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弐
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十一月の空に相応しく、澄みきった青空だった。鰯雲が空を彩っている。潮の香が鼻を突く。海が近づいているのだ。真っ直ぐ前方には、白い灯台もある。この街のシンボルでもある。この街は、港町だ。小さいながらに、港を抱え、市場や海水浴場もある。夏の観光シーズンを終えて、今では閑散としている。夏の残骸であろう、薪の燃え滓や、遊び終えた花火や、サンオイルのプラスティック容器が、散乱している。夏は、海から来る潮風は、サンオイルの甘い香を含んで居るのだが、今は、ただの潮の……生物の死臭と春宵が信じる香しか聞こえはしない。
灯台が近くなってくると、春宵の右側には、白塗りの壁だけが続くようになっていた。
「これが、橿原さんのお屋敷?」
とりあえず、入り口を探そうとするが、歩けど歩けど壁ばかりで、一向に入り口らしき入り口は見えてはこない。いいかげん辟易してきた頃に、春宵は立ち止まった。立派な門に、橿原の表札が掛かっている。
「すみません」
インターホンに向かって呼びかけるが、応答はない。仕方なく、大きな木製の扉を開いて、屋敷の中に立ち入った。一歩屋敷の中に入ると、純然たる日本庭園が続き、その奥に、時代を感じさせる立派な洋館と、平屋の日本住宅が建っていた。それにしても、と春宵はあたりを見回した。広大な土地であることは分かる。きちんと造園がなされた、立派な家だということも分かる。しかし、
「なんで、人が居ないんだ?」
人がいる、気配らしき気配がない。春宵の足元には、砂利が敷かれているので、恐らくはこの上を車が通るのだろうが、それらしき痕がない。紅葉が、緋鯉の泳ぐ池に落ちているのさえ、計算された造形にしか感じられないような、しっくりこない不自然さがある。
春宵は、のんびりと、洋館のほうに近づいた。日本家屋のほうにいかなかったのは、そちらのほうにはピアノがないと判断したからだ。春宵は、ピアノを弾きに来たのだ。
「すみません。若月と申します。……ピアノを弾きに来ました」
しかし、屋敷は、静寂を保ったままだった。仕方なく、何度か呼びかけてみるが、屋敷の平静は破られることは無く、仕方なく帰ろうとした、その時だった。
「……若月さん?」と、背後から、声がした。女の声だ。妙に、鼻に掛かったような艶のある声だった。春宵は、潮の香に相応しい、秋の夜の月のような声だと思った。
「どうも、若月です」
と、振り返ると、そこには春宵と大して年の違わない女が、黒漆の喪服姿で立っていた。「……高浜のおばから聞きましたわ。どうぞ、お上がりになって」
勧められるままに、春宵は、洋館へと足を踏み入れた。飴色に光る廊下。アールヌーボー風の調度。時代を感じさせるだけではなく、骨董屋で産まれ過ごした春宵が見ても、確かな品ばかりで彩られたこの屋敷は、ともすれば悪趣味にも見えかねないが、品良く調和していた。よほどの趣味の良い、目利きがこの調度を整えたに違いない。
「どうにも……素敵なお屋敷ですね」
「そうですか? 若月さんがそう仰有るのならそうかもしれませんわね。けれど、わたくしにはどうでも良いことです」
能面は。無表情の代名詞のように用いられる。しかし、能面はあのすべらかな木彫りの面のせいだろうか、その角度や所作によって、または面の種類によって、面をかける人間の、面の使い方によって、随分と表情を変えるのである。しかし、この橿原京香という美しき女性は、まったく表情を変えることもない。筋肉が、動いたような印象すら受けない。
「あの、橿原さんは、どんな曲がお好きですか?」
「京香とおよびください。橿原の名前で呼ばれたくはありません」
春宵は、かすかな嫌悪感を、京香の無表情に感じた。
「それで、どのような曲をお好みでしょう。できればピアノ曲だと助かります。こちらもあなたの為に、ピアノを弾くために来ていますから」
