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承章
承章 第二部 第二節
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幸運には感謝すべきだ。神によるものなら。
それが人造された采配であるならば、了見は多少異なる。心配りに満ちた善行か、陰湿に張られた罠か、見分ける術が人の身には限られているからだ。それを差し引いても、―――それでも今回くらいは、シゾーは感謝した。キルルを連れてきたゼラは、エニイージーを廊下に待たせてから入室した。わざとだろうが、シゾーの目につかない位置で。
「……ただいま」
そして、ノックも口上も無しに室内へ踏み込んでしまったことに気付いたらしく、そんなことを口走る。自身、言ってから奇妙さを覚えたようで、もごもごと口ごもるように。
「……おかえりなさい」
シゾーも観念して、そう返した。そうするより適当な返し文句も思いつかない。
キルルが、暗い目をして、それを見ている。
(これは―――どう見えるものなんだろうな?)
あれから、頭領の執務室に変化はない―――断っておくなら、ぶちまけられた灰と吸殻の掃除だけはした。それだけのことだ。古ぼけた内装に相応しい、年代物の机と椅子。書棚が幾つかと、隣室へ繋がる傷だらけのドア。それと、屑籠や暦のような日用品。ザーニーイがいないことまでも、あの時と同じだ。それなのにキルルは、まるで初めての場所を警戒するかのように肩を縮めて目線を下げている。これもまた、ザーニーイがここにいないせいかもしれない。
言ってやる。口実を。
「ザーニーイさんでしたら、ここには来れません。別のお仕事に復帰したところですから」
「おしごと……」
根暗に繰り返してくる少女は、有り体に心ここにあらずといった風だが、これも事情に通じていれば理解できることではあった。気になったのは、キルルのターバンを直す最中に、ゼラが余計なやりとりをして蒸し返したのではないかということだった。ザーニーイについて……
布石は打っておくことにする。
「まあキルルさんについても、あの人にとってはお仕事なんですけど」
ぎくりとした弾みか、キルルがようやく顔を上げた。目が合う。笑いかけておく。
ゼラに見咎められる前に、シゾーはそれを止めた。
そんなことよりも、行儀悪く執務机に尻を引っ掛けていることの方が咎められそうだったが、頭領の席に着くこともできないのだから仕方がない。もとよりシゾーの背丈で、この二人に合わせた視点のまま腰痛を起こさず会話するためには、この程度の折り合いは必要だ。ドアから入ってきて、キルルとゼラは並ぶようにして立っている。ドアの対辺にある机にシゾーがいるので、丁度三人で三角形でも作るような立ち位置である。
つねりでもしなければ皺のひとつも付かないフラゾアインの面の皮は、言葉を含むでもなく、成り行きを見守っていた。ひとまずは、副頭領の口からということか。言う。
「急にお呼び立てして、申し訳ありませんでした。実は【血肉の約定】の絡みで少し進展がありましたので、関係者であるキルルさんにもお伝えしておこうと思いまして」
「お姉ちゃんが見つかったの?」
「それで少しの進展だったら、大きく進展したあかつきにはオニイサンまでみつかりそうですね。こわいこと言わせないでくださいよ」
半眼で抗弁したのは癖のようなものだったが。
空咳を見せつけることで仕切り直して、シゾーは続けた。
「そもそもの話なんですけど。僕たちは後継第一階梯を捜索する一環として、ヒトやモノに不審な移動がないかを調べていました。時期に合わない物流や、人の動向に妙な動線はみられないか―――それらの中で気になったひとつが、葬送旅団です」
「葬送旅団? 何それ……葬送銀貨が関係する何か?」
「いえいえ。違います違います。とんでもない」
忌避を固めたキルルに、勘違いを断っておく。右手の中指の指輪がトレードマークの暗殺技能者集団と混同されては堪らない……葬送銀貨という呼び名さえ、処刑が公務であることを示して遺体に特殊な銀貨を置いていくことからの通称らしいが、普段は悪たれの糞餓鬼を脅すのに使われる―――そんなに銀色コインを貼られたいか!―――くらい現実味のない連中である。寝物語に出てくる、鎌を持った死に神の同類だ……必ず人は死ぬ、ただし必ずしも神の意図でなく、もう少し益体のない死因によって。まずもって、浮世離れした後継第二階梯くらいしか、現実に混同させる者もおるまいが。
「そうじゃなくて。あれですよ、あれ。主に箱庭で運悪くオダブツになった袖口貴族や靴箱貴族の亡骸を、故郷に送り届けるために組まれる、軍の編隊」
「あ。迄葬送護衛隊ね」
「そんな正式名称でしたか」
「ええ、そうよ」
やっとこさ、彼女の声が明るくなった。知った事柄が出たことで、多少なりと安堵したからだろう。
袖口貴族、ならびに靴箱貴族とは、王襟街から外部へ移り住んだ貴族を指す蔑称だった。まだ近距離に住処を構えれば袖口貴族、王靴村まで遠のけば靴箱貴族と呼ばれる。王の針子になるそうだ、王の下足番になるそうだ、と言うこともあるが、それは単に慣用される場の違いだ。例え糊口を凌ぐために平民のように針子や下足番をして日銭を得ようとも、貴族の義務は継続される。末代まで免除されないのが、納税と参勤交代だった。参勤交代とは、決められた月日ごとに、決められた日数を、王襟街内の決められた場所で過ごさねばならないという制度らしい……国内各地のあれやこれやを持ち寄って情勢を会議し、中央から分散した貴族同士の交流をはかるのが目的だそうだが、おそらくは監視とへそくりの腑抜きが真意だろうとシゾーは目星を付けていた。国の隅っこでこっそりと蓄財するのは見逃してやるから、たまにはばらまきながら帰って来いということか。
ともあれそうなると、死者が出ることもあった。当然と言えば当然だ。馬鹿正直に貧すれば鈍して夜逃げした貴族にしてみれば、武装犯罪者のお膝元である三戒域を、護衛もなしに―――こんな時にすら旗司誓を雇えない身の上でも―――身ひとつで渡らねばならないのだ。無事に王襟街に踏み込めた一歩目で、ため息をついた拍子に魂が抜けたところで不思議はない。道中での客死や事故死も含めて、もっと血なまぐさい例を挙げればキリがないが。
過程はどうあれ、そういった貴族の遺骸を実家まで運ぶのが、いわゆる葬送旅団―――迄葬送護衛隊だった。隊は、都会から近隣であるほど少数の司右翼で構成され、辺境に近づくほどに多数の司左翼を含んで多くなる。武装犯罪者を警戒してのことらしいが、根幹にあるのは司右翼のへっぴり腰だろう。警戒環にさえつま先を入れたがらない内弁慶は、戦争というショック療法さえ効かなかった。
「それで。<風青烏>が、奇妙な葬送旅団を見つけてくれたんです。王城からの」
「デューバンザンガイツから?」
「知ってます?」
きょとんと声を上げたキルルだが、返事は芳しくなかった。忙しなく首を振ったり傾げたりしながら、しどろもどろに口にしてくる。
「いえ。ええと。うーん……旗司誓が注目しそうな立場の人が亡くなったら、さすがにイヅェンが知らせてくれると思うけど。辺鄙な部屋にいたら、弔いの喇叭さえ聞こえないかも」
「ですよね。確かに死んだのは、ひとりの下女だったらしいです……けれども、」
「けれども?」
「その葬送旅団。隊の構成がほぼ司左翼で占められていた上、小さな棺を運ぶには不釣り合いな、騎獣牽きの大型車を繋いでいたとのことで」
いまいちピンときていないキルルの曇り顔に、ゼラが助け舟を出した。
「これも聞きかじりですけど。出稼ぎにきた靴箱貴族が王都近郊で死亡した場合、ほとんどはその近辺での埋葬を希望するらしいんです。せめて死してからでも、王の傍で百英雄の一員として控えたい―――というのが大方の口上で、本音は遺族が自己負担金を払えないから。まあ、出稼ぎに来てるくらいですからね。せいぜい、司右翼が馬車で日帰りできる距離ならまだしも……」
「乗獣どころか、司左翼が騎獣に大所帯を牽かせて出発となると、待遇として破格すぎる。確かに悔踏区域外輪を越えるなら騎獣が本望でしょうけど、子どもを出稼ぎに出すしかないようなしがない靴箱貴族が手配できた規模だとは、とても思えない」
ふと、妙案が浮かんだ―――と言うよりか、深まる不穏な気配に抵抗したかったのだろう。キルルが、恐る恐る割り込んでくる。
「あのね。その遺体。子どもじゃなくて、お年寄りだったんじゃないかしら? 小柄なお婆ちゃんで、遺言があって、彼女が貯め込んでたお金を使って……とか」
「いいえ。子どもです」
「言い切れるの?」
「はい。確認が取れてますから。女子です。ジェッツェの靴箱の先で下足番をしてる、イーニア・ルブ・ゲインニャって名前の」
キルルが、口を噤んだ。
不意に、その無言に得体の知れないものを覚えて、シゾーは目端を上げた。見ればゼラも間を窺うように、そっと息を潜めている。
少女が戦慄いた。そして、体つきは心底から力むようでいて、それと反対に顔から血の気を失くしながら、独りごちる。
「嘘」
