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転章
転章 第三部 第二節
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「――――、ねえ。ねえ!」
吹きすさぶ風波に掻き消されると分かっていながらも、その名を呼ぶ。
ひたむきにティエゲは、呼びかけ続けていた。
「やめなよ。こわがりなって。それでいいんだから。だから……そんなことをしていたら、あんただって危ないったら」
「懐かしいなあ。思い出すよ。その名前」
飄呼そのものといった体で、振り向いてくる。
相手は、さも風来坊じみた旅装に似合う小憎らしい童顔を笑ませて、しかもえらく気楽そうに建物の縁に腰掛けてくれている……が、ここは真面に落下すれば死に損なうことは無かろう高所だ。箱庭と称される街にある、とある断トツの尖塔。更にその上に張られた突兀たる屋根である。時折、渺々たる悔踏区域からも突風が及び―――種がそれに乗ってきたものかペンペン草が瓦の間から一本生はえてひょろひょろと足元に靡いている―――、その豊かな漆黒の長髪をなぶっては、こちらの足元まで危うくよろめかせてくれる。
(まあ、あんたにとっての真面じゃ、ぐーすかぴーすか鼻ちょうちんプーにしてたところで、地べたまで落っこちやしないでしょーけどね)
まだらに白くなっている頭髪を押さえながら、ティエゲはしゃがみ込んだ。ポニーテールが好き勝手に跳ねている、相手の斜め後ろから―――なんとはなしにここに陣取ってしまうのは前攻後衛を組んでいた時の癖だ―――、歓言愉色とばかりに鼻歌を混じらせた雄弁を聞く。
「これだって声に出して喋るなんて久しぶりだ。なんていうか……落ち着くなあ」
「嫡流祖語句ね。忘れてなかったようで、なによりだわ」
「こうやって嫡流らしく君と通弁するのも、久しぶりだね。タぅヰゑで」
「そうね。まあ、訛らせといて、ティエゲで結構。どっちだって、元の綴りは同じだし」
「ふーん。じゃあティエゲ。ティエゲはさ、気にならないの?」
「なにが?」
「例えばさ。あいつら僕のこと、フラゾアインとしか言えないんだよ? アクセントも、アにつけるし。最初のヴと、ニ゛につくのが正しいのに」
「ベロばっかりは、生まれ育ちによっちゃうから、しょうがないよ。ヴラゾヴァニ゛ンなんて、そうそう使う言葉でもないんだし」
「ヴラゾヴァニ゛ン? そんな風に。ああもう」
「きらい?」
「だって、違うでしょう。なにもかも。なにもかも、だよ。根も葉もない嘘っぱちの方が、聞き流せる分まだ上出来さ」
「まあねえ」
「名前を中途半端に間違われるって、一番むかつく」
「存在を根底から棄損するという外法が、故意なく突発的に行われるんだ。そりゃ腹も立つってものさ」
「じゃあ怒りなよ」
「むかっ腹のたびに? いやだよ。みっともない。いい大人がするものじゃないでしょ。折り合いってのはね、他人の存在を認めた子どもから真っ先に取り掛かる通過儀礼だ―――大人になろうと目指すうちはね。だからこそ、大人になったと慢心した者から忘れてしまう」
「なんだよ。急に年長者ぶって」
ふん、と鼻を鳴らしてハミングもろとも会話を中座し、空中にて頬杖をついてみせる。そのせいで手先の角度が変わり、右手の中指にはめられていた指輪が不意に光った。それに目を射られたと見て、相手はつとそれに沈思を留め、あらためてしげしげと目の前にかざしてみせる。
それ自体は、ティエゲも隠して装備している。夜欠銀の指円環だ。
「この指輪も、ふたつも重ねた手袋の下じゃ、無いように感じていたけれど。空気に出すとひんやりとして―――気持ちいいかも」
「葬送銀貨だと勘違いされたらどーすんの?」
「はいはい」
言外の指図を聞き入れて手袋を戻しにかかる、その中途にてティエゲは尋ねた。
「ガロの三男坊。連れてかれちゃったね。あんたのこと喋るかな?」
「喋らないでしょ。大陸連盟からの指名手配者を隠匿していた罪で葬送銀貨に殺されるくらいなら、シヴツェイアどうこうの冤罪を呑んで、懲役やら罰金やら済ませた方が、まだしも平穏だ」
「取り調べていけば、どっかかんかで齟齬が発覚するんでない?」
「するだろうけれど、後継第一階梯は現にいるし、真相を知っている僕は、いい塩梅に虚実を語って、こうやって雲隠れ。だから、都合よくその空白に合うなら、あとづけだってこじつけされてくれるさ。煙に巻いたんだから、煙の中の正体が、へんちくりんでも大丈夫。むしろ多少は妙ちきりんなくらいで、流言飛語は倍加してくれる。そうなれば、ますます正体不明さ。願ったり叶ったりだよ」
「……ならやっぱり、ガロの三男坊は赤裸々に喋っちゃうんでない?」
「そうしたところで、どうしたって後継第一階梯はいるしなあ。だったら火あぶりにかけられる悪党がいてくれた方が逸話に貫禄がつくから、それなりの罪科は覆らないと思うよ。民衆だって、焼け石を投げ付けられる悪党が大好きだし、それは貧乏な小悪党よりも金持ちな大悪党の方が舌に美味い」
「人は見たものではなく、見たいものを信じる……か」
「なによりガロの三男坊当人からして、血と肉さえあれば貴族だってアタマだから、その骨肉を断たれる死刑だけは、絶対に避ける。だから黙秘を貫く。裁判を無視した超法規的な死刑執行を任された練成魔士を―――葬送銀貨を遣わされる可能性なんて、どうしたところで選ばない。貴族だもの。そういう意味で、往生際の良さは鉄板だ。仮令、焼け火箸を穴という穴に突っ込まれたところで耐え忍ぶ」
「……あっちっちなファイヤー系の拷問好きね?」
「別に。なんとなく赤毛とレッド仲間で同類項にまとめてみただけ。ティエゲは、糞食らえとかの方が好み?」
「ここでイエスって首を振れるほど、人道とプライド捨てちゃいないわよ」
「じゃあ八つ裂き?」
「それ極致死刑じゃん」
「あ。確かに。いや待って。裂くパーツと深度の選択によっては存命できる。しかも拷問も連立方程を成す解がある。そうだな。そうだよ。指先つま先から丁寧に皮膚を裂いて、筋肉層から真皮層上表皮を引き剥きつつ、生皮製の全身タイツの完成を目標に四肢から体幹へゴーすれば……」
「そのシナプスの延び加減からして間違ってんの」
「なにさ。閃かせておいて。無責任な言い出しっぺ」
ぶつくさ言っていたが脇道はそれで終えて、ティエゲはむうと鼻を鳴らした。
「あんたのこたぁ、あたしがもうとっくに隠匿してたのにねぇ。お前がいることを大陸連盟に密告するぞーなんて、あたしが揉み消しちゃうから、はなから脅迫ですらなかったのに。まんまとあんたの掌の上で、くるくる踊らされて」
「うん。うざったかったくらい景気よくクルクルぱーだった」
「あんたねえ。羽根の密売にまで荷担させといて」
「精巧な偽物ですって献上されたものが、まさか本物とは思わないよね。貴族とは言え、首都から追いやられた出来損ないの部屋住みじゃ、紅蓮の如き翼の頭衣なんて遠目で一度か二度くらいしか見たことなかったろうから、観察眼なんて望むべくもないけど」
「最初は本当に紛い物ものとして売りつけたんだろ?」
「そうだよ。雑な染色を施して、ぼろぼろの粗悪品にしていた。それから徐々に色染めを薄くして、偽物に仕上げる腕前が上がりましたってことにしたのさ。あの箱の中身を後継第二階梯に見られたのは計算外だったけど……それもこれも、君のせいじゃないか」
「ごめんごめん。だって、見たかったんだよ。見たこと無かったんだもの。経験消費ってやつ。罪作りにも、見とれてみたかったの。それだけ。ね?」
すっと細まった目付きが語る説教に逆らわず、降参の手つきを固めて片目を瞑る。そんなお茶目をどう見放したものか、相手の目線は再び方向を元に戻した―――実際に風景が眸底に落ちたはずもないが、はるかかなたにあるクア・ガロ・ジェジャルの邸宅へと。
