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10年前~リーエン~
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リーエンは、幼い頃から人の顔やドレスの形を覚えることが得意だった。物の名前よりも形を強く覚えてしまうため「説明をすればわかってもらえるものの、名前はいつまでも覚えられない」ということも多かった。だから、勉学も図解があるものを見れば理解が早く、逆に数式のようなものはその「形」で覚えてしまうため、そこから先が苦手だった。必要はなかったが地図に興味を持ってしまい、地図にそれぞれの国の特産物を絵で描けばするすると覚えることが出来た。流れている川の名前はそこまで詳しくないが、川の形を覚えて、どの地域を横断するのかを理解して父親に驚かれたことがある。
そのおかげで、何かがあるとすぐに連れ出されて行きたくもないパーティーに行くことが多かった。子供のうちは相手の名前を忘れてもごめんなさいで済む。その裏で兄や姉に「あの人はこの前お父様と仲良くお話していたひとよ」やら「さっきの人、お父様が苦手な伯爵夫人と仲良く話していらしたみたい」と、彼女自身は意味があるかわからない情報を提供して、よく褒められていたものだ。
10年前に母親が病で他界した時もそうだった。ダスカン国からの国賓がとある果樹園の見学を所望した。その果樹園を所有している伯爵から「褐色の肌を持つ国の人々の顔を見分けられないので、リーエン嬢に助けて欲しい」と打診があったので、幼いリーエンは父親と共に向かった。
リーエンの母親は生まれつき病弱で、リーエンの姉もあまり体が強くない。1年ほど前から国内の流行り病のせいで母親は何度か高熱を出していたが、それらの流行りも収まってきた頃だったので、父親がリーエンを連れて6日ほど家を空けることを誰も心配をしていなかった。
が、伯爵領に滞在をして3日目の夕方。突然母親が高熱を出して倒れたと知らせが入った。熱はどんどんあがっていき、流行り病とは症状が違うため王宮医師に出動依頼を出したほどだと聞いた。
伯爵とダスカン国の人々に謝罪をして慌てて2人が帰ろうと、伯爵邸のエントランスで人々に見送られている時。突然、ダスカン国の人々がざわつき出した。リーエンと年頃が変わらぬミランダ嬢の様子がおかしい。彼女を囲んだダスカン国の人々が「まさかここで!?」と動揺の声をあげた。国賓に何が起きたのだ、とリーエンの父親も様子を伺う。
「カスパーブルグ公爵、リーエン様、お待ちいただけますか。ミランダ様が今、天啓により歌をお歌いになります」
「天啓……?」
「天の声がミランダ様の歌を通して我々に届きますので、お静かにそのままで」
ミランダが「歌姫の家門」の「歌姫」の能力を持っていることは聞いていた。だが、みなそれは半信半疑だったので「本当に?」と大人たちも顔を見合わせている。
仕方なく急ぐ気持ちを抑えてリーエンと父親は退出を控えた。静かにミランダ達を見守っていると、やがてミランダ嬢が「わたしの歌よ誰かの道を照らしたまえ」と子供とは思えない凛とした声で言い放つ。彼女の周囲の付き人達はミランダから離れて、一切彼女を刺激しないようにと息を潜める。
幼い少女は息をすうっと吸ったかと思えば、次の瞬間その口から澄んだ美しい歌を放ち、空間を震わせ、人々の心を揺らした。
「……!」
まるで、彼女の歌が色を得たように、白い光がその空間のあちこちにきらきらと輝く。まるで歌声がベルを奏で、ベルの音色が光になっているようだ、とリーエンは思う。目の前に起きている出来事は「奇跡」なのだ、とリーエンは子供心に思った。それは彼女だけでなく、その場にいるすべての人間がその幻想的な光景に目が釘付けになり、言葉を発することが出来なくなっていた。
ミランダの歌が終わり、空間がしん、と静まり返ると白い光も消えてしまった。息を整えたミランダは、ぐるりとリーエンの方を向いた。なんだか、彼女の目は焦点があっていないようだ、とリーエンは感じる。
「リーエン様。天啓はあなたのために」
彼女の声は、歌い始める時と同じく凛とした声。突然自分の名を呼ばれて、リーエンはびくりと我に返る。
「わ、たし、に? な、何でしょう……?」
少女とは思えない、まるで経験を積んだ神官が朗々と神の教えを説くかのように言葉を続けるミランダ。
「あなたは近々、彷徨い困っている青年と出会い、その青年から生涯の助けを得るでしょう。ですが、青年を助けるかどうかは、あなたの意思で。それは大きな……」
