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承章
承章 第四部 第三節
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(……眠れない)
それにも飽きて、手持ち無沙汰に、キルルはもそりと身を起こした。
燈明は落としていた。寝台に下げられた天蓋をどけてしまえば、窓から見える月の位置は低い。まだ夜半にもなるまいが、夕飯を胃に感じなくなるくらいの時間は経過していた。ここでは上等なのだろう重たい上掛けに愛着もへったくれもないが―――そもそもこの広さの客間においてベッドが中央に置かれていないセンスの悪さからして気に入らないのだ、自分は―――、それでも今になって苦情が溢れるほど不満なわけでもなく、ただ邪魔っ気を感じて、ぐいぐい押し込める。我知らず、気が立っているのかもしれない。
(そうよね……お姉ちゃんを見つけちゃったのかも分からないんだもの……)
箱の中に隠されていた、紅蓮の如き翼の頭衣。それを意識すればするほど、ゼラについて、ゼラ・イェスカザだからで済まされない事実が余程あるように疑われてしまう。
(あたしの頭を整髪する手つきが手早くて慣れていたのは、羽の手入れをした期間があったからなんじゃないの?)
その人は、実際に今も長髪なのだから、その扱いが慣れていたところで自明の理と言えたが。
(例えば、イェスカザ家の当主は、別にいて。ゼラさんもシゾーさんも、その人の養子なのだとしたら。シゾーさんが三年前に、ふっつりと姿を消したのは……その人の指示なんじゃ……)
ゼラ。分身。表裏。影。双子。それは古語だ―――過去からの曰くある存在、それを唆かす言葉。
その人は、言葉づかいを崩すと、生まれの訛りのせいでキルルには聞き取れないだろうと言っていた。名前ひとつ、せりふひとつ、その全てに如何な由来があるのだろうか。あるいは無いにしても、疑わずに信じることなど出来やしないが。
(また……こんな……こと)
有耶無耶な気がかりが堂々巡りするうちにノイローゼがかってしまって、ここ数日すっかり篭りがちになってしまった。シゾーやゼラはもとより、エニイージーにも顔を合わせたくなかったのだ。誰をどこから疑ったり信じたりすればいいのか。へとへとだった。どうせザーニーイにも逢えないのだから、ここでよかった。
なにくれと来訪者はいたものの、今の方が警備面として都合が良かったようで、あえて外出を促そうという働きかけは無かった。まあ当然で、守るだけなら柵の中より籠の中に入れておいた方が、堅牢だし手軽でいい。王城にいた時と同じだ。
(こんなことでさえ、どっちだって一緒なら……なら、やっぱり、お姉ちゃんが戻ればいいのよ。あんなところ……)
ここにいたい。
それを告げたい相手がいるように、自分はなってしまった。
(そんなこと言われたら……ザーニーイは、どうするのかしら?)
その時だった。
(音?)
とっと―――と、小石がふたつ連続して当たったような。
そこに振り返って、キルルは顔を顰めた。足元、部屋の隅の壁である。どうしたところで、小石など当たるはずもない。
そう、思えたのだが。あろうことか、またしても音がした―――壁の内側から、聞き覚えのある声と共に。
とっと……
「三度ノックして返事がねえんだったら―――」
とっと……
「寝ちまったんだろうから、このまま引き返すぜ」
「行かないで」
キルルは、寝台からずり落ちた。呼びかけに追いつこうと先走った足運びに両足がもつれてしまうが、裸足のまま転がるように壁に追いすがる。
続けて答えた頃には涙声になってしまっていたが、そうでなければ叫んでいてしまったろう。そう思う。
「逢いたかったの。だからお願い」
「あいよ。オーケイ。ちょいと退いてろ。汚れっから」
そして、数秒後。
圧縮煉瓦を偽装したタイルを外して、彼は現れた。稲妻の咬み痕を覆う真紅の襟巻きに、安物煙草の渋味を引き連れて。そのターバンと頭帯の袂には、痛み切って赤茶色が抜けた髪の金色と、切れ長の目の翡翠色。金髪碧眼……雷髪燐眼。それは霹靂。吟遊詩人に、そう謳われるという―――
「―――ザーニーイ」
「おう。元気だったか?」
彼だった。
妙なところを通ったせいか、ところどころ汚れていたし、服も皺だらけだった。尽き果てた精根もまだまだ本調子とはいかないようで、虚勢を張るでもなく端正な面差しには疲れがある。薄っすら、ずたぼろといった体か。それでも……ザーニーイだった。
物音を殺すように、そっとタイルを横に寝かせて、狭い穴から這い出てくる。そしてキルルに合わせてそのまま床に尻を落ち着けると、外套をひと払いして、苦り切った笑い顔を作った。それだけ見ると、まだ顔に残っている痣の黒ずみが痛んだのかと思えたが。
「はは、こればっかりは俺が言ってちゃ世話ねえか。俺にゃあ元気そうに見える。キルルはどうだ? 実際のとこ」
「あ、あた、……あたしは―――」
そつのない軽口に、なにを返すべきかは、分からなかった。
だから、言いたかったなにかを、言ってしまっていた。
「ザーニーイに逢えて、今とても嬉しい」
彼は―――
やや切なそうに微笑を崩して、告げてくる。
「ありがとう。最高の褒め言葉だ」
そのまま、顔を合わせること、しばし。
キルルは、動悸が凪ぎ始めた胸を深呼吸で撫で下ろしてから、服の襟を正した。ここでは寝間着という概念が無いらしく―――まあ夜襲にパジャマでは枕投げ最強トーナメントしか開催できなかろう―――、明日着る普段着をそのまま身に着けていたので、異性に見られたところでどうということもないが。
そして、まじまじと穴を見やって、瞠目する。真っ暗闇がどこまで貫通しているのか見当もつかない、一人用の横穴だ。
「にしても、気付かなかったわ。こんなところにまで隠し通路があったなんて」
「客室なんだから、真っ先に筒抜けになるように設計されて当然だろ。てんで穴だらけだぞ、ここ」
「えーーーーーっ!!?」
「しっ」
指の仕草と小声で制された時には、遅かった。
ドア向こうから、気色ばんだ声が掛けられる。見張りの旗司誓だ。
「おい! どうかしました!? 入りましょうか!?」
「な、なんでもないの! いきなり虫が出て―――!」
「だあほ、もっとそのゴージャスな悲鳴に釣り合う言い逃れしやがれ! 虫なんかそこらに巨万といるだろが!」
しかも横殴りから押し殺した指図を食らっては、続けようとした語尾もぶっ飛んでしまう。ぶっ飛ぶ? ぶっ飛びましたか? ―――記憶が。
「白いゴキブリがいたの!!」
無我夢中で、それを大声に変える。
途端に自信がなくなり、ごにょごにょと蛇足するのだが。
「もういないけど」
「それきっと夢っすよ……可哀想に。副頭領のせいで」
「だったら、あの、そんなこんなで。驚かせて、ごめんなさい―――おやすみなさい。もしかしたら、また変なカンジに魘されるかもだけど、気にせずにいてね!」
「あの……マジで休んでくださいね。トラウマ作って帰られちゃたまらねえから」
キルルに同情を寄せてくるドア越しの部下に、ザーニーイはよどんだ面白味を込めた半眼を向けた。窓が横並びに四つもある大部屋なので、普通より小声で会話している分には、廊下側には聞かれないだろうが。
「あのクソたれ目、俺がいねーうちにナニやらかしやがった? 白いゴキブリ?」
「いえあの。過ぎた話だから……」
「なんじゃそら」
呻くザーニーイだったが、関わりたくなかったのか、見切りをつけるのは早かった。あっさりと、話題を取り戻してくる。
「まぁともかく。穴についちゃ、心配するこたぁねえ。キルルが使うとしたら避難穴だけだし、そのほかの覗き穴やらもろもろについては、知ってる奴らは遊び半分じゃ使わねえさ」
「知ってる奴らって?」
「俺とシゾーとゼラだ。捜索したメンバーは、ここにゃもうそんだけしか残ってねえからな」
「遊び十分か、遊びじゃないお仕事なら、使うこともあるってこと?」
「そういやそうか。まあ、こうして使っちまった俺が言っても、栓の無い話さ」
(遊びで? お仕事で?)
訊けるわけもなく。別の質問をする。
「これがその避難穴なんじゃないの?」
「いや、これは……そういった用途じゃなさそうだ。と、見てた。デデ爺が」
急に歯切れ悪そうにして、ザーニーイは目のやりどころをうろうろと流転させた。
だが、ぽかんと残りの講釈を待っているキルルに、言責をせっつかれたらしい。いかにも億劫そうに、言い渋ってくる。
「寝しな目掛けて、女を交渉にやったんだろうと―――客が男の場合に。それを知っていると……そう言ってた」
「……ジンジルデッデさんって、つらい女の人だったのね」
それしか言えず、嘆息する。
それを見たザーニーイの反応は、意外なものだった。ぱっと声色を明るくして、ふってわいた喜色を漂わせながら、
「デデ爺―――ジンジルデッデのことを知ってるのか? 俺の先々代の頭領、先翁に当たるじっちゃんだぞ? まあ女だけど。その分じゃそこらへんも知ってんだな?」
「あなたがいないうちに聞いたの。ほかのことも、いっぱいね」
「どう知ってるんだ?」
「え?」
「聞かせてくれよ。人から聞かされるデデ爺なんて、初めてだ」
年端もいかない少年のように瞳をわくわくと浮足立たせたザーニーイに、こちらこそ一層とそわそわした心地に駆られるのだが。キルルは思い出した端から、言葉に変えた。
「奉公した先で、泥棒猫だって勘違いされたせいで、赤ちゃんが授かれない身体になるまで虐待されたって。そこから助け出してくれたのは、お兄ちゃんだったんだけど、そもそも奉公しなきゃならなかった原因が、そのお兄ちゃんらしくて」
「ふむ」
「でも、もうそこにいられないし、お家にも帰れなかったから、悔踏区域外輪で旗司誓として生きていくしかなくって。それでここにいるしかなかったって」
「ふむふむ」
「ジンジルデッデは本名じゃなくて、デタラメサイコロって意味だって。賽を振るみたいに、あっさり事件を治めちゃうから。それくらい才能があった人」
「ふむふむふむ」
「いい人で、規則を作って守らせる価値を学ばせたって。勉強が大切だって、働かせるだけにしなかったって。そこが地盤となったからこそ、<彼に凝立する聖杯>はザーニーイの代で隆盛することができたんだって」
「ふー……む……」
「なによ。違うの?」
「違うっつーか……」
幸先悪そうに暗転していく推知に、いつしか遠い目になってしまっていたのを引き戻すと、ザーニーイはこれもまたいつの間にやら点になっていた目をキルルに向けた。
「デデ爺の墓の前で唱えたら、そりゃ面白ぇやっつってすっ飛んで蘇りそーな復活の呪文だな」
「はあ?」
「つまりまあ、俺が知ってるジンジルデッデは、そーいう人なんだよ。底抜けの楽しみ屋さ」
耳の裏を小指で掻き、その爪にふっと息をかけて垢を足元に落としてから、彼は口を開いた。
「傷は、痕だらけなだけで、もう痛みはしない……だったら痛かったのを思い出すだけ、今を損する。そんな信条の楽天家でね。基本、お気楽で大らか。基本だけど」
「そうなの?」
「そ。どーせ人間なんざ明日にしか行けやしないんだ。後ろ髪引かれるたびに振り向いてちゃ、取り残されちまう。かといって、忘れた振りを決め込んで鼻高々と上を向いて背伸びしたつま先じゃ、よちよちと十歩も進めねえ千鳥足。そんなもん、そのうち転んで鼻を折るのが関の山だろ? どんだけ踵を浮かせたところで山向こうまで見えるもんじゃないと悟ったなら、見たい風景に辿り着けるまで、地に足をつけて必要なだけしっかり歩くこと。そのために、歩ける体力と、歩く配分を考える頭と、どんな風景が見たいのか絵空事を練る心を、ふんだんに養えってね」
「……前向きね」
「体力と頭と絵空事にかけちゃ、他の追随を許さねぇ程てんこ盛りな人だったからな。成し遂げてきたどうこうは、あくまでもそいつの金魚の糞さ」
ついで肩を竦めて、助言を足してくる。
「それに言っとくが、デデ爺がここにいたのは、イェンラズハにベタ惚れだったからだ。消去法で、なくなくここに居着いたんじゃねえ」
「イェンラズハ?」
「さっきキルルが言ってたとこの、兄ちゃん役だな。ふたり並んで頭領してた。副頭領……どっちが補佐なんて、ありゃしなかったさ。精悍な大男でね。斬騎剣を構えさせたら、そりゃあ様になったもんだ。デデ爺の相棒で、パートナーだった人だ」
