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サキュバスの煽り
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「結界が張ってあって、わたしが行けない場所には足を踏み入れられないようになっているというお話でした……」
「でしょうね」
「ですが、先程、アルフレド様のお声がする近くまで行ってしまい……これはよくないと思って戻ってきたら、曲がるところを間違えたようで……」
「あらあ、謁見の間の近くにまで行っちゃったの? あそこはねぇ、謁見を許された魔族だけがあっち側から入って、こっちから出ていく一方通行なのよ。それを逆流したってことは……ああ、あの通路から来たのか。なるほどねぇ~。なんかさっきアルフレド様が怒りながら出て行ったのを、謁見に来た魔族が縋ってたから、それかしらぁ」
少なくともこの美女は自分に敵意がなさそうだと判断し、リーエンは尋ねた。
「もしかして、許されていないわたしが付近に近付いたことは、罰されることなのでしょうか?」
「んん~? 大丈夫じゃない? むしろ、まだここウロウロしてるわたしの方が罰されるんじゃないかしらねぇ。謁見終わったから決められた時間内にあっちに行かなきゃいけないんだけど……さっき謁見してたヤツで今日は最後だから、それをさっさと終えてアルフレド様が出てこないかなぁなんて思ってうろついてたからさぁ……ウフフ……そしたら、なーんか、余計なやつも一緒についてきてワーワー言ってるから、くそ、あいつ後でシメてやらないと気が済まないわ」
美女はそう言って舌打ちをしてから、じろじろとリーエンを眺める。不躾なその視線の意味を量りかねて、リーエンは「何でしょうか……」とおずおずと聞けば、彼女は笑い出した。
「おっかし! アルフレド様の奥方なのに、わたしに敬語使うなんて変なの! ねえ、奥様、教えてあげるわ。あなた、わたしとここで会わないでこのままこの通路をうろうろしてたら……どうなっていたと思う?」
「ど、どう、なって、いたんでしょうか……? 誰かに怒られました?」
「あっはぁ、余程何も聞かされてないのねぇ……この城には、色んな魔族が毎日沢山出入りするのよ。その中には……あなたを殺したい魔族もね」
「えっ……」
リーエンはびくっと体を震わせる。わたしを殺す? 魔界召集の後にマーキングされなければ他の高位魔族にさらわれる可能性があるという話は聞いていたし、他の魔族の中には「人間を殺してしまう」「花嫁を殺してしまう」者もいるとは聞いていた。だが、もう魔界召集から数日経過しているため、これ以上は他の高位魔族には狙われないはずなのだが……。
「しかも、さっきアルフレド様が怒ってた魔族、当主が人間の女をヤリ殺したっていってたからさぁ……そんな魔族の前に出て行ったら……」
「……」
「ははぁーーん、あなた、なーんにも知らないのね、きっと。でも仕方ないか……あなた、アルフレド様に、気に入られてないんでしょ?」
アルフレドに? 気に入られていない? 何故彼女がそんなことを言い出したのか理解が出来ず、また、その言葉そのものに衝撃を受けてリーエンは呆然となる。
「え……? どうしてですか?」
「だって、魔界召集で来た奥方なのにさあ、全然……マーキングは終えたんだろうけど、あなたから『アルフレド様とセックスしてる』匂いがしないもの」
「匂いって……」
「ふふ、わかるのよ。サキュバスは、男の精液には敏感だもの。あなた、全然注がれてないじゃない?」
「!」
リーエンは頬を赤らめて押し黙った。確かに彼女が言う通り、自分はアルフレドと交わっていない。それは気に入られていないからではなく、リーエンの意思を彼が尊重してくれているからだと思っている。だが……。
「わたしが……まだ、そういったことをするのは……もっとお互いを知った後ではないと……と我儘を言ったので……」
あと、子作りは急いでいないと言っていた。が、それはアルフレドがどういう意図で言っているのかわからないため、第三者に伝えることはよろしくない、と言葉には出さなかった。
「は? そんな我儘が通るわけないじゃない? それに、本当に奥様を守ろうとするなら、一刻も早く子供を作った方がいいはずだし……ねぇ、考えてもみなさいよ。ここに護衛も何もなしで1人でいるってことは、アルフレド様が作った結界を奥様が破って来ちゃったってことでしょ? あの方が、そんな簡単に破れる結界を作るわけないし、ねえ? あーあ、気が向いて声なんてかけなきゃよかった。アルフレド様、わざとあなたに結界を破らせて『誰かに殺させよう』としたのかもしれないのに、助けちゃうなんてツイてないわ」