「嘘じゃありません。実際に義父さんが現地まで足を運んで裏を取りました」
とりあえず根拠があることなので否定しておくが、キルルは呆然として聞いた風でもない。となると、これ以上この話を続けても、有意義にはならないかもしれないが。
ゼラに目配せするものの、養父は養父で、ぶつ切りのまま長引かせた方こそ今までの流れが無意味になると判断したようだった。口調はやんわりと落としながらも、迷いなく話を続けていく。
「死んだばかりの娘さんのお話を根掘り葉掘りなんて、断られるかと思っていたのですが……わたしが旗司誓で医者をしていると知るや否や、娘のことで相談があると打ち明けられまして。こう尋ねられました―――あんたたちのような職業で、死んだ者の頭蓋骨まで外して中を見るのは、どんな場合だ? と」
一度聞いた内容だったので、その風景はスムーズにイメージできた。
その日。地方の寒村。訃報が早駆けしてくるでもなく、真っ赤な軍人部隊―――司左翼の迄葬送護衛隊―――は前触れなく登場し、一方的な通牒をもたらした。
イーニア・ルブ・ゲインニャは死んだ。
殿下の弔辞をお伝え致す。―――ルブの嚇怒に栄光あれ。王家として其方を誇らん。此度の働きに報い、せめてもの冥途への花道を。その心残りの影を照らせるだけの黄金を。
要約すれば、王家の都合で綺麗に納棺を済ませた遺体を持ってきたやった上に見舞金までくれてやるから、貴族ならば誇らしく納得しろと。
言うまでもなく、親からしてみれば訳の分からない話である。しかし靴箱貴族に落ちぶれた身としては、雁首を揃えた中央の軍人に食って掛かるような度量はなかった。迄葬送護衛隊を成すのが司右翼であれば、復路を行く前に一宿一飯の労いをと申し出れば受けたかもしれない―――司右翼の構成員は多くが貴族だ―――し、さすれば腹を割って話すこともあったろうが、彼らは司左翼だった。にべもなく、棺を置き去りに帰ってしまった。
いや、最後のそれだけは運があった。彼らは、墓地の墓穴へと棺を置き去りにしたのではない。家の正面にある、わずかばかりの石畳。そこに横たわる木製の箱は、まるで調度品のような美しい彫琢をなされていた……王威を込めて。
やはり信じられず、親は棺の蓋を開けた。敷き詰められた装飾や、枯れてしまった花の数々に埋もれて、少女が死んでいた。イーニアだった。
思わず、昔したことがあるように、頭へ手をやり髪を梳く。すると、思いがけない感触が指に触れた。傷だ―――しかも、癒す目的を抜きに縫われた傷。伝って触れていくと、頭蓋を一周して縫合されていた。娘は検死されていた。
「頭の骨を外すような解剖なら、胸郭も開いて内臓の色や重さも診ているでしょう。これは、疑わしいことを確信した上で実施された、証拠探しです。そして、実際に証拠があった、その証でもある―――悔踏区域外輪を抜ける何日もの旅路を経過してから棺を開けたのに、咄嗟に髪に触れたくなるほど原形を留めた遺体なんて、自然死で成される筈がない」
水気をたっぷり含んだ子どもの亡骸が、首都から街中をくぐった上で出発したのである。いくら木枠で密閉されていたとはいえ、色味や臭味が腐敗するなり、やわらかい喉肉や陰部から虫が孵るなりしていなければおかしい。検死の際に腐敗防止処理が施された可能性もあるが、それこそあとは埋葬するだけの単なる下女にはそぐわない。技術と元手を掛けるには、相応のケースというものがある。お偉方の弔問が長引く、あるいは個々が短時間であっても弔問者が引きも切らないほど訪れる、といった長丁場があらかじめ懸念される場合だ……どちらにせよ、ありうることではない。
つまり少女の死因も死後の経過も、自然的なものではなく、人為的に引き起こされたということになる。そのようなことを成し遂げるには、―――
「毒しかない。王城でイーニア・ルブ・ゲインニャは毒殺された」
魔術を除いては―――と、ゼラが内心で続けた気がした。
養父がそこで挟んだ数秒が、下女を憐れんでの黙祷だと思えなかったのは、黙考した気配しか嗅ぎ取れなかったからだ。こんな時、この練成魔士は控え目に眼光を研ぎながら、計算を進めている。
「……ご両親には、医術も何も旗司誓と司左翼では畑違いだろうからと濁して伝えました」
「嘘」
「キルルちゃん。嘘を吐いたのではなく、わたしはあくまで娘を亡くした心痛を思って―――」
「嘘よ! だってイーニアは病気になったから親元に返しただけだってイヅェンは言ったんだから!!」
不可解なだんまりを唐突に破って、大声でキルルが反駁する。
目を剥いたのは、ほぼ義親子同時だった。
「聞き捨てなりませんね。イヅェンは言った?」
「イヅェン後継第三階梯が?」
信じられず、口々に呟く。
「そうなると、嫌疑はより確実となる。考えてみれば、後継第三階梯が伝えた弔辞は、下女働きには過分すぎる内容だ」
「しかも毒殺された下女について、わざわざキルルさんに嘘を以って伝えたところからすれば、標的は後継第三階梯本人ではなく―――」
つと、シゾーは分析をキルルに向けた。
「キルルさん。イーニア・ルブ・ゲインニャは、どんな子どもでしたか?」
「え? か―――か、可愛い子だったわよ」
動転していることが気勢となったのか、そのまま取り留めのない話が続く。
「お仕え自体、初めてすることだったみたくて。手つきも足運びも、ぎくしゃくしてた。ほら、宮仕えって、ちょっと上の家柄に行儀見習いですることが多いでしょ? あたしは女で、急にデューバンザンガイツに呼ばれたから、とにかく女性の人手が足りなくって。自分みたいなのが飛び級できちゃいましたって、てへへって笑って……」
視線を振ると、ゼラと目が合う。となると、考えていることは同じだろう。
ひとまずは、続きに聞き入る。
「最初はものすごいびくびくしてたけど、何回も呼ぶうちに打ち解けてきて。いつだって、明るい色の髪の毛をふわふわさせながらやってくるの。櫛を入れて遊べた時は楽しかった。普通のお喋りできて嬉しかった。砂糖で綺麗な街並みが描かれた焼き菓子を見て、この絵葉書って食べれるんですかって目を丸くしたものだから、あたし可笑しくて……あれとあなたのおやつを取り換えっこしてみましょ、チェンジなら下賜したなんて目くじら立てられないわよ、って……あれが最後で……」
だとしたら。本来ならば通じない筈の下界と繋がりやすい要素がある者と、不用心に喫食する場が、揃ったことになる。
「それ、いつの話です?」
シゾーが問うと、ゼラの非難の目が向いた。まだ勝手に話させておくべきだと有能な前副頭領が暗に告げてくるが、それより先にキルルが物思いから顔を上げる。急に現実に立ち戻ったせいか、なんとはなしに上の空で目を泳がせながら、訊き返してきた。
「いつ?」
「その出来事が起きたのは、いつです?」
「ここに来る日の前だから、ちょうど一週間前……くらい」
「それは何月何日?」
「だから。一週間前だから……ちょうど、春閉め日でしょ」
「―――本気ですか?」
度肝を抜かれて、あんぐりと大口を開けてしまうが。
顔をしかめて、キルルも唸るような声を出した。
「なに。あたし数え間違いしてる? ちゃんと数えてたつもりだったんだけど」
「―――数え間違いにしたって、一週間となると、誤差の範囲じゃない」
「え?」
「春閉め日は、二週間前です」
部屋の一角を盗み見る。正確には、そこに張られた暦を。
季節の周回ひと巡りを年と定め、年を月で、月を週で、週を日で区切り、国民動作の目安とする、公用暦法表である。これを大まかな定規として、農家は作付けや収穫の頃合いを計り、政司家は税収日や祝祭日を定めている。旗司誓はと言うと、悔踏区域外輪にいる限りは、買い取った農作物の移り変わりで季節を感じることが多い―――下っ端であれば、駆り出された先で四季の催しに触れることもあるのだろうが。
ともあれ、そんな旗司誓であっても、公用暦法表に基づいて生活していれば、七日ものカウントずれはまず起こさない。毎時毎分という厳密な管理をされているであろう王家が王宮でとなると、尋常ではなかった。二週間前の、春閉め日―――
「義父さん。そう言えば、王家から接触があったのも、そこいらでしたよね?」
口走るまま、ゼラを見る。
「そう……そうですよ。思い出した。ザーニーイさんが、春もろとも<彼に凝立する聖杯>の依頼窓口も閉め切っときゃよかったなー、とか旋毛曲りなことぼやいてて、」
「そしたら僕らも窓口から内側もろとも、お先真っ暗になってましたでしょーよ……と、君も舌打ち混じりに臍を曲げてましたけど」
「……義父さんは何を曲げてましたっけ?」
「スプーンを三本」
「実害がないとみて嘘こくの止めてもらえます? 嘘でないにしても備品壊さないでください」
「まあ、冗談は置いておくにせよ。これは、なんともはや……」
ジト目になりつつあった眼差しは、あっさり相手から避けられたが。
不意打ちしてきた仮説に含まれたうそ寒い気配に、身震いを覚えながら。それでも思案の末に、シゾーは遅蒔きながら口にした。
「キルルさん。もしや毒で昏倒して、朦朧としてたんじゃありません? その……一週間分」
当の彼女を見やる。注視する。