「その人は翁って呼ばないの?」
「ああ。デデ爺がそう呼ばなかったからな」
「でも……亡くなったのよね」
「流行病でな。いなくなった時は、子ども心にも穴が開いたよ。えれぇ口下手で、ろくすっぽ話しやしなかったけど、誰よりも優しく聡明で、温かい手をした―――日向みてぇに心地いい人だった。ガキだったから、伝染っちゃ一いち大事だっつって、死に目に会わせてもらえなくてね……親父とした喧嘩のなかでも、ありゃあ群を抜く大戦だ」
「ジンジルデッデさんの、お兄ちゃんじゃなかったの? 片親は違うって聞いてたけど」
「ふざけ半分で兄ちゃんっつってじゃれてたのも見かけはしたが、ホンマモンの血縁があるかは知らんし、ンなもんよりがっちり縁結びされたふたりだった」
胡坐をかき直して猫背を伸ばし、ザーニーイは懐旧談をつつく長考面を解いた。通路に置いてきたのか、手斧も剣も帯びていない腰を気障りそうにさすって、落ち着かなげに―――猫の髭みたいなものなのかしら?―――しながら、
「最初からの話になるが。デデ爺は娘っ子の時分に、奉公先のお偉いさんから、妾になれって言い寄られたんだとさ。で、ブチ切れたイェンラズハが、そいつに手ぇ出しちまった。いいように吊し上げられるくらいならと、デデ爺がイェンラズハを逃がしたもんだから、逆にその弱みにつけこまれて妾になるしかなかったらしい。ところが、なってみたらなかなかにイイ御身分で、」
「イイ御身分?」
「待遇だよ。風呂は毎日だわメシは出てくるわ、なによりも勉強するだけ叩けば響くお偉いさんだったらしく、問答してるうちに一番のお気に入りにされたんだと。こうなると、女は男を立てて三歩後ろから馬鹿の振りで愛され上手だった二番手以降は気に食わない。しかも女ときたら、不平不満は的に直接ぶつけず、周りに垂れ流すだろ。群れず連れずだったデデ爺は、自分以外の女たちがネガティブに連帯してくのに、ちっとも気付かなかったらしい。で、ある時いきなり一方的に集団制裁」
「ある時いきなり?」
「いきなりプッツン来んのが女だろ。しかも一度プッツンしたら最後、プッツン繋がりで昔から今までのオールプッツンを順繰りに思い出して、火に油ときて歯止めが利かねえ。消火活動なんざ無駄足だし、踏み込むだけ火傷すんのがオチだ。燃え尽きて鎮火するのを待つっきゃない」
「……ザーニーイ。あなた、なにかプッツンした女で嫌な思い出でもあるの?」
「それはさておき。んで、デデ爺は、おん出されたのをこれ幸いとばかり、イェンラズハのとこに戻ったってわけだ」
それはさて置かれてしまっては、聞くしかないキルルなのだが。
無責任にもザーニーイは、トーンを落としたキルルの横目をきっぱりと無視しつつ、ぼやきを継ぐ。
「赤んぼ産めねぇ身体に云々ってのは当たってると思うが、あのふたり、割り符合わせたみてーにピッタリ過ぎてガキ挟む隙間なかったぞ。ジンジルデッデって呼び名の由来だって、ただのノロケだし」
「のろけ? デタラメサイコロが?」
「だーもー、くそ。それが、まず違ぇんだって……まあ俺も、こっ恥ずかしい話だから、あえて今まで訂正はしてこんだが。賽をポイ投げしての、いっ・せーの・で、って掛け声のこっちゃないんだよ―――ジン・ジル・デッデってのは」
「じゃあなに?」
「ほうき星」
意表を突かれ、キルルは言葉を失った。
そういった反応は予想していたのだろう―――ついでに、それを見届けねばならない己の気恥ずかしさも。ザーニーイは沈黙を払うように、憮然として先を急いだ。
「デデ爺は、満身創痍の痕だらけだったけど、左頬の目許から口許にかけても三本傷があったんだ。それを指でなぞって、いち・にの・さん―――俺の流れ星だ、願いを叶えてくれたってイェンラズハが言ってくれたから、それを標榜することにした。だから、まあ、祈ってみな。わたしが流れ星だ。叶えようって気にしてやるさ―――空を見上げた時と同じくらいには。……デデ爺は、俺がガキの頃、よくそう言ってた。そのほっぺたを、にやつかせながらさ」
流星。
キルルは、窓へと振り返った。曇り空であるのはもとより、透明度の低い硝子では月より光度の劣る星明りは判別できずとも。星辰はそこにある。
「素敵なお話」
「そうかい」
「素敵な人だったのね」
「だったのには違いなかろーが。それだけなら、どんだけよかったか……」
「どうしたの? びくついて」
「いや別に。何でもない。へっちゃらだったぞ俺は。うん。シゾーは泣いてた。間違いない」
「泣いてたの? シゾーさんが?」
「あん? なに不思議がってやがんだ。あいつ今だって泣き虫じゃねえか」
「…………」
言い切られると、これもまた反論のしようがないのだが。
とりあえず、気になったことを訊いてみる。
「イェンラズハさんが叶った願い事って、なんだったのかしら?」
「さあな。彗星に祈るくらいだから、相当に現実的じゃない代物だったか、或いは―――許しが後押しとなる、のぞみだったか」
「許し?」
「キルルは神を信じるか?」
ふと、眼光を鎮静させて、そう嘯いてくるザーニーイに。
真っ先にキルルが思い出したのは、羽根のことだった。国家の象徴であり、国民を束ねる要とされる存在。それを生やした―――イヅェンと、名も知らぬ異母姉と。
(ゼラさん……)
黙り込んだキルルをどう察したのか。ザーニーイは、言ってきた。
「信仰の話じゃない。そしてそれは、神が実在するか不在なのかって次元とも別物さ―――いようがいまいが、それでもなお信じるかって意味だ。それに疑いが忍び込んだ時、人は祈るのものなんだよ。許しを求めて」
そしてキルルは、気付いた。
反芻は苦しかったが、それでも気付いたなりに、ゆるい笑顔でも取り繕うくらいはするしかなかった。そうやって、口の端のむずがゆさを呑む。
「ザーニーイ。あたしね。そんな話も、たくさんしたの」
「へえ?」
「信じても、疑っても……愚かでも、賢くても……愛しても、恋しても―――」
―――恋人。
「ねえ、ザーニーイ」
「あん?」
「あなたの恋人って、どんな人?」
即座。
遮ろうとはしたのだろうが。分かりやすく虚を突かれた口の内で、彼が嘘を練るのに戸惑った二秒の隙に、キルルは付言した。
「首ったけなのがひとりって聞いたわ。シゾーさんから」
「だからあンのクッソたわけ、言うに事欠いて頓珍漢な……!」
激昂は易く脳天まで吹き上げたようで、ザーニーイは犬歯を剥きながら、毒ついた。ついで懐からシガレットケースを取り出そうとして、さすがに途中で取りやめにする。なので結局は、その古馴染みをとっちめる動作を両手に繰り返させつつ、彼は有り体に殺気ばんだ面持ちで、怒声を食い千切ってきた。
「断っとくが、あのスケこましの言い分なんぞ、逐一真に受けたもんじゃねえぞ。シゾーはな、そんじょそこらの色魔たぁわけが違う、てめえで色狂いさせた女に刺されて縫い傷こさえるような、根っからの女ったらしだ。分かるか……自然に塞がるような浅手じゃ済まなかったから縫ったんだぞ? ンな色ボケ小僧のピーチクパーチク、言われる端からほいほい許容してちゃ身が保たねえ―――」
キルルが見詰めるうちに、言葉尻が縮んでいく。
それでも目を逸らさずにいると、ザーニーイは勝手にそっぽを向いた。そそくさと、流れをぶった切ろうにも、機を逃した……そんな顔つきで。
「だから、―――その……」
「ザーニーイはそうじゃないのでしょう?」
言い切る。と。
「……恋人なんかじゃない」
いやいやながら受け止めて、それでも抗議は諦めなかった。低い声混じりに舌打ちしてくる。
「あっちが勝手に首ったけなだけだ。あんなイカレもん、恋なんかでたまっか。おちおち大事にもできやしねえ」
「じゃあ愛?」
「あのなぁオジョウチャマ、やんごとなきアナタサマがどこで覚えたか知らねえが、惚れたハレたの艶聞なんざ―――」
「その人、あたしのお姉ちゃんなんでしょう」
断言を重ねて。
ザーニーイが、目の色を変えた。豹変したと言うほどでもないが、内心の怒りを収めるように、意図的に面の皮から力を抜いて。げんなりと。
「ふざけるな」
「あたしと取り替えて」
「ふざけるなと言っている」
「どうせ同じなら、あたしだっていいじゃない!」
食って掛かるうちに、つい声量が上がりかかる。
「ふざけてないと言えば信じてくれるの? それは愚かしいの? あなたが間違っていないことを疑ってはいけないの? 信じるだけが賢いと言えるの? 恋なんて―――」
キルルは―――
ぽつりと、八つ当たりしていた。
「しなきゃよかったのよ。あなたになんか」
「……あいつだって、きっと、そう思ってる」
気勢を落として、ザーニーイは項垂れた。
彼の顔つきは、面妖なものだった。呆気にとられたようでもなく、さりとて嫌気が差したという風でもない。眉を落として目蓋を下げ、笑うでもなく弛めた口許が窪んでいて、皺じみて見える。なんとも名状しがたいザーニーイのそれを盗み見たのは―――二度目だった。あの中庭での夜、それ以来の……二度目。
それを見てしまったのだから、キルルにはもう否定することさえ出来なかった。
「やめられないのね」
「だろうな」
「とめることも出来ないのね」
「だろうさ」
「許されることはあるの?」
「あるの、だと? ……はは」
から笑いして、彼は目鼻を撫でた。たったそれだけで明瞭さを鼻っ柱に取り戻して、言い澄ましてくる。
「あるから祈るのか? だったら、ないなら祈らない? ―――そうじゃない。神を信じるか? それと同じだ。俺たちの旗幟に、よく似ている」
「え?」
「旗があるから、司ると誓ったのか? 違う。内なる蒙昧から、神聖なそれを証すために操を立てた。それが標されたかたちが、旗幟だっただけだ。俺たちは―――」
そして、上を見上げる。
窓へ目をやるようにしながら、その眼差しは、楽園と共に失われたと言う伝説の鳥を―――青い空を行く鴉を追っていた。恭順し、崇めるようにではなく……ただ、示された先の、凌駕を目指して。
「俺たちは、みな―――奇跡を許されるよう、心から、祈るんだ」
そして。
ため息をつこうとしたらしいが、ぎょっとそれを呑んだ。こわごわと、こちらへ手をかざしながら、訝し気にする。
「参ったな。泣いてんのか?」
「迷惑?」
「いんや。その大粒の目ン玉までポロポロポロッと落ちねぇか不安になるだけさ。俺は臆病だからな」
「やぁね。その言い方じゃ、みっつも目があるみたい」
「俺の計算が合わねえのは、いつものこった。叩きさえすりゃビスケットだってポッケの中で増える浮世の沙汰中、俺までそうじゃないなんて誰が決めた?」
「そんなこと、お姉ちゃんにも言ってるの?」
「だから。それは。オネーチャンじゃ―――」
「じゃあなんて呼べばいい?」
目元を拭って、口を挟むキルルに。
あからさまに不承不承ながら、打ち切りを断念したらしいザーニーイが、譲歩した。
「シヴ」
「シヴ?」
「そう呼ぶ奴もいる。シヴツェイア。そいつの名前だ」
「綺麗な名前」
「そうなのか」
「そう思わない?」
「思ってみたことも無かったな」
「キルル・ア・ルーゼよりも、玉座に映えるわ。シヴツェイア・ア・ルーゼなら」
自虐の味すら、こうなっては甘い。
味わうように黙り込むのだが、そんなキルルへ向けて、―――ザーニーイは身を正した。すっと片膝を立てて膝行し、半身を下げる。真顔で、こちらにも態度を乞う、その姿は……数日前、旗幟を支えるように控えてみせたシゾーのそれに、よく似ていた。
「ア族ルーゼ家が後継第二階梯、―――キルル子女」
怜悧な物言いで、改めて畏まる。
「たまたま監視が絶えたタイミングがかち合ったから、こっそり抜け駆けすることにしたんだが……本当は、俺は、これを伝えにきた」
「……なに?」
「次に会うのは、さよならの時になる。それは、俺とキルルが―――って意味じゃない」
「え?」
「それだけじゃない、時が来たんだ。大いなりて、巡り合わせた、……時が」
「どうしたの? ザーニーイ。おっかないし―――おっかしいわよ」
困惑してはぐらかそうとするのだが、彼は聞き入れなかった。神妙さながら、朴訥と囁く。
