。新撰組の局長さん、京でも江戸でも悪さしはったんなァ。まぁ、自業自得ですやろ。なぁに、あんたさんくらい、別嬪やったら、他に男のつきては、いくらでもおるやろ」

 要らぬ世話まで言う男の言葉に、君菊は幾らか胸をなで下ろした。少なくとも、土方ではなかった、と言うことが君菊にとっては何よりもの救いだった。けれど、近藤の首が晒されているような事態ということは、土方の身も、危ないのだろうということは容易に想像が付いた。

「うちは、江戸のことなんか、よう解らんからなあ……」と思わず呟いていた君菊に、先ほどの男が話しかけてきた。

「江戸に行くのは止めなはれ。江戸城からは将軍さんも居のうなったみたいですけどなぁ、会津のほうで戦になるとかで、薩摩やら長州やらが戦準備をして北に下っていった言いますわ。幕府軍や言うても、将軍さんは、実家の水府に帰らはるいうし、一体、どなたが旗頭になってるのかも、よう知れへん。いま、江戸に行ったら、戦に巻き込まれるかも知れまへん。落ち着いてからにしたほうがええ」

 滔滔と語る男に、君菊は思わず「戦になりますの?」と聞いていた。一月の年始めから、伏見で大きな戦があった。それから四月にも為るが、南の空が真っ赤に燃えていたのを、君菊は覚えている。家の中で、身を縮めていた。遠くの方で、大砲の音もした。聞こえるはずもないのに、剣戟と怒声も聞こえて来るような気がして、肩を抱いて、必死に、堪えていた。あそこに、土方が居るのだとおもうと、居ても立っても居られないほどだった。

 それから、まだ四月。戦は、京から甲府、江戸はなんとか戦火を免れ、遙か北の会津に向かおうとしている。

(ああ、そこに、土方はんが居るのやなぁ。やっぱり、雁みたいなお人や。北へ北へと帰って行かはる)

 遠い目をしている君菊に「おまえさん、どうしたんだい。大丈夫かい」と男が聞いてきた。

「ああ、大丈夫どす……。なんや、雁の事を考えてました。北へ北へと帰って……。きっと、独りで寂しがってると思いましてな」

 男は不審そうな顔をしたが「雁は、普通は、群れてくるやろ」と言う。確かに、雁は独りでは動かないかも知れない。渡り鳥は編隊を組んで行くのが普通だ。だから、雁の周りには、多くの同胞が居るだろう。

「けど、きっと、寂しいわ」と君菊は呟いた。

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