どうやら有耶無耶に出来たと見計らって、会話を繋ぐ。
「【血肉の約定】の前から、盤上に飽きたのなら地上でお相手つかまつりますって、<彼に凝立する聖杯>を襲うように私兵を焚き付けたし」
「遊戯と騎獣の自慢をするから、それらしく拝借させてもらったんだ。僕の動向から、<彼に凝立する聖杯>の目を逸らす必要があったから。武装犯罪者を模した手前味噌な腕前の一団に急襲されるなんて、うってつけの胡散臭さだった。後継第二階梯の到着とかち合っちゃった時は、どんぴしゃ過ぎてはらはらさせられたけど、イーニア・ルブ・ゲインニャの毒殺疑惑が絡んでくれたおかげで、そっちの方へ総員が誘導されてくれた」
「取り調べの途中で貴族臭いなと勘付けば、交衢外逸警察ときたら、甘々だからねぇ。しかも、あんなド田舎とくれば」
「だから、中央から司左翼が派遣されるまで、ガロの三男坊への断罪はおあずけだった。首尾よくばっちり」
「貴族相手だから、司右翼が出しゃばってくるかもと思ったけど」
「唯任右総騎士は、詰め寄りはしただろう。けれども、こんな絶後の一大事を、あーんな身内猫可愛がりばっか横行させてる連中に任せられっこないさ。こうなると終戦直後以上に司左翼が幅を利かせ出すだろうから、軍閥にも風穴がぽっかり開いて、そこから波風もじゃんじゃん吹き込み、ざばざば内輪揉めがドンブラコするだろうねえ。おっもしろいなあ。にたにたしてしまおうか」
「一流に腹黒いねー。あんたって子は」
「それは最初から認めてるもの。あの子は言ってくれたけど、僕だって正直者で底意地も悪くない。だから、いいの」
「クア・ガロ・ジェジャル殿におかれましては、目を付けられた時点でお気の毒さまでした。南無三ナムサン」
「でもさぁ。僕は、当たるかもしれませんよってくじを差し出しただけで、言われるがまま引いたのはガロの三男坊だよ。当たりくじを引くのが貴族だなんて思ってるから、貧乏くじしかないようにイカサマされてるのに気づかなかった。それは、馬と鹿に違いがないとするのと同列の馬鹿だ。鋏と同じくらい、使い様で役に立ってくれた。ありがとう」
「素でお礼言うこと? それ」
「ありがたいことには、ありがとうくらい言うよ。正直者で、意地悪くない上、僕は常識人だ」
快活さながら、澄ましてみせる。
そして相手はティエゲの前で片手を広げ、薬指と小指を畳んでから、
「僕はね。馬鹿には三パターンあると思ってる」
「ふうん?」
「ひとつ、馬たる動物・鹿たる動物を知らない馬鹿。ふたつ、馬や鹿なんか見分けなくたっていいと甘く見ている馬鹿。みっつ、馬鹿はお前らだとあたりかまわず周りを指差すことで自分はノーマルだと優勢を思い込もうとしている馬鹿」
「ふーん」
「ガロの三男坊は、いい具合にみっつとも揃い踏みした傑作の頓馬だったからね。必要な時に、使いやすい鋏が手元にあったんだ。使うのは僕。ほうら、ありがたい。でしょう?」
手を下げながら、賛辞と愚弄をないまぜにし終えて、にっこりさせた横顔。
そこではなく、相手が見る先へと視線を並べて、ティエゲは小首を傾げた。
「これからどうなると思う?」
「なにが?」
「色々?」
「なんで訊くの。出題者としてやる気あるなら、出題範囲くらい絞ってくれない?」
「じゃあ。とりあえず、旗司誓」
「国家騒乱罪でなんらかのペナルティは課せられるだろうけれど。それにしたって、武器を貯め込むでもなく、衣紋栄えある羽織袴に一張羅を人数分ひと揃いさせただけだし。シェーラマータ・ア・ヴァラージャの箱庭で、かつらやターバンを取っ払って花魁道中したのだって、暴徒化してのデモ行進やヘイト・スピーチじゃあるまいに、法外とも思えない。王城に乗り込んだ時でさえ、騎獣に戦車ならまだしも、駄馬に馬車。その上、無手。しかも全部、予定変更もろとも事前に、王宮側には種明かししてあったしなあ」
「あんたが返書をそれにすり替えたからね」
「うん。だから……デモンストレーションした効果が切れて、もてはやされるようなちやほやが収まって以降、<彼に凝立する聖杯>は【血肉の約定】を履行した英雄として特別視されるようにはなるでしょうね。それからの動向で、命運が分かれると思う。さて、どうしてくれるのかなあ? このまま膨れ上がらせておくと、内部崩壊する日も近そうだけど、竜頭がちょん切られたから蛇尾サイズまで戻るかな。増長するにせよ委縮するにせよ、その際に分裂させず、失墜させない程度の劣化と腐敗で済ませておける神通力が、誰かさんにあるかどうか」
「旗幟にだけ靡く聖像も、自分らの先っちょより手が届かない高みまで献納されちゃったしねえ。堅物がひょんと巻き上げられた反動で、ぱーんと要から弾けて飛んでいきやしないかな?」
「うーん。そこまで堆く反感を練っていた奴がいたかな? いないな」
「飛んでかないの?」
「と、思う」
「なんで?」
「あの子は後継第二階梯へ自己紹介する際に、自分のことを正直者だと言っていたけれど、僕に言わせれば、臆病者だから馬鹿を見ない程度に正直なだけだったからね」
「……だから?」
「あの子は、圧政を敷いたり、槍玉を捏造したり、派閥同士の対立を煽ることで連帯を強固にしてたわけじゃない。讒訴をくれる部下の評価や褒美でさえ胸先三寸で差っ引くような みみっちい独裁すらしていなかった。そんな今までの恩顧を思えばこそ、出ていけない奴も多いんじゃないの。上に立つより、上の文句を言いながら下へ愚痴る方が無駄骨を折らなくていいよなあって煩悩くらい、誰しもあるでしょうに」
「成る程。引き絞られた弦でないなら、弓矢は放たれても足元どまりか」
「おそらくは」
「そしたら暫時も漸次も、何事も無かったかのように、いつも通りの旗司誓稼業?」
「そうだね。それもまた、強弩の末魯縞に入る能わず……に倣うかも分からないけど。臥薪嘗胆と決め込んで、アーギルシャイアの臍帯についての調査を煮詰め、決まり手になったら、今回とは違う趣向でリ・トライって線が妥当かな―――契約者が、落第を認めないのなら」
「契約? あんたが前に言ってた、先約ってやつ?」
「違うよ。違う。交わした……時期も、相手も」
不意に音程を落とした声色に、地雷を踏みかけたことを知る。
露骨だったかもしれないが、ティエゲは話を逸らした。
「契約って、なによ?」
「そうだね。今となっては―――革命前に、シヴツェイア・ザーニーイを強姦した上、最低でも体関節の八か所で分断し、頭部は最大四センチ角に粉砕するまで。もちろん個人を特定できる特徴的な瘢痕等は剥がすなり潰すなりした上、頭髪は焼き捨て、眼球は踏み砕く。密室にて迅速にこれらの作業を終えたなら、首より下部分は人目につく路肩近辺に、適度にランダムな距離を開けながら遺棄。首より上は、もっと入念に遺棄。これくらいでせいぜいじゃあないかなぁ、がきんちょの猿知恵でやっとかっと取れる及第点は」
太平楽とばかり続けて、やはり躊躇もなく、知悉した先を踏破していく。
ぷらりと垂らした実際のつま先と言えば、けんけんぱでもするように気楽そのまま ぴょこつかされているが。
「まあ旗司誓<彼に凝立する聖杯>頭領たる霹靂の死体だと判別できないくらい損壊してくれるんなら、丸ごと焼くのでも構わないけれど。それだと燃料や時間を多く要するし、体液を含んだ蛋白質が燃焼する際の独特の異音と異臭が広がりやすいから、耳目を引く危険率が上がる。臭骸と果てるまで隠し部屋に放置し自己溶解を待つのは、より一段と現実的じゃない。腐敗ガスによる悪臭はもとより、事態発覚される危機評価そのものが毎秒毎分比例するんだから、気長に構えるだけ足元をすくわれかねないし、大体にして悔踏区域外輪の気候ではミイラ化してしまうかも分からない。だったら、猟奇犯の毒牙にかかった厄運女の亡骸ってことで公衆の面前で死体の九割を弔って、首から上の一割を秘密裏に処分した方が、気取られるリスクは低い。嵩が少なければ、壊す手間暇も節約できる」
