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「ごめんください」

 と呼ぶ声で、店先で居眠りをしていた春宵しゅんゆうは、ハッと飛び起きて、それから、何事もなかったように、にこやかに微笑む。

「いらっしゃいませ、どうぞ、ご覧下さい」

 春宵の笑顔に、ぼんやりと見惚れていた、初老の婦人は、

「……あの、こちらは骨董の鑑定もしているんですの?」と、おずおずと問うた。

「ええ。一応。……鑑定料のようなものは頂きますけれど」

「あ、そ、そうね。もちろんよ。報酬はお支払いさせていただきます。ええ、もちろん。……それで、鑑定していただきたいものはですね……」

 と、女は言いづらそうに口篭もって、チラと春宵をみた。

「どう言ったものでしょう。たとえば、絵画とか……お皿とか」

「いえ、そう言ったものではありませんのよ。たぶん……お見せしたほうが、早いと思いますわ」

 と、言いながら女は風呂敷包みを開いた。友禅の柔らかな色合いの風呂敷包みから現れた物体に、春宵は、思わず目を見開いてしまった。

 なんとも、醜悪な物体であった。

 干からびた、のミイラ。というのが春宵の第一印象だ。

 女のほうも、春宵に、どのような言葉をかけてよいものか逡巡しているらしく、チラチラと、春宵を見やったり、店の中を所狭しと埋め尽くす、骨董を見たりしている。

 風が舞いこみ、斜向はすむかいの神社を彩る、真っ赤な紅葉の葉が、ひとひら、目の前を横切っていったのを見て、春宵は我に返った。「あの、こちらは……」と、切り出すと、女は、

「鬼、ですわ」と迷わず言った。

「鬼、ですか」

 真剣そうに反芻する春宵を見た、女は、ころころと笑った。やけに、耳に響く声であった。

「私ではなく、京香みやこさんが言っているんです。京香というのは、私の父方の祖父の、孫の、奥様なのですけれどね。それは、亡くなった旦那さんの、大切にしていた、本物の『鬼の剥製』なのですって。……もちろん、信用したわけではありませんよ。私は、こんな気色の悪いものは、早々と棄ててしまったほうが良いと思っているんですから」

 言われてみれば、確かに、頭蓋骨らしき、物体には薄く皮が付き、埋め込まれたぼさぼさの毛髪の間に、ちょこん、と小さな突起物が二つくっついている。

「それで、どうなんですの?」

「え? ええ……そうですね、申し訳ありませんが、こちらはしばらくの間、当方で預からせて頂けませんか? 多分、父もそう言うと思いますので」

「お父様?」訝しく思ったらしく、女は聞き返してきた。

「ええ。私は、店番なんです。父は、仕事がありまして、――――鑑定の仕事なのですけれども―――三日ほど、家を空けることになっています。できれば、三日後に、こちらに来ていただければ。何度も、ご足労おかけいたしますが」

「そうですの。……構いませんわ。では、鑑定のほう、よろしくお願いいたしますね。三日後に、お伺いいたします」

「ああ、お名前とご連絡先を……」

「……アラ、ごめんなさいね。高浜ですわ。高浜祥子さちこです」

 女からの、連絡先をメモしながら、春宵は、視界の端に映る、鬼の剥製の傍らに落ちた深紅の紅葉を、血のしたたりのようだと、思った。

「では、お願いしますよ」と、店を後にしようとした祥子は、ふと、店の入り口で足を止めた。

「……洋琴ピアノを、弾かれるの?」

 ハハハ、と春宵は笑って店先まで出た。墨蹟ぼくせきも流麗に『洋琴教えます』の看板が、若月骨董店の表札の隣に飾られている。「夜には、ロワゾ・ブリューでピアノ弾いたりしますけど」

「ロワゾ・ブリュー? あの、海沿いのホテルのレストラン?」

 こくん、と春宵は頷いた。

「まぁ、本当に? 驚いたわ。私、よくあそこでお食事をするのよ。そういえば、たまに、ピアノの生演奏があったわね……そうだわ、あなた、頼みがあるのだけれど……」

「はあ」

 祥子は、チラと、店内の鬼の剥製を見ながら、

「あの鬼の剥製の持ち主だった、隆文たかふみさんの奥様の、京香さんのところに行って、ピアノ、弾いてくれないかしら。……京香さん、旦那様を亡くして、気が動転しているのよ。だから、あんなものを鬼の剥製だなんて信じているんだわ」

「わかりました。行ってみます」

「ありがとうね、……お代は、お幾らかしら」

「……そちらの判断にお任せします」

 じゃあ、鑑定の代金と一緒にお支払いしますわ、と言って、祥子は通りに続く坂道を上っていった。ひとひら。紅葉が舞い落ちる。秋を絢爛と彩る、その色を、見つめながら、春宵はチラリ、と店にある鬼の剥製を見やった。

 鬼ではない。これは春宵の目にもはっきりとわかった。しかし、問題はある。鬼であれば、そちらのほうが問題ではないかもしれない。この剥製は、の骨をつなぎ合わせて出来たものだ。ふぅ、と一つ吐息すると、春宵は店に『本日閉店いたしました』の札を掛けて、店の奥にある自宅のほうへ向かった。

果楠かなんさん」

 廊下に正座して襖の前で、室内へ声を掛けると、

「……春宵。稽古中だ」

 とだけ、返事があった。

「お弟子さんたちは、僕が見ます。……果楠さんは、店先のを鑑定してきてください。しばらく、我が家でお預かりしていますけど」

 と、スッと春宵は襖を開いた。一礼すると、さすがに不機嫌もあらわに、じろりと睨み付ける父親の姿があった。稽古に来ていた二人の弟子は、春宵の姿を見つめて、頬を染めている。

「果楠さん」

 もう一度、名を呼んで春宵は促す。

「……それでは、雪乃。和江。春宵に見てもらいなさい」

 と、その場を去った父親を見送って、二人の弟子に春宵は向き直った。

「春宵師匠せんせい果楠師匠かなんせんせいに、なんのご用事ですか?」

「本職の鑑定です。あの人、ああ見えて鑑定歴も長いんですよ」

 春宵は父が途中にしていた、茶道の稽古を引き継いだのだった。
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