そう言って彼女は肩を竦めて、にやりと酷薄な笑みを浮かべた。リーエンの背筋にぞくりと冷たいものが走る。多分、彼女に敵意はないのだと、リーエンは思う。それは間違いない。だが、彼女にとって自分は「生きるも死ぬもどうなるもどうでもよい、ちょっとだけおもしろそうなおもちゃ」のようなものなのだと気付く。
「ごめんねぇ? 意地悪言ってるように聞こえるだろうけど、実にこれ、意地悪よ。だってぇ、今回の魔界召集、来たニンゲンをちゃんと『使わないで』本能優先で殺した魔族には罰則が課せられたみたいだからさぁ。今までは勢いで殺してもぜんっぜん問題なかったのにね」
「え……」
「言ったでしょ、さっき。わたしの後で謁見してたはずのヤツ、当主が魔界召集で来た、アナタみたいな人間の女を殺しちゃったのよね。ウフフ。セックスしてたら楽しくなっちゃって、ヤリながら首絞めたのか噛んだのかちぎったのかよーくわかんないけど。でも、それは今回駄目って話だったから罰されるんだろうなぁ……要するにぃ、それは今回アルフレド様がそう決めたってこと。だから、それをご自分が破るわけにはいかないから、誰かに代わりにアナタを殺させようとしたのかなって……ウッフフフ、なーんてね!」
「……あの……」
「でも、いいこと知ったなぁ~、アルフレド様が奥方を気に入ってないなら、わたしもまだ側室になるチャンスがあるってことじゃない? あははっ、その時はよろしくね?」
「側室……魔界では、側室を娶ることが普通なのでしょうか」
「普通ってわけじゃないけど、アルフレド様があなたと子供作りたくないなら、側室は必要じゃない? 当然のことよね?」
確かに、アルフレドはセックスはしたがっていても、子供は急いで作ろうとはしていない。リーエンの胸の奥が、つきん、と小さく痛む。子供はいらないがセックスはしたい。もしかしたら、彼にとってセックスはただの娯楽なのかもしれない。そして、この女性が言うように、自分は気に入られていないから、セックスは促されるけれど子供は作らないといわれてしまったのかもしれない……良くない考えばかりがリーエンの脳内に浮かんでくる。
「サキュバスはぁ、みーんな、アルフレド様が好きよ。だってぇ……ねぇ、あの人すっごく上手だったでしょ……?」
「!」
それは。
複数のサキュバスがアルフレドと体を重ねたことがある、という意味だ。「みんな」がどれほどの人数なのかはわからないが。そして、この目の前にいる女性もきっと。
いや、今考えなければいけないのはそのことではない……リーエンが必死に雑念を払おうとしていると、彼女はリーエンの手をとった。「こっちよ」と手を引いて、もう1つ奥の曲がり角へ誘導する。
「とにかく、一度戻りなさいな? わたしが通れない結界がある場所に連れて行くから、試しにそれを通り抜けてみたらどう?」
「はい……」
自分の口から出た返事があまりにも無機質で、リーエンは自分で驚いた。思った以上に、自分は彼女の言葉に傷ついてあれこれ考えてしまっているようだ。
やがて、リーエンの目からは「何もない」と思われる、通路のど真ん中。そこで彼女は立ち止った。
「ここから先、わたしは行けない感じがするの。奥様はここを抜けられるんじゃないかしら? ここよ、ここ」
彼女は通路につうっと横線を描くようにつま先を動かした。リーエンは恐る恐る1歩、2歩、と踏み出して、彼女が示した境界を超えるように足を着地させた。
何か、一瞬だけ抵抗を感じる。まるで狭い場所を潜り抜けるような圧。ああ、先程も確かにこんな風に感じたのかも、と思う。
「ほっら、やっぱりここから来たんでしょ。ねえ、奥様、アルフレド様に言っておいた方が良いわよ。結界から出られました、って。腹の中にアルフレド様の精子が注がれていれば結界がそっちを感知しちゃって破れるかもしれないけど、びっくりするほどないんですもの。絶対おかしいから、聞いてみなさい」
「はい。ありがとうございました。えっと……わたしはリーエンと申します。よければお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「フェーリスよ。もう会うこともないかもしれないけどね」
フェーリスはそう言って笑った。リーエンは慌てて
「ありがとうございます。えっと、フェー……リスさん?」
「フェーリス。呼び捨てにしなさいな。立場ってものがあるでしょう?」
「いえ。御恩がありますから。フェーリスさん。覚えました」
「忘れていいわよ」