「あんたがしなよ。そんなの」
「したよ。ただし、僕の出来るように、した―――あの子は、これで守られる」
「守られる?」
「シヴツェイアだろうがザーニーイだろうが、王冠城デューバンザンガイツなら、王家は守り抜いてくれるでしょ。首を掻っ切って自殺しようとしたところで、絶対に延命してくれる。まかり間違っても、苦しめるだけで殺せないままちんたらと尺稼ぎを繰り返すだけの半可通な鈍瞎漢は郭清されている」
「まあ畢竟、小判鮫は鮫がいなくちゃくっつくアテに困るわな」
「精神的にも、王家の後継第一階梯でしかなくなれば、ザーニーイとシヴツェイアに引き裂かれることもない―――それだけでも、現状の方が格段に死の遠因を引き離してくれるよ。輓近じゃあの子の発作は、苛酷にしたって死線すれすれ過ぎた」
「発作って?」
「月経がくる都度、箍が外れて、気狂い任せに全力で暴発するんだ。三年前に攫われた際に負ったのだろう精神的外傷に、拍車をかけてくれる白痴の骨頂がいてね」
「白痴の骨頂とはまた辛辣ねえ」
「偏見じゃない。真正だよ。つけあがって開き直った末に首ったけなんてせせら笑いながら自白し出すド骨頂がド骨頂。だったから、そのおたんちんがそばにいるだけで、あの子の発作はエスカレートの一途だった。まったく、反抗期の後始末もつかない親指しゃぶりんこ爪カミカミの分際で、心臓と股間に毛が生えた程度で一丁前を気取ってくれる。ちゃん付け呼ばわりされるのすら気に食わないとかくっちゃべられた晩には、それはそれはもう ちゃんちゃらおかしくて涙が出るのを堪えてたから、ちゃんと大人になったらやめてあげるから安心なさいなんて言葉しか出なかったよ。いや出るか。あと一個。シッズァの馬鹿」
「シーちゃん?」
「いや、こっちの話。なんのせあの子の発作は、自傷を止めるためには他傷も辞さない……なんて陋劣極まる矛盾さえ起こし始めていた。このまま片輪になられでもしたら僕ひとりの手に負えないってば、アーギルシャイアでもないのにさあ。まさかの‘大公’ディエースゥアーが魔神ならオールマイティいざ知らず、こちとら たかが子爵だし」
「そりゃ、ゾウさん一頭に頼りっきりなんて粗略な綱渡りより、ちょくちょくパーツの入れ替えやメンテナンスが行き届くウジャウジャ蟻の大群を骨子にした方が、長い道のりは安泰だろうだけど」
「それに……うまくいけば、なかなか上等な王様になってくれるかもしれないよ。考え方によっては、双頭三肢の青鴉の旗幟から、国旗に持ち替えるだけのことなんだし。瑠璃も玻璃も照らせば光るって言うでしょう? 戦争のことも、アーギルシャイアの臍帯のことも踏まえた王が寡人政治の突端に誕生するなら、それこそ革命だ。しかも、一滴の血も流さず、ひとすじの剣戟も交えず、正真正銘の無血開城。八十も枝族を失った無二革命なんて、目じゃないよ。これ空前の―――天祐だ」
「……にしたって、危なっかしい演繹から帰納までやらかしてくれちゃって。この子は昔っから恣意的な専断が過ぎるってのよーもー。昔っから」
「古いとこまで混ぜっ返さないで欲しいなあ。結局は奇を衒った感じになっちゃったけど、僕だって最初から、こんな大それたことを企んだわけじゃないんだよ? 契約者をマネジメントしてもみたし―――どうにも挽回が追い付きそうにないと勘付いた時点から、旗司誓を組織化してみもした。でも、ねえー」
そこでいきなり、やり返していた弁難を消沈させて、きまり悪そうに狭い肩を落とす。
「あの思春期・青春期・青年期の群れに、カリスマ的な天稟があり過ぎる親玉を与えるのは危険だった。トップから以下一同までが同調して、当の親玉ではなく、親玉が帰依している清廉像―――旗幟に投影された美学に のめり込み、欣求のまま邁進するようになってしまった」
「千古万古の旗幟魂に火が付いたってことか」
「そうだよ……まったく墓場の火の玉ならそれらしくフワフワしていれば小利口なものを、頭領自ら安請け合いにも前線まで転がり出るのさえ鼓舞してくれる猪突猛進。愚直一直線。そうなってはあの子もザーニーイをやめられなくなって、気付いた時には霹靂なんて謳われてる始末だし。まあ吟遊詩人なんて、会派創立された当初から、碌なことしてくれた験しもないけどさあ。ガ・ガ・ウェーンゲアーファタイフの痛手は、尾を引くにしたって未だに愚かしい痛恨だったと、僕は思うね」
「あー。司書考究会ねえ。クリンツクリンチェの図書館……全知に赦免を、でしょ? 伝承歌人とどっちがマシなのか、やれやれ、だ」
ふと連想して、ティエゲは口を衝いた。
「やれやれと言えば。やれクリンツ派だ・やれクリンチェ派だって、今もごたごたしてるっぽいけど。長いよねえ。あそこも。千字文合戦」
「そんなのどうでもいいよ。どうでもよくないのは、霹靂まで昇華しょうかしてしまったあの子と……なのに、契約者すらシゾー・イェスカザをとめられないとくる。それだ」
言い切って、ため息ひとつでそれを片づけた。そして、慚愧に堪ないのか遺憾が極まったのか、かくんと前のめりに首を折る。そうやって一緒に落ちかけた黒髪の束を、またしても風が乱暴ながらすくい上げていく。
「だからこそ旗司誓<彼に凝立する聖杯>は、強大化の果てに純化そのものまで歯止めが利かなくなり、先祖返りを起こして、時代遅れの骨董品にまで退化してしまった」
「時代遅れ?」
「不幸な人がいたとして、それは、幸せな人から奪う理由になりはしないよ。打開は克己心のみに根差すべきだ。八年前の仇を討つことで、八年かけて取り戻した豊穣の新芽を抓むかもなんて、廃れた武士道にしたって冥頑不霊の那由多不可思議無量大数。あたりき車力の山椒の木、ブリキ狸の蓄音機。顰蹙たらたらだね。そもそも、アーギルシャイアの臍帯どころか、麻薬さえ知らずに暮らす太平の逸民がほとんどなんだ。江湖の処士の俗耳には、亡国の音よりも、正統な羽かぶりの後継第一階梯様が奇跡の生還をなされたっていう慶賀のゴシップがジャスト・フィット・サイズだよ。現王が死ぬだろうって時なんか、特にね」
「身の程知らずが、寝た子を起こすものじゃないってこと?」
「そう。麻薬の嫌疑にまつわる国家陰謀論なんて、都市伝説の尺寸として、ほかに虚栄心を満たせることがないマニアがネチネチとつついてればいいのさ―――聞こえが良いだけに、願望までないまぜになった、黒幕の実在を信じるままに」
「それが、もしかしたら実際にあった、国ひとつ揺るがす黒い秘密でも? しかも現在進行形でも?」
「だったらなおさら、そんな手前勝手ひとつぽっちで転覆されるなんて堪らないよ。八年かけて、船には船員と積み荷が満載なんだ。藻屑にするには、とっくに惜しい。大体にして、つんつん麻薬つっころがしてる手なんか、そのうち勝手に持ち崩すか、お縄にしょっ引かれるかするさ。つまり警察が取り締まる領分。ほっとけば良し」
「猥褻なことされて、麻薬漬けにされて、殺された上に食べられちゃう女の子は? 産まされた赤ちゃんは?」
「不幸なだけ」
「えー?」
「不幸な人だっただけ。だから幸せな人から奪う理由になりはしない。言ったでしょうに」
「えー?」
「頑是無いねえ。まだ不満? どこが? 未合意の性行為? 不本意な麻薬の使用? 意図された殺害事件? 意図せず食人食肉を犯した上での、意図せぬ胃袋への死体遺棄? 生まれついた性別? 親を選べなかったこと? そもそも世界に生まれたこと? どの不幸だって、この世にはありふれてるじゃないの。取るに足りない、どれを取ったところで変わり映えしない、バラエティすら昨日と同じものが、昨日とは違った誰かさんに降りかかるだけ。それが不幸。この世の地獄。もしくは日常。火事と喧嘩は江戸の華。でしょ」