歩き方、喋るテンポ、眉の傾げ方―――害された何らかの痕跡らしきものをキルルから感じ取ったことは無いが、そもそも王城での彼女の様子を知る者など、ここには誰もいない。なんてことない癖や欠点が後遺症であってもおかしくないし、少なくともシゾーは彼女の微妙な癖や欠点が気になるほど親密な仲になっていない。
(なっといた方が良かったか? もっと性根入れて)
ふと、暗算が遅れて脳裏に追い付いてくる。
(<彼に凝立する聖杯>に俺しかいないんじゃ余裕も機会もなかったし、ちょっかいを出すならあいつが戻ってからで充分だと高を括っていたが―――)
当のキルルはどうだろうか? 見やれば、輪郭を青ざめさせた少女が衝撃に打ち震えている姿は、確かに恋人が支えるのにうってつけの構図といえた。ただしその体つきの線の細さは、わきの甘い若造よりも、親か教師からの保護を求めているように見える。呼吸の数をみるみる増やして、しゃくり上げ始めていた。
「でもわたし、約束しただけで。でも、それも、約束を守った記憶なくしてるだけ? ―――じゃあ……死んだの? 本当に、イーニアは死んじゃったっていうの? ―――……」
(しかもそこかよ)
軽い落胆に―――なぜそれが軽いかと言えば、落胆でさえ繰り返せば、重量挙げのようにこなせるようになるからだが―――シゾーは、げんなりと眉根を揉んだ。肩はともかく、ここは凝らすなと……言っていたのが誰だったのか。思い出せないが。
(宴会の時に踊りの相方させられた身からすると、あのすばしっこさと柔軟性は、しばらく寝返りしかしてなかったとは思えないけどな。王家なら、どんな化け物じみた医者や練成魔士がお抱えだっておかしくない。普段からイイモノ食ってる子どもなら、回復力も高いか)
こじつけにしても言い訳じみてきた気がして、シゾーは長考を止めた。投げやりに、煮え切らないせりふをひねり出す。
「イーニアという女―――毒を盛るはずだったのが、直前で断念して自決したか。それとも、キルルさんの身代わりに毒を食らっての事故死か。または、容疑者として利用できると踏んだ真犯人が、もろとも殺害を謀ったか。ルブ・ゲインニャへのイヅェン後継第三階梯の態度からすれば巻き添えの線が濃い気もしますけど、あの弔辞のどこまでが見せかけだか分かったもんじゃないし」
「口に気をつけなさい」
ぴしゃりと口止めをくれて、ゼラがキルルに身体を向けた。優し気な、静まった声音で、断りを挟む。
「勿論これは、全部が全部、推測です。イーニアちゃんの死に、キルルちゃんが無関係ということだってある。彼女自身も貴族ですので、それ絡みの怨恨から命を狙われた可能性も」
「無いに近いけど」
「口を慎みなさい」
制止は二度目だったが、シゾーは二度と聞き入れる気はなかった。ゼラの瞳は温和に色づいていた漆黒を失くし、苛立った熱を籠らせたせいで乾いた刺々しさを発していたが、沸騰するならシゾーの怒声の方が早い。まくし立てるように、言及する。
「だとするなら、どうしてわざわざ王城で実行するんですか? 靴箱貴族が恨みつらみを買うなら、住んでる靴箱で村人相手が関の山でしょう。凶器は、土くれこびりつかせた鎌や鍬じゃないんですよ。毒だ……もしかしたら、ひと口ふた口の経口摂取が致死量の、無味無臭の猛毒だ。そんなもん手に入れる能と金と人脈があれば、もっと有益で建設的な腹いせ見つけてトンズラしてますってェの」
「だとしても今この場で言う必要があるか!」
それは正しいことなのだろう。そしてゼラは、正しいことしている。
不承不承ながら、シゾーは叱責を呑んだ。沈痛を認めることは容易い。ただ、それで済まされることは、あまりにも限られている。これとてそうだ―――言うべきことを言う。
「ありますとも。騎獣の件をまだ言いあぐねてる」
シゾーはキルルへと姿勢を変えた。と言っても、机に尻を落とし直した程度の身じろぎだったし、彼女を意識してというよりか同じ体勢を続けることに辛さを覚えてのことだったのだが。キルルは血相を変えて、次の致命打に身構えるように、背筋を突っ張らせてみせる。
そうさせてしまった詫びでもないが。シゾーは穏便に、口火を切った。
「キルルさん。こないだまで食事に出てたシチュー、食べました?」
「は?」
「美味しかったですか?」
唖然とするだけで、答えはない。欲しくもないが。
あっけに取られて目を瞬いているキルルに、シゾーはにっこりとしてみせた。
「美味しかったとすれば、今後は不味くなりますので勘弁してくださいね。あのお肉、もう無くなっちゃいましたから。これからあとは、いつものラインナップとなりますので」
足を組み、いつしかそうしていた腕組みをほどく。前置きにピリオドを打つには、この程度の合いの手も必要だ。
「あのシチューで使い終えました―――使い始めの筆頭は、あの戦闘の晩に振る舞われた宴会料理です。それに使った肉は、敵が操舵してた騎獣と馬を捌いたものがメインだったんですよ。調理係が、脂肪や筋肉のつき方が、砂育ちの肉質じゃないと気付いてくれました……何て言うか、あぶらっぽいと。胃腸の内容物を調べてみると、それもこちら側と違う。あれは、見てくれを重視した育て方だ」
「見てくれ?」
「ふくふくと色艶良くなるよう栄養たっぷりにストレス少なく、蝶やら花やら追いかけて大きくなった―――とでも言いましょうか。実用しない、愛玩用です。斬った時に、あんだけ刃に油膜が張ったのも納得だ」
思い返して、シゾーは吐息した。
「それなのに騎獣の左右の牙には、操舵用の手綱の摩耗痕らしき窪みが、しっかりとついていた。成獣とはいえまだ若い個体で、あの深さと角度は度が過ぎています。これはおかしい」
「おかしいの?」
「……この分野はエニイージーたちの専門になりますから、ちゃんとした代弁が出来るか分かりませんけど。僕なりに噛み砕いて解説させていただきます」
聞き返すループに陥っているキルルに、シゾーは説明を向けた。
「騎獣は、右と左の牙に法則立てて手綱を結び、それを騎手が手で引くことで進行方向を決め、両足の使い方や姿勢の取り方で進行速度を調整します。乗るメンバーが絞られれば絞られるほど、そしてその者が操舵する経験を増やせば増やすほど、騎獣の牙には騎手それぞれに順じた痕が残る……急制動をかけやすいとか、利き手の方から反転しやすいとか、そんな手癖が反映されるんですね。これを摩耗痕と言います。ここまでは宜しいですか?」
彼女がこくりと顎を引くのを見終わってから、再開する。
「旗司誓は、この状態を推奨しているんです。摩耗痕が馴染むほどに、乗り手と騎獣も反応が良くなる。時間が掛かる上に増産できない少数精鋭ですけど、それでも人馬一体となった機動力が欲しいから。正反対に、この状態を、こよなく嫌う連中もいます―――貴族です」
貴族。
言うまでもなく、我が国において無二革命を起こした百英雄の末裔であり、元来は富裕層の多くを占めた、赤毛と族名を最たる特徴とする血族らである。シゾーが直接知っているのはキアズマくらいだったが、あまり良い捉え方をされた身分ではない。司右翼から派生した警察の素行や態度の横柄さ、ならびに部屋住み者が徒党を組んで街中で不祥事を起こす等の実例の枚挙に暇がないせいだろうが、そもそも恵まれたステータスに生まれついているらしいと疑われるだけで、大なり小なり色眼鏡で見てくるのが世間というものだ。実際に体毛の色素が暖色系をした者が多い旗司誓では滅多に使われる言い回しで無いが、鼻高々な振る舞いを『赤い髪を被りやがって』と揶揄し、鼻をへし折ってやるという意味で『あの赤毛を引ん剥いてやる』と啖呵を切る場面は、往々にしてある。まあ思い返してみれば、そもそも自分が初対面から好人物と印象付けられた者など、生まれてこの方いない気もするが。
神経を逆撫でしてくる雑念を、肩をはたく仕草で胸中から落として、シゾーは言葉の残りを口にした。
「乗り手が限定されてしまうと仲間内で乗り回すことが出来なくなるし、何より彼らは審美的に敏感だ。ついでに言うなら、お散歩がてらにちょいとそこまで歩き回ったところで、何年たっても摩耗痕は残らないものでしょうからね」
「……つまりあの騎獣は、本来は貴族のところで大事にされていたものだったのに、あなたたちっぽく偽装されて戦いに使われたってこと?」
キルルは、納得できていないのか、納得できていないことに気後れでもあるのか、声の音程を低めるのだが。シゾーは頷いた。
「そう考えれば、納得できる要素も増える。僕が真っ向から騎獣をずんばらりと斬り捨てることが出来たのは、ただでさえやわな育ちの騎獣が弱っていたからだ。うっすら程度の牙の擦り傷を無遠慮にがりがり削られて、神経やられて死にかけていたんですよ。しかもその傷を、呼吸が合わない乗り手にグイグイ引き回されて、ちょいとそこまでのお散歩なんて言い難い距離を歩かされた挙句に―――ってことでしょうし」
「あの騎獣が、そんなに簡単に弱るものかしら?」
「僕から言わせれば、いくら選りすぐりの体格と血筋があったって、温室育ちのボンボンが歯痛のままフルマラソンを走り切れますかね? タイマン張るなら勝てると思いますよ、僕」
