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第一部
8.失意の中で
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――雨が降ってきた…………急がないと!
ティオ・ファーバーが連隊長から聞いたエミール・ヴェルナー・バイアーの最終的な目的地は、とある辺境伯の下だった。王都から徒歩で行くはずもない。ティオは、該当地区へ向かう寄り合い馬車をしらみつぶしに捜索したが、エミールの姿を見つける事はできなかった。
辺境伯は現国王の遠縁にあたる。しかし、遠い昔に一悶着あったようで長いこと微妙な関係にあり社交界に顔を出すことはなかった。会議は代理人を立てる徹底ぶり。
しかし、エミール個人とは信頼関係を築いていた。エミールにティオのことを教えたのも彼だ。常備軍、近衛兵、教会騎士を統率できたのも、彼の教えがあったからに他ならない。
そんなエミールは今――レイモンド・マクラウドが差し向けた刺客に追われ、這々の体で王都から逃げ出し、魔獣の巣窟と言われている森の中へ迷い込んでいた。
エミールが逃げ込んだ森は、魔獣が多く生息しているため危険区域に指定されている。それを承知で逃げ込んだ。いや、追い込まれたと言った方が正しいだろう。
刺客がレイモンドの差し金であると分かったのは、彼等が持っていた飛び道具に、マクラウド家の家紋をアレンジしたものが彫り込まれていたからだ。雇い主にのみ、仕事の完了が分かるようになっている仕掛けだ。
刺客に気付いたのは、寄り合い馬車に乗ろうとした時のことだった。
もし気付かずに乗っていたとしたら、無関係な多くの人を巻き込むことになってしまっただろう。それについては、運が良かった……とエミールは己を鼓舞しようとして、失敗に終わった。
刺客の攻撃によって負った傷を止血する暇もなく、この魔獣の森を逃げ惑い、強く殴りつけるような雨に体力と体温を奪われる。血の匂いが雨でかき消えるかと思ったのも一瞬だった。地面に染み込んでいく己の血を感知して現れた異形の何かが、こちらを睨めつけている。
彼の胸中を、諦めにも似た思いが浸食していく。
彼には目的がない。ここを生きて戻ったとして、己に何ができるというのか、辺境伯の下へ行けば、彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。――行き場もない、待っている人もいない――――
「やぁっと見つけた!」
よく知っているその声が周囲に響き渡ると同時に、それまで殺気を帯びて重苦しくこの身を捉えていた、ありとあらゆる悪意が霧散する。
「――って、どうしたんですかその傷! ちょッ、で、殿下ッ?!」
輝きを帯びた羽の生えた馬に乗って舞い降りたティオ・ファーバーを目にした瞬間、胸中に形容しがたい温かい感情が込み上げ、泣きたくなった。
◇
ティオ・ファーバーは驚いた!
やっと見つけたエミールの無事を確認するため彼に走り寄ると、彼は自分に抱きつくように倒れ込み意識を失ったのだから。
突然のことに心の中で一通り奇声を発した後、彼の身体が冷えているのに熱いことに気付いた。――熱がある!
「殿下! エミール殿下!」
呼びかけるが反応がない。彼が身に纏っている衣類が雨水を吸い込み、冷たく重くなっている。
これはもう一刻の猶予もない。加えて彼は今、気を失っている――――ということで、ティオ・ファーバーは慌てて己の故郷へ『瞬間移動』をした!
「……え、ティオ?!」
王都周辺は強めの雨が降っていたが、ティオ・ファーバーの故郷である島の端にある小さな村ベルクは晴天だった。
ティオが選択した移動先は、彼女が育った教会孤児院前の広場。教会に併設されている孤児院で育ったティオにとって、ここは己の庭も同然だった。近隣住民も大勢集まる憩いの場であるこの場所へ、ティオがいきなり『瞬間移動』で現れたので、周囲の人間は青い顔で叫んだ。
「わーっ! またティオが怪しいイケメン拾ってきたーっ!!!」
「また人外か?! 人間? 嘘だ! ティオがまっとうなイケメンとお近づきになれるはずがない!!!」
「神様助けてーっ!!!」
「ちょっと、どういう意味よあんたたちッ!!!」
大勢の人で賑わっていた公園から、蜘蛛の子を散らすように村人達が走り去る。しかし、ティオはちゃんと分かっていた。彼等が、ティオの腕の中の怪我人をしっかりと認識しており、医者やら薬やらリネンやらをかき集めに走ったことは。
だが、しかし。
――全く! どいつもこいつも、人をなんだと思ってるのかしら?! 私は常日頃からヒンコウホウセイでカレンな美少女だというのに!!!