「でしょーけどーも」
食い下がるのだが、相手はにべもない。
「しかもその他の犯罪と違って、計画的に何年かに一人、出るか出ないか。そんなのより、通り魔的な掏摸や暴漢の方が、よっぽど恒常性ある不幸だ。つまり警察が取り締まる領分。ほっとけば良し」
「世知辛いねえ」
「世知だからこそさ。小粒であるほど、ぴりりと辛い。これも不満だって言ってくれるのなら、僕だって鸚鵡になるだけさ。あたりき車力の山椒の木、ブリキ狸の―――」
「あいあい分かった分かった。It is what it isなら、It is WORLD it isなり、It is ROLD it isならん。つまるところ、ここは楽園じゃない」
「嫡流にしたって、あんまりにも飛躍した言い回しだね。It is what it isからして、That’s the way it isにしておかないと、また先生から石鹸と金束子で口の中洗われちゃうよ。いいの?」
「いくないわよー。そのうえ塩すりこんでくるに違いないものー。荒塩よ絶対。つぶつぶ硬い岩塩よー。決まってるものー」
「分かっているならしなければ?」
「はらはらドキドキしない遊びなんて遊びじゃないわ。それを遊びなんて言い聞かせる大人になっちゃ駄目。それは単なる、飼い慣らすための餌だから、与えられるがまま食べるだけカラダに毒。情報は身体の資本よ。頭が糖尿病になっちゃったら終わりだわ」
「はいはい」
「にしても……まあ、そうね。今いる大勢の乗船者は、八年前に開けられていたかもしれない船倉の穴や、密航者や失踪者なんて、引っ込んでるうちは無用の長物だ。うっちゃられにして、渡航を穏便に済ませるふうに考えた方が、前途洋々」
「そう。彼らには、望外に帆を膨らませてくれるシンボルが与えられた方がいいのさ―――羽が、ね」
「羽ねえ。紅蓮の如き翼の頭衣かあ。綺麗なもんだったね、あれ」
「でしょう?」
ぱっと得意げに顔色を上向かせて、隠そうともせず自画自賛を続行する。
「悔踏区域からの風に吹きっさらしにした ぼっさぼさの、単なる赤茶けた金ぴか枝毛だったのを、資金源にしないと成長期の鴉が餓死する、安全に横流しするからって泣きついて、丸坊主から僕が手入れし出してさあ。もともと器用だったけど、すっかり得意になっちゃったよ。おかげで、後継第二階梯にターバンを巻くのも楽勝だった。人生なにが役立つか分かったものじゃない」
「羽の手入れ、なんであんたが?」
「本人に任せてみた一回こっきりで懲りたから。横着すぎ」
「物臭なの? そんなことにさえ骨惜みするような無精者が、よくもまああんなでっかい組織の局長なんかこなせてたね」
「て言うか。あの子、整容ならまだしも、美容となると、からっきしなんだよね。自分の顔からして毛嫌いしてるから。発作のスターター・ピストルが頭突きだったくらいに、いっつも顔面から痣だらけ。よく鼻を折らなかったと思うよ。劈頭一番にしたって悪辣な漫談だ」
「えー? 異国人のあたしからしても目を引く別嬪さんなのに。もったいないねえ。諸悪の根源である実親の面影でも思い起こすのかしら?」
「さあ。なんのせ毎日毎日、頭衣を矯正すること……もう二年くらい? 丹精込めた甲斐あって、我ながらいい出来だった」
「でもさあ。あたしがあの子の立場だったら、王宮に乗り込む前に、頭は全部丸刈りにしちゃうけど。性別はまだしも、羽かぶりなんてばれちゃったら、取り返しがつかないから。どうしてそうしなかったんだろ?」
「あの子には僕が革命前の発作後から、外出せず人目を避けること・髪には一切触らないこと・声を出すのは最小限にすることの三ヶ条を、もっともらしい理由ずくで言いきかせておいたからね」
「…………うん?」
「まあ、だからこそ、あの子は僕に返書を預けるしかなかったんだけど―――元々悔踏区域外輪以外との直接的なやりとりは、あの子はほとんどしていなかったから、三ヶ条がなくたって僕のところに来たかな。習性で」
「そんだけ?」
目から鱗のティエゲと見合うと、相手はたっぷり頷きながら保証してくれた。
「そんだけだよ。裏表なく。だから、こわい」
「こわい?」
「習性だよ。探る裏がないから疑えないし、だから表立ってやってきた行いを信じるしかない、そんな杜撰な論断さ。今まで僕に培われてきた信頼という名の習性があったから、成せた業だ。これまでは、僕の言うとおりにしていさえすれば、円転滑脱に運ぶ展開ばっかりだった。だから今回もそうだろうって流されてしまった。本来、習性ってのは取扱注意の危険物なんだから、楽観視できたものじゃないのにね。こわいこわい。でしょう?」
「習性か。ありふれた鵜呑みって、こわいのは確かだ。なんせ、ありふれてるから。殺されても逃げない被虐児だって、それが日常だからって言う、ありふれた鵜呑みに支配されていた結果だろうし。汚い字でもまあいっかって渡されたメモを読み違えて、投薬間違いの末に中毒死させたり……なんて医療過誤も、それだしね。『死因? 下手糞な字だけど』って閻魔様から言われた日にゃあ、さすがの仏サンも成仏できないわなあ。死んだらみんな仏なのに」
「でも。露裏虫の甲油の使い道をカモフラージュするために、僕まで整髪する破目になったのだけは誤算だったかな。こんなに伸びちゃったし」
「まあ―――似合っちゃいる」
「もう切るよ。用済みだ。ジュサプブロスは身に着ければいい」
知らん顔の半兵衛を決め込んで、のらりくらりと、おべんちゃらとおためごかしばかり沈吟するティエゲの本意に、相手は気付かない。
だからそのまま、満ち足りた相好を空へ向ける。なにせ頂点なのだから、雲以外には、のぞむことを邪魔するものは、なにひとつたりとない。大空。今は陽光の中に溶けてしまっているとしても、……在るならば、星へ。この世にはない最果て、そこへ行ってしまった亡魂へ。
「約束は、これでいいよね? シザジアフ……」
次いで、同じく、もう届きはしない―――ただし、つい先ほどのそれとは決定的に違う、そんな独り言を埋葬した。
「―――そして。もういいよ。シゾー・イェスカザ。名ばかりの契約者……」
墓場の土のように、乾き切った冷たい寸評がかけられていく。
それが例え、贐られた温情であろうとも。埋葬は、済むまで、遂げられる。腐り果てることすら許されない者が、枯死するまでの残喘を見越しているからこそ……遂げられる。それは贐。かけがえない贐。
「かりそめなりに終われ……我が息子」
そして、立ち上がる。
ティエゲもまた、腰を上げた。そして、……見詰め合う。自分と同じくらいに、小柄な体躯。黒髪黒瞳。混血児。ひときわ柔和な目許と相違ない温和な口許は、変化に乏しいということだけを除いて危険なものではないと知らしめて来る―――その不変こそが、異彩な活眼であり、純粋な天賦であり、時に凡人には毒悪ともなりかねない無味無臭なのだと知らない者は、それを盤石の安寧だと信じる。ティエゲは、少しだけ疑える。練成魔士。死に神。指輪と指輪を重ね合わせて過ごした時代。どの確証も知り尽くしているとしても……それでも、いつだってこともなげに来訪するその瞬間を猜疑し、引き金が引かれることに打ち震えながら。引き金。
そのせりふがそうだったのか、今のティエゲには分からない。過去にも分からなかったからこそ、今ここにいる。あれこれと包含してしまって、後顧を憂いている。それが自分だから。
だから、のちに分かるとしても、……それを今は、こうして聞くしかない。加味を済ませ、議論せず、ただ敷衍もろともの結了を告げる、鶴のひと声。鳥はいない。鶴など知らない。けれども その声。