彼女は最後まで言い切ることなく、その場で意識を失い、ぐらりと倒れる。同行している騎士が咄嗟に抱きかかえ、ゆっくりと膝をつく。
彼女が心配だし、言葉の続きも聞きたいし、けれども、早く屋敷に戻りたい。交錯する感情をリーエンも父親も抱いていたが、ミランダの付き人はが
「いつも天啓を得た後は一日中お眠りになるのです。カスパーブルグ公爵、ミランダ様が一族以外の者の天啓を得ることは非常に稀です。決して、今の言葉をお忘れなきよう」
と言い、更に「お気をつけてお帰りください」と送り出した。最後にきちんとミランダに挨拶できなかったことを残念に思いつつ、リーエンは父親と馬車に乗って伯爵領を離れた。
夕方から夜にかけて暗い森を抜けなければいけないと聞いて、リーエンの気持ちは滅入った。父親は幼いリーエンを気遣ってくれたが、それでも状況が状況のため、口数が少ない。馬車のボックス内の空気は重く、行きよりも急がせているせいか乗り心地も悪くて、なんだかそれだけで泣きたくなった記憶がある。
まだ夜になってなくても、枝が広がりながら高く伸びている樹ばかりの森は暗すぎて、リーエンは知らず知らずに眉間に皺をよせていた。小窓から外を見ても何も面白くないし、灯りのせいで窓に映った自分が「難しい顔」をしていることに気付いても、どうすることも出来ない。不安はやがて恐怖に少しずつ変化していく。どうしよう。お母様。王宮医師を呼ばなければいけないほどだなんて、余程のことだ。心配しても仕方がない、と父親は言ったが、それは「そう言うしかないから」だと子供心にわかっていた。
と、その時だった。突然馬車が止まり、外が騒がしくなる。暗い森の中で何か事故でもあったのだろうか。進めないような障害物でもあったのだろうか。父親が「わたしが見て来るから、お前はここでいい子に待っていなさい」と言って出ていく。
(怖い……どうしよう……ううん、どうも出来ない……早くお家に帰りたい……早くお母様にお会いしたい……お母様……お母様……)
泣きたい。
そう思った時、父親が戻ってきて、扉が開く。
「お父様」
「リーエン。我々に助けを求める人物が現れたよ」
「……え……」
「彼がミランダ様がおっしゃっていた青年なのか、それはお前が自分の目で見てごらん。確信を得たら、お前の意思で彼をどうするのか決めなさい」
父親に助けてもらいながら緊張面持ちで馬車を降りると、そこには。
身なりは平民のようだったが、どことなく品があり、貴族の子息と言ってもおかしくなさそうな、青年――というよりは青年と少年の中間と言うのがしっくりくる容姿だったが――がいて。
彼を見た瞬間、それまで味わったことがない衝撃をリーエンは受けた。つい先程「奇跡」を見たと思ったはずなのに、これはその延長なのかもしれない。だって、なんだか「そうだ」とわかるのだ。目の前にいる青年が、間違いなくミランダが言っていた人物なのだと、不思議と強烈に。
言葉にするとしたら「もし、これが運命というものならば、運命って人の姿をしているのね」。青年の情報はほとんどないし、当然、リーエンは「どんな人なんだろう」と思うだけでそれ以上の何もないはずだった。だが、ミランダの天啓のせいか、ただただ強烈に「運命だ」と感じるのだ。いや、それは後から言葉にしたらそうだった、というだけで、当時のリーエンはその衝撃が何なのかうまく理解が出来なかったのだが。
ただ、衝撃を受けて、なんだか高揚して。一刻も早く帰らなければいけないのに、ふわふわと不思議な気持ちになったことを覚えている。何かを伝えなければ、とミランダの話をまくしたてたり、彼を救うと自分が決めたことを伝えたり、多分そんなことをペラペラ話したような気がする。
道に迷って困っていたらしい青年は、巡礼中の神官のようだった。彼の目的地が父親の領地を更に越えた先だと聞いたので、屋敷までは共に行くことに勧めて馬車に乗ってもらった。その後は彼とあまり話す間もなく、父親に「寝なさい」と言われて眠って。
次に目覚めた時には馬車が止まっていて、父の姿がなかった。「乗り換えるのかしら」と体を起こすと神官は変わらず向かいの座席に座っている。「お父様は……?」と尋ねれば「馬車の乗り替え前に、お屋敷からの使者と合流したようです。あなたはまだ降りてはいけません」と答えてくれた。
「そうなの……? 使者……?」
もしかしたら、お母様の容体が良くなったと伝えに来てくれたのだろうか。そう思って窓から外を見れば、街道沿いの馬貸し屋の灯りがついており、父親や騎士達が何か話している姿が見えた。
「……!……」
すると、がくりと父親が地面に膝をつく。そんな彼を見たことがなかったリーエンは、息を飲んで窓に張り付いた。
