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しおりを挟む明け烏が鳴く前に、君菊の家から土方と島田は屯所に戻った。北野から壬生まで。ゆっくり歩いて半刻あまり。特に話は無かったが、いつものことなので、島田は特に気にもとめなかった。土方の様子も、特別に変わったところはなかった。
屯所に戻り、朝稽古の為に井戸端で身支度を調えていた島田に「おはよう御座います、島田さん」と声を掛ける者があった。山崎だった。
「ああ、おはよう御座います、山崎君」と挨拶を返す。息が凍るほど寒い。京の冬は底冷えする。足下から、冷気が登ってくる。夏ならば、朝一番の井戸端は隊士達で賑わっているが、冬はまばらだ。朝稽古の汗を流す時にでもならないと、人は集まらない。
「島田さん、外泊されたんですね」と山崎は言う。何の会話もないと、何となく気まずいのだろう。世間話だ。「まあ」と島田は適当に返事をした。
「土方副長と……ご一緒だったと思うのですが。ご一緒にお帰りになっていましたよね」
「まあ」と島田は、またも生返事で返した。土方とふたりで、土方の妾宅に行ったあげくに、夕餉だけ食べて帰ったというのも、なにか妙な話だとおもったからだ。それに、山崎に、皆まで語る義理もない。
「私も……今日は、近藤さんとご一緒でした」と山崎は言う。適当に受け流そうかと思った島田だったが、山崎の言葉の意味に気がついて、思わず、顔を拭う手を止めてしまった。
山崎と近藤が一緒だったと言うことは、そういうことだと思ったからだった。ついでに、山崎は、『私も』と言った。つまり、島田と土方のことも疑っているのだ。
(君菊さんと言い、山崎君といい、みんな、勘違いをしてくるもんだ)と島田はあきれ半分だが、(しかし、そう思うとなると、なにか根拠があるのかも知れないな)とも思い直した。みんながみんな、そう思うような、なにか明確な根拠。
(脇差しだろうか)とも思うが、なにか違う気もした。ふと、島田は山崎の視線が気になった。腕や、足を見ている。情交の痕跡でも探しているのだろうかと思って、思わず身震いした。
「うう、寒いな。京は、さすがに、寒い。……私は大垣の出身で、あそこも中々寒いし雪も深くなるが、京の寒さは格別だ。山崎君は、どこの出だったか? 大坂か?」
「いえ、この壬生です。でも、育ちは大坂です。だから、京の寒さは気になりません」
静かに言って山崎は、着物の裾を絡げた。思わず、島田はどきり、とした。山崎は、水に浸した手ぬぐいで足を清めていた。島田は、立ち去ろうとしたが、不意に、飛び込んできた傷跡に目を奪われた。太股に、一寸足らずの傷跡があった。妙な傷だ、と島田は思った。脇差しか何かを、垂直に突き立てでもしなければ、太股にあんな傷は付かないだろうと思った。山崎は、取調方として仕事に出ているが、大立ち回りをしたことはなかったはずだし、治療を受けたのならば、島田の記憶にも残っているはずだ。
思わず、じっと傷痕を見ていると、山崎も島田の視線に気付いたのか、酷く恥ずかしげな顔をして「島田さんも、あるんでしょう? 知ってます。土方副長も、腕のあたりにあるの、この間見ましたから。……恥ずかしいので、あんまり見ないで下さい」と言った。
「ああ、すまん。じゃあ、私は、先に戻るよ」とソソクサと逃げ出した島田は、山崎の言葉を反芻していた。乙女のように顔を赤らめて言う山崎の態度は、どう考えても尋常なものではなかった。
(私にもあると言った。土方さんにも、腕のあたりにあると言った………)
島田には、どうにも合点がいかなかった。意味がわからない。島田は、その日の朝稽古の真っ最中、金切り声で稽古の指導に当たる土方の腕ばかりを見ていた。あまりにも気を取られていたのか、土方の竹刀が容赦なく島田の頭を叩いていく。くらくらと目の前が暗転して、床に倒れるハメになった。そうなると、土方は情け容赦ない。
「島田君、立てェッ!」と怒鳴られて、くらくらするところを無理に立つ。立ったところで、又打ち合いになる。当然、まだ、頭がくらくらしているものだから、足下がふらつく、それで、また、打たれる。今度は頭ではなく、肩や手や脇や、とにかく、むちゃくちゃに打ち込まれて、立つのもやっとという酷い有様だった。息も絶え絶えになるまで打ち込まれた事など、何十年も無かっただけに、悔しさも一入だった。
稽古が終わったあとも、動けず道場の板の間に倒れ込んでいた島田の隣に、土方がやってきた。珍しく、笑顔だ。
「珍しいな。島田君が、こんなに打ち込まれたのを見たことはないよ」
まさか、考え事をしていたなどと言えるはずもなく、「不覚でした」と告げた。そもそも、島田は、心形刀流の道場に入門し、御前試合まで務めるほどである。平素ならば土方相手に打ち込まれることなどあるはずがない。
(しかし、それがまさに、慢心か……)と思えば、溜息が出る。これが、戦場であったら
土方の『腕のあたり』に気を取られることなどないだろう。
「君らしくない」と土方は言う。なにか、昨日、考え事でもするような遣り取りを君菊としたかと、邪推をしてるのかも知れないと島田は思い、「君菊さんが」と切り出してみた。案の定、「君菊がどうかしたか?」とすかさず反応があった。
「いえ、君菊さんが……」と、島田は、君菊が、土方の手に視線をやったのを思い出した。
(腕に、山崎君が言うように、傷があるのだろうか)と島田は思いながら、「土方さんの、腕を……気にしていたようでしたので。なにか、傷でもあるんですか?」と、さりげなく聞いた。答える代わりに、土方は、赤くなって視線を逸らした。
一体どういう反応だろうかと、島田は躊躇う。そういえば、山崎も、恥ずかしそうにしていたのはどういうわけだろうか。
「……傷は、あるよ」と土方は言った。「あるけれど……まあ、傷など自慢になるようなものではないからね。他言はしないで欲しい」
腕を捲る。左腕、やはり、山崎の足についたような、不自然な傷。島田に確認させる為に見せると、すぐに仕舞った。
「意外だったな」と土方は苦笑した。「島田君は、こういう方向には、疎いもんだと思っていたけれど」
土方の言葉の意味を、島田は良く理解できなかった。疎いだの何だのと言う意味が、まずわからない。たかが傷一つ、という意味合いでないことは解った。そして、おそらく、山崎と土方の傷は、それぞれ、同じ意味を持っているものなのだと言うことも、よく解った。
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