「終わったのさ。だからね、僕は君からの ちゃらっぽこな約束でさえ、もう守れるんだよ。さあ、ティエゲ。一緒に帰ろう。影踏みは遂げた。僕はデュアセラズロだ」
吹きすさぶ風波に掻き消されると分かっていながらも、その名を呼ぶ。
ひたむきにティエゲは、呼びかけ続けていた。
「やめなよ。こわがりなって。それでいいんだから。だから……そんなことをしていたら、あんただって危ないったら」
「懐かしいなあ。思い出すよ。その名前」
飄呼そのものといった体で、振り向いてくる。
相手は、さも風来坊じみた旅装に似合う小憎らしい童顔を笑ませて、しかもえらく気楽そうに建物の縁に腰掛けてくれている……が、ここは真面に落下すれば死に損なうことは無かろう高所だ。箱庭と称される街にある、とある断トツの尖塔。更にその上に張られた突兀たる屋根である。時折、渺々たる悔踏区域からも突風が及び―――種がそれに乗ってきたものかペンペン草が瓦の間から一本生はえてひょろひょろと足元に靡いている―――、その豊かな漆黒の長髪をなぶっては、こちらの足元まで危うくよろめかせてくれる。
(まあ、あんたにとっての真面じゃ、ぐーすかぴーすか鼻ちょうちんプーにしてたところで、地べたまで落っこちやしないでしょーけどね)
まだらに白くなっている頭髪を押さえながら、ティエゲはしゃがみ込んだ。ポニーテールが好き勝手に跳ねている、相手の斜め後ろから―――なんとはなしにここに陣取ってしまうのは前攻後衛を組んでいた時の癖だ―――、歓言愉色とばかりに鼻歌を混じらせた雄弁を聞く。
「これだって声に出して喋るなんて久しぶりだ。なんていうか……落ち着くなあ」
「嫡流祖語句ね。忘れてなかったようで、なによりだわ」
「こうやって嫡流らしく君と通弁するのも、久しぶりだね。タぅヰゑで」
「そうね。まあ、訛らせといて、ティエゲで結構。どっちだって、元の綴りは同じだし」
「ふーん。じゃあティエゲ。ティエゲはさ、気にならないの?」
「なにが?」
「例えばさ。あいつら僕のこと、フラゾアインとしか言えないんだよ? アクセントも、アにつけるし。最初のヴと、ニ゛につくのが正しいのに」
「ベロばっかりは、生まれ育ちによっちゃうから、しょうがないよ。ヴラゾヴァニ゛ンなんて、そうそう使う言葉でもないんだし」
「ヴラゾヴァニ゛ン? そんな風に。ああもう」
「きらい?」
「だって、違うでしょう。なにもかも。なにもかも、だよ。根も葉もない嘘っぱちの方が、聞き流せる分まだ上出来さ」
「まあねえ」
「名前を中途半端に間違われるって、一番むかつく」
「存在を根底から棄損するという外法が、故意なく突発的に行われるんだ。そりゃ腹も立つってものさ」
「じゃあ怒りなよ」
「むかっ腹のたびに? いやだよ。みっともない。いい大人がするものじゃないでしょ。折り合いってのはね、他人の存在を認めた子どもから真っ先に取り掛かる通過儀礼だ―――大人になろうと目指すうちはね。だからこそ、大人になったと慢心した者から忘れてしまう」
「なんだよ。急に年長者ぶって」
ふん、と鼻を鳴らしてハミングもろとも会話を中座し、空中にて頬杖をついてみせる。そのせいで手先の角度が変わり、右手の中指にはめられていた指輪が不意に光った。それに目を射られたと見て、相手はつとそれに沈思を留め、あらためてしげしげと目の前にかざしてみせる。
それ自体は、ティエゲも隠して装備している。夜欠銀の指円環だ。
「この指輪も、ふたつも重ねた手袋の下じゃ、無いように感じていたけれど。空気に出すとひんやりとして―――気持ちいいかも」
「葬送銀貨だと勘違いされたらどーすんの?」
「はいはい」
言外の指図を聞き入れて手袋を戻しにかかる、その中途にてティエゲは尋ねた。
「ガロの三男坊。連れてかれちゃったね。あんたのこと喋るかな?」
「喋らないでしょ。大陸連盟からの指名手配者を隠匿していた罪で葬送銀貨に殺されるくらいなら、シヴツェイアどうこうの冤罪を呑んで、懲役やら罰金やら済ませた方が、まだしも平穏だ」
「取り調べていけば、どっかかんかで齟齬が発覚するんでない?」
「するだろうけれど、後継第一階梯は現にいるし、真相を知っている僕は、いい塩梅に虚実を語って、こうやって雲隠れ。だから、都合よくその空白に合うなら、あとづけだってこじつけされてくれるさ。煙に巻いたんだから、煙の中の正体が、へんちくりんでも大丈夫。むしろ多少は妙ちきりんなくらいで、流言飛語は倍加してくれる。そうなれば、ますます正体不明さ。願ったり叶ったりだよ」
「……ならやっぱり、ガロの三男坊は赤裸々に喋っちゃうんでない?」
「そうしたところで、どうしたって後継第一階梯はいるしなあ。だったら火あぶりにかけられる悪党がいてくれた方が逸話に貫禄がつくから、それなりの罪科は覆らないと思うよ。民衆だって、焼け石を投げ付けられる悪党が大好きだし、それは貧乏な小悪党よりも金持ちな大悪党の方が舌に美味い」
「人は見たものではなく、見たいものを信じる……か」
「なによりガロの三男坊当人からして、血と肉さえあれば貴族だってアタマだから、その骨肉を断たれる死刑だけは、絶対に避ける。だから黙秘を貫く。裁判を無視した超法規的な死刑執行を任された練成魔士を―――葬送銀貨を遣わされる可能性なんて、どうしたところで選ばない。貴族だもの。そういう意味で、往生際の良さは鉄板だ。仮令、焼け火箸を穴という穴に突っ込まれたところで耐え忍ぶ」
「……あっちっちなファイヤー系の拷問好きね?」
「別に。なんとなく赤毛とレッド仲間で同類項にまとめてみただけ。ティエゲは、糞食らえとかの方が好み?」
「ここでイエスって首を振れるほど、人道とプライド捨てちゃいないわよ」
「じゃあ八つ裂き?」
「それ極致死刑じゃん」
「あ。確かに。いや待って。裂くパーツと深度の選択によっては存命できる。しかも拷問も連立方程を成す解がある。そうだな。そうだよ。指先つま先から丁寧に皮膚を裂いて、筋肉層から真皮層上表皮を引き剥きつつ、生皮製の全身タイツの完成を目標に四肢から体幹へゴーすれば……」
「そのシナプスの延び加減からして間違ってんの」
「なにさ。閃かせておいて。無責任な言い出しっぺ」
ぶつくさ言っていたが脇道はそれで終えて、ティエゲはむうと鼻を鳴らした。
「あんたのこたぁ、あたしがもうとっくに隠匿してたのにねぇ。お前がいることを大陸連盟に密告するぞーなんて、あたしが揉み消しちゃうから、はなから脅迫ですらなかったのに。まんまとあんたの掌の上で、くるくる踊らされて」
「うん。うざったかったくらい景気よくクルクルぱーだった」
「あんたねえ。羽根の密売にまで荷担させといて」
「精巧な偽物ですって献上されたものが、まさか本物とは思わないよね。貴族とは言え、首都から追いやられた出来損ないの部屋住みじゃ、紅蓮の如き翼の頭衣なんて遠目で一度か二度くらいしか見たことなかったろうから、観察眼なんて望むべくもないけど」
「最初は本当に紛い物ものとして売りつけたんだろ?」
「そうだよ。雑な染色を施して、ぼろぼろの粗悪品にしていた。それから徐々に色染めを薄くして、偽物に仕上げる腕前が上がりましたってことにしたのさ。あの箱の中身を後継第二階梯に見られたのは計算外だったけど……それもこれも、君のせいじゃないか」
「ごめんごめん。だって、見たかったんだよ。見たこと無かったんだもの。経験消費ってやつ。罪作りにも、見とれてみたかったの。それだけ。ね?」
すっと細まった目付きが語る説教に逆らわず、降参の手つきを固めて片目を瞑る。そんなお茶目をどう見放したものか、相手の目線は再び方向を元に戻した―――実際に風景が眸底に落ちたはずもないが、はるかかなたにあるクア・ガロ・ジェジャルの邸宅へと。
どうやら有耶無耶に出来たと見計らって、会話を繋ぐ。