「やだ……やだ……やだ、怖い……」
無意識に口から出た言葉。何か、とんでもないことが起きている。具体的に何なのかはわからないが、それだけはわかる。すると、神官は扉をバタンと開けて
「公爵様。お嬢様がお目覚めです」
と告げた。その時はまったくわからなかったけれど、後で思い出せば、きっと彼も何かを察していて、それ以上「娘が見てないと思っている」父親の姿をリーエンに見せないようにと配慮してくれたのだろう。彼は使用人でも何でもないのだから、わざわざリーエンの目覚めを伝える必要なぞなかったはずだ。
それでも、父親はすぐには戻らなかった。リーエンは不安に打ち勝つことが出来ずに、馬車の中でがたがたと震えて縮こまり、そんな彼女に神官は何も言わず、ただ一緒にいるだけだった。
「リーエン」
どれだけの時間が経過しただろうか。やたら長く思えたが、思うほどは長くなかったのかもしれない。
扉を開けたまま、父はボックスに乗り込まずにリーエンに語りかける。
「落ち着いて聞きなさい……ヘレナは……お前のお母様は危篤に陥って……医者の見立てては、朝までもたないとのことだ」
「え……」
「だが、誤診の可能性もあるとわたしは思っている。そうだとしても、とにかく予想よりも状態がよくないことは確かだ。一刻も早く帰るために……申し訳ないが、父さんは馬に乗って行こうと思うんだ。幼いお前は馬に乗れないし、お前を乗せて走ると、疲れているお前は眠ってしまうだろうから、それを支えながら夜道を走るのも難しい」
「……はい……」
「騎士達と共に、1人で馬車を乗り継いで来てくれるかい?」
突然のことで、うまく返事が出来ない。が、父親の後ろに既に馬が用意されたようで「公爵様、お持ちしました」と声がかかる。父親は若い神官の名を呼んだ。
「わたし達は君を信じてここまで馬車に乗せて来た。乗らなくても良いといった君に恩着せがましいことをしたことは重々承知だし、身分もはっきりしない君に頼むのは正気の沙汰ではないのも承知しているのだが……」
「何も出来ませんが、お嬢様をお1人になさりたくないお気持ちはわかります。護衛騎士は引き続きつけていただけるんですよね?」
「ああ。わたしは使者と馬を走らせる。護衛騎士は馬を変えて引き続き守らせて、次の馬貸し屋で交代をする予定だ」
「わかりました。同行者なしで託されては荷が重いですが、1人でなければ。むしろ、引き続き馬車に乗ることを許していただき、ありがとうございます」
だが、父親は首を横に振る。
「礼はいらない……妻の命に関わることだったのでね。神官を無下に扱うと、よろしくない結果になるかもしれないと思ったんだよ。だが、残念ながらわたしは無神論者でね。都合が良い時だけ神頼みというのは、やはり、よろしくない。とはいえ、まだ諦めてはいないのでな。良ければ、君も馬車で祈ってくれると嬉しい」
そこまで話を聞いて、ようやくリーエンは無理矢理聞きわけが良い娘のようなことを口にした。
「お父様、わかりました。せめて、せめてお父様だけでも、一刻も早くお母様のところへ行ってさしあげてください。もしかしたら、お父様が間に合えばお母様も少しでもお元気になられるかもしれません。わたしなら大丈夫です」
「ありがとう。優しく、強い娘に育ってくれてありがとう。お前はお母様によく似ているよ」
そう言って父親はリーエンの額に、頬にキスをした。リーエンもまた、彼の額と頬にキスを返す。離れてからリーエンが頷くと、すぐに彼は用意された馬に乗り、使者と共に走り去っていく。
「リーエン様、馬車を乗り継ぐ前に、少し温かいものをお持ちしましょう」
「ありがとう」
護衛騎士に手伝ってもらって馬車から降りて、馬貸し屋の受付裏にある休憩所に案内される。夜風は冷たく、リーエンがぶるりと震えると、一緒に降りて来た神官がリーエンの方に彼のローブをかけてくれた。
「神官様が寒くなってしまわれます」
「わたしは大丈夫ですよ。それより、お嬢様が羽織るには綺麗ではないですが、内側は汚れていませんからお許しください」
「……ありがとうございます」
木の椅子に並んで座ると、御者は交代するらしくリーエンに挨拶をして、宿屋も兼ねている2階にあがっていってしまった。護衛騎士達は乗り継ぐ馬車の手配と、馬貸し屋の店員が飲み物を持って来るのを受付前で待っている。
「……あ……」
気付けば、リーエンの手はぶるぶると震えていた。それは、寒さのせいではない。
「大丈夫ですか」
神官に問われて、うまく返事が出来ずに、必死に震える手で震える手を押さえる。だが、どうしてもそれを止められない。自分の体が思う通りにならないことにリーエンは怯えて、ついに泣き出してしまう。
