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05.
しおりを挟む縋りつくようなまなざしは、存外、悪くないものだと、ルシェールは思う。
「親しく、でございますか」
「……ああ。その、良ければ、あなたの名前を呼びたい。あなたも、同様に、そうしてもらえれば」
「では……、わたくしの事はルシェールと」
「ルシェール……美しい響きだ。では、俺は、アルトゥールと呼んでくれ」
「アルトゥール殿下」
「……殿下、はやめてほしい。俺も、あなたを大公とは呼ばないのだから」
落ち着かない様子のアルトゥールは、あちこちに視線を巡らせたり、指を、とんとんと動かしたり、せわしない。
(名前を呼び合うだけなのに、初心なこと)
「では、アルトゥール様。お茶でもいかがですか?」
「ああ、いただこう」
ルシェールが目くばせすると、すぐに使用人たちが動く。テーブルにはクロスが引かれ、銀で出来た食器が整えられていく。フォークやナイフ、スプーンといったカトラリーまでそろえられて、アルトゥールは面食らっているようだった。
「お茶、だった、な?」
「ええ。当家に伝わる特別な菓子は、ナイフとフォークが必要ですので……少々、仰々しいのですよ。本当は、スプーンで食べても平気なはずなのですけどね?」
歌うように言うルシェールの声に耳を傾けるアルトゥールは、ぼんやりと「格式の高い菓子なのだろう」とつぶやく。
「そういうふうに、有難がっているだけですよ。……私は好んでおります。はかない感触で、とても」
「あなたが好んでいるというのならば、それだけでも食べる価値があるでしょう」
「また、買いかぶっておいでです……ああ、来たようですよ」
紅茶と、菓子が運ばれてくる。
菓子は、皿に盛り付けられ、淡いクリーム色をしたソースの中に、ふんわりとした白いものが乗っている。皿は、ロイストゥヒ大公家の紋章で色で彩られていた。
「想像していたよりもとても素朴なお菓子でしょう?」
「いえ……、素朴というより、洗練された感じがあります」
アルトゥールは、進められてそっと淡雪のような白い塊にナイフを入れる。すとん、とナイフが落ちて、皿にあたる音がした。
「ご、ご無礼をっ!」
食器の音を立てるのは、無礼なことだった。その失態を演じたのを、アルトゥールはすぐに詫びる。
「お気になさらず。私も、とても柔らかいものだとお教えいたしませんでした。……それに、私たち二人しかおりませんので」
無礼は気にするなと、いうことをやんわり告げると、アルトゥールは少し、安堵したようだった。
「口の中に入れると、とろけていく感じがします……とても、はかなくて、美しいお菓子ですね」
「お気に召してくださったのならばよかった」
「とても、気に入りました」
「では」と一度言を切って、ルシェールは淡く微笑む。「あなたがおいでの際には、必ず、ご用意いたしましょう」
それは、ロイストゥヒ大公が示す、最上の親愛表現のはずだった。
「嬉しいです……ありがとう、ルシェール」
「いいえ? 私も、名を呼び合うほど親しくする方はいませんから、大分年齢はことなりますけれど、喜んでいるのですよ?」
低く、歌いような、ささやくような声音で言えば、アルトゥールはぼんやりと、それに耳を傾けている。
(簡単に落ちられるのは、面白みはないのだけれど……)
どうやって、この純真無垢な存在を堕としてしまおうか。
その算段をするだけで、愉快な気持ちが腹の底から湧き上がってくるのを、ルシェールは感じている。退屈を持て余していたルシェールにとって、願ってもみないような、高揚感だった。
早晩、この青年は、ルシェールに夢中になるだろう。
そうなったとき、国を滅ぼすほどの何をさせようか。
考えただけでも、胸が高鳴る。
「……楽しそう、ですね? ルシェール」
「えっ?」
「違っていたら失礼しました。ただ……あなたが、とても、楽しそうに見えて」
アルトゥールは口早に言って、それから、口をつぐんだ。違う、と言われるのを怖がっているようにも見える。
「そうですね。あなたのおっしゃる通りです。楽しいのでしょうね。……ここへどなたかが訪ねてくださるのは久しぶりですし、それが、ましてや、とても若い方であれば、よりいっそう」
「あなたの元に、ご令息を預ける者たちが来るのでは?」
「最近は、断っているのですよ。……ああいったことも、すべて、煩わしくなってしまって」
「煩わしい……?」
「ええ。煩わしいのです。……たくさんの夜を誰かと過ごしても、むなしいばかり。いっそ、死ぬことが出来ればいいのに、それもままならない……物語にしかないでしょうけれど、命を懸けて愛し愛されるような、そういうことは我々の世界には皆無でしょう? ですから、すべて、煩わしいのです」
夜の話をほのめかす。まだ、潔白そうな彼はどういう反応を示すだろうかと、楽しみに思っていたルシェールだったが、アルトゥールは静かに、ルシェールを見つめているだけだった。
(おや)
「真で結ばれた仲であれば……そのような虚しさを味わうことはないのではありませんか?」
ずいぶん青臭いことを口にするものだ、と思いつつ、ふふ、とルシェールは笑う。
「そういう相手に、この生涯で出会いたいものですね」
そう答えながら、虫唾が走るような心地を、ルシェールは味わっていた。
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