開いた五指を、もう片方の拳で、ぱしんと叩く。小気味よく弾けた音の先を見やるように、ゼラが視線を上げた。マラソンで力勝ちするどまりになさいと小言を語る目付きに見えたが、言ってきた内容はもっと現実的だった。
「ただしそうなると、どうにもこうにも浅はかだ」
困惑に、シゾーは追従した。
「騎獣の件については、まさか僕たちがそんなゲテモノまで食べる野蛮人だとは思ってもみなかっただけでしょうけど。思えばあの戦闘も、悔踏区域外輪で仕掛けるにはおかしな戦法でしたし……」
「こうなると、さっさと警察へ引継ぎしてしまったのが悔やまれますね」
「しょうがないじゃないですか。いつものことだったんですから。殴りかかってきた奴に、なんでと尋ねるのは官憲の仕事でしょう?」
「常ならば、ね」
こうなっては、出来ることなど限られてしまう。
困り果てた面持ちを少し解いて、ゼラが呼びかけた。
「キルルちゃん。城から持ち込んだ、あのチェスト。使ってませんよね?」
「う、うん。食器とか、そんなのが入ってた筈だから。服も、ずっと借り物だし」
「今後、使う気もない?」
「うん。まあ」
そんなものがあったことさえ知らなかったが。口を挟む。
「これからも使わないなら、このままそっと封印しといたらどうです? 持ってきた食器やら何やらに毒が仕込まれてる可能性ごと」
絶句したキルルの顔色が、しつこく青ざめる。それを見て、挙動だけはばつが悪そうに、ゼラがやんわりとかぶりを振った。
「そうですね。薮蛇はしないに越したことはない。もしも【血肉の約定】の成就が後継第三階梯にとって本願でなく、キルルちゃんを暗殺から死守するために王城から避難させる目的だったなら―――王子は、自身の役回りをこなしながら、反逆者の捜査も行っていることになります。首を突っ込んで、邪魔だからというだけで斬り落とされては敵わない」
「どうして貴族が、あたしに毒なんか……」
余計なことだったが。キルルの震え声に、シゾーは横車を押した。
「そのまま考えるなら、キルルさんに王位が継承されると、さぞ面白くない奴がいるんでしょうよ」
「お、面白くないって。あたしが一番面白くないわよ、そんなの」
仮説上、一番はイーニア・ルブ・ゲインニャのような気がしたが。死人に口は無いし、シゾーがそれを言ったところで栓の無いことだ。別の推測を選んで、口にする。
「確かあんたら双子って、ヘタレ親父がヘマしたせいで爺さんがブチ切れて、世捨て人扱いされてたんでしょ? んで、その爺さんやら正当な後継者やらが、元気すぎるうちに遺書も残さずポックリ急死したもんだから、順当に考えればってことで、もう死にそうな息子なら間に合わせに最適だとばかり、王城に連れ込んできた。んで、いざ連れ込んでみたら、ノーマークだった奴らのくせに、息子の子どもの双子―――弟の方が姉を引き合いにやたらナチュラルに出しゃばるし、こちらから連れ込んだ手前、切って捨てる大義名分もない。……ここまで急にしゃしゃり出られたら、利権争いやら派閥争いやらで割を食ったりとばっちり食ったりする貴族は、さぞかし目白押しでしょうよ。飛び火したのはどこまでなんだか」
「そんな! そんなの、あたし、……―――」
「関係ないとでも言うおつもりで? 少なくともイーニア・ルブ・ゲインニャは、キルルさんが後継第二階梯にならなきゃ王宮には上がれなかったんでしょう。違いますか?」
「はい、そこまで」
色めき立ちかけた会話に、ゼラが仲裁の声を上げた。目を閉じ、開けて、その幕間に落ち着き払ってから、注視を振ってくる。
「それこそが、イヅェン後継第三階梯が、キルルちゃんに何の人員もつけず<彼に凝立する聖杯>に送り出した主因ではありませんかね? 王家の身の回りを固めるのは、貴族……か、司右翼が基本でしょう。しかも、移り住んで日が浅ければ、人員なんて把握しきれていない筈です。無暗な人選は出来ない、誰が潔白か確かめる時間もない、となると利害も血縁もどうでもいい外様に囲わせておくのが、まだ安全だ―――と」
「そうなると、やっぱり持ち込んだそのチェストとやらから最も残り香がしそうなんですが」
応じるシゾーに、ゼラも相槌を打ってくる。
「ええ。そっとしておいた方が無難でしょう。食器に毒が塗られていたとしても、それを確かめる実験なんて、見通しも立ちませんし。仔馬にでも舐めさせてみるのが妥当な案なのでしょうけれど」
「馬って。もうちょっと手軽に……せめて、便所蛆でも汲んでみます?」
「虫と哺乳類では構造が違い過ぎます。しかも幼生とあっては、毒性が発露しないかもしれません。仮に蛆が死んだにせよ、それは食器に含まれた成分にアレルギーを起こしてのことかも分からないし」
「そんな漆にかぶれるみたいな神経が、蛆虫にあるとも思えませんけど……」
「だとするなら、どだい手詰まりです」
「堂々巡りか……」
「それに実験をしてみたところで見返りに得られるのは、その品物に毒物らしきものが付着していた・していなかった、という結果だけです。どっちみち、<彼に凝立する聖杯>が【血肉の約定】を遂行するのに役立つとも思えません。徒労でしょう」
率直な応酬は、言い募るごとに弁解がましさが拭い切れなくなっていったが、それでも算段を立てて深入りすべきは本業の方だ。道草を食っていると、足元を掬われる隙が出来る。足元を掬うのを虎視眈々と狙っていそうな相手が感じ取れた以上、脇道には近寄らないのが鉄則だ。
(毒、か。ここの連中と初日から居住食を同じくしてるのが、毒見や検品に繋がったかたちか。キティ・ボーイとやらも、まんざらじゃなくなってしまうが……)
こうなっては、キルルが<彼に凝立する聖杯>に親和していることが強みとなってしまう。水、食事、衣服、生活動作―――どこになにが仕込んであったとしても、キルルが毒に触れるより先に、血気盛んで手が早い旗司誓の誰かが、彼女を追い越して犠牲になるだろう。微量ずつ毎日毎日、井戸や鍋そのものに蓄積毒でも入れられれば、長い目で見てキルルを中毒にさせることも出来るかもしれないが、それより先にまず間違いなく摂食量の多い旗司誓の方から体調不良者が続出する。長期的に敷地内に潜伏して毒殺を狙うとも考えにくい。
(いや。どういった方法であれ殺害するチャンスが最もあったのは、【血肉の約定】初日だった筈だ……あのゴタゴタに乗じてのアクションを逃して、今日まで見逃した。次に成算を狙ってくるとすれば、中弛みする頃―――)
要は、今日あたりから、となる。
(念のためルブ・ゲインニャについては、ひととおり調べることになるな。貴族と騎獣の線は<風青烏>に洗わせるか。この姫様の護衛については、哨戒レベルだけの対応で済まして……いいのかどうか、また三頭会議かよ。畜生)
なにをどこまで鵜呑みにするか、三人がかりで七面倒くさく腹を探り合うのだ。少なくとも、そういう振りをする。選択できる余地などありはしなかったとしても、余地があるように挑むことで、余地を築く―――その希望を繋ぐのだ。
(こういったことは……大抵は、見栄を切ることから始まって、見栄を張り続けるうちに本物になるんだ。大人になるまでに、子どもが寝小便を直すのと同じ。だから、……体面ってのは、大事にするんだ。<彼に凝立する聖杯>はもう、小便袋を自制するだけで成り立てるような根城じゃなくなっている)
立ち小便を禁止することから法度を定めた翁たちは死んだ。ひとつを作り、ふたつを打ち立て、そして到達したここにはもう彼らはいない。残された者たちは、いつまで残されるのかも分からないなら、出来るように引き受けてやりたいように先へ進むしかない。
開き直ってドアを開けるようなものだ。開けずに、閉じこもっていることは出来る。それは悪いことではない。扉の向こうを恐れず、意気込んでドアを開けたなら、打ち勝てる程度の敵と、財宝が盛られた宝箱が応えてくれるという訳でもないのだから。それでも―――目途のつかない寿命と幾らかの腹積りがあるなら、それらを抱かかえて、ドアを開けるしかない。叩き割ってでも行くしかない。取っ手を捻って、押しのける……そうできる余地がないのなら。
やはり会議をする必要がある。歯噛みして、シゾーは首を振った―――俯いてしまっていた。鼻梁にかかった髪が邪魔臭い。
と。退いた黒髪の向こう側に、キルルがいたことを思い出した。
見ると彼女はその場に立ち尽くして、あどけない目鼻を引き攣らせながら項垂れている。それだけだ。せめてまた狼狽していれば露骨に慰められただろうし、闇雲にヒステリーでも起こして卒倒してくれれば患者らしく丸め込めたように思えたのだが。
つまりは性分ではなかったが、これも役割か。没頭を手放して、呼びかける。
「キルルさん。不安にさせてしまいましたね。申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
こちらを向いた彼女の表情が、目に見えて晴れたということはない。それでも、暗澹の中にありながらも晴れ間を探しているのは感じ取れた。落ち着いた語気で、それを保証する。
「でも大丈夫です。<彼に凝立する聖杯>は、誰であれ、あなたには触れさせない。絶対に―――」
―――守る、と。
誓うのだろうと、シゾーには思えた。ザーニーイならば。ならば……なにに……誰に?