そう言ってフェーリスはさっさと背を向けて去ってしまう。リーエンは彼女に深く頭を下げた。酷いことも沢山言われた気がするが、それは受け止め方の問題だとリーエンはわかっている。だって、なんだかんだフェーリスは自分を助けてくれたではないか、と。
たとえ、それが「リーエンを見捨てたと知られたら困るから」という打算的な感情でも、フェーリスの物言いが意地悪でも、彼女は多くの情報をリーエンに与えてくれたし、そう悪い女性には思えなかった。それは、幼い頃から社交界でもっと腹立たしいことも経験してきたリーエンだからそう感じるのかもしれない。
「ああ! アイボールさん!」
抜けてしまった結界からそう遠くない場所で、リーエンをみつけたアイボールはふよふよと飛んで来て合流をした。
「心配したでしょう。ごめんなさい。あの、サキュバスのフェーリスさんって方に助けてもらって……よくわからないんですけど、結界を抜けてしまったらしいの」
アイボールはぱちぱちと瞬きをした。
「ええ。だから、アイボールさんはついてこられなかったのね。わかりやすくするために、アイボールさんの行動範囲がわたしと同じ範囲になるように術をかけてもらっているんですものね? なのにわたしは結界を抜けたので……今晩、アルフレド様にお伝えしようと思います。ご心配かけてごめんなさい」
リーエンのその言葉を聞いて、アイボールはくるくると宙で回転をした。念話とやらはまったくリーエンには通じないが、アイボールがゆっくり回転する時は「わかった」の印だと既に知っている。
とにかく、先程のアルフレドの怒声が「人間の女性を殺してしまった」魔族への怒声だということもわかったし、落ち着いて考えれば、リーエンは彼の怒声に対して驚いただけで、それは彼への評価を揺るがすものではなかった。
(恐ろしいことはおっしゃっていたけれど……きっと、アルフレド様としても、その、腕をどうとか、そういうことは本意ではないのでしょう)
怒らぬ魔王。彼が自分で口にした言葉だが、それは本当なのだろう。大きな力を持つ者が「怒らぬ」人物と評されることは、独裁者ではないということだ。それをリーエンは知っている。当然、一長一短であるが、アルフレドはきっと彼女が知っているアルフレドのままで魔界を治めているのだろうと感じる二つ名だ。
「……コーバス先生にまたお伺いしたいことが増えました……アイボールさん、部屋に戻ります」
今日もアルフレドに会うことを諦めよう。リーエンは少し残念な気持ちになりながら、アイボールと共に自室に戻ったのだった。
「でしょうね」
「ですが、先程、アルフレド様のお声がする近くまで行ってしまい……これはよくないと思って戻ってきたら、曲がるところを間違えたようで……」
「あらあ、謁見の間の近くにまで行っちゃったの? あそこはねぇ、謁見を許された魔族だけがあっち側から入って、こっちから出ていく一方通行なのよ。それを逆流したってことは……ああ、あの通路から来たのか。なるほどねぇ~。なんかさっきアルフレド様が怒りながら出て行ったのを、謁見に来た魔族が縋ってたから、それかしらぁ」
少なくともこの美女は自分に敵意がなさそうだと判断し、リーエンは尋ねた。
「もしかして、許されていないわたしが付近に近付いたことは、罰されることなのでしょうか?」
「んん~? 大丈夫じゃない? むしろ、まだここウロウロしてるわたしの方が罰されるんじゃないかしらねぇ。謁見終わったから決められた時間内にあっちに行かなきゃいけないんだけど……さっき謁見してたヤツで今日は最後だから、それをさっさと終えてアルフレド様が出てこないかなぁなんて思ってうろついてたからさぁ……ウフフ……そしたら、なーんか、余計なやつも一緒についてきてワーワー言ってるから、くそ、あいつ後でシメてやらないと気が済まないわ」
美女はそう言って舌打ちをしてから、じろじろとリーエンを眺める。不躾なその視線の意味を量りかねて、リーエンは「何でしょうか……」とおずおずと聞けば、彼女は笑い出した。
「おっかし! アルフレド様の奥方なのに、わたしに敬語使うなんて変なの! ねえ、奥様、教えてあげるわ。あなた、わたしとここで会わないでこのままこの通路をうろうろしてたら……どうなっていたと思う?」
「ど、どう、なって、いたんでしょうか……? 誰かに怒られました?」
「あっはぁ、余程何も聞かされてないのねぇ……この城には、色んな魔族が毎日沢山出入りするのよ。その中には……あなたを殺したい魔族もね」
「えっ……」
リーエンはびくっと体を震わせる。わたしを殺す? 魔界召集の後にマーキングされなければ他の高位魔族にさらわれる可能性があるという話は聞いていたし、他の魔族の中には「人間を殺してしまう」「花嫁を殺してしまう」者もいるとは聞いていた。だが、もう魔界召集から数日経過しているため、これ以上は他の高位魔族には狙われないはずなのだが……。