「【血肉の約定】の前から、盤上に飽きたのなら地上でお相手つかまつりますって、<彼に凝立する聖杯>を襲うように私兵を焚き付けたし」
「遊戯と騎獣の自慢をするから、それらしく拝借させてもらったんだ。僕の動向から、<彼に凝立する聖杯>の目を逸らす必要があったから。武装犯罪者を模した手前味噌な腕前の一団に急襲されるなんて、うってつけの胡散臭さだった。後継第二階梯の到着とかち合っちゃった時は、どんぴしゃ過ぎてはらはらさせられたけど、イーニア・ルブ・ゲインニャの毒殺疑惑が絡んでくれたおかげで、そっちの方へ総員が誘導されてくれた」
「取り調べの途中で貴族臭いなと勘付けば、交衢外逸警察ときたら、甘々だからねぇ。しかも、あんなド田舎とくれば」
「だから、中央から司左翼が派遣されるまで、ガロの三男坊への断罪はおあずけだった。首尾よくばっちり」
「貴族相手だから、司右翼が出しゃばってくるかもと思ったけど」
「唯任右総騎士は、詰め寄りはしただろう。けれども、こんな絶後の一大事を、あーんな身内猫可愛がりばっか横行させてる連中に任せられっこないさ。こうなると終戦直後以上に司左翼が幅を利かせ出すだろうから、軍閥にも風穴がぽっかり開いて、そこから波風もじゃんじゃん吹き込み、ざばざば内輪揉めがドンブラコするだろうねえ。おっもしろいなあ。にたにたしてしまおうか」
「一流に腹黒いねー。あんたって子は」
「それは最初から認めてるもの。あの子は言ってくれたけど、僕だって正直者で底意地も悪くない。だから、いいの」
「クア・ガロ・ジェジャル殿におかれましては、目を付けられた時点でお気の毒さまでした。南無三ナムサン」
「でもさぁ。僕は、当たるかもしれませんよってくじを差し出しただけで、言われるがまま引いたのはガロの三男坊だよ。当たりくじを引くのが貴族だなんて思ってるから、貧乏くじしかないようにイカサマされてるのに気づかなかった。それは、馬と鹿に違いがないとするのと同列の馬鹿だ。鋏と同じくらい、使い様で役に立ってくれた。ありがとう」
「素でお礼言うこと? それ」
「ありがたいことには、ありがとうくらい言うよ。正直者で、意地悪くない上、僕は常識人だ」
快活さながら、澄ましてみせる。
そして相手はティエゲの前で片手を広げ、薬指と小指を畳んでから、
「僕はね。馬鹿には三パターンあると思ってる」
「ふうん?」
「ひとつ、馬たる動物・鹿たる動物を知らない馬鹿。ふたつ、馬や鹿なんか見分けなくたっていいと甘く見ている馬鹿。みっつ、馬鹿はお前らだとあたりかまわず周りを指差すことで自分はノーマルだと優勢を思い込もうとしている馬鹿」
「ふーん」
「ガロの三男坊は、いい具合にみっつとも揃い踏みした傑作の頓馬だったからね。必要な時に、使いやすい鋏が手元にあったんだ。使うのは僕。ほうら、ありがたい。でしょう?」
手を下げながら、賛辞と愚弄をないまぜにし終えて、にっこりさせた横顔。
そこではなく、相手が見る先へと視線を並べて、ティエゲは小首を傾げた。
「これからどうなると思う?」
「なにが?」
「色々?」
「なんで訊くの。出題者としてやる気あるなら、出題範囲くらい絞ってくれない?」
「じゃあ。とりあえず、旗司誓」
「国家騒乱罪でなんらかのペナルティは課せられるだろうけれど。それにしたって、武器を貯め込むでもなく、衣紋栄えある羽織袴に一張羅を人数分ひと揃いさせただけだし。シェーラマータ・ア・ヴァラージャの箱庭で、かつらやターバンを取っ払って花魁道中したのだって、暴徒化してのデモ行進やヘイト・スピーチじゃあるまいに、法外とも思えない。王城に乗り込んだ時でさえ、騎獣に戦車ならまだしも、駄馬に馬車。その上、無手。しかも全部、予定変更もろとも事前に、王宮側には種明かししてあったしなあ」
「あんたが返書をそれにすり替えたからね」
「うん。だから……デモンストレーションした効果が切れて、もてはやされるようなちやほやが収まって以降、<彼に凝立する聖杯>は【血肉の約定】を履行した英雄として特別視されるようにはなるでしょうね。それからの動向で、命運が分かれると思う。さて、どうしてくれるのかなあ? このまま膨れ上がらせておくと、内部崩壊する日も近そうだけど、竜頭がちょん切られたから蛇尾サイズまで戻るかな。増長するにせよ委縮するにせよ、その際に分裂させず、失墜させない程度の劣化と腐敗で済ませておける神通力が、誰かさんにあるかどうか」
「旗幟にだけ靡く聖像も、自分らの先っちょより手が届かない高みまで献納されちゃったしねえ。堅物がひょんと巻き上げられた反動で、ぱーんと要から弾けて飛んでいきやしないかな?」
「うーん。そこまで堆く反感を練っていた奴がいたかな? いないな」
「飛んでかないの?」
「と、思う」
「なんで?」
「あの子は後継第二階梯へ自己紹介する際に、自分のことを正直者だと言っていたけれど、僕に言わせれば、臆病者だから馬鹿を見ない程度に正直なだけだったからね」
「……だから?」
「あの子は、圧政を敷いたり、槍玉を捏造したり、派閥同士の対立を煽ることで連帯を強固にしてたわけじゃない。讒訴をくれる部下の評価や褒美でさえ胸先三寸で差っ引くような みみっちい独裁すらしていなかった。そんな今までの恩顧を思えばこそ、出ていけない奴も多いんじゃないの。上に立つより、上の文句を言いながら下へ愚痴る方が無駄骨を折らなくていいよなあって煩悩くらい、誰しもあるでしょうに」
「成る程。引き絞られた弦でないなら、弓矢は放たれても足元どまりか」
「おそらくは」
「そしたら暫時も漸次も、何事も無かったかのように、いつも通りの旗司誓稼業?」
「そうだね。それもまた、強弩の末魯縞に入る能わず……に倣うかも分からないけど。臥薪嘗胆と決め込んで、アーギルシャイアの臍帯についての調査を煮詰め、決まり手になったら、今回とは違う趣向でリ・トライって線が妥当かな―――契約者が、落第を認めないのなら」
「契約? あんたが前に言ってた、先約ってやつ?」
「違うよ。違う。交わした……時期も、相手も」
不意に音程を落とした声色に、地雷を踏みかけたことを知る。
露骨だったかもしれないが、ティエゲは話を逸らした。
「契約って、なによ?」
「そうだね。今となっては―――革命前に、シヴツェイア・ザーニーイを強姦した上、最低でも体関節の八か所で分断し、頭部は最大四センチ角に粉砕するまで。もちろん個人を特定できる特徴的な瘢痕等は剥がすなり潰すなりした上、頭髪は焼き捨て、眼球は踏み砕く。密室にて迅速にこれらの作業を終えたなら、首より下部分は人目につく路肩近辺に、適度にランダムな距離を開けながら遺棄。首より上は、もっと入念に遺棄。これくらいでせいぜいじゃあないかなぁ、がきんちょの猿知恵でやっとかっと取れる及第点は」
太平楽とばかり続けて、やはり躊躇もなく、知悉した先を踏破していく。
ぷらりと垂らした実際のつま先と言えば、けんけんぱでもするように気楽そのまま ぴょこつかされているが。
「まあ旗司誓<彼に凝立する聖杯>頭領たる霹靂の死体だと判別できないくらい損壊してくれるんなら、丸ごと焼くのでも構わないけれど。それだと燃料や時間を多く要するし、体液を含んだ蛋白質が燃焼する際の独特の異音と異臭が広がりやすいから、耳目を引く危険率が上がる。臭骸と果てるまで隠し部屋に放置し自己溶解を待つのは、より一段と現実的じゃない。腐敗ガスによる悪臭はもとより、事態発覚される危機評価そのものが毎秒毎分比例するんだから、気長に構えるだけ足元をすくわれかねないし、大体にして悔踏区域外輪の気候ではミイラ化してしまうかも分からない。だったら、猟奇犯の毒牙にかかった厄運女の亡骸ってことで公衆の面前で死体の九割を弔って、首から上の一割を秘密裏に処分した方が、気取られるリスクは低い。嵩が少なければ、壊す手間暇も節約できる」