「旗司誓の本分は、【血肉の義】に基づいての、悔踏区域外輪における遊弋だということは知っているな? それは実は、対外勢力に対してのものだけじゃない。国内の趨勢にも向けられている―――【血肉の約定】から血を分けたはずの同族が【血肉の忠】を怠っていたとしても、それは絶対的に継続されてきた」
「……―――」
単なる指摘とばかりに正してくる彼に、キルルは上辺ですら苦悶できなかったが。気にすることもなく、彼は蘊蓄を積んでいく。
「話は、八年前の戦争まで遡る。戦火の火種は、とある動物由来禁戒薬物にまつわる嫌疑だった」
「アーギルシャイアの臍帯ね」
「知ってんのか?」
拍子抜けしたとばかりに転調した声音は、ありありとこちらを見縊っていたことを物語っていたが。厭味だったところでとうに腹も立たずに、キルルは頷いた。
「イコさんと、そんな話もしたから」
「ああ。イコ―――イコ・エルンクーか。そうか……らしいことしやがったか。あいつは。キルル相手にも」
「え?」
「いやなに。俺が、ありがたいって……それだけの話さ。あいつは頭が良いくせに人も好よくて、他人のために躊躇わず機転と気を利かせるのにかけちゃ、誰より手練れてる。俺に文で現状を告げ口してくれたのも、あいつだ。エニイージーは―――尊敬する男親にゃあ素の身の丈なんざ見せやせんのが思春期ってもんっしょ? って、言ってのけるくらいのな。白眉さ」
手放しで褒めそやして、ザーニーイは和らげた上唇を親指でさすった。イコのことを言っているのか、エニイージーのことを言っているのか、両者ともを誇らしく思っているのか。それは分からないが。
「イコさん、檻から出られたの?」
「檻? ―――翻る旗を待つ、のことか? ンなもん使うわけねえだろ、ちんけな十人十色の面当て程度で。ありゃあ、一発であの世行きの死刑もイヤ・連発であの世行きの私刑もイヤ・だってんなら嫌々だろうが自殺しとけっつう、極めつけの見せしめだぞ。俺の代で使ったのは、これまで二回だけだ」
「面当て程度、って……青い人たち、ひどい中傷してたのよ。ザーニーイ。あなたのことも」
決死の思いで、吐露するものの。
ひょいと眉を上げて、取るに足りないとばかりに、ザーニーイ。
「ああ、青の―――ギィの連中か。あいつらは、シゾーが出しゃばってくれてた隆盛期に入ってきたからな。天井知らずに伸びてく快感を忘れられなかったところで、無理もねえ。俺が交代した途端に筺底との繋がりまで薄まっちまったから、緑酒をお手頃価格で横流ししてくれる相手に飢えてんだろ。シゾーは下戸だから、そこらへん分からず屋でいけねえ。今度手に入ったら差し入れしとくか」
「は―――?」
二の句が継げなくなってしまうキルルだったが。
(そう言えば……なんだか、周りを褒めるばっかりよね。この人。自慢らしい自慢も人のことばっかりで、自分のことは臆病だとしか言わないし)
脈絡なく気取られたことも知らないで、当の本人は手をひらつかせて、仕切り直してくる。
「無駄口しちまったな……とにかく。当時、我が国と隣国は、見過ごせないまでに輸出入の収支バランスが崩れていた。原因は、有翼亜種の羽根だ。喉から手が出るほど欲しいって連中がわんさかいて、値段が張るものながら、売れに売れた。んで、隣国は羽根を買う一方になってきてた反面、こっちに輸出するのに目ぼしいものが無かった。だから、相手さんも、なにかをこっちに売りつけようと企んだ。それが、麻薬だ」
「麻薬?」
「そうだ。依存症にさせちまえば、あとは売り口に困らねえ。酒や煙草とおんなじさ」
「それは……そうだけど。交易品に、って」
「それこそ、酒や煙草とおんなじでね。厳重に取り締まってるとこもないではないが、勧めはしねえが縛りもしねえってとこもある。神がかるために、服用を余儀なくされる公職が認められた国もあるだろ。神興国ジルハラワがそうだ」
あっさり言われた国名に、記憶が傾きかけるが。ザーニーイは説明を続けた。
「んで、こんなもん寄越されても困るっつって、我が国と隣国は戦争になった。で、いざ戦争ってなったら、隣国は先に手ぇ出したヤク中だらけで、まんまと我が国のボロ勝ち。しかももう一枚あった上げ底の蓋を開けてみりゃ―――なんてこたぁねえ、羽根を右から左へ流すだけで手に入れてた あぶく銭に目がくらんで、麻薬遊びをしだしたが最後、抜けられなくなっちまって、じゃあ自分らの分を作るついでに他にも売りつけてやれっていう、傍迷惑な自転車操業だった。ちゃんちゃん、おしまい、ってな」
「……お粗末な顛末ね」
「残念ながら、そいつはこれからだ」
「え?」
「今までの話は全部、嘘だ。ただし、」
そこで―――
ぴっと、片手の拳から立てた二本指の先が、鉄砲のようにキルルの鼻先へ突き付けられた。凄味を利かせた、覇気と共に。
「―――お前たちが、俺たちへ吐いた嘘だ」
「え?」
「八年前より先から、我が国は麻薬を隣国へ密売していた」
「は?」
「そして、酒や煙草の愛用者が色んな品目を試すがめつするのと同じように、あっちがなし崩しに中毒者を増やした頃を見計らって手を引いた。それからは知らん顔決め込んで自滅を待ち構えつつ、最期に喉笛に食らいつくだけで、まんまと属国としたのさ。詰め腹を切らせるにしたって、最悪のマッチポンプだ」
言われ―――そして手を下げられてもなお、弛緩せぬ邪視に。
展開からして、慮外千万なことこの上ない。身を凝固させてくる空気に喘いで、とにかくキルルは、面食らったまま疑問を投げた。
「……どうしたって、無理よ。そんなの」
「どうしてそう思う?」
「国ひとつが潰れるような大量の麻薬栽培なんて、ばれないで、どこで誰がやってのけるのよ?」
「国牢で国家がやり遂げた」
やはり揺るがず、すんなりと揚げ足を取ってくる。
「アーギルシャイアの臍帯については、どれくらい知ってる?」
「……知らないわよ。名前以外、ちっとも」
「アーギルシャイアの臍帯は、禁戒薬物の中でも、動物から作られる麻薬になる。とある薬物を動物に常用させると、体内で変化を起こし、新陳代謝―――細胞分裂が進む部位から、汚染が進む。で、脳までやられて狂い死にしたその肉をジャーキーにしたり、骨を砕いて内服したり、乾燥させた粉末血液を炙って吸い込んだりして、摂取するってわけだ。脳みそが小さすぎると、肉体に麻薬が浸透しきる前に死んじまうから、あんまちっぽけ過ぎねえサイズで成長の早い食肉向きの動物……生まれたての仔羊に与える乳に混ぜる、なんて手管が代表格なんだが」
「それを国の牢屋で実行したっていうの?」
はぐらかされた思いにいい気はせず、キルルはザーニーイを睨めつけた。
「馬鹿にしないでよ。牢屋に羊を囲ってる国なんか、あるもんですか」
「そうだ。牢にいるのは罪人だ。若い女もいる」
と―――
「幼生が成体へと変態する以上の、最高度の細胞分裂は何か……知っているか?」
そう言及して、いったんザーニーイは間を置いた。俯いて―――顔を上げる、ただそれだけの動作で躊躇を踏み越えてくる。
「子種を仕込んで薬物を摂らせ、十月十日―――腹が出るのと頭がおかしくなるのを見計らいながら匙加減しつつ、出産と廃人の間際に、国外追放というかたちで踏許証を発行し、隣国へ出すんだ。そこで、まあ……お抱えの事情通の手で、解体される。母体はもとより、宿ったその日から毒素を煮詰め続けた胎児から精製されたアーギルシャイアの臍帯は、極めて高純度なため、比類ない高値で取引されると聞く。まさしく―――臍の緒がな。皮肉にしたって出来過ぎだろ? こちとら駄洒落にも出来やしねえ」
呆けるしかないキルルだったが。
聞きっぱなしに断定される危機感に、意地でも反発は強まった。今更床の冷たさに跳ねるように、ザーニーイへと間合いを詰めて、抗弁を積む。
「釈放された人がおかしくなってたら、誰かが絶対に気づくでしょう?」
「元からおっかしいから犯罪者なんだ。狂い女のネジの飛び度合いに目利き利かせる奴なんざ、そこらにうろちょろドンジャラホイなわけあるか」
「だって。その人にも、家族とか……」
「収監する前に、罪状から家族構成まで把握されてる。まあ、そいつについては合法だ。真っ当にも、警察の取り調べだからな。天涯孤独で、万引きを重ねることでしか食いつなげねぇような生理初めの幼女、ひとりやふたりくらい、はぐれ街娼に落ちぶれさせる前に拾うなんざザラにあるだろ。保護か逮捕か、名目は知んねえが」
「でも。刑期を終えておかしくなるケースが立て続けば、いくらなんでも妙だと勘付く人は出るわよ」
「立て続ける必要はない。ひとつ成熟させれば、採れる麻薬は―――どんだけ余分な水分を絞って体毛を削いでも、母体だけで二十キロはくだらないだろ。アーギルシャイアの臍帯の粉末血液の末端価格は、耳かき一杯につき、辺境価格で金貨五から十枚前後。これが、水子の死体では倍ドンに高跳びするわけだから、そのもの以外の胎盤その他付属物を含めて三キロ程度だとしても―――合計金額で、豪華絢爛な豪邸をみっつよっつ建てれるって寸法だ。実際は国庫に入ってんだろうが」
「でも、人ひとり麻薬漬けにするなんて、とんでもない量の薬物を要するんじゃない? それを怪しまれもせずに……」
「経口摂取でなく、注射や点滴といったかたちでダイレクトに送り込めば、効果は覿面だ。分量なんざ、格段に抑えられる。おそらく十数分の一で済むだろうと―――ゼラは言っていた」
こうまで手際よく論破されては、組手にもならない。
どもるしかなくなったキルルに、ザーニーイは暗く炯眼を差し向けてきた。打ち留めるように。
「否定したいのは分かるが、証拠が出ちまったんだ」
「証拠?」
「アーギルシャイアの臍帯を確認した……ナマ物の現物、人間として」
「にんげ?」
「残念ながら、騒ぎに乗じて、夫やら身元引受人やらを称する野郎が殺しちまった。そいつもジャンキーで、同病相哀れんだシャブ狂い同士がとっかえひっかえスワッピングしてんだろうくらいにしか隣国じゃ思われていなかったらしいんだが。ついに共食い起こして殺人事件かってお縄にされる直前に、かろうじて確認できた。隣国だったから、立ち回りがスムーズにいかなかった……」
「その証言が、その中毒者の妄想じゃないって、どうやって証明できるの?」
「その野郎がゲロったんじゃねえ。アーギルシャイアの臍帯にされるまでの手口とやり口を、虫の息だった女から聞いたのさ」
「それこそ信じることなんて出来ないでしょう?」
「ああそうだ。信じられやしなかった。地下牢みてぇなとこでポリ公に犯られた上ヤク漬けにされたなんざ、信じられっかよ。だから調べた。マッポの顔にでっけえひきつれがみっつもあったっつってたから、初めは筺底の荒くれマフィアが とんちきな金稼ぎに手ぇ出し始めたのかって線で詰めたんだが……じゃあ、悪目立ちすると分かり切っていて、なんでまたよりによって我が国のサツの恰好でンなことする? そういうプレイか? あほか。その行いは、制服で済ませる公用だったんだよ。任務だ。仕事だ」
「じゃあ、」
「ああ、そうさ。もとはと言えば、ラリった妄言を、やっぱりラリったなりの妄言だったじゃねえかと空振りさせるための裏取りに過ぎなかった。隣国との騒動の際に入手できた人体組成の一部が、アーギルシャイアの臍帯だと発覚してから、方針を切り替えざるをえなくなったんだよ。あれから複数回、ヒト由来と思しきアーギルシャイアの臍帯が発見されている……俺たちだって、その瞬間まで、看破されるような裏が戦争にあるなんざ眉唾だったよ。赤毛どもは分厚い面の皮してやがるたぁ思ってはいたが、剥いでみれば、まさかの化けの皮だったとは」
「でも……それこそ、あなたたちを、そのマフィアって人たちが陥れようとしてるんじゃないの? あなたたちの【血肉の義】を逆手にとって」
「意味がない。そりゃまあ、悪事の片棒を担がされそうになるこたぁあるが、そんなもん民間人だって企んでくれることだ。武装犯罪者と違って、商売敵と目されることさえ、滅多にない。筺底と旗司誓は、いわゆる畑違いってやつでね。萬荒事一手専売にあくせくする農家同士、お互いの畑について話したり融通を利かせたりすることもないではないが、だからこそ濃厚には関係も干渉もしない。お互いのやり方で帳簿をやりくりすっから上手くいく関係なんだ。俺たちの畑を横取りしたところで、あいつらじゃ俺たちと同じ収穫高は取れない。なら、しない」
「それは―――」
あなただからなんじゃないの?