(やってられるか)
もう、言い続けることなど出来なかった。声になることなく抜けた吐息が、笑い声に転じたせいで喉の奥に蟠る―――見たか? 所詮こんなものだ、誓いだなんて。
シゾーは、へらりと半笑いした。誓い。約束……契約。どれもこれも信じられないと音をあげて、その頼りなさに肩を竦め、侮蔑のあまり見くだして、―――その上、思いついてしまった。
言ってしまう。とんでもないことを。
「―――なぁんて、こんな殺し文句、ザーニーイさんにプライベートで言わせておくのがお似合いかな。うん。たまにはそれくらい優しくしてあげればいいんだ。あんだけ一途にされてるんだから」
「え?」
「あ。知りませんでした? キルルさん」
素っ頓狂に齎された暗示に、怖気づいていたことすら忘れて、鼻白む少女。
その横には、ゼラがいる。常日頃の柔和な薄笑いは便利な仮面のように変わらないようでいて、冷えた眼光からまたひとつ熱を失くしていた。
解釈したようだ―――出し抜かれ、金切り声すら失くした阿呆の顔だ。
シゾーは、奥まったところから湧き上がる腹の疼きを堪えられなくなり、己の鼻先に一本指を立てて、キルルに向けた内緒の仕草で誤魔化した。余計にそのせいで、詮索に答える打ち明け話に浮足立つような素振りになりながら、一方でそれらを見せつける心地よさに酔う。
「ザーニーイさんに首ったけなのが、ひとり。ね?」
刹那だった。
「キルルちゃん」
弾かれるように、言いながらゼラが彼女の片手を引っ掴む。
ぎょっとしたキルルを急かして強引に引きずりつつ、そのまま廊下へと身体を向ける。
「やっぱり一回は見てみましょうか。王家から持ってきたモノ」
「え? あ。の」
「さ。行きましょう。わたしの部屋に置いたままでしたものね。エニイージー、そこにいますか?」
そして、二人はシゾーへ一瞥ずつ振り返らせて、ドアの向こうへと消えた。
一度ずつの瞥見。キルルからのそれは、会話への未練と動揺だった。ゼラのそれは、少女よりも、もう少し小賢しい―――愚か者を見るようにしながら、賢い者を気取る眼差し。それが真に狡猾であれば、疑問より脱兎の衝動を重んじた筈もない。更には、その衝動が均される頃には、愚者への禍根より優先すべき他者の茶飯事をこなさねばならないようになっている。日常は凄まじい力で殺到し、圧倒し、押し寄せて、押し流すものだ。そうして今日とて殺される。三年以上前からそうだったのだから。
「様ァ見ろ。いい気味だ」
閉ざされたドアへ、空虚に勝ち誇る。それを聴く者はいない―――否。
シゾーは、座っていた机上から、床に立ち上がった。外して適当に立てかけていた斬騎剣を装備し直そうと、手を伸ばして。
「―――おっかしいだろ?」
そこにある青い羽根に呟いてから、それごと剣を掴む。
そして、背の武器帯を元通りにしてから、身を返してもうひとつのドアへ向かった。隣室の書庫へと通じる扉だ。
それを開けて、床へ目線を落とす。
「もう動いていいですよ」
「はったおすぞ、てめぇ」
「そこまで動かれると迷惑です」
床から……蹲っているそこから、這い出るような恫喝を差し向けて、ザーニーイがシゾーへ頤を上げた。
このまま跳び上がれるなら殴りかかりたいという魂胆が透けて見えたが、いかんせん衰弱した病み上がりだ。鎮静剤も抜けきったかあやしい。上限を超えた悪夢からは脱したにせよ、頭に急な高低差を起こすような動作は膝下がもつれて出来ないだろうし、強行したところで目算が狂って当たらない。その推察を体現するかのように、ザーニーイはずるずると四つん這いを崩した動作で手足を使って、大儀そうに執務室へ移動してくる。いったんはきちんと身繕いした筈なのに、書庫の埃を被ったのかどことなく薄汚れていてもいて、あんまりと言えばあんまりの醜態だったが、道を開けたシゾーへと腐る威勢だけは定番並みだ―――どころか、怒り狂っている。絶不調を補って余りある剣幕で、饒舌に悪態をつき続けていた。
「大体、なんで俺が除け者にされなきゃなんねーんだ。こんな重大な内容、キルルに伝えるなら俺の分掌だろが」
「その面の皮にへばり付いた痣が治ってたら、どんだけでも許可しましたとも」
「一杯ひっかけりゃ分かんなくなるだろ」
「へろへろになってる怪我人の肝臓にアルコール入れる医者がどこにいますか?」
「へろへろじゃねーよ馬鹿」
「じゃあヘロンヘロンだ馬鹿。人と怪我人が同じなら馬と鹿も同じだバーカ」
「人と怪我人は人間だ」
「馬と鹿も四つ足だ」
「馬と鹿くらい見分けは付く」
「だったら負傷者と健常者も見分けてみせろ」
「俺の目が節穴だってのか?」
「医者なら藪医者に成り下がれないだけだ」
「手習いのガキが四の五の偉そうに―――」
慣れた小競り合いだった筈のものから、踏み外れた。それを感じる。
かっとするまま、シゾーは逆上に身を委ねた。
「その手習いの―――!」
そこから言いよどんでしまったことに、さらなる熱の上塗りを覚える。
それでもどうにか、憤激し続けやすい言い方へと乗り換えて、
「見習い風情でさえキッパリはっきり言い切れるくらいズタボロなんだってのが分からなくなるほど痩せ我慢が板についただけのことを―――虫のいい様に履き違えて侮るのも、いい加減にしろよ。いいか?」
業を煮やしながら、ドアを閉めるついでに殴りつけて八つ当たりを済ませると―――彫り物細工といい暴力といい、実に不幸な巡り合わせにある戸板だ―――、シゾーはザーニーイへと身体の正面を向けた。こんな時でさえ兄貴分を止めない利かん坊は、人相悪く胡坐をかいて腿に爪を立て、世迷い言と強がりを一緒くたに、小生意気な弟分へ当たり散らしている。度を越して。
しゃがみ込んで、眦が痛むほどの形相で歯を剥き、指呼の間から相手の眉間めがけて人差し指を突き付ける。肉薄され、それ以上の圧迫感をもって気圧されると、さすがにザーニーイが罵声を呑んだ。その隙に、筋道というものを突き刺す。
「酒で食欲出すのはいいが、もれなく肉の治りは遅れて血の造りが滞る。いいのか? 脳みそ煮崩れるほど熱発して、自傷・他傷で全身打撲、片側耳介と耳介裏に裂傷、束縛縫製を引き千切ろうとしたと思われる擦過傷に、痙攣を繰り返したことに因る筋肉痛。ああついでに、戻した胃酸で焼いた鼻粘膜と、叫んで痛めた喉も入れるか? 言っとくが、その貧血じゃ殴りっこしたところで鼻血も出ねぇぞ」
何か言おうとしたのだろう。ザーニーイの口の端が、言葉を噛んで歪みを増す。その目障りな動き以上に耳障りだと断言できる文句で食って掛かられる気もない。機先を制したまま、喝破を続ける。
「十中八九腕が届くより先にズッコケるが、そいつは結構。おあつらえ向きだ。拳骨よりも地面にタンコブ作らされた方が思い知れるだろうよ。お前が、ただの人間だってな!」
「………………」
「…………こっちは終わりだ。悪罵の雨が降る悪天候を続けたいならやってみろ」
「―――そんでも、キルルと話してやるくらいなら問題なかったろ」
「ありまくりだ馬ァ鹿」
今度こそ口惜しそうに、ザーニーイが黙り込む。
頭ごなしに正論を言ってのけるのに後ろめたいことは無かったが、言い負かしたなりの気まずさは生じた。血管の中を暴れ終えた血液が巡る首が、こめかみが、鼻筋が痒い。ひとしきり撫でながら、シゾーはため息をついて、立ち上がった。
「真面目な話。アンタただでさえ生っ白いのに、今回は長いこと暗闇で絶食してたもんだから拍車がかかって、まだアオタンのやつも治りがかった黄色のやつも覿面に悪目立ちして、色んなカビ生やした餅みてぇになってんですよ。似顔絵に残して、あとあとまで笑い種にしたいくらいだ。気持ち悪い」
「もーちょっと歯切れよく後腐れしない仕返ししろよ。お前」
「そうですね。僕の方はもう割と元気ぴんぴんです。やーい」
「うわ、歯切れよく後腐れしなくなった上で倍ドンにムカつく腹黒さを感じるコノヤロー」
「消耗ついでにしょぼくれてたら、蒸しパンまで賄いにもらえました。糖蜜煮の桃が入ったやつ。甘えー。うめえー」
「かつ、ねっとりとして嫌味たらたらな追撃に余念がないえげつなさ。お前だよ。マジお前」
「くやしいなら、ほろ酔いの赤ら顔で取り繕ってまで、ええかっこしいしようなんて企まない。ンなカラ元気ぶっこく暇があったら、抜本的な元気を取り戻すのに回すこと―――ほら。残り一本。ちゃんと食べる」
小癪な抗議を折りながら、執務椅子の座面に置いていた皿を、机の上に移す。キルルを部屋に迎え入れるにあたって彼女の視界から隠していたのだが、時間が経った腸詰は卓上から下げられた時点から行く末を悲観したかのように冷めきっていた。汁気と白い油脂を固まらせて横たわる姿は、でっぷりとした蚯蚓が泥溜りで死んでいるようで、とうに食欲が湧くような代物でもなくなっている。
腸詰の後釜として椅子に座ったザーニーイの辛気臭い面構えも、見様によってはそれと似たり寄ったりだった。どっと脱力し、冷めた影が頬に差している。逆光による陰影に嫌気が輪をかけているせいだろうが、血液が足りていないせいで肌寒いのかもしれない。あるいは虚勢を張っているせいで、疲労を割り増しして溜め込んでいるのか。気だるく不愉快そうに、眉の間を狭めている。
そこ目掛けて、シゾーは机の上の皿を押し出した。その勢いに、腸詰と並んでいたフォークが皿の上でちゃりんと転ぶ。相手の幽鬼じみた容貌と合わせて見れば、粗悪な供養を受けて反撃も許されない生き霊のような有り様だが。
「これは、あんたの分の役得です」
「…………」
「味に飽きようが食欲が無かろうが、痛みと倦怠感があるうちは肉を食わせますからね」
断固として態度を崩さずにいると、口八丁に窮したらしいザーニーイが、風采を欠いた弱音を吐いた。
「顎が痛むんだよ」
「夢見の悪さに歯ぎしりでもしたんでしょ。がむしゃらに万力込めて」
「お前が殴ったところだ」
かちんときたようだ。語尾が喧嘩腰になっている。
が。むしろこっちの方が、あしらい慣れてもいる。シゾーは、鼻を鳴らした。鼻で笑えたら、まだしも痛快ではあったと思うが。
「買いかぶられたもんだな。素手で雷を生け捕りにするのに手心を加えられるような腕っ節が、僕にあるとでも?」