「し、神官様……」
「はい」
「手、手を、手を、握ってください……わたしが握っても……震えるだけでっ……震えてない手で、握って欲しいですっ……」
どういう道理なのか、どういった感情からだったのかは謎だが、リーエンは泣きながらそう言った。青年は返事もせずにしばらく困惑の表情でリーエンを見ていたが、やがて黙ったままリーエンの手を握ってくれたのだった。
リーエンは、10年前のあの夜のことをそんな風に今でも思い出すことが出来る。だからこそ、どうしても腑に落ちないことがある。
(どうして、あの時の神官様のお顔とお名前を全然覚えていないのかしら……)
後から父親に神官の名を尋ねて「エレナのことばかり考えていたせいか、思い出せないんだよ」と言われた。自分が覚えていないのに、自分より彼と一緒にいた時間が短い父が覚えているわけはないし、それは仕方がない。だが、名前はともかくとして顔を思い出せないことはどうにも腑に落ちない。リーエンは「人の顔を覚えるのは得意なのに」ともやもやとした気持ちを抱いたままだ。どうしても「忘れても仕方ないわね」と思えないのだ。
覚えていないから、忘れられない。そんな不思議な感覚は他にはない。
そのせいで、あの神官は間違いなくリーエンにとって特別な存在になっていた。特別な存在といっても、顔も思い出せない、顔を思い出せなければ正確に年齢の予想も出来ない。その頃のリーエンにとっては「大人」「すごく年取った大人」「子供」「子供と大人の間」ぐらいの判断しか出来なかったが、彼が「子供と大人の間」ぐらいだったような気がする。
とにかく、彼のことは色々曖昧だ。あの夜は色んな事が立て込んでいて初めて会う人々も多く強烈な一晩だった。ひとつひとつが強烈で忘れなさそうなことばかりなのに、それらが目まぐるし過ぎて記憶がごちゃついているのだから、一周回って曖昧になってもおかしくない……リーエンは無理矢理そう思い込もうとした。
だが。馬車に一緒に乗ったわけではない、あの夜限り世話になった騎士の顔をリーエンは覚えている。ならば、途中で一緒に馬車に乗っていた青年の顔を覚えていないなんて、やっぱりおかしいではないか。眠っていたとはいえ、あの晩に出会った誰よりも互いの顔を見ていたはずなのに。
その神官のことは何も知らない。ミランダが見せた奇跡の延長で、彼との出会いそのものは衝撃的だったし、別れ際に「祝福」とやらを与えてくれたことは驚いたが、彼自身の個人的なことをリーエンはまったく知らないま、別れた。口数は少ないけれど、少し優しく、1人で不安だった子供の自分に気を使ってくれていたことだけは覚えている。だが、本当にそれだけだ。だからといってそれは「覚えていない」「思い出せない」理由にはならない。
そんな、薄いような濃いような何とも言えない交流をした相手を思い出せないことは、長年リーエンの心にひっかかり続け、そのせいで時折ぽっと彼という存在を突然思い出してしまう。彼女にとっては、なんとも異質な記憶、異質な存在だ。当然、魔界に来てからも、彼女は彼の存在を忘れきることはなかった。
「家から持ってきていただけたのは、嬉しかったけれど……」
リーエンは、ダリルに持ってきてもらった母親の形見の指輪と姉とお揃いの手鏡を、大事なものをいれておこうと決めたチェストの引き出しにそっと片づけた。
魔界に来て数日経過したが、未だに家族ともう2度と会えないなんて信じられない。そのことを考えれば悲しくなるし、この先のことを考えても不安ばかり。
そんな状態で家族を思い出すものを与えられては、逆に寂しさがつのってしまう。寝なければ、と寝室に行ってベッドに横たわったものの、手鏡と指輪を直前まで見ては泣いていたのがよくなかったか、うまく眠りに入れない。
こんな風に心がざわつく夜、リーエンは神官と話した言葉を何度も思い出す。解けない謎を解こうと考えても、答えはきっと出てこない。だからこそ、安心して彼との会話を思い出して彼の顔を思い出そうと試みる。
試みて、試みて、けれどもそれはいつも徒労に終わって。
気付けば、疲れて眠っている。いつもそうだ。思い出せない不思議な記憶の彼は、そんな形で今でもリーエンを助けてくれる。今日は、彼が手を握ってくれたところまでゆっくりと思い出したが、彼との思い出はまだまだ続く。そう。そう思えば、あの一晩はどれほど濃密で、どれほどの時間彼と接していたのかと思えるのに。
(ああ、どうして思い出せないんだろう……一生思いだせないままなのかしら……)
何度も何度も、彼と共にいた時間を「これ以上忘れないように」と繰り返し思い出していると、少しずつ体が温かくなっていきうとうとと眠りに近づいていく。