(……え?)
シゾーならばどうだ? 蒼い炎と言わしめた、あの―――男なら。三年前に、一度ならず二度までも暗殺に失敗したのだ。三度目の正直とばかりに、入念に三年がかりで仕組むこととて考えられるではないか……
(考えられる―――だけでしかないのに……)
歯がゆいにしても意気を折られてしまっては、キルルも弁護を呑むしかなかった。それでも、……足掻く。
「そんなの―――嘘でしょう?」
「そうだ。俺たちへ吐かれていた嘘だ」
未知数で信憑性のない駄法螺に違いなかった筈のものを、言い重ねるうちに糊塗を失くした真実として。ザーニーイはまたひとつ、双眸の燈し火を冷ややかにした。傷つけるつもりはないが、触れてくれた指が傷ついたところで構わないといったような……痛みを与えてくる、氷点下の霜の色だ。
「神話に聞く母鳥とその卵のように、身を挺して守り抜いてきた、旗幟を支えし我らが国土―――それこそが、国賊の麻薬畑を托卵されていたに過ぎなかった。これは決定打となる裏切りだ。旗司誓は許さない。国民もそれに続くかもしれないし、そうなれば内紛も起こりかねない」
「内紛?」
はたとキルルは、それに気づいた。
せり上がっていく脈拍と呼吸は、末期を予感させるような不吉さに満ちている。戦慄いて、それを哀願へと縒り上げた。
「やめて……そんなこと。やっと八年経ったのよ。乱され切っていた人たちが落ち着いて、立て直して、それが実り始めたから、国録総人口も増えてきた。それをまた、争いに投げ込もうっていうの?」
「八年以上前にそうしたのはそっちの方じゃなかったのかと、俺たちは投げかけるだけだ。大っぴらに武力を用いて国を拉ぐつもりはねえ」
「なら、あたしが持ち帰るわ。それで、イヅェンに調べさせる。それなら……」
「説得力のない背約者だな。どうしてそいつをこの土壇場で信用できる? 【血肉の忠】を、こうまでないがしろにし続けておいて。なにより、信頼されると思う? まずもって、あんたにゃ実力がない。逃げたがりには、逃げ足さえ期待できやしねえよ」
「実力」
そこまできて、思いつく。これ以上ない名案を。
「そうよ。そうなら、やめてよ……やめさせて! 食い止めて。ザーニーイ。霹靂なんでしょう? あなたからなら、みんなきっと―――!」
衝動に口を衝かれるがまま、言い募り終わる頃には―――
無駄だと、悟らされた。儚く、無価値過ぎた、憐れましい訴えに、ザーニーイはまばたきすらしなかった。
ただ、立ち上がった。ばさ、と外套を打ち鳴らした音は―――まるで羽音のように。
「せめて―――祈ればいい」
「許して……!」
「それを乞うなら天へ向けろ―――低劣にも、唾を吐いたそこへ。もとある場所に降り落ちてくるのに、八年かかっただけのことだ。過ぎた返報でもあるまい」
「あたしがそうしたんじゃない!」
やけくそで歯軋りした、その刹那だった。
「言ったな」
「なんですって?」
「それは許されぬ失言だ。ご羞恥召されよ、後継第二階梯、すなわち王位継承候補者その人よ。その指先を振った先で戦死した者を見ることもない権力の突端よ。いたんだこと殺したこと病んだこと忌んだことの億万を、有象無象の数字でしか存ぜぬ最果てよ」
忽然と、むずがる子どもを諭していた鷹揚さを脱ぎ捨てて。
転調した口ぶりは、感情を切っている分、はらわたが煮えくり返るような激怒を感じさせた。たったの寸秒で、こうまで渦巻くほどの熱情が、ザーニーイのどこにあったのかと……そう他人事のように思われるほど。
単に怒号を向けられるよりも恐ろしい厳かな警鐘に、矢継ぎ早ににじり寄られて、ただただ息を殺すしかない。
「八年前。俺たちは皆、大義名分があるせいで、隣人と殺し合わされた。殺された者がいた。残された者がいた。殺した上で残るしかなかった者さえ……今も、いる。それなのに、その指揮棒を持つ権利と義務を課せられし者が、指揮棒で刺したところで人は死なぬと言ってのけるか。直接は手をくだしていないと―――五十歩を足踏みした者が、百歩先へ行かせた者を贄と差し出して、免れようと。旗司誓でなくとも、矜持があるならば……それは拒絶すべきだ。恥知るならば―――晒すまいよ。滑稽ですらない。痛恨だ、キルル・ア・ルーゼ。傀儡の道化にしても……それは、侮辱が過ぎた冒涜というものだ」
「あなただって……戦場には出てない! そうでしょう!?」
「ジンジルデッデは死んだ。悔踏区域外輪では痛まなくなった瑕疵を異国の戦火に焼かれ、翁でありながらイェンラズハの眠る雹砂へ混ざることすら許されない千々の灰燼となった……ただひとりの、俺の、じいちゃんだ! イェンラズハのような縁もゆかりもない見ず知らずの他人とデデ爺を、戦争が結びつけたんだ―――敵同士として、所以を、結んだ……だから故に屠られたんだ、無駄死にを手繰り寄せるまで屠られた!」
廊下を警戒しながら、ザーニーイは滾りかけた音量を潜めた。心中穏やかでないにしても、またしても淡々と条理を吐いてくる。
「勘違いすんなよ。個人的な仇討ちの辻褄合わせしたさに、<彼に凝立する聖杯>を焚き付けたわけじゃねえ……俺からして、戦争への私怨くらいあるってことを言いたかっただけだ。【血肉の義】は旗司誓に織り込み済みの使命だが、所詮は俺らだって脆さのある人間だ。自棄に使役されることも―――あることではある。だから組織への無闇な刺激を避けようと、エニイージーに見張らせていた……あまり親しくさせるな、無邪気に懐かせるなと。俺は、常套句を以って出迎えたはずだな? それなのに客分を弁ず、知ったこっちゃねえなりのマブダチ気分で、いけしゃあしゃあと……何様のつもりかってぇと、お子様の王女様なんだから、しゃあねえが」
「そんな……」
「キルル・ア・ルーゼを招くにあたり、反発する者は少なくなかったぞ。今でも口を利いてくれない奴が、どんくらいいる? 愚弄し壊疽を起こす病巣だと露知らぬまま奔放のまにまに生き生きと振る舞う無知ゆえの無垢者に、その程度の意趣返しで手一杯だと突き付けているということを―――青息吐息の責め苦を与えている側だと、ちらとでも感傷したことはあるか? 相手が偏屈なだけだと……そうやってそれさえ人のせいにしてたんじゃねえのか?」
「それは……」
言い訳は続かなかった。あしらわれ、こともなげに追い詰められては砕かれ、呆然自失した果てに、こうして―――涙ぐむしか。
これはなんだ?
父が泣いていたことは、あの時から確かに知っていたはずなのに。
(どうして……あたしまで、こうなっちゃったの? 知っていたのに。このことは、とうに知っていたのに!)
分からない。分かりはしないが、それでも―――現実としてザーニーイは、キルルへと物語るのだから。これが……不可避というものだと。
だとするのなら。幾多数多の秒数年、幾星霜と受け継がれてきた永劫の時の末に、今こうしてこれが現出したのだとしたら。なればこそ、こうなることは、<終末を得る物語>から運命られていた取り決めだったのだ。
それはおそらく、キフォーの義烈の申し子が旗幟を取るより、はるか昔から。
すべては、アーギルシャイアが恋をする前から始まっていた。
超越者により、欲するは許諾すなわち録視書と命ぜられた瞬間から、森羅万象は億光年先より記され証明されていた。
だからこそ勝者のように興奮を孕むでもなく、佇立したザーニーイのせりふは無慈悲な予言者のように……書物を読み上げる宣教師のように、淡泊な調子で綴られていく。
「蒔いた火種から刈り取った戦果だけを、ほくほく顔でむしゃむしゃ食ってやがる野郎ども―――奴らにかかせた吠え面の上から、赤毛ひん剥いてやりてぇって魂胆があるのは否めない。が、それでも……俺は旗司誓だ。神髄まで求道せしめんと心技体を旗幟に委ねたひとりとして、双頭三肢の青鴉が悔踏区域外輪で風を含むかぎり、【血肉の約定】を守る」
「ジンジルデッデさんの……いたみをそこまで知っているのに、それでもあえてなお、またしても修羅場の戦禍をもたらしかねないことをするの?」
床にへたり込んだままのキルルを、立ち尽くした高みから見下ろしながら、ザーニーイが己の胸骨に指先を触れさせた。祈りの仕草かと思えたが。違う。
「トリガーはここにある。引き金ならば―――引かれる時だ」
「やめて……」
「裏付けにしちゃまだまだ物足りねぇと分かっちゃいるが、これ以上の好機はみすみす逃せねえ。クーデターの一種にはなるだろうが、元々こっちにゃ後ろ暗ぇこたぁありはしないんだ。多少の勇み足で進んでも一か八かなんてほど危ない橋じゃないはずだし、返り討ちにされたとしても一族郎党根絶やしにするといったタイプの鎮圧法は採用されねえはずだ。旗司誓であることを濫用さえしなければ、切り抜けられる、はずなんだよ―――キルル・ア・ルーゼが、ここにいる」
言外に、彼は……こう述懐してもいるのだ。意味ある隠し事を隠し主が隠さなくなる局面というのは、胸襟を開かせる程まで信頼を築いた時か、利用されて用無しとされた時だと。それも併せて、―――時が満ちたのだ。
(彼が、ここに来たのは……遊びでも、―――仕事ですら、なかった)
ザーニーイが、旗司誓だった。これが彼だった。それだけだ。
―――そしてキルルは、戦端句を聞いた。
キルルは、その時……確かに、戦端句を聞いたのだ。<彼に凝立する聖杯>の。ザーニーイの、歌うような―――さりとて歌にない強靭な響きを。
だのに、その裏から忍び寄っていた真言までも、キルルは聞いてしまっていた。
「―――双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ触れ疾く翔けよ」
我々を災いへと成したことを、理解したまえ痴れ者よ。爪牙は砥がれ清んでいる。いざ、その命脈たる血の流るる首を掻きに参らん。
「旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ」
償いたまえ。贖いたまえ。
王よ。況や、裸の王よ。鴉、己のみが知らずにいる。
「痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ」
鴉。右肢にて支え、左肢にて導き―――果て、真央なる三肢にて、楔を取らん。
「その棘示すは―――<彼に凝立する聖杯>、」
旗幟は穿とうぞ。楔となるがゆえに穿とうぞ。
予てより誓願は証されていた。
久遠の予言により、唯夜九十九の彼方より、到達するべく司られていた。
我らは血肉を以って義に尽くさん。この誇りにこそ満ち足りる。
すなわち、旗司誓。
「旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
月光が青い。
点滅せず、明滅もせず、清閑と。冴え過ぎて熱を失くした色は、孤独に煮こごり冷えている。そこに零される吐息もまた、ひとつふたつと凍えては、冷たさだけを冷やし固めて消えていく。
「無論のこと、折衝の道を探ることにはなるだろう。それとて、どういったかたちで成就するやら見当もつかねえが。つかねえとしても、それでも―――」
そしてザーニーイは、長い宣告を、……終えた。
キルルにとっての、別れの警告を。終えた―――
「背に二十重の祝福を受けし我らが双頭三肢の青鴉は、ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子・キルル後継第二階梯を送る時を以って、国旗への叛旗となる」
□ ■ □ ■ □ ■ □
予てより誓願は証されていた。
久遠の予言により、唯夜九十九の彼方より、到達するべく司られていた。
それではようこそ客人よ。
ここから先は、外輪とはいえ悔踏区域。
あなたがここを立ち去る時、踏み入いるならば悔いるだろうとの揶揄を、現実としていないことを切に願う。
それにも飽きて、手持ち無沙汰に、キルルはもそりと身を起こした。
燈明は落としていた。寝台に下げられた天蓋をどけてしまえば、窓から見える月の位置は低い。まだ夜半にもなるまいが、夕飯を胃に感じなくなるくらいの時間は経過していた。ここでは上等なのだろう重たい上掛けに愛着もへったくれもないが―――そもそもこの広さの客間においてベッドが中央に置かれていないセンスの悪さからして気に入らないのだ、自分は―――、それでも今になって苦情が溢れるほど不満なわけでもなく、ただ邪魔っ気を感じて、ぐいぐい押し込める。我知らず、気が立っているのかもしれない。
(そうよね……お姉ちゃんを見つけちゃったのかも分からないんだもの……)
箱の中に隠されていた、紅蓮の如き翼の頭衣。それを意識すればするほど、ゼラについて、ゼラ・イェスカザだからで済まされない事実が余程あるように疑われてしまう。
(あたしの頭を整髪する手つきが手早くて慣れていたのは、羽の手入れをした期間があったからなんじゃないの?)