「顔面殴りつけて止まるのは、びびる脳がある獲物だけだろが。見境なく発奮した暴れ馬にゃ、どてっ腹の急所に一撃必殺かましたれってんだ。しくじりやがって、リーチ長ぇくせして無駄な手足してんじゃねぇぞド下手くそ」
「ごめんなさいねーエ。お詫びにナデナデしてあげましょうかーあ?」
「やめろ」
「イタたいのイタいの飛んでいけーエ」
「やめろ!」
「よちよちー。イイコでちゅねー」
「イイコにするからやめろ! 食うよ。食うっての。ったく」
「あー良かった。はいアーンする瀬戸際だった」
とどめが効いたらしく、相当に本気と思しきぞっとした顔で、唾棄を引っ込めたザーニーイがフォークを掴んだ。それを腸詰に突き刺して、かぶりつく。そして、やはり美味そうでも味わうようでもなく義務的に咀嚼を終えて飲み下すと、空になった皿にフォークを捨てた。こちらに向けて舌を出したとも、辛子や胡椒にひりついた薄皮を舐めたともとれる仕草をひとしきり口元にさせて、負け惜しみしてくる。
「ゴチソウサマでした」
「お粗末様でした。ひと休みしたら腹ごなしに書類やっつけといてくださいね」
皿を下げるシゾーに、ザーニーイは裏返った悲鳴をひしゃげさせた。
「キルルの方は攫っといて、そっちは代行してくんねぇのかよ!」
「こないだみたいに吸殻の残り火落として紙にコゲ穴開けたらブチのめしますから」
「そんときゃいっそ燃え上がって焼身事故死だな。仕事中なら労災おりるか?」
「おりた金で完全看護を受けて完治後に職場復帰となりますね」
「おりない時は?」
「ジュサプブロスのクソガキが喜び勇んでやってくるでしょうよ」
「嫌なんだよアレ。魔術でやられると、治ってからの違和感が長ぇんだよ。沁みるよーな痒いよーな……なんてーか、肉の伸び縮みがちぐはぐする。寄生虫にタマゴ産み付けられた虫って、孵化するまで身体ン中あんな違和感すんじゃねぇの?」
「なら、寝て食っておとなしい仕事をしながら自然回復を促してください」
「してっだろーがよ。さっきまで寝てたし、こうして腸詰五本も平らげた。仕事だってしてるさ―――ドアの裏にいた時からな。静かに気配を殺して、身内の会議の諜報ときたもんだ」
ふてくされた顔で机上の書類の一枚をつまみあげて、ザーニーイは頬杖を突いた。途端に、痣のどれか―――か、ムチウチか―――が痛んだようで、やるせなく上体を元に戻す。書類を手放すと、そのまま後ろ頭で両手を組んで、背もたれに寄り掛かった。すくみ上ろうとする筋骨を伸ばしたいのか、仰け反るようにして……
いや。体勢は、上から目線を形作るためだった。またしても攻撃的な険悪さをぶり返らせた斜視を、シゾーにくれてくる。
「同席させねぇくせして聞き耳立ててろたぁ、奇天烈なこと言う副頭領なこった」
「ついさっき義父さんと僕と三人で話し合った内容の復習と、キルルさんの現状把握は、しておくに越したことないです。あんた臆面無くそんなことする性根でなしに、仕事なら割り切って取り組めるでしょう?」
「ああ。だからこそ、公私混同したお前には腹が立つがな」
ふ、と―――
食器を持ったまま立ち尽くして、シゾーはザーニーイを見詰めた。束縛縫製はとうに脱いでいるが、あとは革胴衣と鉄骨入りのブーツくらいで、愛用の剣だの手斧だのは身に着けていない。物欲しげな視線が時折、シゾーの佇いに触れてくることには気づいていた……丸腰の平服を強いたのは自分だったが、診断と善意に基づいてのことであり、それは相手も納得ずくのことだ。沽券を抜きにして骨休めのために時を待つなら、血気を逸らせる身なりは抜いておいた方がいい。それでも……溌剌さを失くし、窶れた肢体―――負傷もあるが、固形物を嘔吐しなくなったのはここしばらくのことだ―――に、擦り切れたシャツとズボンを引っ掛けておくだけで一杯一杯の幼馴染みは、言ってしまえば無力に見えた。いやそれは、あの愚かしい真っ赤な襟巻きをしていないせいかもしれない。伸びた襟ぐりから、肉を無残に癒着させた一条の傷痕が覗いている……昨日の今日ついた生傷ではなく、癒えてなお深みへと裂け目が及び、食い込んだ楔と棘。
それに後押しされたからではないにせよ、シゾーは言っていた。
「首ったけなのがひとり」
言ってしまえば、楽になった。場違いな高揚感がある。屈託なく笑える。軽口にすら出来る。
「ああ。ふたりかな? いっそ三人か」
「はったおされてぇのか、てめぇ」
「そう思います? 本当に?」
「正気か?」
狂気を疑うでなく、口にすることでシゾーが正気であることに釘を刺して。
机の上から身を乗り出し、ザーニーイが剣呑に凄む。
「どうしてあんなことを言った? キル―――」
「『キルルもそうだが、ゼラの目の前で?』」
横取りしたせりふは、他人から言い直されると、それなりの威力があったようだ。胸糞悪そうに口内の残りを食いしばって、それに渋味でも感じたかのように渋面をひどくする。いや、単に力んだせいで苦しくなっただけか。ターバンと頭帯の下、汗で額に前髪が張り付いている。ひくつく瞼も、どことなく腫れていた―――それとて発作の名残なのだろうが、怒張する顔皮にあてられてのことなのかも知れない……まさか泣き腫らしてのことだったとしても、知ったことではない。だって、そうだろう? ―――
(お前のせいだ。なにもかも)
陳腐な言い草が、この上なく腑に落ちる。
そして、胸に落ちていたはずの生臭い泥のような蟠りが、鼻の奥で煮詰まることに、まぎれもない憤怒を覚える。それを相手にも伝染させる心地で、シゾーは芝居がかった口ぶりで語気を落とした。仄めかす。
「ザーニーイさん。ねぇそれ、本気で分からないから訊いてます? 僕の方はね……クリアーですよ。とても。今までにないくらい。とても、ね」
ザーニーイは答えない。
それはそうだろう。とうに答えていた。ザーニーイだけではない。シゾーも含めた全員で答え続けたせいで、誰も彼もがここに来た。
囁く。そっと―――秘密めいた口ぶりで。消え入るほどに小さいほど、軽々しくできなくなることを。
「警告するより効果的に、キルルさんが近寄ろうとするのを突っぱねるためですよ。僕ら以外に……本物の家族に、シヴツェイアを近付け―――」
「ここでそいつの名前を呼ぶな」
せりふを、なか途中で捻り潰される。汚らわしいと言わんばかりに。そうなるだろうとは思っていた。いつものことだ。
―――思ってはいたが。喉の奥でだけ反響させることに慣れていた筈の言葉が、今ばかりは反感が勝って歯止めが効かない。破れかぶれで、一歩……間合いに……踏み込む。
「臆病だから、俺が寝床で懸想に耽る分には大目に見れるのにな?」
ザーニーイが、机上の万年筆を手に取る。
シゾーは反射的に、手にしていた皿の上から、フォークを取り上げた。そして。
同じく出しっ放しになっていたインク壷の蓋を開け、そこに万年筆がつけられるのを、見送る。続いてザーニーイは、黙々と書類を手に取り、目を通すだけの資料と、それ以上の手続きが必要なものを選り分けていた。もう、こちらに見向きすらしない。これだ―――繰り返し、シゾーは認めた―――これだ。途方もない砂場に巣窟があっただけのことで、好き勝手する愚昧な手駒を牛耳り、ろくでなしどもの丁々発止と続くすったもんだを宥め、手に負えない心労に負けないだけの辛労を真実の舎弟として、死ぬ時だけは率先して先頭にいる男。いつしか彼は雷髪燐眼を従え、稲妻の咬み痕を手懐け、頑なな美学を語る双頭三肢の青鴉を使い魔に、屈指の存在として霹靂と謳われていた。ザーニーイ。
「お前なんかのどこがいい?」
呪うしかない。ただし、こうなっては、口の中だけで。
だから、聞こえたはずもないのだが。ザーニーイが、書類を横目に言ってくる……朴訥と。ただし億劫そうに。いがらっぽい声音で。
「なんか言ったか?」
「さあ。風の音でも聞こえました?」
屈辱は残っていたが、シゾーもまた、表向きは素っ気なく応じた。のだが。
「隙間風か。ここも時々ひでぇんだよな。風向きによっちゃ笛みてぇになっちまうのか、地響きかと思うこともある。まあ、お前の部屋ほどじゃねぇか」
ふと、応答が続いた。
それも当然だった。ザーニーイは、ただ成り行きで話しているだけだ。裏も表もない。嘲笑もなく、愚弄もなく、―――それでもだ……彼は屈辱を与えた―――
「どっかに、まだ見つけてない仕掛けや隠し部屋があって、そこを空気が抜けるんだろうな。あの頃あんだけ探したのに、碌な手がかりも見つからなかったっけか。大した骨折り損のくたびれ儲けだった。けど……けれども、―――」
言いよどんだのではないだろう。それでも、それを疑わせるだけの空白はあった。
その空隙に、風の音を聴いたのか。
シゾーには聞こえない。残響すら残らない。ただ、ザーニーイの独白が閉ざされるまで、そこにいた。
「この風は……心地いい時もあるんだ」
「だろうさ」
だから、ここにいる。
答えのひとつだ。答え続けた中の、ちっぽけなひとつだ。
この手の皿と、握りしめたままのフォークと、今は無い腸詰だって、そうだ。これがあるから、ここにいる。
(……―――片付けるついでに、やっぱり調理場に顔を出してから、俺もキリがいいところで休もう)
そして娼婦館に行く。胸のすくキャット・ファイトは見られないだろうとも、あのペルビエがシゾーを使わない日などありはしない。
それが人造された采配であるならば、了見は多少異なる。心配りに満ちた善行か、陰湿に張られた罠か、見分ける術が人の身には限られているからだ。それを差し引いても、―――それでも今回くらいは、シゾーは感謝した。キルルを連れてきたゼラは、エニイージーを廊下に待たせてから入室した。わざとだろうが、シゾーの目につかない位置で。
「……ただいま」
そして、ノックも口上も無しに室内へ踏み込んでしまったことに気付いたらしく、そんなことを口走る。自身、言ってから奇妙さを覚えたようで、もごもごと口ごもるように。
「……おかえりなさい」
シゾーも観念して、そう返した。そうするより適当な返し文句も思いつかない。
キルルが、暗い目をして、それを見ている。
(これは―――どう見えるものなんだろうな?)