「しかも、さっきアルフレド様が怒ってた魔族、当主が人間の女をヤリ殺したっていってたからさぁ……そんな魔族の前に出て行ったら……」
「……」
「ははぁーーん、あなた、なーんにも知らないのね、きっと。でも仕方ないか……あなた、アルフレド様に、気に入られてないんでしょ?」
アルフレドに? 気に入られていない? 何故彼女がそんなことを言い出したのか理解が出来ず、また、その言葉そのものに衝撃を受けてリーエンは呆然となる。
「え……? どうしてですか?」
「だって、魔界召集で来た奥方なのにさあ、全然……マーキングは終えたんだろうけど、あなたから『アルフレド様とセックスしてる』匂いがしないもの」
「匂いって……」
「ふふ、わかるのよ。サキュバスは、男の精液には敏感だもの。あなた、全然注がれてないじゃない?」
「!」
リーエンは頬を赤らめて押し黙った。確かに彼女が言う通り、自分はアルフレドと交わっていない。それは気に入られていないからではなく、リーエンの意思を彼が尊重してくれているからだと思っている。だが……。
「わたしが……まだ、そういったことをするのは……もっとお互いを知った後ではないと……と我儘を言ったので……」
あと、子作りは急いでいないと言っていた。が、それはアルフレドがどういう意図で言っているのかわからないため、第三者に伝えることはよろしくない、と言葉には出さなかった。
「は? そんな我儘が通るわけないじゃない? それに、本当に奥様を守ろうとするなら、一刻も早く子供を作った方がいいはずだし……ねぇ、考えてもみなさいよ。ここに護衛も何もなしで1人でいるってことは、アルフレド様が作った結界を奥様が破って来ちゃったってことでしょ? あの方が、そんな簡単に破れる結界を作るわけないし、ねえ? あーあ、気が向いて声なんてかけなきゃよかった。アルフレド様、わざとあなたに結界を破らせて『誰かに殺させよう』としたのかもしれないのに、助けちゃうなんてツイてないわ」
そう言って彼女は肩を竦めて、にやりと酷薄な笑みを浮かべた。リーエンの背筋にぞくりと冷たいものが走る。多分、彼女に敵意はないのだと、リーエンは思う。それは間違いない。だが、彼女にとって自分は「生きるも死ぬもどうなるもどうでもよい、ちょっとだけおもしろそうなおもちゃ」のようなものなのだと気付く。
「ごめんねぇ? 意地悪言ってるように聞こえるだろうけど、実にこれ、意地悪よ。だってぇ、今回の魔界召集、来たニンゲンをちゃんと『使わないで』本能優先で殺した魔族には罰則が課せられたみたいだからさぁ。今までは勢いで殺してもぜんっぜん問題なかったのにね」
「え……」
「言ったでしょ、さっき。わたしの後で謁見してたはずのヤツ、当主が魔界召集で来た、アナタみたいな人間の女を殺しちゃったのよね。ウフフ。セックスしてたら楽しくなっちゃって、ヤリながら首絞めたのか噛んだのかちぎったのかよーくわかんないけど。でも、それは今回駄目って話だったから罰されるんだろうなぁ……要するにぃ、それは今回アルフレド様がそう決めたってこと。だから、それをご自分が破るわけにはいかないから、誰かに代わりにアナタを殺させようとしたのかなって……ウッフフフ、なーんてね!」
「……あの……」
「でも、いいこと知ったなぁ~、アルフレド様が奥方を気に入ってないなら、わたしもまだ側室になるチャンスがあるってことじゃない? あははっ、その時はよろしくね?」
「側室……魔界では、側室を娶ることが普通なのでしょうか」
「普通ってわけじゃないけど、アルフレド様があなたと子供作りたくないなら、側室は必要じゃない? 当然のことよね?」
確かに、アルフレドはセックスはしたがっていても、子供は急いで作ろうとはしていない。リーエンの胸の奥が、つきん、と小さく痛む。子供はいらないがセックスはしたい。もしかしたら、彼にとってセックスはただの娯楽なのかもしれない。そして、この女性が言うように、自分は気に入られていないから、セックスは促されるけれど子供は作らないといわれてしまったのかもしれない……良くない考えばかりがリーエンの脳内に浮かんでくる。
「サキュバスはぁ、みーんな、アルフレド様が好きよ。だってぇ……ねぇ、あの人すっごく上手だったでしょ……?」
「!」
それは。
複数のサキュバスがアルフレドと体を重ねたことがある、という意味だ。「みんな」がどれほどの人数なのかはわからないが。そして、この目の前にいる女性もきっと。