その人は、実際に今も長髪なのだから、その扱いが慣れていたところで自明の理と言えたが。
(例えば、イェスカザ家の当主は、別にいて。ゼラさんもシゾーさんも、その人の養子なのだとしたら。シゾーさんが三年前に、ふっつりと姿を消したのは……その人の指示なんじゃ……)
ゼラ。分身。表裏。影。双子。それは古語だ―――過去からの曰くある存在、それを唆かす言葉。
その人は、言葉づかいを崩すと、生まれの訛りのせいでキルルには聞き取れないだろうと言っていた。名前ひとつ、せりふひとつ、その全てに如何な由来があるのだろうか。あるいは無いにしても、疑わずに信じることなど出来やしないが。
(また……こんな……こと)
有耶無耶な気がかりが堂々巡りするうちにノイローゼがかってしまって、ここ数日すっかり篭りがちになってしまった。シゾーやゼラはもとより、エニイージーにも顔を合わせたくなかったのだ。誰をどこから疑ったり信じたりすればいいのか。へとへとだった。どうせザーニーイにも逢えないのだから、ここでよかった。
なにくれと来訪者はいたものの、今の方が警備面として都合が良かったようで、あえて外出を促そうという働きかけは無かった。まあ当然で、守るだけなら柵の中より籠の中に入れておいた方が、堅牢だし手軽でいい。王城にいた時と同じだ。
(こんなことでさえ、どっちだって一緒なら……なら、やっぱり、お姉ちゃんが戻ればいいのよ。あんなところ……)
ここにいたい。
それを告げたい相手がいるように、自分はなってしまった。
(そんなこと言われたら……ザーニーイは、どうするのかしら?)
その時だった。
(音?)
とっと―――と、小石がふたつ連続して当たったような。
そこに振り返って、キルルは顔を顰めた。足元、部屋の隅の壁である。どうしたところで、小石など当たるはずもない。
そう、思えたのだが。あろうことか、またしても音がした―――壁の内側から、聞き覚えのある声と共に。
とっと……
「三度ノックして返事がねえんだったら―――」
とっと……
「寝ちまったんだろうから、このまま引き返すぜ」
「行かないで」
キルルは、寝台からずり落ちた。呼びかけに追いつこうと先走った足運びに両足がもつれてしまうが、裸足のまま転がるように壁に追いすがる。
続けて答えた頃には涙声になってしまっていたが、そうでなければ叫んでいてしまったろう。そう思う。
「逢いたかったの。だからお願い」
「あいよ。オーケイ。ちょいと退いてろ。汚れっから」
そして、数秒後。
圧縮煉瓦を偽装したタイルを外して、彼は現れた。稲妻の咬み痕を覆う真紅の襟巻きに、安物煙草の渋味を引き連れて。そのターバンと頭帯の袂には、痛み切って赤茶色が抜けた髪の金色と、切れ長の目の翡翠色。金髪碧眼……雷髪燐眼。それは霹靂。吟遊詩人に、そう謳われるという―――
「―――ザーニーイ」
「おう。元気だったか?」
彼だった。
妙なところを通ったせいか、ところどころ汚れていたし、服も皺だらけだった。尽き果てた精根もまだまだ本調子とはいかないようで、虚勢を張るでもなく端正な面差しには疲れがある。薄っすら、ずたぼろといった体か。それでも……ザーニーイだった。
物音を殺すように、そっとタイルを横に寝かせて、狭い穴から這い出てくる。そしてキルルに合わせてそのまま床に尻を落ち着けると、外套をひと払いして、苦り切った笑い顔を作った。それだけ見ると、まだ顔に残っている痣の黒ずみが痛んだのかと思えたが。
「はは、こればっかりは俺が言ってちゃ世話ねえか。俺にゃあ元気そうに見える。キルルはどうだ? 実際のとこ」
「あ、あた、……あたしは―――」
そつのない軽口に、なにを返すべきかは、分からなかった。
だから、言いたかったなにかを、言ってしまっていた。
「ザーニーイに逢えて、今とても嬉しい」
彼は―――
やや切なそうに微笑を崩して、告げてくる。
「ありがとう。最高の褒め言葉だ」
そのまま、顔を合わせること、しばし。
キルルは、動悸が凪ぎ始めた胸を深呼吸で撫で下ろしてから、服の襟を正した。ここでは寝間着という概念が無いらしく―――まあ夜襲にパジャマでは枕投げ最強トーナメントしか開催できなかろう―――、明日着る普段着をそのまま身に着けていたので、異性に見られたところでどうということもないが。
そして、まじまじと穴を見やって、瞠目する。真っ暗闇がどこまで貫通しているのか見当もつかない、一人用の横穴だ。
「にしても、気付かなかったわ。こんなところにまで隠し通路があったなんて」
「客室なんだから、真っ先に筒抜けになるように設計されて当然だろ。てんで穴だらけだぞ、ここ」
「えーーーーーっ!!?」
「しっ」
指の仕草と小声で制された時には、遅かった。
ドア向こうから、気色ばんだ声が掛けられる。見張りの旗司誓だ。
「おい! どうかしました!? 入りましょうか!?」
「な、なんでもないの! いきなり虫が出て―――!」
「だあほ、もっとそのゴージャスな悲鳴に釣り合う言い逃れしやがれ! 虫なんかそこらに巨万といるだろが!」
しかも横殴りから押し殺した指図を食らっては、続けようとした語尾もぶっ飛んでしまう。ぶっ飛ぶ? ぶっ飛びましたか? ―――記憶が。
「白いゴキブリがいたの!!」
無我夢中で、それを大声に変える。
途端に自信がなくなり、ごにょごにょと蛇足するのだが。
「もういないけど」
「それきっと夢っすよ……可哀想に。副頭領のせいで」
「だったら、あの、そんなこんなで。驚かせて、ごめんなさい―――おやすみなさい。もしかしたら、また変なカンジに魘されるかもだけど、気にせずにいてね!」
「あの……マジで休んでくださいね。トラウマ作って帰られちゃたまらねえから」
キルルに同情を寄せてくるドア越しの部下に、ザーニーイはよどんだ面白味を込めた半眼を向けた。窓が横並びに四つもある大部屋なので、普通より小声で会話している分には、廊下側には聞かれないだろうが。
「あのクソたれ目、俺がいねーうちにナニやらかしやがった? 白いゴキブリ?」
「いえあの。過ぎた話だから……」
「なんじゃそら」
呻くザーニーイだったが、関わりたくなかったのか、見切りをつけるのは早かった。あっさりと、話題を取り戻してくる。
「まぁともかく。穴についちゃ、心配するこたぁねえ。キルルが使うとしたら避難穴だけだし、そのほかの覗き穴やらもろもろについては、知ってる奴らは遊び半分じゃ使わねえさ」
「知ってる奴らって?」
「俺とシゾーとゼラだ。捜索したメンバーは、ここにゃもうそんだけしか残ってねえからな」
「遊び十分か、遊びじゃないお仕事なら、使うこともあるってこと?」
「そういやそうか。まあ、こうして使っちまった俺が言っても、栓の無い話さ」
(遊びで? お仕事で?)
訊けるわけもなく。別の質問をする。
「これがその避難穴なんじゃないの?」
「いや、これは……そういった用途じゃなさそうだ。と、見てた。デデ爺が」
急に歯切れ悪そうにして、ザーニーイは目のやりどころをうろうろと流転させた。
だが、ぽかんと残りの講釈を待っているキルルに、言責をせっつかれたらしい。いかにも億劫そうに、言い渋ってくる。
「寝しな目掛けて、女を交渉にやったんだろうと―――客が男の場合に。それを知っていると……そう言ってた」
「……ジンジルデッデさんって、つらい女の人だったのね」
それしか言えず、嘆息する。
それを見たザーニーイの反応は、意外なものだった。ぱっと声色を明るくして、ふってわいた喜色を漂わせながら、
「デデ爺―――ジンジルデッデのことを知ってるのか? 俺の先々代の頭領、先翁に当たるじっちゃんだぞ? まあ女だけど。その分じゃそこらへんも知ってんだな?」
「あなたがいないうちに聞いたの。ほかのことも、いっぱいね」
「どう知ってるんだ?」
「え?」
「聞かせてくれよ。人から聞かされるデデ爺なんて、初めてだ」
年端もいかない少年のように瞳をわくわくと浮足立たせたザーニーイに、こちらこそ一層とそわそわした心地に駆られるのだが。キルルは思い出した端から、言葉に変えた。
「奉公した先で、泥棒猫だって勘違いされたせいで、赤ちゃんが授かれない身体になるまで虐待されたって。そこから助け出してくれたのは、お兄ちゃんだったんだけど、そもそも奉公しなきゃならなかった原因が、そのお兄ちゃんらしくて」
「ふむ」
「でも、もうそこにいられないし、お家にも帰れなかったから、悔踏区域外輪で旗司誓として生きていくしかなくって。それでここにいるしかなかったって」
「ふむふむ」
「ジンジルデッデは本名じゃなくて、デタラメサイコロって意味だって。賽を振るみたいに、あっさり事件を治めちゃうから。それくらい才能があった人」
「ふむふむふむ」
「いい人で、規則を作って守らせる価値を学ばせたって。勉強が大切だって、働かせるだけにしなかったって。そこが地盤となったからこそ、<彼に凝立する聖杯>はザーニーイの代で隆盛することができたんだって」
「ふー……む……」
「なによ。違うの?」
「違うっつーか……」
幸先悪そうに暗転していく推知に、いつしか遠い目になってしまっていたのを引き戻すと、ザーニーイはこれもまたいつの間にやら点になっていた目をキルルに向けた。
「デデ爺の墓の前で唱えたら、そりゃ面白ぇやっつってすっ飛んで蘇りそーな復活の呪文だな」
「はあ?」
「つまりまあ、俺が知ってるジンジルデッデは、そーいう人なんだよ。底抜けの楽しみ屋さ」
耳の裏を小指で掻き、その爪にふっと息をかけて垢を足元に落としてから、彼は口を開いた。
「傷は、痕だらけなだけで、もう痛みはしない……だったら痛かったのを思い出すだけ、今を損する。そんな信条の楽天家でね。基本、お気楽で大らか。基本だけど」
「そうなの?」
「そ。どーせ人間なんざ明日にしか行けやしないんだ。後ろ髪引かれるたびに振り向いてちゃ、取り残されちまう。かといって、忘れた振りを決め込んで鼻高々と上を向いて背伸びしたつま先じゃ、よちよちと十歩も進めねえ千鳥足。そんなもん、そのうち転んで鼻を折るのが関の山だろ? どんだけ踵を浮かせたところで山向こうまで見えるもんじゃないと悟ったなら、見たい風景に辿り着けるまで、地に足をつけて必要なだけしっかり歩くこと。そのために、歩ける体力と、歩く配分を考える頭と、どんな風景が見たいのか絵空事を練る心を、ふんだんに養えってね」
「……前向きね」
「体力と頭と絵空事にかけちゃ、他の追随を許さねぇ程てんこ盛りな人だったからな。成し遂げてきたどうこうは、あくまでもそいつの金魚の糞さ」
ついで肩を竦めて、助言を足してくる。
「それに言っとくが、デデ爺がここにいたのは、イェンラズハにベタ惚れだったからだ。消去法で、なくなくここに居着いたんじゃねえ」
「イェンラズハ?」
「さっきキルルが言ってたとこの、兄ちゃん役だな。ふたり並んで頭領してた。副頭領……どっちが補佐なんて、ありゃしなかったさ。精悍な大男でね。斬騎剣を構えさせたら、そりゃあ様になったもんだ。デデ爺の相棒で、パートナーだった人だ」
「その人は翁って呼ばないの?」
「ああ。デデ爺がそう呼ばなかったからな」
「でも……亡くなったのよね」
「流行病でな。いなくなった時は、子ども心にも穴が開いたよ。えれぇ口下手で、ろくすっぽ話しやしなかったけど、誰よりも優しく聡明で、温かい手をした―――日向みてぇに心地いい人だった。ガキだったから、伝染っちゃ一いち大事だっつって、死に目に会わせてもらえなくてね……親父とした喧嘩のなかでも、ありゃあ群を抜く大戦だ」
「ジンジルデッデさんの、お兄ちゃんじゃなかったの? 片親は違うって聞いてたけど」
「ふざけ半分で兄ちゃんっつってじゃれてたのも見かけはしたが、ホンマモンの血縁があるかは知らんし、ンなもんよりがっちり縁結びされたふたりだった」