ティオは己のイメージプランニングを見直すため、村人達にあんなことやこんなことをしなければ! と画策することも忘れない。これは可愛い乙女心だ。
ベルク村を含むこの地方唯一の教会は、王都のそれとは比べものにならないほどに、小さく粗雑な造りをしている。木製の柱と壁は、その場しのぎのつたない修繕が繰り返されツギハギだらけ。孤児院部分はさらに酷い。教会区画部は本職の土木作業員が造った物だが、孤児院部分の建築は予算が確保できずに村の有志が造った物だ。
ティオ・ファーバーがこの孤児院で暮らすようになって十数年。長らく修理をせずに済んでいることを、周辺住民は気付いているが、当の本人は知る由もない。
昼夜問わず、高熱と悪夢にうなされるエミール・ヴェルナー・バイアーを看病し続け丸三日。ティオ・ファーバーは不眠不休でも元気にエミールのために走り回っていた。
「ティオ、彼の面倒は私達も見るから、あなたはもう寝なさい」
ティオをそうなだめるのは、孤児院の院長を務めるウーテ・ファーバー。今年で三十五歳になる、美しく聡明な女性だ。彼女は今は亡き父からこの孤児院を受け継ぎ、今も運営を続けている。一時期、資金繰りの悪化による経営難で閉院の危機を迎えたこともあった。しかし多くの協力者を――主にティオの尽力によるものなのだが――得て、乗り越えてきた。
「大丈夫です! 私が寝てるときに彼が目を覚ましたりしたら、私の計画が!!!」
「……えっと、あなたが彼のことをとても大事に三日三晩、寝ずに看病をしていたことはちゃんと彼に伝えるから、いいから寝なさい!」
普段おっとりとして見えるが、やる時はやる院長ウーテは有無を言わせぬ口調でティオにそう言った。
一見するとティオは元気いっぱいだ。だが、人並み外れた規格外の人外に近い体力、性格、魔力を持ち合わせていようと、まだまだ子供なのだ。三日も完徹すれば体調に問題が出てくるに違いない……と、ウーテは案じていた。杞憂で終わる可能性の方が高いとは分かっていても。
「じゃあ……今日の夜は、寝る。それでいい?」
ウーテの剣幕にティオは折れた。ティオだって、彼女が己のことを心の底から心配してくれていることは分かっている。
――王都のバカを相手にして来たから、院長の心配りがしみるわぁ……。やっぱ戻ってきてよかった! うん!
◇
エミールが目を覚ましたのはその日の夜だった。
薄いカーテン越しに青白い月の光が部屋に差し込んでいる。その光景で、すぐにここが見慣れた自室でないことに気付いた。
身体は熱っぽく怠さが残っているし、節々が痛む。
「…………ッ!」
つい先程までの出来事を思い出し、咄嗟に迎撃態勢をとろうとして、自分が眠っていたベッドのすぐそばの椅子で眠っている人物がいることに気付いた。
ティオ・ファーバーだ。
彼女が光と共に舞い降りてきた光景を、鮮明に覚えている。ベッドから起き上がり、彼女の方へ近づこうとして――予想以上に大きな音を立ててベッドからずり落ちた。丸三日、高熱に魘されていたのだから体力は著しく落ちているが、今のエミールにそんなことが分かるはずもない。
「――はっ! エミール殿下!」
エミールが立てた物音でティオが目を覚まし、床に倒れ込む彼を慌てて抱き起こす。見た目痩せ型に見えるエミールでも、ティオよりは遥かに鍛えられているようで重い。意識のないエミールをここまで運んできたのでそれは知っていた。
――これはセクハラじゃないから! 不可抗力だから!!!