「あんたがしなよ。そんなの」
「したよ。ただし、僕の出来るように、した―――あの子は、これで守られる」
「守られる?」
「シヴツェイアだろうがザーニーイだろうが、王冠城デューバンザンガイツなら、王家は守り抜いてくれるでしょ。首を掻っ切って自殺しようとしたところで、絶対に延命してくれる。まかり間違っても、苦しめるだけで殺せないままちんたらと尺稼ぎを繰り返すだけの半可通な鈍瞎漢は郭清されている」
「まあ畢竟、小判鮫は鮫がいなくちゃくっつくアテに困るわな」
「精神的にも、王家の後継第一階梯でしかなくなれば、ザーニーイとシヴツェイアに引き裂かれることもない―――それだけでも、現状の方が格段に死の遠因を引き離してくれるよ。輓近じゃあの子の発作は、苛酷にしたって死線すれすれ過ぎた」
「発作って?」
「月経がくる都度、箍が外れて、気狂い任せに全力で暴発するんだ。三年前に攫われた際に負ったのだろう精神的外傷に、拍車をかけてくれる白痴の骨頂がいてね」
「白痴の骨頂とはまた辛辣ねえ」
「偏見じゃない。真正だよ。つけあがって開き直った末に首ったけなんてせせら笑いながら自白し出すド骨頂がド骨頂。だったから、そのおたんちんがそばにいるだけで、あの子の発作はエスカレートの一途だった。まったく、反抗期の後始末もつかない親指しゃぶりんこ爪カミカミの分際で、心臓と股間に毛が生えた程度で一丁前を気取ってくれる。ちゃん付け呼ばわりされるのすら気に食わないとかくっちゃべられた晩には、それはそれはもう ちゃんちゃらおかしくて涙が出るのを堪えてたから、ちゃんと大人になったらやめてあげるから安心なさいなんて言葉しか出なかったよ。いや出るか。あと一個。シッズァの馬鹿」
「シーちゃん?」
「いや、こっちの話。なんのせあの子の発作は、自傷を止めるためには他傷も辞さない……なんて陋劣極まる矛盾さえ起こし始めていた。このまま片輪になられでもしたら僕ひとりの手に負えないってば、アーギルシャイアでもないのにさあ。まさかの‘大公’ディエースゥアーが魔神ならオールマイティいざ知らず、こちとら たかが子爵だし」
「そりゃ、ゾウさん一頭に頼りっきりなんて粗略な綱渡りより、ちょくちょくパーツの入れ替えやメンテナンスが行き届くウジャウジャ蟻の大群を骨子にした方が、長い道のりは安泰だろうだけど」
「それに……うまくいけば、なかなか上等な王様になってくれるかもしれないよ。考え方によっては、双頭三肢の青鴉の旗幟から、国旗に持ち替えるだけのことなんだし。瑠璃も玻璃も照らせば光るって言うでしょう? 戦争のことも、アーギルシャイアの臍帯のことも踏まえた王が寡人政治の突端に誕生するなら、それこそ革命だ。しかも、一滴の血も流さず、ひとすじの剣戟も交えず、正真正銘の無血開城。八十も枝族を失った無二革命なんて、目じゃないよ。これ空前の―――天祐だ」
「……にしたって、危なっかしい演繹から帰納までやらかしてくれちゃって。この子は昔っから恣意的な専断が過ぎるってのよーもー。昔っから」
「古いとこまで混ぜっ返さないで欲しいなあ。結局は奇を衒った感じになっちゃったけど、僕だって最初から、こんな大それたことを企んだわけじゃないんだよ? 契約者をマネジメントしてもみたし―――どうにも挽回が追い付きそうにないと勘付いた時点から、旗司誓を組織化してみもした。でも、ねえー」
そこでいきなり、やり返していた弁難を消沈させて、きまり悪そうに狭い肩を落とす。
「あの思春期・青春期・青年期の群れに、カリスマ的な天稟があり過ぎる親玉を与えるのは危険だった。トップから以下一同までが同調して、当の親玉ではなく、親玉が帰依している清廉像―――旗幟に投影された美学に のめり込み、欣求のまま邁進するようになってしまった」
「千古万古の旗幟魂に火が付いたってことか」
「そうだよ……まったく墓場の火の玉ならそれらしくフワフワしていれば小利口なものを、頭領自ら安請け合いにも前線まで転がり出るのさえ鼓舞してくれる猪突猛進。愚直一直線。そうなってはあの子もザーニーイをやめられなくなって、気付いた時には霹靂なんて謳われてる始末だし。まあ吟遊詩人なんて、会派創立された当初から、碌なことしてくれた験しもないけどさあ。ガ・ガ・ウェーンゲアーファタイフの痛手は、尾を引くにしたって未だに愚かしい痛恨だったと、僕は思うね」
「あー。司書考究会ねえ。クリンツクリンチェの図書館……全知に赦免を、でしょ? 伝承歌人とどっちがマシなのか、やれやれ、だ」
ふと連想して、ティエゲは口を衝いた。
「やれやれと言えば。やれクリンツ派だ・やれクリンチェ派だって、今もごたごたしてるっぽいけど。長いよねえ。あそこも。千字文合戦」
「そんなのどうでもいいよ。どうでもよくないのは、霹靂まで昇華しょうかしてしまったあの子と……なのに、契約者すらシゾー・イェスカザをとめられないとくる。それだ」
言い切って、ため息ひとつでそれを片づけた。そして、慚愧に堪ないのか遺憾が極まったのか、かくんと前のめりに首を折る。そうやって一緒に落ちかけた黒髪の束を、またしても風が乱暴ながらすくい上げていく。
「だからこそ旗司誓<彼に凝立する聖杯>は、強大化の果てに純化そのものまで歯止めが利かなくなり、先祖返りを起こして、時代遅れの骨董品にまで退化してしまった」
「時代遅れ?」
「不幸な人がいたとして、それは、幸せな人から奪う理由になりはしないよ。打開は克己心のみに根差すべきだ。八年前の仇を討つことで、八年かけて取り戻した豊穣の新芽を抓むかもなんて、廃れた武士道にしたって冥頑不霊の那由多不可思議無量大数。あたりき車力の山椒の木、ブリキ狸の蓄音機。顰蹙たらたらだね。そもそも、アーギルシャイアの臍帯どころか、麻薬さえ知らずに暮らす太平の逸民がほとんどなんだ。江湖の処士の俗耳には、亡国の音よりも、正統な羽かぶりの後継第一階梯様が奇跡の生還をなされたっていう慶賀のゴシップがジャスト・フィット・サイズだよ。現王が死ぬだろうって時なんか、特にね」
「身の程知らずが、寝た子を起こすものじゃないってこと?」
「そう。麻薬の嫌疑にまつわる国家陰謀論なんて、都市伝説の尺寸として、ほかに虚栄心を満たせることがないマニアがネチネチとつついてればいいのさ―――聞こえが良いだけに、願望までないまぜになった、黒幕の実在を信じるままに」
「それが、もしかしたら実際にあった、国ひとつ揺るがす黒い秘密でも? しかも現在進行形でも?」
「だったらなおさら、そんな手前勝手ひとつぽっちで転覆されるなんて堪らないよ。八年かけて、船には船員と積み荷が満載なんだ。藻屑にするには、とっくに惜しい。大体にして、つんつん麻薬つっころがしてる手なんか、そのうち勝手に持ち崩すか、お縄にしょっ引かれるかするさ。つまり警察が取り締まる領分。ほっとけば良し」
「猥褻なことされて、麻薬漬けにされて、殺された上に食べられちゃう女の子は? 産まされた赤ちゃんは?」
「不幸なだけ」
「えー?」
「不幸な人だっただけ。だから幸せな人から奪う理由になりはしない。言ったでしょうに」
「えー?」
「頑是無いねえ。まだ不満? どこが? 未合意の性行為? 不本意な麻薬の使用? 意図された殺害事件? 意図せず食人食肉を犯した上での、意図せぬ胃袋への死体遺棄? 生まれついた性別? 親を選べなかったこと? そもそも世界に生まれたこと? どの不幸だって、この世にはありふれてるじゃないの。取るに足りない、どれを取ったところで変わり映えしない、バラエティすら昨日と同じものが、昨日とは違った誰かさんに降りかかるだけ。それが不幸。この世の地獄。もしくは日常。火事と喧嘩は江戸の華。でしょ」
「でしょーけどーも」
食い下がるのだが、相手はにべもない。
