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 香川は、日光街道を北に上った。すでに、幕府軍は、鴻之台に集結、一路会津を目指しているという情報を得ていた。東山道軍としては、まずは、宇都宮に入り、周辺諸藩に服従を促す。幕府軍とやり合うのは、おそらく、宇都宮だというのが香川の見立てだった。

 順調に日光街道を上っていくと、斥候からの連絡が入った。鴻之台を出立した幕府軍の中に、『誠』の緋文字が踊っていたというのだった。

 香川は、急いでその連絡を、近藤の許に走らせた。

『新撰組は、まだ生きている。この者達を率いて、当方と共に戦って欲しい』

 その伝言に対する答えを、香川は待っている。行軍途中の四月十四日に斥候を走らせ、そこから、片道、およそ二日。戻って来るのは宇都宮になるので、四日。どんなに早くても、香川の所に報せが届くのは、二十日になる。今が十八日だから、物理的には、あり得ないのだが、どうしても、近藤が共に戦いたいと言ってくるのを待っていた。

 宇都宮城から見える光景は、平穏無事なもので、未だに、幕府軍が攻め入る様子はない。街道に入った様子はないと言う報告が来ているので、もしかしたら、街道ではない所から攻めているのかも知れないし、日光を目指しているという情報通り、宇都宮を回避しているのかも知れない。

 ただし、全軍が日光を目指しているとも考えにくい。となると、宇都宮には別働隊が来る可能性がある。大鳥本隊が日光を目指すとなると……。

(秋月率いる伝習隊と、土方率いる新撰組か……)

 香川は、土方という男に興味を持った。近藤の救出活動はそこそこにして、幕府軍に合流してしまったらしいと言うのは、斥候からの情報で知った。近藤が、『俺の事は気にせずに、幕府軍に合流しろ』とでも言ったのかも知れないが、数日間は、少なくとも近藤の助命のために動いていた形跡があるので、それも妙だ。

 土方は、近藤を見捨て、自分だけ、幕府軍に収まったのだろう。そして、今まで通り、新撰組、として隊士を率いているのだろう。香川は、一橋慶喜の警護や、陸援隊所属と言うこともあり、在京の期間は十年近くに及んでいる。その間、『新撰組』の悪評は、あちこちで聞いている。とくに、土方という男は、『きちがい』と言われたのを覚えている。敵を斬って戦いの中で死ぬならいざ知らず、味方を粛正するのだ。

 今回の、近藤の件も、土方にとっては、大差ないことなのだろう。隊や自分自身にとって、不都合な人間を、次々と消していく。ただ、それだけなのだろう。

 鳥羽伏見の戦いでは、逃げようとした味方を、斬ったという話を聞いた。勿論、一人が逃げ出せば、士気に係わる。そのくらいならば、切り捨ててしまった方が良いだろう。だが、それを、実際、は別問題だ。同じ肩章を付けて戦うものを、同じ釜の飯を食ってきた仲間を、斬ることが出来るか。

 それが出来る人間だ、と思った時、香川は土方に興味を抱くと同時に恐れを抱いた。出来ることならば、関わり合いになりたくないな、とも思った。人の死に、―――味方の死に、何の感慨も抱かないものと、戦いたくはない。

 深い闇に閉ざされていく宇都宮の町を見下ろしながら、香川は、漠然とした不安感を感じた。胸騒ぎなのかも知れない。





 香川が抱いた不安感の理由がわかったのは、それから、四五刻後の事だった。

 明け方から、幕府軍が攻め入ってきたのである。どうやら、夜陰に乗じて移動し、宇都宮城を取り囲んでいたらしい。城内は、不意を突かれて、騒然となっていた。鉄砲を矢鱈目鱈に撃ち放っているが、敵も大砲二門を打ち込んでくる。狼狽した官軍は、うろたえるばかりで、香川もどう指揮をすべきか、解らなくなっていた。

 敵は、ますます勢いづき、あちこちに火の手を放ちながら、本丸へと迫る。香川は決断した。城を棄てる。ここからならば、南西方向に行った所に、壬生城がある。そこまで退いて、体勢を立て直す。その為に、香川は出来ることをやらねば、と堀の中に軍用金を投げ込んだ。幕府軍に、金を渡すわけには行かない。何とか、香川は、壬生城への逃走を始めた時、戦場に、緋色の『誠』一文字が舞っているのを見た。

(あそこが、新撰組か……)と香川は思った。弓矢銃弾、白刃の中を、馬でひた走った。走りながら、香川は『誠』の文字が気になって仕方がなかった。

 じっ、と見た。土方、と思われる男が居た。洋装断髪の男だった。刀を抜いて、何事かを叫んでいた。指揮をしているのだろう。土方の刀の指し示す方に、新撰組達が動く。血煙が上がる。聞きしもまさる、凄ましい戦い方に、香川はぞくっとした。

 香川も、動乱の京都を生き抜いた勤王志士だ。なんども、身を白刃に晒してきた。もはや死を覚悟して、郷里の常陸に遺髪を送ったこともある。だが、ここまでの死線は知らなかった。

 と、その時。土方と視線がかち合った気がした。ぞわっと、全身の毛穴が開いた様な気分になった。寒気がした。

(土方は、)と思った。宇都宮城を守っていたはずの、香川達が、逃げ出すのを見たはずだった。(来る……っ!)と思った瞬間、強烈な殺気に射られた。震えが止まらなくなった。

「大軍監殿っ! 如何なされたっ!」

 味方の声に、何とか正気を取り戻したが、土方の視線がこちらを捕らえているような、嫌な気分はまだ抜けない。香川は、声を出そうとしたが、喉が、カラカラに乾涸らびたようで、声が出ない。なんとか、唾を何度も飲み込んで、叫んだ。

「壬生城へ! 壬生城へ急げっ!」
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