病み上がりでなくとも、エミールをいつまでも床に這いつくばらせておく趣味はないので、ティオはエミールをベッドへと移動させる。異能を使用して。
通常、魔術師が魔術を発動する際は呪文を必要とする。必要としないのは精霊や神といった伝説上の存在も確認されていない存在だけ――つまりは存在しない。
だが、ティオは術を行使する際、生まれてこの方呪文を必要としたことはない。だからこれが魔術なのか何なのか、ティオにも誰にも分からない。ただ、他の誰よりも圧倒的に強力な力であることだけは、確かだった。
「……温かい、な。ありがとう」
柔らかい微笑みを向けられて、それだけでティオは天にも昇る心地になる。
それはエミールにとっても同じだった。彼女がかける術の正体は不明でも、それはいつも温かく、心地よくエミールを包んでいた。エミールだけではない。彼女の治癒を受けた衛兵も皆、異口同音にその心地よさについて口にしていた。
ティオ・ファーバーが連隊長から聞いたエミール・ヴェルナー・バイアーの最終的な目的地は、とある辺境伯の下だった。王都から徒歩で行くはずもない。ティオは、該当地区へ向かう寄り合い馬車をしらみつぶしに捜索したが、エミールの姿を見つける事はできなかった。
辺境伯は現国王の遠縁にあたる。しかし、遠い昔に一悶着あったようで長いこと微妙な関係にあり社交界に顔を出すことはなかった。会議は代理人を立てる徹底ぶり。
しかし、エミール個人とは信頼関係を築いていた。エミールにティオのことを教えたのも彼だ。常備軍、近衛兵、教会騎士を統率できたのも、彼の教えがあったからに他ならない。
そんなエミールは今――レイモンド・マクラウドが差し向けた刺客に追われ、這々の体で王都から逃げ出し、魔獣の巣窟と言われている森の中へ迷い込んでいた。
エミールが逃げ込んだ森は、魔獣が多く生息しているため危険区域に指定されている。それを承知で逃げ込んだ。いや、追い込まれたと言った方が正しいだろう。
刺客がレイモンドの差し金であると分かったのは、彼等が持っていた飛び道具に、マクラウド家の家紋をアレンジしたものが彫り込まれていたからだ。雇い主にのみ、仕事の完了が分かるようになっている仕掛けだ。
刺客に気付いたのは、寄り合い馬車に乗ろうとした時のことだった。
もし気付かずに乗っていたとしたら、無関係な多くの人を巻き込むことになってしまっただろう。それについては、運が良かった……とエミールは己を鼓舞しようとして、失敗に終わった。
刺客の攻撃によって負った傷を止血する暇もなく、この魔獣の森を逃げ惑い、強く殴りつけるような雨に体力と体温を奪われる。血の匂いが雨でかき消えるかと思ったのも一瞬だった。地面に染み込んでいく己の血を感知して現れた異形の何かが、こちらを睨めつけている。
彼の胸中を、諦めにも似た思いが浸食していく。
彼には目的がない。ここを生きて戻ったとして、己に何ができるというのか、辺境伯の下へ行けば、彼に迷惑をかけてしまうかもしれない。――行き場もない、待っている人もいない――――
「やぁっと見つけた!」
よく知っているその声が周囲に響き渡ると同時に、それまで殺気を帯びて重苦しくこの身を捉えていた、ありとあらゆる悪意が霧散する。
「――って、どうしたんですかその傷! ちょッ、で、殿下ッ?!」
輝きを帯びた羽の生えた馬に乗って舞い降りたティオ・ファーバーを目にした瞬間、胸中に形容しがたい温かい感情が込み上げ、泣きたくなった。
◇
ティオ・ファーバーは驚いた!
やっと見つけたエミールの無事を確認するため彼に走り寄ると、彼は自分に抱きつくように倒れ込み意識を失ったのだから。
突然のことに心の中で一通り奇声を発した後、彼の身体が冷えているのに熱いことに気付いた。――熱がある!
「殿下! エミール殿下!」
呼びかけるが反応がない。彼が身に纏っている衣類が雨水を吸い込み、冷たく重くなっている。
これはもう一刻の猶予もない。加えて彼は今、気を失っている――――ということで、ティオ・ファーバーは慌てて己の故郷へ『瞬間移動』をした!
「……え、ティオ?!」
王都周辺は強めの雨が降っていたが、ティオ・ファーバーの故郷である島の端にある小さな村ベルクは晴天だった。
ティオが選択した移動先は、彼女が育った教会孤児院前の広場。教会に併設されている孤児院で育ったティオにとって、ここは己の庭も同然だった。近隣住民も大勢集まる憩いの場であるこの場所へ、ティオがいきなり『瞬間移動』で現れたので、周囲の人間は青い顔で叫んだ。
「わーっ! またティオが怪しいイケメン拾ってきたーっ!!!」
「また人外か?! 人間? 嘘だ! ティオがまっとうなイケメンとお近づきになれるはずがない!!!」
「神様助けてーっ!!!」
「ちょっと、どういう意味よあんたたちッ!!!」
大勢の人で賑わっていた公園から、蜘蛛の子を散らすように村人達が走り去る。しかし、ティオはちゃんと分かっていた。彼等が、ティオの腕の中の怪我人をしっかりと認識しており、医者やら薬やらリネンやらをかき集めに走ったことは。
だが、しかし。
――全く! どいつもこいつも、人をなんだと思ってるのかしら?! 私は常日頃からヒンコウホウセイでカレンな美少女だというのに!!!