ああ、目覚めたら全てが夢だったらいいのに。そう思いながらも「でも、どこからが夢なら良いんだろう」「もう、ここで出会った人たちを全て忘れることも寂しいと思う」なんて複雑な思いが生まれては消えて、生まれては消えて。
やがて、リーエンは疲れ果てて深い眠りについたのだった。
そのおかげで、何かがあるとすぐに連れ出されて行きたくもないパーティーに行くことが多かった。子供のうちは相手の名前を忘れてもごめんなさいで済む。その裏で兄や姉に「あの人はこの前お父様と仲良くお話していたひとよ」やら「さっきの人、お父様が苦手な伯爵夫人と仲良く話していらしたみたい」と、彼女自身は意味があるかわからない情報を提供して、よく褒められていたものだ。
10年前に母親が病で他界した時もそうだった。ダスカン国からの国賓がとある果樹園の見学を所望した。その果樹園を所有している伯爵から「褐色の肌を持つ国の人々の顔を見分けられないので、リーエン嬢に助けて欲しい」と打診があったので、幼いリーエンは父親と共に向かった。
リーエンの母親は生まれつき病弱で、リーエンの姉もあまり体が強くない。1年ほど前から国内の流行り病のせいで母親は何度か高熱を出していたが、それらの流行りも収まってきた頃だったので、父親がリーエンを連れて6日ほど家を空けることを誰も心配をしていなかった。
が、伯爵領に滞在をして3日目の夕方。突然母親が高熱を出して倒れたと知らせが入った。熱はどんどんあがっていき、流行り病とは症状が違うため王宮医師に出動依頼を出したほどだと聞いた。
伯爵とダスカン国の人々に謝罪をして慌てて2人が帰ろうと、伯爵邸のエントランスで人々に見送られている時。突然、ダスカン国の人々がざわつき出した。リーエンと年頃が変わらぬミランダ嬢の様子がおかしい。彼女を囲んだダスカン国の人々が「まさかここで!?」と動揺の声をあげた。国賓に何が起きたのだ、とリーエンの父親も様子を伺う。
「カスパーブルグ公爵、リーエン様、お待ちいただけますか。ミランダ様が今、天啓により歌をお歌いになります」
「天啓……?」
「天の声がミランダ様の歌を通して我々に届きますので、お静かにそのままで」
ミランダが「歌姫の家門」の「歌姫」の能力を持っていることは聞いていた。だが、みなそれは半信半疑だったので「本当に?」と大人たちも顔を見合わせている。
仕方なく急ぐ気持ちを抑えてリーエンと父親は退出を控えた。静かにミランダ達を見守っていると、やがてミランダ嬢が「わたしの歌よ誰かの道を照らしたまえ」と子供とは思えない凛とした声で言い放つ。彼女の周囲の付き人達はミランダから離れて、一切彼女を刺激しないようにと息を潜める。
幼い少女は息をすうっと吸ったかと思えば、次の瞬間その口から澄んだ美しい歌を放ち、空間を震わせ、人々の心を揺らした。
「……!」
まるで、彼女の歌が色を得たように、白い光がその空間のあちこちにきらきらと輝く。まるで歌声がベルを奏で、ベルの音色が光になっているようだ、とリーエンは思う。目の前に起きている出来事は「奇跡」なのだ、とリーエンは子供心に思った。それは彼女だけでなく、その場にいるすべての人間がその幻想的な光景に目が釘付けになり、言葉を発することが出来なくなっていた。
ミランダの歌が終わり、空間がしん、と静まり返ると白い光も消えてしまった。息を整えたミランダは、ぐるりとリーエンの方を向いた。なんだか、彼女の目は焦点があっていないようだ、とリーエンは感じる。
「リーエン様。天啓はあなたのために」
彼女の声は、歌い始める時と同じく凛とした声。突然自分の名を呼ばれて、リーエンはびくりと我に返る。
「わ、たし、に? な、何でしょう……?」
少女とは思えない、まるで経験を積んだ神官が朗々と神の教えを説くかのように言葉を続けるミランダ。
「あなたは近々、彷徨い困っている青年と出会い、その青年から生涯の助けを得るでしょう。ですが、青年を助けるかどうかは、あなたの意思で。それは大きな……」
彼女は最後まで言い切ることなく、その場で意識を失い、ぐらりと倒れる。同行している騎士が咄嗟に抱きかかえ、ゆっくりと膝をつく。
彼女が心配だし、言葉の続きも聞きたいし、けれども、早く屋敷に戻りたい。交錯する感情をリーエンも父親も抱いていたが、ミランダの付き人はが
「いつも天啓を得た後は一日中お眠りになるのです。カスパーブルグ公爵、ミランダ様が一族以外の者の天啓を得ることは非常に稀です。決して、今の言葉をお忘れなきよう」