いや、今考えなければいけないのはそのことではない……リーエンが必死に雑念を払おうとしていると、彼女はリーエンの手をとった。「こっちよ」と手を引いて、もう1つ奥の曲がり角へ誘導する。
「とにかく、一度戻りなさいな? わたしが通れない結界がある場所に連れて行くから、試しにそれを通り抜けてみたらどう?」
「はい……」
自分の口から出た返事があまりにも無機質で、リーエンは自分で驚いた。思った以上に、自分は彼女の言葉に傷ついてあれこれ考えてしまっているようだ。
やがて、リーエンの目からは「何もない」と思われる、通路のど真ん中。そこで彼女は立ち止った。
「ここから先、わたしは行けない感じがするの。奥様はここを抜けられるんじゃないかしら? ここよ、ここ」
彼女は通路につうっと横線を描くようにつま先を動かした。リーエンは恐る恐る1歩、2歩、と踏み出して、彼女が示した境界を超えるように足を着地させた。
何か、一瞬だけ抵抗を感じる。まるで狭い場所を潜り抜けるような圧。ああ、先程も確かにこんな風に感じたのかも、と思う。
「ほっら、やっぱりここから来たんでしょ。ねえ、奥様、アルフレド様に言っておいた方が良いわよ。結界から出られました、って。腹の中にアルフレド様の精子が注がれていれば結界がそっちを感知しちゃって破れるかもしれないけど、びっくりするほどないんですもの。絶対おかしいから、聞いてみなさい」
「はい。ありがとうございました。えっと……わたしはリーエンと申します。よければお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「フェーリスよ。もう会うこともないかもしれないけどね」
フェーリスはそう言って笑った。リーエンは慌てて
「ありがとうございます。えっと、フェー……リスさん?」
「フェーリス。呼び捨てにしなさいな。立場ってものがあるでしょう?」
「いえ。御恩がありますから。フェーリスさん。覚えました」
「忘れていいわよ」
そう言ってフェーリスはさっさと背を向けて去ってしまう。リーエンは彼女に深く頭を下げた。酷いことも沢山言われた気がするが、それは受け止め方の問題だとリーエンはわかっている。だって、なんだかんだフェーリスは自分を助けてくれたではないか、と。
たとえ、それが「リーエンを見捨てたと知られたら困るから」という打算的な感情でも、フェーリスの物言いが意地悪でも、彼女は多くの情報をリーエンに与えてくれたし、そう悪い女性には思えなかった。それは、幼い頃から社交界でもっと腹立たしいことも経験してきたリーエンだからそう感じるのかもしれない。
「ああ! アイボールさん!」
抜けてしまった結界からそう遠くない場所で、リーエンをみつけたアイボールはふよふよと飛んで来て合流をした。
「心配したでしょう。ごめんなさい。あの、サキュバスのフェーリスさんって方に助けてもらって……よくわからないんですけど、結界を抜けてしまったらしいの」
アイボールはぱちぱちと瞬きをした。
「ええ。だから、アイボールさんはついてこられなかったのね。わかりやすくするために、アイボールさんの行動範囲がわたしと同じ範囲になるように術をかけてもらっているんですものね? なのにわたしは結界を抜けたので……今晩、アルフレド様にお伝えしようと思います。ご心配かけてごめんなさい」
リーエンのその言葉を聞いて、アイボールはくるくると宙で回転をした。念話とやらはまったくリーエンには通じないが、アイボールがゆっくり回転する時は「わかった」の印だと既に知っている。
とにかく、先程のアルフレドの怒声が「人間の女性を殺してしまった」魔族への怒声だということもわかったし、落ち着いて考えれば、リーエンは彼の怒声に対して驚いただけで、それは彼への評価を揺るがすものではなかった。
(恐ろしいことはおっしゃっていたけれど……きっと、アルフレド様としても、その、腕をどうとか、そういうことは本意ではないのでしょう)
怒らぬ魔王。彼が自分で口にした言葉だが、それは本当なのだろう。大きな力を持つ者が「怒らぬ」人物と評されることは、独裁者ではないということだ。それをリーエンは知っている。当然、一長一短であるが、アルフレドはきっと彼女が知っているアルフレドのままで魔界を治めているのだろうと感じる二つ名だ。
「……コーバス先生にまたお伺いしたいことが増えました……アイボールさん、部屋に戻ります」
今日もアルフレドに会うことを諦めよう。リーエンは少し残念な気持ちになりながら、アイボールと共に自室に戻ったのだった。
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