胡坐をかき直して猫背を伸ばし、ザーニーイは懐旧談をつつく長考面を解いた。通路に置いてきたのか、手斧も剣も帯びていない腰を気障りそうにさすって、落ち着かなげに―――猫の髭みたいなものなのかしら?―――しながら、
「最初からの話になるが。デデ爺は娘っ子の時分に、奉公先のお偉いさんから、妾になれって言い寄られたんだとさ。で、ブチ切れたイェンラズハが、そいつに手ぇ出しちまった。いいように吊し上げられるくらいならと、デデ爺がイェンラズハを逃がしたもんだから、逆にその弱みにつけこまれて妾になるしかなかったらしい。ところが、なってみたらなかなかにイイ御身分で、」
「イイ御身分?」
「待遇だよ。風呂は毎日だわメシは出てくるわ、なによりも勉強するだけ叩けば響くお偉いさんだったらしく、問答してるうちに一番のお気に入りにされたんだと。こうなると、女は男を立てて三歩後ろから馬鹿の振りで愛され上手だった二番手以降は気に食わない。しかも女ときたら、不平不満は的に直接ぶつけず、周りに垂れ流すだろ。群れず連れずだったデデ爺は、自分以外の女たちがネガティブに連帯してくのに、ちっとも気付かなかったらしい。で、ある時いきなり一方的に集団制裁」
「ある時いきなり?」
「いきなりプッツン来んのが女だろ。しかも一度プッツンしたら最後、プッツン繋がりで昔から今までのオールプッツンを順繰りに思い出して、火に油ときて歯止めが利かねえ。消火活動なんざ無駄足だし、踏み込むだけ火傷すんのがオチだ。燃え尽きて鎮火するのを待つっきゃない」
「……ザーニーイ。あなた、なにかプッツンした女で嫌な思い出でもあるの?」
「それはさておき。んで、デデ爺は、おん出されたのをこれ幸いとばかり、イェンラズハのとこに戻ったってわけだ」
それはさて置かれてしまっては、聞くしかないキルルなのだが。
無責任にもザーニーイは、トーンを落としたキルルの横目をきっぱりと無視しつつ、ぼやきを継ぐ。
「赤んぼ産めねぇ身体に云々ってのは当たってると思うが、あのふたり、割り符合わせたみてーにピッタリ過ぎてガキ挟む隙間なかったぞ。ジンジルデッデって呼び名の由来だって、ただのノロケだし」
「のろけ? デタラメサイコロが?」
「だーもー、くそ。それが、まず違ぇんだって……まあ俺も、こっ恥ずかしい話だから、あえて今まで訂正はしてこんだが。賽をポイ投げしての、いっ・せーの・で、って掛け声のこっちゃないんだよ―――ジン・ジル・デッデってのは」
「じゃあなに?」
「ほうき星」
意表を突かれ、キルルは言葉を失った。
そういった反応は予想していたのだろう―――ついでに、それを見届けねばならない己の気恥ずかしさも。ザーニーイは沈黙を払うように、憮然として先を急いだ。
「デデ爺は、満身創痍の痕だらけだったけど、左頬の目許から口許にかけても三本傷があったんだ。それを指でなぞって、いち・にの・さん―――俺の流れ星だ、願いを叶えてくれたってイェンラズハが言ってくれたから、それを標榜することにした。だから、まあ、祈ってみな。わたしが流れ星だ。叶えようって気にしてやるさ―――空を見上げた時と同じくらいには。……デデ爺は、俺がガキの頃、よくそう言ってた。そのほっぺたを、にやつかせながらさ」
流星。
キルルは、窓へと振り返った。曇り空であるのはもとより、透明度の低い硝子では月より光度の劣る星明りは判別できずとも。星辰はそこにある。
「素敵なお話」
「そうかい」
「素敵な人だったのね」
「だったのには違いなかろーが。それだけなら、どんだけよかったか……」
「どうしたの? びくついて」
「いや別に。何でもない。へっちゃらだったぞ俺は。うん。シゾーは泣いてた。間違いない」
「泣いてたの? シゾーさんが?」
「あん? なに不思議がってやがんだ。あいつ今だって泣き虫じゃねえか」
「…………」
言い切られると、これもまた反論のしようがないのだが。
とりあえず、気になったことを訊いてみる。
「イェンラズハさんが叶った願い事って、なんだったのかしら?」
「さあな。彗星に祈るくらいだから、相当に現実的じゃない代物だったか、或いは―――許しが後押しとなる、のぞみだったか」
「許し?」
「キルルは神を信じるか?」
ふと、眼光を鎮静させて、そう嘯いてくるザーニーイに。
真っ先にキルルが思い出したのは、羽根のことだった。国家の象徴であり、国民を束ねる要とされる存在。それを生やした―――イヅェンと、名も知らぬ異母姉と。
(ゼラさん……)
黙り込んだキルルをどう察したのか。ザーニーイは、言ってきた。
「信仰の話じゃない。そしてそれは、神が実在するか不在なのかって次元とも別物さ―――いようがいまいが、それでもなお信じるかって意味だ。それに疑いが忍び込んだ時、人は祈るのものなんだよ。許しを求めて」
そしてキルルは、気付いた。
反芻は苦しかったが、それでも気付いたなりに、ゆるい笑顔でも取り繕うくらいはするしかなかった。そうやって、口の端のむずがゆさを呑む。
「ザーニーイ。あたしね。そんな話も、たくさんしたの」
「へえ?」
「信じても、疑っても……愚かでも、賢くても……愛しても、恋しても―――」
―――恋人。
「ねえ、ザーニーイ」
「あん?」
「あなたの恋人って、どんな人?」
即座。
遮ろうとはしたのだろうが。分かりやすく虚を突かれた口の内で、彼が嘘を練るのに戸惑った二秒の隙に、キルルは付言した。
「首ったけなのがひとりって聞いたわ。シゾーさんから」
「だからあンのクッソたわけ、言うに事欠いて頓珍漢な……!」
激昂は易く脳天まで吹き上げたようで、ザーニーイは犬歯を剥きながら、毒ついた。ついで懐からシガレットケースを取り出そうとして、さすがに途中で取りやめにする。なので結局は、その古馴染みをとっちめる動作を両手に繰り返させつつ、彼は有り体に殺気ばんだ面持ちで、怒声を食い千切ってきた。
「断っとくが、あのスケこましの言い分なんぞ、逐一真に受けたもんじゃねえぞ。シゾーはな、そんじょそこらの色魔たぁわけが違う、てめえで色狂いさせた女に刺されて縫い傷こさえるような、根っからの女ったらしだ。分かるか……自然に塞がるような浅手じゃ済まなかったから縫ったんだぞ? ンな色ボケ小僧のピーチクパーチク、言われる端からほいほい許容してちゃ身が保たねえ―――」
キルルが見詰めるうちに、言葉尻が縮んでいく。
それでも目を逸らさずにいると、ザーニーイは勝手にそっぽを向いた。そそくさと、流れをぶった切ろうにも、機を逃した……そんな顔つきで。
「だから、―――その……」
「ザーニーイはそうじゃないのでしょう?」
言い切る。と。
「……恋人なんかじゃない」
いやいやながら受け止めて、それでも抗議は諦めなかった。低い声混じりに舌打ちしてくる。
「あっちが勝手に首ったけなだけだ。あんなイカレもん、恋なんかでたまっか。おちおち大事にもできやしねえ」
「じゃあ愛?」
「あのなぁオジョウチャマ、やんごとなきアナタサマがどこで覚えたか知らねえが、惚れたハレたの艶聞なんざ―――」
「その人、あたしのお姉ちゃんなんでしょう」
断言を重ねて。
ザーニーイが、目の色を変えた。豹変したと言うほどでもないが、内心の怒りを収めるように、意図的に面の皮から力を抜いて。げんなりと。
「ふざけるな」
「あたしと取り替えて」
「ふざけるなと言っている」
「どうせ同じなら、あたしだっていいじゃない!」
食って掛かるうちに、つい声量が上がりかかる。
「ふざけてないと言えば信じてくれるの? それは愚かしいの? あなたが間違っていないことを疑ってはいけないの? 信じるだけが賢いと言えるの? 恋なんて―――」
キルルは―――
ぽつりと、八つ当たりしていた。
「しなきゃよかったのよ。あなたになんか」
「……あいつだって、きっと、そう思ってる」
気勢を落として、ザーニーイは項垂れた。
彼の顔つきは、面妖なものだった。呆気にとられたようでもなく、さりとて嫌気が差したという風でもない。眉を落として目蓋を下げ、笑うでもなく弛めた口許が窪んでいて、皺じみて見える。なんとも名状しがたいザーニーイのそれを盗み見たのは―――二度目だった。あの中庭での夜、それ以来の……二度目。
それを見てしまったのだから、キルルにはもう否定することさえ出来なかった。
「やめられないのね」
「だろうな」
「とめることも出来ないのね」
「だろうさ」
「許されることはあるの?」
「あるの、だと? ……はは」
から笑いして、彼は目鼻を撫でた。たったそれだけで明瞭さを鼻っ柱に取り戻して、言い澄ましてくる。
「あるから祈るのか? だったら、ないなら祈らない? ―――そうじゃない。神を信じるか? それと同じだ。俺たちの旗幟に、よく似ている」
「え?」
「旗があるから、司ると誓ったのか? 違う。内なる蒙昧から、神聖なそれを証すために操を立てた。それが標されたかたちが、旗幟だっただけだ。俺たちは―――」
そして、上を見上げる。
窓へ目をやるようにしながら、その眼差しは、楽園と共に失われたと言う伝説の鳥を―――青い空を行く鴉を追っていた。恭順し、崇めるようにではなく……ただ、示された先の、凌駕を目指して。
「俺たちは、みな―――奇跡を許されるよう、心から、祈るんだ」
そして。
ため息をつこうとしたらしいが、ぎょっとそれを呑んだ。こわごわと、こちらへ手をかざしながら、訝し気にする。
「参ったな。泣いてんのか?」
「迷惑?」
「いんや。その大粒の目ン玉までポロポロポロッと落ちねぇか不安になるだけさ。俺は臆病だからな」
「やぁね。その言い方じゃ、みっつも目があるみたい」
「俺の計算が合わねえのは、いつものこった。叩きさえすりゃビスケットだってポッケの中で増える浮世の沙汰中、俺までそうじゃないなんて誰が決めた?」
「そんなこと、お姉ちゃんにも言ってるの?」
「だから。それは。オネーチャンじゃ―――」
「じゃあなんて呼べばいい?」
目元を拭って、口を挟むキルルに。
あからさまに不承不承ながら、打ち切りを断念したらしいザーニーイが、譲歩した。
「シヴ」
「シヴ?」
「そう呼ぶ奴もいる。シヴツェイア。そいつの名前だ」
「綺麗な名前」
「そうなのか」
「そう思わない?」
「思ってみたことも無かったな」
「キルル・ア・ルーゼよりも、玉座に映えるわ。シヴツェイア・ア・ルーゼなら」
自虐の味すら、こうなっては甘い。
味わうように黙り込むのだが、そんなキルルへ向けて、―――ザーニーイは身を正した。すっと片膝を立てて膝行し、半身を下げる。真顔で、こちらにも態度を乞う、その姿は……数日前、旗幟を支えるように控えてみせたシゾーのそれに、よく似ていた。
「ア族ルーゼ家が後継第二階梯、―――キルル子女」
怜悧な物言いで、改めて畏まる。
「たまたま監視が絶えたタイミングがかち合ったから、こっそり抜け駆けすることにしたんだが……本当は、俺は、これを伝えにきた」
「……なに?」
「次に会うのは、さよならの時になる。それは、俺とキルルが―――って意味じゃない」
「え?」
「それだけじゃない、時が来たんだ。大いなりて、巡り合わせた、……時が」
「どうしたの? ザーニーイ。おっかないし―――おっかしいわよ」
困惑してはぐらかそうとするのだが、彼は聞き入れなかった。神妙さながら、朴訥と囁く。
「旗司誓の本分は、【血肉の義】に基づいての、悔踏区域外輪における遊弋だということは知っているな? それは実は、対外勢力に対してのものだけじゃない。国内の趨勢にも向けられている―――【血肉の約定】から血を分けたはずの同族が【血肉の忠】を怠っていたとしても、それは絶対的に継続されてきた」
「……―――」
単なる指摘とばかりに正してくる彼に、キルルは上辺ですら苦悶できなかったが。気にすることもなく、彼は蘊蓄を積んでいく。
「話は、八年前の戦争まで遡る。戦火の火種は、とある動物由来禁戒薬物にまつわる嫌疑だった」
