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しおりを挟むスティラに沐浴を手伝って貰うのは、初めてのことだった。
浴室には浴槽が置かれているが、その浴槽に、薔薇の香りの香油と花びらが浮かんでいるのを見て、思わず苦笑した。
「……やり過ぎでは?」
「大神官様は現在、大変血なまぐさいので。これくらい、必要なことです」
私は、一滴も血を流していない。マーレヤの血だ。顔や手についた分を丁寧に拭ってから、汚れた衣服をスティラに手伝って貰って脱いだ。丸裸になってしまうと、「あっ」と小さな声がして、私もスティラが声を上げた理由を知って気まずくなる。昨夜、というか、今朝方、シンが付けたばかりの、実に新鮮な口づけの痕跡が至る所にある……。
「……その、配慮が足りませんでした。こういうものは、見せるべきではありませんでしたね」
「いえ、シン様と、大神官様が、親密にしていらっしゃるのであれば、私は、それで良いと思います」
「気を遣わずとも」
「これは本心です。……如何に神がおわそうと、人は側に愛すべき存在が必要です。我々は、一人では生きられませんし、弱さを支え合うことが出来るのは、生身の人間だけでしょう」
「あなたのように敬虔な信徒が、そのような言葉を言うのは、意外でした」
「私は、自分の命よりも大切な存在がいるのです。そして、私は、その方の幸せを陰で見守るのが至上の幸せなのです」
誰のことか、とりあえず、聞かないでおくことにした。スティラは、私の肌には触れないように、丁寧に私の身体中を清めてくれた。髪は、私が浴槽に使っている間に、洗い流して丁寧に梳ってくれる。髪にも、べったりとマーレヤの血液がついていた。血の―――鉄の匂いが、かぐわしい薔薇の香りに混じる。
「……マーレヤがもし、生きていればどうするつもりでしたか?」
「もし、は禁物ですが」と前置きした上で、スティラが続ける。「……洗いざらい吐かせて、あとはテシィラ国の真意がわかって、本件が片付いたあとは、恋人と一緒に、神殿を追放するつもりでした」
スティラらしいと、私は思う。怜悧だが、情はある。そういうひとだ。
「それなら、神殿への恨みを捨てて、幸福に過ごすことが出来たでしょうかね」
「解りません。また、復讐を志すかも知れませんし、そうしないかも知れません。ただ、復讐は、きっと、たやすい道でしょうが……恨みの気持ちが、そんなに長続きするとも思えません」
「あなたにも、経験が?」
スティラが、苦笑するのが解って振り返る。スティラの顔は、涙で、ぐちゃぐちゃだった。見なければ良かったのか、見て良かったのか。私は、そっと、スティラの頭を抱き寄せた。
「シン様が見たら、怒りますよ」
「……大丈夫ですよ」
「……私は、先ほどまで、マーレヤを恨んでいたのですよ。けれど、恨みきれない。やはり、私にとって、彼は、大神官様の幸せそうなお姿を共有する仲間だったのですから」
子細は聞かないのが良いだろう。
「それで、いいのでは? 恨んでいても、仕方がないでしょう。恨みに、恨みで対抗すれば、際限がありません。その代わり、彼のことを忘れないように」
「はい。あと……その、彼らの弔いですが、それは如何致しましょうか。しばし、死亡については伏せますが」
マーレヤと、その恋人の。
「死因にも依るのではないでしょうか」
通常、敵に情報を流していた……盗みなどを犯したというのは、罪人として、神殿の外、高地の修行地に槍が立てられ、そこに、死体を突き刺して放置される。高地には、飢えた猛禽たちが悲しい声を出しながら、飛んでいる。彼らが啄み、そして彼らの糧となる。いずれ骨は朽ちる。そして大地に還る。そうやって、輪廻の輪の中に、戻っていくのだ。
「二人は、病死ということではいけませんか?」
私は、スティラに問う。スティラは、何故、という顔をしていた。
「マーレヤたちの死体が、晒されれば、テシィラ国の国王が何か言うかも知れません。けれど、病死であれば、テシィラの国王は何も言うことは出来ないでしょう」
「それで、よろしいのですか? マーレヤは裏切り者ですよ」
「……構いません。マーレヤと、恋人を……同じ棺へ。三年、神殿の決まりに基づいて弔った後は、火葬します」
そして、その灰を、ラドゥルガに持っていこうと、私は心に決める。
「それならば……」
「マーレヤが、どういうつもりで死んだのか解りません。けれど、これを、あの男に、なにか利用されるのは、私は我慢がならない」
私の側で、マーレヤは、どういう気持ちで仕えていたのだろう。なぜ、もっと、マーレヤ本人のことを聞かなかったのだろう。私は、いつも、こんな、『なぜ』ばかり繰り返している。それが、歯がゆい。
「そうだ、スティラ。ちょっと頼みがあります」
「はい、何でしょう?」
「こういう状態ですと、シンにも危険が迫っていると言うことが出来ると思います」
「そう、ですね」
「ですから……彼に護符を与えようと思います。あなたに、立ち会って頂きたいのです」
私の魔力を集めた護符。私の、愛の証、としてシンに贈るものだ。一生に、たった一度だけ作ることが出来るという、特別な護符。
「それは、構いませんが、私が立ち会っても良いのですか?」
「……あなたが、私の幸せの為に、ずっと見守ってくれているというのは知っています。ですから……あなたが、立ち会うべきでしょう」
私の言葉を聞いたスティラの顔が、かつてないほど真っ赤になった。「あー……うわー……」などと呻きながら、スティラは顔を手で覆い隠す。
「駄目ならば、私一人で作りますが」
「いいえっ! この、私が!! 立ち会わせて頂きます!! 私以外に、この大役を仰せつかることが出来る者はいないはずですっ!!!」
握りこぶしを腰の横でぐっと握ったスティラは、まだ、顔が真っ赤だった。先ほどまでの、異常な緊張は、やっと、和らいだ。大理石の床に目を落とすと、うっすらと、赤い痕跡が残っているように見えた。
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