「そうですわね、では、リスト。ラ・カンパネッラ。弾けまして?」
「ええ」
「好きですの。……思い出深い曲ですもの」
と、言いながら、京香は応接用の客間の、長椅子を薦めた。京香だけは、しばらくドアのところに立ち止まっていたが、紅茶と洋菓子を受け取って、春宵に差し出した。普通は、給仕のものがやるだろうが、応接室には立ち入らない。
灯台が近くなってくると、春宵の右側には、白塗りの壁だけが続くようになっていた。
「これが、橿原さんのお屋敷?」
とりあえず、入り口を探そうとするが、歩けど歩けど壁ばかりで、一向に入り口らしき入り口は見えてはこない。いいかげん辟易してきた頃に、春宵は立ち止まった。立派な門に、橿原の表札が掛かっている。
「すみません」
インターホンに向かって呼びかけるが、応答はない。仕方なく、大きな木製の扉を開いて、屋敷の中に立ち入った。一歩屋敷の中に入ると、純然たる日本庭園が続き、その奥に、時代を感じさせる立派な洋館と、平屋の日本住宅が建っていた。それにしても、と春宵はあたりを見回した。広大な土地であることは分かる。きちんと造園がなされた、立派な家だということも分かる。しかし、
「なんで、人が居ないんだ?」
人がいる、気配らしき気配がない。春宵の足元には、砂利が敷かれているので、恐らくはこの上を車が通るのだろうが、それらしき痕がない。紅葉が、緋鯉の泳ぐ池に落ちているのさえ、計算された造形にしか感じられないような、しっくりこない不自然さがある。
春宵は、のんびりと、洋館のほうに近づいた。日本家屋のほうにいかなかったのは、そちらのほうにはピアノがないと判断したからだ。春宵は、ピアノを弾きに来たのだ。
「すみません。若月と申します。……ピアノを弾きに来ました」
しかし、屋敷は、静寂を保ったままだった。仕方なく、何度か呼びかけてみるが、屋敷の平静は破られることは無く、仕方なく帰ろうとした、その時だった。
「……若月さん?」と、背後から、声がした。女の声だ。妙に、鼻に掛かったような艶のある声だった。春宵は、潮の香に相応しい、秋の夜の月のような声だと思った。
「どうも、若月です」
と、振り返ると、そこには春宵と大して年の違わない女が、黒漆の喪服姿で立っていた。「……高浜のおばから聞きましたわ。どうぞ、お上がりになって」
勧められるままに、春宵は、洋館へと足を踏み入れた。飴色に光る廊下。アールヌーボー風の調度。時代を感じさせるだけではなく、骨董屋で産まれ過ごした春宵が見ても、確かな品ばかりで彩られたこの屋敷は、ともすれば悪趣味にも見えかねないが、品良く調和していた。よほどの趣味の良い、目利きがこの調度を整えたに違いない。
「どうにも……素敵なお屋敷ですね」
「そうですか? 若月さんがそう仰有るのならそうかもしれませんわね。けれど、わたくしにはどうでも良いことです」
能面は。無表情の代名詞のように用いられる。しかし、能面はあのすべらかな木彫りの面のせいだろうか、その角度や所作によって、または面の種類によって、面をかける人間の、面の使い方によって、随分と表情を変えるのである。しかし、この橿原京香という美しき女性は、まったく表情を変えることもない。筋肉が、動いたような印象すら受けない。
「あの、橿原さんは、どんな曲がお好きですか?」
「京香とおよびください。橿原の名前で呼ばれたくはありません」
春宵は、かすかな嫌悪感を、京香の無表情に感じた。
「それで、どのような曲をお好みでしょう。できればピアノ曲だと助かります。こちらもあなたの為に、ピアノを弾くために来ていますから」
「そうですわね、では、リスト。ラ・カンパネッラ。弾けまして?」
「ええ」
「好きですの。……思い出深い曲ですもの」
と、言いながら、京香は応接用の客間の、長椅子を薦めた。京香だけは、しばらくドアのところに立ち止まっていたが、紅茶と洋菓子を受け取って、春宵に差し出した。普通は、給仕のものがやるだろうが、応接室には立ち入らない。
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