「アーギルシャイアの臍帯ね」
「知ってんのか?」
拍子抜けしたとばかりに転調した声音は、ありありとこちらを見縊っていたことを物語っていたが。厭味だったところでとうに腹も立たずに、キルルは頷いた。
「イコさんと、そんな話もしたから」
「ああ。イコ―――イコ・エルンクーか。そうか……らしいことしやがったか。あいつは。キルル相手にも」
「え?」
「いやなに。俺が、ありがたいって……それだけの話さ。あいつは頭が良いくせに人も好よくて、他人のために躊躇わず機転と気を利かせるのにかけちゃ、誰より手練れてる。俺に文で現状を告げ口してくれたのも、あいつだ。エニイージーは―――尊敬する男親にゃあ素の身の丈なんざ見せやせんのが思春期ってもんっしょ? って、言ってのけるくらいのな。白眉さ」
手放しで褒めそやして、ザーニーイは和らげた上唇を親指でさすった。イコのことを言っているのか、エニイージーのことを言っているのか、両者ともを誇らしく思っているのか。それは分からないが。
「イコさん、檻から出られたの?」
「檻? ―――翻る旗を待つ、のことか? ンなもん使うわけねえだろ、ちんけな十人十色の面当て程度で。ありゃあ、一発であの世行きの死刑もイヤ・連発であの世行きの私刑もイヤ・だってんなら嫌々だろうが自殺しとけっつう、極めつけの見せしめだぞ。俺の代で使ったのは、これまで二回だけだ」
「面当て程度、って……青い人たち、ひどい中傷してたのよ。ザーニーイ。あなたのことも」
決死の思いで、吐露するものの。
ひょいと眉を上げて、取るに足りないとばかりに、ザーニーイ。
「ああ、青の―――ギィの連中か。あいつらは、シゾーが出しゃばってくれてた隆盛期に入ってきたからな。天井知らずに伸びてく快感を忘れられなかったところで、無理もねえ。俺が交代した途端に筺底との繋がりまで薄まっちまったから、緑酒をお手頃価格で横流ししてくれる相手に飢えてんだろ。シゾーは下戸だから、そこらへん分からず屋でいけねえ。今度手に入ったら差し入れしとくか」
「は―――?」
二の句が継げなくなってしまうキルルだったが。
(そう言えば……なんだか、周りを褒めるばっかりよね。この人。自慢らしい自慢も人のことばっかりで、自分のことは臆病だとしか言わないし)
脈絡なく気取られたことも知らないで、当の本人は手をひらつかせて、仕切り直してくる。
「無駄口しちまったな……とにかく。当時、我が国と隣国は、見過ごせないまでに輸出入の収支バランスが崩れていた。原因は、有翼亜種の羽根だ。喉から手が出るほど欲しいって連中がわんさかいて、値段が張るものながら、売れに売れた。んで、隣国は羽根を買う一方になってきてた反面、こっちに輸出するのに目ぼしいものが無かった。だから、相手さんも、なにかをこっちに売りつけようと企んだ。それが、麻薬だ」
「麻薬?」
「そうだ。依存症にさせちまえば、あとは売り口に困らねえ。酒や煙草とおんなじさ」
「それは……そうだけど。交易品に、って」
「それこそ、酒や煙草とおんなじでね。厳重に取り締まってるとこもないではないが、勧めはしねえが縛りもしねえってとこもある。神がかるために、服用を余儀なくされる公職が認められた国もあるだろ。神興国ジルハラワがそうだ」
あっさり言われた国名に、記憶が傾きかけるが。ザーニーイは説明を続けた。
「んで、こんなもん寄越されても困るっつって、我が国と隣国は戦争になった。で、いざ戦争ってなったら、隣国は先に手ぇ出したヤク中だらけで、まんまと我が国のボロ勝ち。しかももう一枚あった上げ底の蓋を開けてみりゃ―――なんてこたぁねえ、羽根を右から左へ流すだけで手に入れてた あぶく銭に目がくらんで、麻薬遊びをしだしたが最後、抜けられなくなっちまって、じゃあ自分らの分を作るついでに他にも売りつけてやれっていう、傍迷惑な自転車操業だった。ちゃんちゃん、おしまい、ってな」
「……お粗末な顛末ね」
「残念ながら、そいつはこれからだ」
「え?」
「今までの話は全部、嘘だ。ただし、」
そこで―――
ぴっと、片手の拳から立てた二本指の先が、鉄砲のようにキルルの鼻先へ突き付けられた。凄味を利かせた、覇気と共に。
「―――お前たちが、俺たちへ吐いた嘘だ」
「え?」
「八年前より先から、我が国は麻薬を隣国へ密売していた」
「は?」
「そして、酒や煙草の愛用者が色んな品目を試すがめつするのと同じように、あっちがなし崩しに中毒者を増やした頃を見計らって手を引いた。それからは知らん顔決め込んで自滅を待ち構えつつ、最期に喉笛に食らいつくだけで、まんまと属国としたのさ。詰め腹を切らせるにしたって、最悪のマッチポンプだ」
言われ―――そして手を下げられてもなお、弛緩せぬ邪視に。
展開からして、慮外千万なことこの上ない。身を凝固させてくる空気に喘いで、とにかくキルルは、面食らったまま疑問を投げた。
「……どうしたって、無理よ。そんなの」
「どうしてそう思う?」
「国ひとつが潰れるような大量の麻薬栽培なんて、ばれないで、どこで誰がやってのけるのよ?」
「国牢で国家がやり遂げた」
やはり揺るがず、すんなりと揚げ足を取ってくる。
「アーギルシャイアの臍帯については、どれくらい知ってる?」
「……知らないわよ。名前以外、ちっとも」
「アーギルシャイアの臍帯は、禁戒薬物の中でも、動物から作られる麻薬になる。とある薬物を動物に常用させると、体内で変化を起こし、新陳代謝―――細胞分裂が進む部位から、汚染が進む。で、脳までやられて狂い死にしたその肉をジャーキーにしたり、骨を砕いて内服したり、乾燥させた粉末血液を炙って吸い込んだりして、摂取するってわけだ。脳みそが小さすぎると、肉体に麻薬が浸透しきる前に死んじまうから、あんまちっぽけ過ぎねえサイズで成長の早い食肉向きの動物……生まれたての仔羊に与える乳に混ぜる、なんて手管が代表格なんだが」
「それを国の牢屋で実行したっていうの?」
はぐらかされた思いにいい気はせず、キルルはザーニーイを睨めつけた。
「馬鹿にしないでよ。牢屋に羊を囲ってる国なんか、あるもんですか」
「そうだ。牢にいるのは罪人だ。若い女もいる」
と―――
「幼生が成体へと変態する以上の、最高度の細胞分裂は何か……知っているか?」
そう言及して、いったんザーニーイは間を置いた。俯いて―――顔を上げる、ただそれだけの動作で躊躇を踏み越えてくる。
「子種を仕込んで薬物を摂らせ、十月十日―――腹が出るのと頭がおかしくなるのを見計らいながら匙加減しつつ、出産と廃人の間際に、国外追放というかたちで踏許証を発行し、隣国へ出すんだ。そこで、まあ……お抱えの事情通の手で、解体される。母体はもとより、宿ったその日から毒素を煮詰め続けた胎児から精製されたアーギルシャイアの臍帯は、極めて高純度なため、比類ない高値で取引されると聞く。まさしく―――臍の緒がな。皮肉にしたって出来過ぎだろ? こちとら駄洒落にも出来やしねえ」
呆けるしかないキルルだったが。
聞きっぱなしに断定される危機感に、意地でも反発は強まった。今更床の冷たさに跳ねるように、ザーニーイへと間合いを詰めて、抗弁を積む。
「釈放された人がおかしくなってたら、誰かが絶対に気づくでしょう?」
「元からおっかしいから犯罪者なんだ。狂い女のネジの飛び度合いに目利き利かせる奴なんざ、そこらにうろちょろドンジャラホイなわけあるか」
「だって。その人にも、家族とか……」
「収監する前に、罪状から家族構成まで把握されてる。まあ、そいつについては合法だ。真っ当にも、警察の取り調べだからな。天涯孤独で、万引きを重ねることでしか食いつなげねぇような生理初めの幼女、ひとりやふたりくらい、はぐれ街娼に落ちぶれさせる前に拾うなんざザラにあるだろ。保護か逮捕か、名目は知んねえが」
「でも。刑期を終えておかしくなるケースが立て続けば、いくらなんでも妙だと勘付く人は出るわよ」
「立て続ける必要はない。ひとつ成熟させれば、採れる麻薬は―――どんだけ余分な水分を絞って体毛を削いでも、母体だけで二十キロはくだらないだろ。アーギルシャイアの臍帯の粉末血液の末端価格は、耳かき一杯につき、辺境価格で金貨五から十枚前後。これが、水子の死体では倍ドンに高跳びするわけだから、そのもの以外の胎盤その他付属物を含めて三キロ程度だとしても―――合計金額で、豪華絢爛な豪邸をみっつよっつ建てれるって寸法だ。実際は国庫に入ってんだろうが」
「でも、人ひとり麻薬漬けにするなんて、とんでもない量の薬物を要するんじゃない? それを怪しまれもせずに……」
「経口摂取でなく、注射や点滴といったかたちでダイレクトに送り込めば、効果は覿面だ。分量なんざ、格段に抑えられる。おそらく十数分の一で済むだろうと―――ゼラは言っていた」
こうまで手際よく論破されては、組手にもならない。
どもるしかなくなったキルルに、ザーニーイは暗く炯眼を差し向けてきた。打ち留めるように。
「否定したいのは分かるが、証拠が出ちまったんだ」
「証拠?」
「アーギルシャイアの臍帯を確認した……ナマ物の現物、人間として」
「にんげ?」
「残念ながら、騒ぎに乗じて、夫やら身元引受人やらを称する野郎が殺しちまった。そいつもジャンキーで、同病相哀れんだシャブ狂い同士がとっかえひっかえスワッピングしてんだろうくらいにしか隣国じゃ思われていなかったらしいんだが。ついに共食い起こして殺人事件かってお縄にされる直前に、かろうじて確認できた。隣国だったから、立ち回りがスムーズにいかなかった……」
「その証言が、その中毒者の妄想じゃないって、どうやって証明できるの?」
「その野郎がゲロったんじゃねえ。アーギルシャイアの臍帯にされるまでの手口とやり口を、虫の息だった女から聞いたのさ」
「それこそ信じることなんて出来ないでしょう?」
「ああそうだ。信じられやしなかった。地下牢みてぇなとこでポリ公に犯られた上ヤク漬けにされたなんざ、信じられっかよ。だから調べた。マッポの顔にでっけえひきつれがみっつもあったっつってたから、初めは筺底の荒くれマフィアが とんちきな金稼ぎに手ぇ出し始めたのかって線で詰めたんだが……じゃあ、悪目立ちすると分かり切っていて、なんでまたよりによって我が国のサツの恰好でンなことする? そういうプレイか? あほか。その行いは、制服で済ませる公用だったんだよ。任務だ。仕事だ」
「じゃあ、」
「ああ、そうさ。もとはと言えば、ラリった妄言を、やっぱりラリったなりの妄言だったじゃねえかと空振りさせるための裏取りに過ぎなかった。隣国との騒動の際に入手できた人体組成の一部が、アーギルシャイアの臍帯だと発覚してから、方針を切り替えざるをえなくなったんだよ。あれから複数回、ヒト由来と思しきアーギルシャイアの臍帯が発見されている……俺たちだって、その瞬間まで、看破されるような裏が戦争にあるなんざ眉唾だったよ。赤毛どもは分厚い面の皮してやがるたぁ思ってはいたが、剥いでみれば、まさかの化けの皮だったとは」
「でも……それこそ、あなたたちを、そのマフィアって人たちが陥れようとしてるんじゃないの? あなたたちの【血肉の義】を逆手にとって」
「意味がない。そりゃまあ、悪事の片棒を担がされそうになるこたぁあるが、そんなもん民間人だって企んでくれることだ。武装犯罪者と違って、商売敵と目されることさえ、滅多にない。筺底と旗司誓は、いわゆる畑違いってやつでね。萬荒事一手専売にあくせくする農家同士、お互いの畑について話したり融通を利かせたりすることもないではないが、だからこそ濃厚には関係も干渉もしない。お互いのやり方で帳簿をやりくりすっから上手くいく関係なんだ。俺たちの畑を横取りしたところで、あいつらじゃ俺たちと同じ収穫高は取れない。なら、しない」
「それは―――」
あなただからなんじゃないの?