ティオは己のイメージプランニングを見直すため、村人達にあんなことやこんなことをしなければ! と画策することも忘れない。これは可愛い乙女心だ。
ベルク村を含むこの地方唯一の教会は、王都のそれとは比べものにならないほどに、小さく粗雑な造りをしている。木製の柱と壁は、その場しのぎのつたない修繕が繰り返されツギハギだらけ。孤児院部分はさらに酷い。教会区画部は本職の土木作業員が造った物だが、孤児院部分の建築は予算が確保できずに村の有志が造った物だ。
ティオ・ファーバーがこの孤児院で暮らすようになって十数年。長らく修理をせずに済んでいることを、周辺住民は気付いているが、当の本人は知る由もない。
昼夜問わず、高熱と悪夢にうなされるエミール・ヴェルナー・バイアーを看病し続け丸三日。ティオ・ファーバーは不眠不休でも元気にエミールのために走り回っていた。
「ティオ、彼の面倒は私達も見るから、あなたはもう寝なさい」
ティオをそうなだめるのは、孤児院の院長を務めるウーテ・ファーバー。今年で三十五歳になる、美しく聡明な女性だ。彼女は今は亡き父からこの孤児院を受け継ぎ、今も運営を続けている。一時期、資金繰りの悪化による経営難で閉院の危機を迎えたこともあった。しかし多くの協力者を――主にティオの尽力によるものなのだが――得て、乗り越えてきた。
「大丈夫です! 私が寝てるときに彼が目を覚ましたりしたら、私の計画が!!!」
「……えっと、あなたが彼のことをとても大事に三日三晩、寝ずに看病をしていたことはちゃんと彼に伝えるから、いいから寝なさい!」
普段おっとりとして見えるが、やる時はやる院長ウーテは有無を言わせぬ口調でティオにそう言った。
一見するとティオは元気いっぱいだ。だが、人並み外れた規格外の人外に近い体力、性格、魔力を持ち合わせていようと、まだまだ子供なのだ。三日も完徹すれば体調に問題が出てくるに違いない……と、ウーテは案じていた。杞憂で終わる可能性の方が高いとは分かっていても。
「じゃあ……今日の夜は、寝る。それでいい?」
ウーテの剣幕にティオは折れた。ティオだって、彼女が己のことを心の底から心配してくれていることは分かっている。
――王都のバカを相手にして来たから、院長の心配りがしみるわぁ……。やっぱ戻ってきてよかった! うん!
◇
エミールが目を覚ましたのはその日の夜だった。
薄いカーテン越しに青白い月の光が部屋に差し込んでいる。その光景で、すぐにここが見慣れた自室でないことに気付いた。
身体は熱っぽく怠さが残っているし、節々が痛む。
「…………ッ!」
つい先程までの出来事を思い出し、咄嗟に迎撃態勢をとろうとして、自分が眠っていたベッドのすぐそばの椅子で眠っている人物がいることに気付いた。
ティオ・ファーバーだ。
彼女が光と共に舞い降りてきた光景を、鮮明に覚えている。ベッドから起き上がり、彼女の方へ近づこうとして――予想以上に大きな音を立ててベッドからずり落ちた。丸三日、高熱に魘されていたのだから体力は著しく落ちているが、今のエミールにそんなことが分かるはずもない。
「――はっ! エミール殿下!」
エミールが立てた物音でティオが目を覚まし、床に倒れ込む彼を慌てて抱き起こす。見た目痩せ型に見えるエミールでも、ティオよりは遥かに鍛えられているようで重い。意識のないエミールをここまで運んできたのでそれは知っていた。
――これはセクハラじゃないから! 不可抗力だから!!!
病み上がりでなくとも、エミールをいつまでも床に這いつくばらせておく趣味はないので、ティオはエミールをベッドへと移動させる。異能を使用して。
通常、魔術師が魔術を発動する際は呪文を必要とする。必要としないのは精霊や神といった伝説上の存在も確認されていない存在だけ――つまりは存在しない。
だが、ティオは術を行使する際、生まれてこの方呪文を必要としたことはない。だからこれが魔術なのか何なのか、ティオにも誰にも分からない。ただ、他の誰よりも圧倒的に強力な力であることだけは、確かだった。
「……温かい、な。ありがとう」
柔らかい微笑みを向けられて、それだけでティオは天にも昇る心地になる。
それはエミールにとっても同じだった。彼女がかける術の正体は不明でも、それはいつも温かく、心地よくエミールを包んでいた。エミールだけではない。彼女の治癒を受けた衛兵も皆、異口同音にその心地よさについて口にしていた。
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