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しおりを挟む歌が聞こえた。
知らない言葉。
耳慣れない旋律。
柔らかくて、低い、耳に心地よい音。
『ルセルジュ』と熱く、甘く、掠れた声で耳元に囁かれた、あの、欲情を滲ませた声音を、一瞬、思い出した。
私は、ゆっくり目を開く。いつもと違う寝具の感触、それは、私が、裸のままでいるせいもあるだろう。朝日が、きらきらと黄金色の光を散らしている。それは、寝台の上で上体を起こしていたシンの肩の辺りに戯れているようだった。
「……あなたの故郷の歌ですか?」
シンが、小さく笑って「寝坊だな」と言う。私の頭を優しく撫でた。大きくて、温かな手だ。昨夜は、この手が、私の身体を暴いていった。彼の腕に鈍い傷跡があるのは、私が耐えきれずに縋り付いたせいだ。
「うん、俺の故郷の歌。……と言っても、伝統的な歌とかじゃなくて、流行っていた歌。歌詞は、適当。でも、結婚式とかで良く歌われる歌だったよ」
「好きだった歌ですか?」
「ああ、そうだね。好きだったかな、カラオケだとよく歌ってた。……歌の伴奏をやってくれる機械があって、時間あたり幾らで、歌える場所があったんだ」
「楽器を演奏する機械?」
「あー、そういうのもあると思うけど、もっと違う感じ。……スマホでも、音楽が聴けるよ。俺の故郷の音楽は……こっちの人には、きっと、うるさいと思う。逆に、こっちの音楽は、俺には静かすぎるから。酒場とかで、馬鹿騒ぎするヤツは、ちょっと違うけど」
「酒場で馬鹿騒ぎする音楽は……私も知らないですけど」
「楽しいよ?」
「ええ。きっと、楽しいんだと思います」
私は、それを体験することは出来ないだろう。けれど、そういう音楽があるというのを、知ることが出来ただけでも良かった。私には、立場があるから、やれることと、やれないことがあるのが歯がゆいが。
今まで、私は、知らないことばかりだった。
私の中に、こんなにも誰か一人を求める熱情があったことも、知らなかったし。それに突き動かされて、求めて得られた熱は、身を灼くほどに熱くて、そして、幸せな感触だった。身体中で感じるシンの感触も。身体の最奥で知る、シン自身の熱さも。痛みも、酷い快楽も、ぜんぶ、幸せでたまらなかった。そして、今は、恋人と夜を過ごしたあと、こうして二人きりで迎えた朝が、胸が痛くなるほど幸せだった。
私は、上体を起こしてシンに抱きつく。
「……ん?」
「幸せで……」
素肌で抱きしめ合うだけでも、どうしようもないほど、幸せで。
「俺もだな……」
どちらともなく、唇が重なる。軽くてついばむような口づけを交わしてから、小さく笑う。
「さて、大神官様」とシンがおどけた口調で言う。
「はい?」
「さしあたって、第一関門が」
「第一関門?」
「……さて、今、俺たちは、北の離宮にいるわけだけど、いつもならば夜明け前に起き出して、祈りを捧げる、敬虔な、我らが大神官様が、どうにも客間から起き出してこない……さて、どうしましょうか」
シンは、笑いながら言う。実に、愉快そうだったが、私は、一瞬で、青くなった。幸せすぎて、抱き合うのに夢中になりすぎて、私は、全く、公務のことを忘れていた。私にも、時折寝過ごすということがあったが、大抵マーレヤが、起こしてくれていた。
「あの……」
「いつもの時刻に、マーレヤが外から扉を叩きました」
シンは、淡々と、事実だけを説明する。
「……それで?」
「俺は……すぐに起きるって言ったんですけどね……? マーレヤが『大神官様は、本日はお疲れのようですから、北の離宮でお過ごしになると報告します。お召し物の一式は、隣の浴室の方へ用意しておきますので』と言い残して、去って行きました」
恥ずかしくなって、顔を手で覆った。マーレヤは、私と、シンが、夜を過ごしたことを、気づいている。ということは、おそらく、スティラにもその連絡は行くだろうし、程なく、神殿中のものたちが知ることになるだろう。
「……俺は、こういう関係が知られるのは、そんなに嫌じゃないんだけど、あんたは? ルセルジュ」
「私は、……私は良いのですが。あなたは、本当に大丈夫ですか? あなたが、私の美童だとか、夜ごと侍らしているだとか、そういう噂の的になっていたのに……」
そのことを考えれば、もうすこし、私達の関係は秘密にしておいた方が良かったのだろうか。それは、確かに、軽率だった。
「美童……っていうのは、ちょっと違うと思うけど、夜ごとの方は、本当の噂にしますか? 大神官様」
「そ、それは……っ」
毎晩、シンと過ごすことが出来るのは嬉しいが、身体が持たない気がするし、毎日、朝の公務をおろそかにしそうで怖い。
「………身体が、持ちません」
「まだ、不慣れなのもあるよ」
シンは、経験者なので、そのあたりは、信憑性がある。シンに寄れば、最初のうちは、うまく、快楽を捕まえられないかも知れないとも言っていた。けれど、慣れてくれば、内部でも、問題なく、快楽を得ることは出来ると。
「毎日、こんな時間まで寝ていれば、公務に支障が」
私の言葉を聞いたシンが、小さく、歌うように言う。
「春宵《しゅんしょう》苦《はなはだ》短く日高うして起《お》く
此《こ》れ従《よ》り君王早朝せず」
耳慣れない言葉遣いでシンが言うのは、詩文だった。『春の夜は短くて日が高くなってから起き出す。これより、王は早朝の執務を辞めてしまった』という所だろう。
「……シン?」
「俺の世界で、すっごい昔に、外国に凄く優秀な皇帝が居たんだよ。なのに、一人の美しい女を妃に迎えてから、色に溺れて、国を滅ぼした」
「早朝の執務を、おろそかにして?」
「そうそう。だから、早朝の執務は、ちゃんと、マジメにやった方が良いなと思った訳だ。俺が、国を滅ぼしたら、この世界の人に申し訳が立たない」
はは、とシンは笑う。私も、苦笑していたけれど、少し、姿勢を正さなければならない。今日の一度は、もう取り返しがつかないことかも知れないけれど……、シンに溺れていたかも知れない。いや、事実としては、私は、シンに溺れて、神殿のことも何もかも、すっかり放り出していた。
「ともかく、そろそろ、行きましょう。……名残惜しいですけれど」
「それは俺も一緒だよ」
肩口に、一度、シンが深く口づけた。
作中引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%81%A8%E6%AD%8C
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