「しかもその他の犯罪と違って、計画的に何年かに一人、出るか出ないか。そんなのより、通り魔的な掏摸や暴漢の方が、よっぽど恒常性ある不幸だ。つまり警察が取り締まる領分。ほっとけば良し」
「世知辛いねえ」
「世知だからこそさ。小粒であるほど、ぴりりと辛い。これも不満だって言ってくれるのなら、僕だって鸚鵡になるだけさ。あたりき車力の山椒の木、ブリキ狸の―――」
「あいあい分かった分かった。It is what it isなら、It is WORLD it isなり、It is ROLD it isならん。つまるところ、ここは楽園じゃない」
「嫡流にしたって、あんまりにも飛躍した言い回しだね。It is what it isからして、That’s the way it isにしておかないと、また先生から石鹸と金束子で口の中洗われちゃうよ。いいの?」
「いくないわよー。そのうえ塩すりこんでくるに違いないものー。荒塩よ絶対。つぶつぶ硬い岩塩よー。決まってるものー」
「分かっているならしなければ?」
「はらはらドキドキしない遊びなんて遊びじゃないわ。それを遊びなんて言い聞かせる大人になっちゃ駄目。それは単なる、飼い慣らすための餌だから、与えられるがまま食べるだけカラダに毒。情報は身体の資本よ。頭が糖尿病になっちゃったら終わりだわ」
「はいはい」
「にしても……まあ、そうね。今いる大勢の乗船者は、八年前に開けられていたかもしれない船倉の穴や、密航者や失踪者なんて、引っ込んでるうちは無用の長物だ。うっちゃられにして、渡航を穏便に済ませるふうに考えた方が、前途洋々」
「そう。彼らには、望外に帆を膨らませてくれるシンボルが与えられた方がいいのさ―――羽が、ね」
「羽ねえ。紅蓮の如き翼の頭衣かあ。綺麗なもんだったね、あれ」
「でしょう?」
ぱっと得意げに顔色を上向かせて、隠そうともせず自画自賛を続行する。
「悔踏区域からの風に吹きっさらしにした ぼっさぼさの、単なる赤茶けた金ぴか枝毛だったのを、資金源にしないと成長期の鴉が餓死する、安全に横流しするからって泣きついて、丸坊主から僕が手入れし出してさあ。もともと器用だったけど、すっかり得意になっちゃったよ。おかげで、後継第二階梯にターバンを巻くのも楽勝だった。人生なにが役立つか分かったものじゃない」
「羽の手入れ、なんであんたが?」
「本人に任せてみた一回こっきりで懲りたから。横着すぎ」
「物臭なの? そんなことにさえ骨惜みするような無精者が、よくもまああんなでっかい組織の局長なんかこなせてたね」
「て言うか。あの子、整容ならまだしも、美容となると、からっきしなんだよね。自分の顔からして毛嫌いしてるから。発作のスターター・ピストルが頭突きだったくらいに、いっつも顔面から痣だらけ。よく鼻を折らなかったと思うよ。劈頭一番にしたって悪辣な漫談だ」
「えー? 異国人のあたしからしても目を引く別嬪さんなのに。もったいないねえ。諸悪の根源である実親の面影でも思い起こすのかしら?」
「さあ。なんのせ毎日毎日、頭衣を矯正すること……もう二年くらい? 丹精込めた甲斐あって、我ながらいい出来だった」
「でもさあ。あたしがあの子の立場だったら、王宮に乗り込む前に、頭は全部丸刈りにしちゃうけど。性別はまだしも、羽かぶりなんてばれちゃったら、取り返しがつかないから。どうしてそうしなかったんだろ?」
「あの子には僕が革命前の発作後から、外出せず人目を避けること・髪には一切触らないこと・声を出すのは最小限にすることの三ヶ条を、もっともらしい理由ずくで言いきかせておいたからね」
「…………うん?」
「まあ、だからこそ、あの子は僕に返書を預けるしかなかったんだけど―――元々悔踏区域外輪以外との直接的なやりとりは、あの子はほとんどしていなかったから、三ヶ条がなくたって僕のところに来たかな。習性で」
「そんだけ?」
目から鱗のティエゲと見合うと、相手はたっぷり頷きながら保証してくれた。
「そんだけだよ。裏表なく。だから、こわい」
「こわい?」
「習性だよ。探る裏がないから疑えないし、だから表立ってやってきた行いを信じるしかない、そんな杜撰な論断さ。今まで僕に培われてきた信頼という名の習性があったから、成せた業だ。これまでは、僕の言うとおりにしていさえすれば、円転滑脱に運ぶ展開ばっかりだった。だから今回もそうだろうって流されてしまった。本来、習性ってのは取扱注意の危険物なんだから、楽観視できたものじゃないのにね。こわいこわい。でしょう?」
「習性か。ありふれた鵜呑みって、こわいのは確かだ。なんせ、ありふれてるから。殺されても逃げない被虐児だって、それが日常だからって言う、ありふれた鵜呑みに支配されていた結果だろうし。汚い字でもまあいっかって渡されたメモを読み違えて、投薬間違いの末に中毒死させたり……なんて医療過誤も、それだしね。『死因? 下手糞な字だけど』って閻魔様から言われた日にゃあ、さすがの仏サンも成仏できないわなあ。死んだらみんな仏なのに」
「でも。露裏虫の甲油の使い道をカモフラージュするために、僕まで整髪する破目になったのだけは誤算だったかな。こんなに伸びちゃったし」
「まあ―――似合っちゃいる」
「もう切るよ。用済みだ。ジュサプブロスは身に着ければいい」
知らん顔の半兵衛を決め込んで、のらりくらりと、おべんちゃらとおためごかしばかり沈吟するティエゲの本意に、相手は気付かない。
だからそのまま、満ち足りた相好を空へ向ける。なにせ頂点なのだから、雲以外には、のぞむことを邪魔するものは、なにひとつたりとない。大空。今は陽光の中に溶けてしまっているとしても、……在るならば、星へ。この世にはない最果て、そこへ行ってしまった亡魂へ。
「約束は、これでいいよね? シザジアフ……」
次いで、同じく、もう届きはしない―――ただし、つい先ほどのそれとは決定的に違う、そんな独り言を埋葬した。
「―――そして。もういいよ。シゾー・イェスカザ。名ばかりの契約者……」
墓場の土のように、乾き切った冷たい寸評がかけられていく。
それが例え、贐られた温情であろうとも。埋葬は、済むまで、遂げられる。腐り果てることすら許されない者が、枯死するまでの残喘を見越しているからこそ……遂げられる。それは贐。かけがえない贐。
「かりそめなりに終われ……我が息子」
そして、立ち上がる。
ティエゲもまた、腰を上げた。そして、……見詰め合う。自分と同じくらいに、小柄な体躯。黒髪黒瞳。混血児。ひときわ柔和な目許と相違ない温和な口許は、変化に乏しいということだけを除いて危険なものではないと知らしめて来る―――その不変こそが、異彩な活眼であり、純粋な天賦であり、時に凡人には毒悪ともなりかねない無味無臭なのだと知らない者は、それを盤石の安寧だと信じる。ティエゲは、少しだけ疑える。練成魔士。死に神。指輪と指輪を重ね合わせて過ごした時代。どの確証も知り尽くしているとしても……それでも、いつだってこともなげに来訪するその瞬間を猜疑し、引き金が引かれることに打ち震えながら。引き金。
そのせりふがそうだったのか、今のティエゲには分からない。過去にも分からなかったからこそ、今ここにいる。あれこれと包含してしまって、後顧を憂いている。それが自分だから。
だから、のちに分かるとしても、……それを今は、こうして聞くしかない。加味を済ませ、議論せず、ただ敷衍もろともの結了を告げる、鶴のひと声。鳥はいない。鶴など知らない。けれども その声。
「終わったのさ。だからね、僕は君からの ちゃらっぽこな約束でさえ、もう守れるんだよ。さあ、ティエゲ。一緒に帰ろう。影踏みは遂げた。僕はデュアセラズロだ」
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