(……え?)
シゾーならばどうだ? 蒼い炎と言わしめた、あの―――男なら。三年前に、一度ならず二度までも暗殺に失敗したのだ。三度目の正直とばかりに、入念に三年がかりで仕組むこととて考えられるではないか……
(考えられる―――だけでしかないのに……)
歯がゆいにしても意気を折られてしまっては、キルルも弁護を呑むしかなかった。それでも、……足掻く。
「そんなの―――嘘でしょう?」
「そうだ。俺たちへ吐かれていた嘘だ」
未知数で信憑性のない駄法螺に違いなかった筈のものを、言い重ねるうちに糊塗を失くした真実として。ザーニーイはまたひとつ、双眸の燈し火を冷ややかにした。傷つけるつもりはないが、触れてくれた指が傷ついたところで構わないといったような……痛みを与えてくる、氷点下の霜の色だ。
「神話に聞く母鳥とその卵のように、身を挺して守り抜いてきた、旗幟を支えし我らが国土―――それこそが、国賊の麻薬畑を托卵されていたに過ぎなかった。これは決定打となる裏切りだ。旗司誓は許さない。国民もそれに続くかもしれないし、そうなれば内紛も起こりかねない」
「内紛?」
はたとキルルは、それに気づいた。
せり上がっていく脈拍と呼吸は、末期を予感させるような不吉さに満ちている。戦慄いて、それを哀願へと縒り上げた。
「やめて……そんなこと。やっと八年経ったのよ。乱され切っていた人たちが落ち着いて、立て直して、それが実り始めたから、国録総人口も増えてきた。それをまた、争いに投げ込もうっていうの?」
「八年以上前にそうしたのはそっちの方じゃなかったのかと、俺たちは投げかけるだけだ。大っぴらに武力を用いて国を拉ぐつもりはねえ」
「なら、あたしが持ち帰るわ。それで、イヅェンに調べさせる。それなら……」
「説得力のない背約者だな。どうしてそいつをこの土壇場で信用できる? 【血肉の忠】を、こうまでないがしろにし続けておいて。なにより、信頼されると思う? まずもって、あんたにゃ実力がない。逃げたがりには、逃げ足さえ期待できやしねえよ」
「実力」
そこまできて、思いつく。これ以上ない名案を。
「そうよ。そうなら、やめてよ……やめさせて! 食い止めて。ザーニーイ。霹靂なんでしょう? あなたからなら、みんなきっと―――!」
衝動に口を衝かれるがまま、言い募り終わる頃には―――
無駄だと、悟らされた。儚く、無価値過ぎた、憐れましい訴えに、ザーニーイはまばたきすらしなかった。
ただ、立ち上がった。ばさ、と外套を打ち鳴らした音は―――まるで羽音のように。
「せめて―――祈ればいい」
「許して……!」
「それを乞うなら天へ向けろ―――低劣にも、唾を吐いたそこへ。もとある場所に降り落ちてくるのに、八年かかっただけのことだ。過ぎた返報でもあるまい」
「あたしがそうしたんじゃない!」
やけくそで歯軋りした、その刹那だった。
「言ったな」
「なんですって?」
「それは許されぬ失言だ。ご羞恥召されよ、後継第二階梯、すなわち王位継承候補者その人よ。その指先を振った先で戦死した者を見ることもない権力の突端よ。いたんだこと殺したこと病んだこと忌んだことの億万を、有象無象の数字でしか存ぜぬ最果てよ」
忽然と、むずがる子どもを諭していた鷹揚さを脱ぎ捨てて。
転調した口ぶりは、感情を切っている分、はらわたが煮えくり返るような激怒を感じさせた。たったの寸秒で、こうまで渦巻くほどの熱情が、ザーニーイのどこにあったのかと……そう他人事のように思われるほど。
単に怒号を向けられるよりも恐ろしい厳かな警鐘に、矢継ぎ早ににじり寄られて、ただただ息を殺すしかない。
「八年前。俺たちは皆、大義名分があるせいで、隣人と殺し合わされた。殺された者がいた。残された者がいた。殺した上で残るしかなかった者さえ……今も、いる。それなのに、その指揮棒を持つ権利と義務を課せられし者が、指揮棒で刺したところで人は死なぬと言ってのけるか。直接は手をくだしていないと―――五十歩を足踏みした者が、百歩先へ行かせた者を贄と差し出して、免れようと。旗司誓でなくとも、矜持があるならば……それは拒絶すべきだ。恥知るならば―――晒すまいよ。滑稽ですらない。痛恨だ、キルル・ア・ルーゼ。傀儡の道化にしても……それは、侮辱が過ぎた冒涜というものだ」
「あなただって……戦場には出てない! そうでしょう!?」
「ジンジルデッデは死んだ。悔踏区域外輪では痛まなくなった瑕疵を異国の戦火に焼かれ、翁でありながらイェンラズハの眠る雹砂へ混ざることすら許されない千々の灰燼となった……ただひとりの、俺の、じいちゃんだ! イェンラズハのような縁もゆかりもない見ず知らずの他人とデデ爺を、戦争が結びつけたんだ―――敵同士として、所以を、結んだ……だから故に屠られたんだ、無駄死にを手繰り寄せるまで屠られた!」
廊下を警戒しながら、ザーニーイは滾りかけた音量を潜めた。心中穏やかでないにしても、またしても淡々と条理を吐いてくる。
「勘違いすんなよ。個人的な仇討ちの辻褄合わせしたさに、<彼に凝立する聖杯>を焚き付けたわけじゃねえ……俺からして、戦争への私怨くらいあるってことを言いたかっただけだ。【血肉の義】は旗司誓に織り込み済みの使命だが、所詮は俺らだって脆さのある人間だ。自棄に使役されることも―――あることではある。だから組織への無闇な刺激を避けようと、エニイージーに見張らせていた……あまり親しくさせるな、無邪気に懐かせるなと。俺は、常套句を以って出迎えたはずだな? それなのに客分を弁ず、知ったこっちゃねえなりのマブダチ気分で、いけしゃあしゃあと……何様のつもりかってぇと、お子様の王女様なんだから、しゃあねえが」
「そんな……」
「キルル・ア・ルーゼを招くにあたり、反発する者は少なくなかったぞ。今でも口を利いてくれない奴が、どんくらいいる? 愚弄し壊疽を起こす病巣だと露知らぬまま奔放のまにまに生き生きと振る舞う無知ゆえの無垢者に、その程度の意趣返しで手一杯だと突き付けているということを―――青息吐息の責め苦を与えている側だと、ちらとでも感傷したことはあるか? 相手が偏屈なだけだと……そうやってそれさえ人のせいにしてたんじゃねえのか?」
「それは……」
言い訳は続かなかった。あしらわれ、こともなげに追い詰められては砕かれ、呆然自失した果てに、こうして―――涙ぐむしか。
これはなんだ?
父が泣いていたことは、あの時から確かに知っていたはずなのに。
(どうして……あたしまで、こうなっちゃったの? 知っていたのに。このことは、とうに知っていたのに!)
分からない。分かりはしないが、それでも―――現実としてザーニーイは、キルルへと物語るのだから。これが……不可避というものだと。
だとするのなら。幾多数多の秒数年、幾星霜と受け継がれてきた永劫の時の末に、今こうしてこれが現出したのだとしたら。なればこそ、こうなることは、<終末を得る物語>から運命られていた取り決めだったのだ。
それはおそらく、キフォーの義烈の申し子が旗幟を取るより、はるか昔から。
すべては、アーギルシャイアが恋をする前から始まっていた。
超越者により、欲するは許諾すなわち録視書と命ぜられた瞬間から、森羅万象は億光年先より記され証明されていた。
だからこそ勝者のように興奮を孕むでもなく、佇立したザーニーイのせりふは無慈悲な予言者のように……書物を読み上げる宣教師のように、淡泊な調子で綴られていく。
「蒔いた火種から刈り取った戦果だけを、ほくほく顔でむしゃむしゃ食ってやがる野郎ども―――奴らにかかせた吠え面の上から、赤毛ひん剥いてやりてぇって魂胆があるのは否めない。が、それでも……俺は旗司誓だ。神髄まで求道せしめんと心技体を旗幟に委ねたひとりとして、双頭三肢の青鴉が悔踏区域外輪で風を含むかぎり、【血肉の約定】を守る」
「ジンジルデッデさんの……いたみをそこまで知っているのに、それでもあえてなお、またしても修羅場の戦禍をもたらしかねないことをするの?」
床にへたり込んだままのキルルを、立ち尽くした高みから見下ろしながら、ザーニーイが己の胸骨に指先を触れさせた。祈りの仕草かと思えたが。違う。
「トリガーはここにある。引き金ならば―――引かれる時だ」
「やめて……」
「裏付けにしちゃまだまだ物足りねぇと分かっちゃいるが、これ以上の好機はみすみす逃せねえ。クーデターの一種にはなるだろうが、元々こっちにゃ後ろ暗ぇこたぁありはしないんだ。多少の勇み足で進んでも一か八かなんてほど危ない橋じゃないはずだし、返り討ちにされたとしても一族郎党根絶やしにするといったタイプの鎮圧法は採用されねえはずだ。旗司誓であることを濫用さえしなければ、切り抜けられる、はずなんだよ―――キルル・ア・ルーゼが、ここにいる」
言外に、彼は……こう述懐してもいるのだ。意味ある隠し事を隠し主が隠さなくなる局面というのは、胸襟を開かせる程まで信頼を築いた時か、利用されて用無しとされた時だと。それも併せて、―――時が満ちたのだ。
(彼が、ここに来たのは……遊びでも、―――仕事ですら、なかった)
ザーニーイが、旗司誓だった。これが彼だった。それだけだ。
―――そしてキルルは、戦端句を聞いた。
キルルは、その時……確かに、戦端句を聞いたのだ。<彼に凝立する聖杯>の。ザーニーイの、歌うような―――さりとて歌にない強靭な響きを。
だのに、その裏から忍び寄っていた真言までも、キルルは聞いてしまっていた。
「―――双頭三肢が青鴉、この両翼にこそ触れ疾く翔けよ」
我々を災いへと成したことを、理解したまえ痴れ者よ。爪牙は砥がれ清んでいる。いざ、その命脈たる血の流るる首を掻きに参らん。
「旗幟なき諸手が塗れるだろう、その終に無自覚であるならば裸王、今この時こそ受諾せよ」
償いたまえ。贖いたまえ。
王よ。況や、裸の王よ。鴉、己のみが知らずにいる。
「痴れ果てる身こそ思い知り、自覚を楔と、かき抱き眠れ」
鴉。右肢にて支え、左肢にて導き―――果て、真央なる三肢にて、楔を取らん。
「その棘示すは―――<彼に凝立する聖杯>、」
旗幟は穿とうぞ。楔となるがゆえに穿とうぞ。
予てより誓願は証されていた。
久遠の予言により、唯夜九十九の彼方より、到達するべく司られていた。
我らは血肉を以って義に尽くさん。この誇りにこそ満ち足りる。
すなわち、旗司誓。
「旗司誓<彼に凝立する聖杯>である」
月光が青い。
点滅せず、明滅もせず、清閑と。冴え過ぎて熱を失くした色は、孤独に煮こごり冷えている。そこに零される吐息もまた、ひとつふたつと凍えては、冷たさだけを冷やし固めて消えていく。
「無論のこと、折衝の道を探ることにはなるだろう。それとて、どういったかたちで成就するやら見当もつかねえが。つかねえとしても、それでも―――」
そしてザーニーイは、長い宣告を、……終えた。
キルルにとっての、別れの警告を。終えた―――
「背に二十重の祝福を受けし我らが双頭三肢の青鴉は、ア族ルーゼ家ヴェリザハーが第二子・キルル後継第二階梯を送る時を以って、国旗への叛旗となる」
□ ■ □ ■ □ ■ □
予てより誓願は証されていた。
久遠の予言により、唯夜九十九の彼方より、到達するべく司られていた。
それではようこそ客人よ。
ここから先は、外輪とはいえ悔踏区域。
あなたがここを立ち去る時、踏み入いるならば悔いるだろうとの揶揄を、現実としていないことを切に願う。
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