と言い、更に「お気をつけてお帰りください」と送り出した。最後にきちんとミランダに挨拶できなかったことを残念に思いつつ、リーエンは父親と馬車に乗って伯爵領を離れた。
夕方から夜にかけて暗い森を抜けなければいけないと聞いて、リーエンの気持ちは滅入った。父親は幼いリーエンを気遣ってくれたが、それでも状況が状況のため、口数が少ない。馬車のボックス内の空気は重く、行きよりも急がせているせいか乗り心地も悪くて、なんだかそれだけで泣きたくなった記憶がある。
まだ夜になってなくても、枝が広がりながら高く伸びている樹ばかりの森は暗すぎて、リーエンは知らず知らずに眉間に皺をよせていた。小窓から外を見ても何も面白くないし、灯りのせいで窓に映った自分が「難しい顔」をしていることに気付いても、どうすることも出来ない。不安はやがて恐怖に少しずつ変化していく。どうしよう。お母様。王宮医師を呼ばなければいけないほどだなんて、余程のことだ。心配しても仕方がない、と父親は言ったが、それは「そう言うしかないから」だと子供心にわかっていた。
と、その時だった。突然馬車が止まり、外が騒がしくなる。暗い森の中で何か事故でもあったのだろうか。進めないような障害物でもあったのだろうか。父親が「わたしが見て来るから、お前はここでいい子に待っていなさい」と言って出ていく。
(怖い……どうしよう……ううん、どうも出来ない……早くお家に帰りたい……早くお母様にお会いしたい……お母様……お母様……)
泣きたい。
そう思った時、父親が戻ってきて、扉が開く。
「お父様」
「リーエン。我々に助けを求める人物が現れたよ」
「……え……」
「彼がミランダ様がおっしゃっていた青年なのか、それはお前が自分の目で見てごらん。確信を得たら、お前の意思で彼をどうするのか決めなさい」
父親に助けてもらいながら緊張面持ちで馬車を降りると、そこには。
身なりは平民のようだったが、どことなく品があり、貴族の子息と言ってもおかしくなさそうな、青年――というよりは青年と少年の中間と言うのがしっくりくる容姿だったが――がいて。
彼を見た瞬間、それまで味わったことがない衝撃をリーエンは受けた。つい先程「奇跡」を見たと思ったはずなのに、これはその延長なのかもしれない。だって、なんだか「そうだ」とわかるのだ。目の前にいる青年が、間違いなくミランダが言っていた人物なのだと、不思議と強烈に。
言葉にするとしたら「もし、これが運命というものならば、運命って人の姿をしているのね」。青年の情報はほとんどないし、当然、リーエンは「どんな人なんだろう」と思うだけでそれ以上の何もないはずだった。だが、ミランダの天啓のせいか、ただただ強烈に「運命だ」と感じるのだ。いや、それは後から言葉にしたらそうだった、というだけで、当時のリーエンはその衝撃が何なのかうまく理解が出来なかったのだが。
ただ、衝撃を受けて、なんだか高揚して。一刻も早く帰らなければいけないのに、ふわふわと不思議な気持ちになったことを覚えている。何かを伝えなければ、とミランダの話をまくしたてたり、彼を救うと自分が決めたことを伝えたり、多分そんなことをペラペラ話したような気がする。
道に迷って困っていたらしい青年は、巡礼中の神官のようだった。彼の目的地が父親の領地を更に越えた先だと聞いたので、屋敷までは共に行くことに勧めて馬車に乗ってもらった。その後は彼とあまり話す間もなく、父親に「寝なさい」と言われて眠って。
次に目覚めた時には馬車が止まっていて、父の姿がなかった。「乗り換えるのかしら」と体を起こすと神官は変わらず向かいの座席に座っている。「お父様は……?」と尋ねれば「馬車の乗り替え前に、お屋敷からの使者と合流したようです。あなたはまだ降りてはいけません」と答えてくれた。
「そうなの……? 使者……?」
もしかしたら、お母様の容体が良くなったと伝えに来てくれたのだろうか。そう思って窓から外を見れば、街道沿いの馬貸し屋の灯りがついており、父親や騎士達が何か話している姿が見えた。
「……!……」
すると、がくりと父親が地面に膝をつく。そんな彼を見たことがなかったリーエンは、息を飲んで窓に張り付いた。
「やだ……やだ……やだ、怖い……」
無意識に口から出た言葉。何か、とんでもないことが起きている。具体的に何なのかはわからないが、それだけはわかる。すると、神官は扉をバタンと開けて
「公爵様。お嬢様がお目覚めです」
と告げた。その時はまったくわからなかったけれど、後で思い出せば、きっと彼も何かを察していて、それ以上「娘が見てないと思っている」父親の姿をリーエンに見せないようにと配慮してくれたのだろう。彼は使用人でも何でもないのだから、わざわざリーエンの目覚めを伝える必要なぞなかったはずだ。