あれから、頭領の執務室に変化はない―――断っておくなら、ぶちまけられた灰と吸殻の掃除だけはした。それだけのことだ。古ぼけた内装に相応しい、年代物の机と椅子。書棚が幾つかと、隣室へ繋がる傷だらけのドア。それと、屑籠や暦のような日用品。ザーニーイがいないことまでも、あの時と同じだ。それなのにキルルは、まるで初めての場所を警戒するかのように肩を縮めて目線を下げている。これもまた、ザーニーイがここにいないせいかもしれない。
言ってやる。口実を。
「ザーニーイさんでしたら、ここには来れません。別のお仕事に復帰したところですから」
「おしごと……」
根暗に繰り返してくる少女は、有り体に心ここにあらずといった風だが、これも事情に通じていれば理解できることではあった。気になったのは、キルルのターバンを直す最中に、ゼラが余計なやりとりをして蒸し返したのではないかということだった。ザーニーイについて……
布石は打っておくことにする。
「まあキルルさんについても、あの人にとってはお仕事なんですけど」
ぎくりとした弾みか、キルルがようやく顔を上げた。目が合う。笑いかけておく。
ゼラに見咎められる前に、シゾーはそれを止めた。
そんなことよりも、行儀悪く執務机に尻を引っ掛けていることの方が咎められそうだったが、頭領の席に着くこともできないのだから仕方がない。もとよりシゾーの背丈で、この二人に合わせた視点のまま腰痛を起こさず会話するためには、この程度の折り合いは必要だ。ドアから入ってきて、キルルとゼラは並ぶようにして立っている。ドアの対辺にある机にシゾーがいるので、丁度三人で三角形でも作るような立ち位置である。
つねりでもしなければ皺のひとつも付かないフラゾアインの面の皮は、言葉を含むでもなく、成り行きを見守っていた。ひとまずは、副頭領の口からということか。言う。
「急にお呼び立てして、申し訳ありませんでした。実は【血肉の約定】の絡みで少し進展がありましたので、関係者であるキルルさんにもお伝えしておこうと思いまして」
「お姉ちゃんが見つかったの?」
「それで少しの進展だったら、大きく進展したあかつきにはオニイサンまでみつかりそうですね。こわいこと言わせないでくださいよ」
半眼で抗弁したのは癖のようなものだったが。
空咳を見せつけることで仕切り直して、シゾーは続けた。
「そもそもの話なんですけど。僕たちは後継第一階梯を捜索する一環として、ヒトやモノに不審な移動がないかを調べていました。時期に合わない物流や、人の動向に妙な動線はみられないか―――それらの中で気になったひとつが、葬送旅団です」
「葬送旅団? 何それ……葬送銀貨が関係する何か?」
「いえいえ。違います違います。とんでもない」
忌避を固めたキルルに、勘違いを断っておく。右手の中指の指輪がトレードマークの暗殺技能者集団と混同されては堪らない……葬送銀貨という呼び名さえ、処刑が公務であることを示して遺体に特殊な銀貨を置いていくことからの通称らしいが、普段は悪たれの糞餓鬼を脅すのに使われる―――そんなに銀色コインを貼られたいか!―――くらい現実味のない連中である。寝物語に出てくる、鎌を持った死に神の同類だ……必ず人は死ぬ、ただし必ずしも神の意図でなく、もう少し益体のない死因によって。まずもって、浮世離れした後継第二階梯くらいしか、現実に混同させる者もおるまいが。
「そうじゃなくて。あれですよ、あれ。主に箱庭で運悪くオダブツになった袖口貴族や靴箱貴族の亡骸を、故郷に送り届けるために組まれる、軍の編隊」
「あ。迄葬送護衛隊ね」
「そんな正式名称でしたか」
「ええ、そうよ」
やっとこさ、彼女の声が明るくなった。知った事柄が出たことで、多少なりと安堵したからだろう。
袖口貴族、ならびに靴箱貴族とは、王襟街から外部へ移り住んだ貴族を指す蔑称だった。まだ近距離に住処を構えれば袖口貴族、王靴村まで遠のけば靴箱貴族と呼ばれる。王の針子になるそうだ、王の下足番になるそうだ、と言うこともあるが、それは単に慣用される場の違いだ。例え糊口を凌ぐために平民のように針子や下足番をして日銭を得ようとも、貴族の義務は継続される。末代まで免除されないのが、納税と参勤交代だった。参勤交代とは、決められた月日ごとに、決められた日数を、王襟街内の決められた場所で過ごさねばならないという制度らしい……国内各地のあれやこれやを持ち寄って情勢を会議し、中央から分散した貴族同士の交流をはかるのが目的だそうだが、おそらくは監視とへそくりの腑抜きが真意だろうとシゾーは目星を付けていた。国の隅っこでこっそりと蓄財するのは見逃してやるから、たまにはばらまきながら帰って来いということか。
ともあれそうなると、死者が出ることもあった。当然と言えば当然だ。馬鹿正直に貧すれば鈍して夜逃げした貴族にしてみれば、武装犯罪者のお膝元である三戒域を、護衛もなしに―――こんな時にすら旗司誓を雇えない身の上でも―――身ひとつで渡らねばならないのだ。無事に王襟街に踏み込めた一歩目で、ため息をついた拍子に魂が抜けたところで不思議はない。道中での客死や事故死も含めて、もっと血なまぐさい例を挙げればキリがないが。
過程はどうあれ、そういった貴族の遺骸を実家まで運ぶのが、いわゆる葬送旅団―――迄葬送護衛隊だった。隊は、都会から近隣であるほど少数の司右翼で構成され、辺境に近づくほどに多数の司左翼を含んで多くなる。武装犯罪者を警戒してのことらしいが、根幹にあるのは司右翼のへっぴり腰だろう。警戒環にさえつま先を入れたがらない内弁慶は、戦争というショック療法さえ効かなかった。
「それで。<風青烏>が、奇妙な葬送旅団を見つけてくれたんです。王城からの」
「デューバンザンガイツから?」
「知ってます?」
きょとんと声を上げたキルルだが、返事は芳しくなかった。忙しなく首を振ったり傾げたりしながら、しどろもどろに口にしてくる。
「いえ。ええと。うーん……旗司誓が注目しそうな立場の人が亡くなったら、さすがにイヅェンが知らせてくれると思うけど。辺鄙な部屋にいたら、弔いの喇叭さえ聞こえないかも」
「ですよね。確かに死んだのは、ひとりの下女だったらしいです……けれども、」
「けれども?」
「その葬送旅団。隊の構成がほぼ司左翼で占められていた上、小さな棺を運ぶには不釣り合いな、騎獣牽きの大型車を繋いでいたとのことで」
いまいちピンときていないキルルの曇り顔に、ゼラが助け舟を出した。
「これも聞きかじりですけど。出稼ぎにきた靴箱貴族が王都近郊で死亡した場合、ほとんどはその近辺での埋葬を希望するらしいんです。せめて死してからでも、王の傍で百英雄の一員として控えたい―――というのが大方の口上で、本音は遺族が自己負担金を払えないから。まあ、出稼ぎに来てるくらいですからね。せいぜい、司右翼が馬車で日帰りできる距離ならまだしも……」
「乗獣どころか、司左翼が騎獣に大所帯を牽かせて出発となると、待遇として破格すぎる。確かに悔踏区域外輪を越えるなら騎獣が本望でしょうけど、子どもを出稼ぎに出すしかないようなしがない靴箱貴族が手配できた規模だとは、とても思えない」
ふと、妙案が浮かんだ―――と言うよりか、深まる不穏な気配に抵抗したかったのだろう。キルルが、恐る恐る割り込んでくる。
「あのね。その遺体。子どもじゃなくて、お年寄りだったんじゃないかしら? 小柄なお婆ちゃんで、遺言があって、彼女が貯め込んでたお金を使って……とか」
「いいえ。子どもです」
「言い切れるの?」
「はい。確認が取れてますから。女子です。ジェッツェの靴箱の先で下足番をしてる、イーニア・ルブ・ゲインニャって名前の」
キルルが、口を噤んだ。
不意に、その無言に得体の知れないものを覚えて、シゾーは目端を上げた。見ればゼラも間を窺うように、そっと息を潜めている。
