もう二度と、愛さない

蜜迦

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散策

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 エルベ侯爵邸の庭は、ぐるりと一周できるように石畳が敷かれている。
 この屋敷を建てた初代当主は大の愛妻家で、多忙であるにもかかわらず、毎日必ず時間を作り、妻と散歩を楽しんでいたのだとか。
 そんな石畳の逸話のおかげか、エルベ侯爵家の当主夫妻は代々円満。
 お父さまとお母さまも、毎日とはいかないまでも、二人で仲睦まじく歩く姿をよく見かける。
 (それにしても、歩きづらいわね)
 こんなことになるとわかっていれば、散策用の靴を履いてきたのだが……残念なことに、私の足を守るのは華奢なヒールが美しい、安全性皆無の品である。

 「きゃっ!」

 石畳の隙間にヒールがはまり、バランスを崩す私を力強い腕が支える。
 
 「も、申し訳ありません、アンリ様」

 やはり常日頃母親の介助をしているだけのことはある。
 咄嗟の判断力はさすがだ。

 「謝らなければならないのはこちらの方です。足がおつらいのではありませんか?本当に……うちの母親が無理を言って申し訳ない」

 「そんな、どうかお気になさらないで。普段からこういった靴は履き慣れているので、疲れることはないのですが……なにぶん石畳の上は不安定で」

 やはり履き替えてこようかと思案する私に、アンリ様はエスコートを促すように、腕を差し出した。
 
 「よろしければその……こうしていれば、いつでも支えられますから」

 「……それでは、お言葉に甘えて」

 差し出された腕に、遠慮がちに手を添えると、アンリ様は眉を下げてはにかんだ。

 「さすがエルベ侯爵家の庭園ですね。よく整備されている。庭師の腕も素晴らしいのでしょうね……あれは?」

 アンリ様は、華やかな薔薇が咲き乱れる庭の奥、ひっそりと佇む温室に目を留めた。

 「あ、あれは……薬草を育てている温室です」

 カスティーリャ帝国の歴史上、戦争や流行り病などで薬が不足する事態が幾度も起こった。
 当時の医療分野は今ほど明るくなく、薬品を長期保存するための技術も乏しかった。
 なので、領主たちは領民の命を守るため、不測の事態に備え、屋敷の中に薬草園を持っているのが当たり前だったそうだ。
 今は保存技術も発達し、帝国の保管庫には薬品の備蓄が十分されているが、長く名を繋いできた家門の庭には、必ずと言っていいほど薬草園の名残のようなものがある。

 「由緒正しきエルベ侯爵家ならではの景色というわけですね。とても興味深いです」

 「あの、面白いものではないかもしれませんが、よかったら中をご覧になりますか?」

 「いいのですか?」

 そう言って目を輝かせたアンリ様の顔は、お母上のマリオン様そっくりで。
 (やっぱり親子なのね) 

 「うふふ、はい。どうぞ」

 扉を開け、温室の中に足を踏み入れると、マスカットのような甘く爽やかな香りが鼻を掠めた。
 入り口付近に植えられている、小さくて美しい白色の花を無数に咲かせているのは、エルダーフラワーの木。
 今年は今咲いているものが最後になるだろう。

 「この花も薬草なのですか?」

 「ええ。シロップに漬け込んだり、乾燥させてお茶にしたりするんです。しっかりと乾燥させておけばドライハーブとして保存もできるんですよ」

 解熱作用があり、ひどい咳にも効果を発揮してくれるので、毎年修道院の子どもたちにも分けてあげている。
 小さな子は本当によく熱を出すから。

 「あの緑の葉は……?」

 アンリ様は畝から生える薬草を指差した。
 よく見れば細かい違いはあるものの、知らない人からすれば、雑草が無限に生えているようにしか見えないだろう。

 「葉の形に違いがあるのですよ」

 しゃがみ込み、説明しようと葉に手を伸ばすと、小さな青虫が食事中だった。
 (あら、いけないわ)
 いつもなら虫取り籠に入れ、その後のことは庭師にお願いするのだが、あいにくと今日は用意がない。
 心の中でごめんねと謝りつつ、青虫のついた葉をちぎり、ぺしっと隅へ投げた。

 「リ、リリティス様……!?」

 「あ」

 しまった──
 そう思った時には既に遅く、アンリ様は驚愕の表情で私を見ていた。
 
 ──ち、違うんですアンリ様!
 この温室は代々エルベ侯爵家の女主人が管理してきたもので、私もたまたま祖母や母から教わって、暇な時は畝なんかも耕しちゃったりとか
 だって非常事態には女も男も農民も関係なく、みんなで助け合わなきゃいけないし──

 と、私が説明しようとするより早く、口を開いたのはアンリ様だった。

 「もしかして、あれはリリティス様だったのでしょうか……」

 「もしかして……とは?」

 「いえ、実はもう去年のことになるのですが……いつものように、母親に付き添ってこちらを訪れた時のこと……長い髪を高い位置でひとつに結い上げ、白いシャツを泥で汚し、三股の鍬を持って歩く女性の後ろ姿を見かけたんです」

 「それは……随分鮮明に覚えてらしたのですね……」
 
 軽量化された最新型の三股の鍬は、庭師が私のためにと市場で見つけてきてくれた大のお気に入り。
 いわば神農具だ。
 そしてアンリ様が見かけたという泥まみれの女は……間違いなく私だ。
 


 
 
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