それでも、父親はすぐには戻らなかった。リーエンは不安に打ち勝つことが出来ずに、馬車の中でがたがたと震えて縮こまり、そんな彼女に神官は何も言わず、ただ一緒にいるだけだった。
「リーエン」
どれだけの時間が経過しただろうか。やたら長く思えたが、思うほどは長くなかったのかもしれない。
扉を開けたまま、父はボックスに乗り込まずにリーエンに語りかける。
「落ち着いて聞きなさい……ヘレナは……お前のお母様は危篤に陥って……医者の見立てては、朝までもたないとのことだ」
「え……」
「だが、誤診の可能性もあるとわたしは思っている。そうだとしても、とにかく予想よりも状態がよくないことは確かだ。一刻も早く帰るために……申し訳ないが、父さんは馬に乗って行こうと思うんだ。幼いお前は馬に乗れないし、お前を乗せて走ると、疲れているお前は眠ってしまうだろうから、それを支えながら夜道を走るのも難しい」
「……はい……」
「騎士達と共に、1人で馬車を乗り継いで来てくれるかい?」
突然のことで、うまく返事が出来ない。が、父親の後ろに既に馬が用意されたようで「公爵様、お持ちしました」と声がかかる。父親は若い神官の名を呼んだ。
「わたし達は君を信じてここまで馬車に乗せて来た。乗らなくても良いといった君に恩着せがましいことをしたことは重々承知だし、身分もはっきりしない君に頼むのは正気の沙汰ではないのも承知しているのだが……」
「何も出来ませんが、お嬢様をお1人になさりたくないお気持ちはわかります。護衛騎士は引き続きつけていただけるんですよね?」
「ああ。わたしは使者と馬を走らせる。護衛騎士は馬を変えて引き続き守らせて、次の馬貸し屋で交代をする予定だ」
「わかりました。同行者なしで託されては荷が重いですが、1人でなければ。むしろ、引き続き馬車に乗ることを許していただき、ありがとうございます」
だが、父親は首を横に振る。
「礼はいらない……妻の命に関わることだったのでね。神官を無下に扱うと、よろしくない結果になるかもしれないと思ったんだよ。だが、残念ながらわたしは無神論者でね。都合が良い時だけ神頼みというのは、やはり、よろしくない。とはいえ、まだ諦めてはいないのでな。良ければ、君も馬車で祈ってくれると嬉しい」
そこまで話を聞いて、ようやくリーエンは無理矢理聞きわけが良い娘のようなことを口にした。
「お父様、わかりました。せめて、せめてお父様だけでも、一刻も早くお母様のところへ行ってさしあげてください。もしかしたら、お父様が間に合えばお母様も少しでもお元気になられるかもしれません。わたしなら大丈夫です」
「ありがとう。優しく、強い娘に育ってくれてありがとう。お前はお母様によく似ているよ」
そう言って父親はリーエンの額に、頬にキスをした。リーエンもまた、彼の額と頬にキスを返す。離れてからリーエンが頷くと、すぐに彼は用意された馬に乗り、使者と共に走り去っていく。
「リーエン様、馬車を乗り継ぐ前に、少し温かいものをお持ちしましょう」
「ありがとう」
護衛騎士に手伝ってもらって馬車から降りて、馬貸し屋の受付裏にある休憩所に案内される。夜風は冷たく、リーエンがぶるりと震えると、一緒に降りて来た神官がリーエンの方に彼のローブをかけてくれた。
「神官様が寒くなってしまわれます」
「わたしは大丈夫ですよ。それより、お嬢様が羽織るには綺麗ではないですが、内側は汚れていませんからお許しください」
「……ありがとうございます」
木の椅子に並んで座ると、御者は交代するらしくリーエンに挨拶をして、宿屋も兼ねている2階にあがっていってしまった。護衛騎士達は乗り継ぐ馬車の手配と、馬貸し屋の店員が飲み物を持って来るのを受付前で待っている。
「……あ……」
気付けば、リーエンの手はぶるぶると震えていた。それは、寒さのせいではない。
「大丈夫ですか」
神官に問われて、うまく返事が出来ずに、必死に震える手で震える手を押さえる。だが、どうしてもそれを止められない。自分の体が思う通りにならないことにリーエンは怯えて、ついに泣き出してしまう。
「し、神官様……」
「はい」
「手、手を、手を、握ってください……わたしが握っても……震えるだけでっ……震えてない手で、握って欲しいですっ……」
どういう道理なのか、どういった感情からだったのかは謎だが、リーエンは泣きながらそう言った。青年は返事もせずにしばらく困惑の表情でリーエンを見ていたが、やがて黙ったままリーエンの手を握ってくれたのだった。
リーエンは、10年前のあの夜のことをそんな風に今でも思い出すことが出来る。だからこそ、どうしても腑に落ちないことがある。
(どうして、あの時の神官様のお顔とお名前を全然覚えていないのかしら……)
後から父親に神官の名を尋ねて「エレナのことばかり考えていたせいか、思い出せないんだよ」と言われた。自分が覚えていないのに、自分より彼と一緒にいた時間が短い父が覚えているわけはないし、それは仕方がない。だが、名前はともかくとして顔を思い出せないことはどうにも腑に落ちない。リーエンは「人の顔を覚えるのは得意なのに」ともやもやとした気持ちを抱いたままだ。どうしても「忘れても仕方ないわね」と思えないのだ。
覚えていないから、忘れられない。そんな不思議な感覚は他にはない。
そのせいで、あの神官は間違いなくリーエンにとって特別な存在になっていた。特別な存在といっても、顔も思い出せない、顔を思い出せなければ正確に年齢の予想も出来ない。その頃のリーエンにとっては「大人」「すごく年取った大人」「子供」「子供と大人の間」ぐらいの判断しか出来なかったが、彼が「子供と大人の間」ぐらいだったような気がする。
とにかく、彼のことは色々曖昧だ。あの夜は色んな事が立て込んでいて初めて会う人々も多く強烈な一晩だった。ひとつひとつが強烈で忘れなさそうなことばかりなのに、それらが目まぐるし過ぎて記憶がごちゃついているのだから、一周回って曖昧になってもおかしくない……リーエンは無理矢理そう思い込もうとした。
だが。馬車に一緒に乗ったわけではない、あの夜限り世話になった騎士の顔をリーエンは覚えている。ならば、途中で一緒に馬車に乗っていた青年の顔を覚えていないなんて、やっぱりおかしいではないか。眠っていたとはいえ、あの晩に出会った誰よりも互いの顔を見ていたはずなのに。
その神官のことは何も知らない。ミランダが見せた奇跡の延長で、彼との出会いそのものは衝撃的だったし、別れ際に「祝福」とやらを与えてくれたことは驚いたが、彼自身の個人的なことをリーエンはまったく知らないま、別れた。口数は少ないけれど、少し優しく、1人で不安だった子供の自分に気を使ってくれていたことだけは覚えている。だが、本当にそれだけだ。だからといってそれは「覚えていない」「思い出せない」理由にはならない。
そんな、薄いような濃いような何とも言えない交流をした相手を思い出せないことは、長年リーエンの心にひっかかり続け、そのせいで時折ぽっと彼という存在を突然思い出してしまう。彼女にとっては、なんとも異質な記憶、異質な存在だ。当然、魔界に来てからも、彼女は彼の存在を忘れきることはなかった。
「家から持ってきていただけたのは、嬉しかったけれど……」
リーエンは、ダリルに持ってきてもらった母親の形見の指輪と姉とお揃いの手鏡を、大事なものをいれておこうと決めたチェストの引き出しにそっと片づけた。
魔界に来て数日経過したが、未だに家族ともう2度と会えないなんて信じられない。そのことを考えれば悲しくなるし、この先のことを考えても不安ばかり。
そんな状態で家族を思い出すものを与えられては、逆に寂しさがつのってしまう。寝なければ、と寝室に行ってベッドに横たわったものの、手鏡と指輪を直前まで見ては泣いていたのがよくなかったか、うまく眠りに入れない。
こんな風に心がざわつく夜、リーエンは神官と話した言葉を何度も思い出す。解けない謎を解こうと考えても、答えはきっと出てこない。だからこそ、安心して彼との会話を思い出して彼の顔を思い出そうと試みる。
試みて、試みて、けれどもそれはいつも徒労に終わって。
気付けば、疲れて眠っている。いつもそうだ。思い出せない不思議な記憶の彼は、そんな形で今でもリーエンを助けてくれる。今日は、彼が手を握ってくれたところまでゆっくりと思い出したが、彼との思い出はまだまだ続く。そう。そう思えば、あの一晩はどれほど濃密で、どれほどの時間彼と接していたのかと思えるのに。
(ああ、どうして思い出せないんだろう……一生思いだせないままなのかしら……)
何度も何度も、彼と共にいた時間を「これ以上忘れないように」と繰り返し思い出していると、少しずつ体が温かくなっていきうとうとと眠りに近づいていく。
ああ、目覚めたら全てが夢だったらいいのに。そう思いながらも「でも、どこからが夢なら良いんだろう」「もう、ここで出会った人たちを全て忘れることも寂しいと思う」なんて複雑な思いが生まれては消えて、生まれては消えて。
やがて、リーエンは疲れ果てて深い眠りについたのだった。
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