少女が戦慄いた。そして、体つきは心底から力むようでいて、それと反対に顔から血の気を失くしながら、独りごちる。
「嘘」
「嘘じゃありません。実際に義父さんが現地まで足を運んで裏を取りました」
とりあえず根拠があることなので否定しておくが、キルルは呆然として聞いた風でもない。となると、これ以上この話を続けても、有意義にはならないかもしれないが。
ゼラに目配せするものの、養父は養父で、ぶつ切りのまま長引かせた方こそ今までの流れが無意味になると判断したようだった。口調はやんわりと落としながらも、迷いなく話を続けていく。
「死んだばかりの娘さんのお話を根掘り葉掘りなんて、断られるかと思っていたのですが……わたしが旗司誓で医者をしていると知るや否や、娘のことで相談があると打ち明けられまして。こう尋ねられました―――あんたたちのような職業で、死んだ者の頭蓋骨まで外して中を見るのは、どんな場合だ? と」
一度聞いた内容だったので、その風景はスムーズにイメージできた。
その日。地方の寒村。訃報が早駆けしてくるでもなく、真っ赤な軍人部隊―――司左翼の迄葬送護衛隊―――は前触れなく登場し、一方的な通牒をもたらした。
イーニア・ルブ・ゲインニャは死んだ。
殿下の弔辞をお伝え致す。―――ルブの嚇怒に栄光あれ。王家として其方を誇らん。此度の働きに報い、せめてもの冥途への花道を。その心残りの影を照らせるだけの黄金を。
要約すれば、王家の都合で綺麗に納棺を済ませた遺体を持ってきたやった上に見舞金までくれてやるから、貴族ならば誇らしく納得しろと。
言うまでもなく、親からしてみれば訳の分からない話である。しかし靴箱貴族に落ちぶれた身としては、雁首を揃えた中央の軍人に食って掛かるような度量はなかった。迄葬送護衛隊を成すのが司右翼であれば、復路を行く前に一宿一飯の労いをと申し出れば受けたかもしれない―――司右翼の構成員は多くが貴族だ―――し、さすれば腹を割って話すこともあったろうが、彼らは司左翼だった。にべもなく、棺を置き去りに帰ってしまった。
いや、最後のそれだけは運があった。彼らは、墓地の墓穴へと棺を置き去りにしたのではない。家の正面にある、わずかばかりの石畳。そこに横たわる木製の箱は、まるで調度品のような美しい彫琢をなされていた……王威を込めて。
やはり信じられず、親は棺の蓋を開けた。敷き詰められた装飾や、枯れてしまった花の数々に埋もれて、少女が死んでいた。イーニアだった。
思わず、昔したことがあるように、頭へ手をやり髪を梳く。すると、思いがけない感触が指に触れた。傷だ―――しかも、癒す目的を抜きに縫われた傷。伝って触れていくと、頭蓋を一周して縫合されていた。娘は検死されていた。
「頭の骨を外すような解剖なら、胸郭も開いて内臓の色や重さも診ているでしょう。これは、疑わしいことを確信した上で実施された、証拠探しです。そして、実際に証拠があった、その証でもある―――悔踏区域外輪を抜ける何日もの旅路を経過してから棺を開けたのに、咄嗟に髪に触れたくなるほど原形を留めた遺体なんて、自然死で成される筈がない」
水気をたっぷり含んだ子どもの亡骸が、首都から街中をくぐった上で出発したのである。いくら木枠で密閉されていたとはいえ、色味や臭味が腐敗するなり、やわらかい喉肉や陰部から虫が孵るなりしていなければおかしい。検死の際に腐敗防止処理が施された可能性もあるが、それこそあとは埋葬するだけの単なる下女にはそぐわない。技術と元手を掛けるには、相応のケースというものがある。お偉方の弔問が長引く、あるいは個々が短時間であっても弔問者が引きも切らないほど訪れる、といった長丁場があらかじめ懸念される場合だ……どちらにせよ、ありうることではない。
つまり少女の死因も死後の経過も、自然的なものではなく、人為的に引き起こされたということになる。そのようなことを成し遂げるには、―――
「毒しかない。王城でイーニア・ルブ・ゲインニャは毒殺された」
魔術を除いては―――と、ゼラが内心で続けた気がした。
養父がそこで挟んだ数秒が、下女を憐れんでの黙祷だと思えなかったのは、黙考した気配しか嗅ぎ取れなかったからだ。こんな時、この練成魔士は控え目に眼光を研ぎながら、計算を進めている。
「……ご両親には、医術も何も旗司誓と司左翼では畑違いだろうからと濁して伝えました」
「嘘」
「キルルちゃん。嘘を吐いたのではなく、わたしはあくまで娘を亡くした心痛を思って―――」
「嘘よ! だってイーニアは病気になったから親元に返しただけだってイヅェンは言ったんだから!!」
不可解なだんまりを唐突に破って、大声でキルルが反駁する。
目を剥いたのは、ほぼ義親子同時だった。
「聞き捨てなりませんね。イヅェンは言った?」
「イヅェン後継第三階梯が?」
信じられず、口々に呟く。
「そうなると、嫌疑はより確実となる。考えてみれば、後継第三階梯が伝えた弔辞は、下女働きには過分すぎる内容だ」
「しかも毒殺された下女について、わざわざキルルさんに嘘を以って伝えたところからすれば、標的は後継第三階梯本人ではなく―――」
つと、シゾーは分析をキルルに向けた。
「キルルさん。イーニア・ルブ・ゲインニャは、どんな子どもでしたか?」
「え? か―――か、可愛い子だったわよ」
動転していることが気勢となったのか、そのまま取り留めのない話が続く。
「お仕え自体、初めてすることだったみたくて。手つきも足運びも、ぎくしゃくしてた。ほら、宮仕えって、ちょっと上の家柄に行儀見習いですることが多いでしょ? あたしは女で、急にデューバンザンガイツに呼ばれたから、とにかく女性の人手が足りなくって。自分みたいなのが飛び級できちゃいましたって、てへへって笑って……」
視線を振ると、ゼラと目が合う。となると、考えていることは同じだろう。
ひとまずは、続きに聞き入る。
「最初はものすごいびくびくしてたけど、何回も呼ぶうちに打ち解けてきて。いつだって、明るい色の髪の毛をふわふわさせながらやってくるの。櫛を入れて遊べた時は楽しかった。普通のお喋りできて嬉しかった。砂糖で綺麗な街並みが描かれた焼き菓子を見て、この絵葉書って食べれるんですかって目を丸くしたものだから、あたし可笑しくて……あれとあなたのおやつを取り換えっこしてみましょ、チェンジなら下賜したなんて目くじら立てられないわよ、って……あれが最後で……」
だとしたら。本来ならば通じない筈の下界と繋がりやすい要素がある者と、不用心に喫食する場が、揃ったことになる。
「それ、いつの話です?」
シゾーが問うと、ゼラの非難の目が向いた。まだ勝手に話させておくべきだと有能な前副頭領が暗に告げてくるが、それより先にキルルが物思いから顔を上げる。急に現実に立ち戻ったせいか、なんとはなしに上の空で目を泳がせながら、訊き返してきた。
「いつ?」
「その出来事が起きたのは、いつです?」
「ここに来る日の前だから、ちょうど一週間前……くらい」
「それは何月何日?」
「だから。一週間前だから……ちょうど、春閉め日でしょ」
「―――本気ですか?」
度肝を抜かれて、あんぐりと大口を開けてしまうが。
顔をしかめて、キルルも唸るような声を出した。
「なに。あたし数え間違いしてる? ちゃんと数えてたつもりだったんだけど」
「―――数え間違いにしたって、一週間となると、誤差の範囲じゃない」
「え?」
「春閉め日は、二週間前です」
部屋の一角を盗み見る。正確には、そこに張られた暦を。
季節の周回ひと巡りを年と定め、年を月で、月を週で、週を日で区切り、国民動作の目安とする、公用暦法表である。これを大まかな定規として、農家は作付けや収穫の頃合いを計り、政司家は税収日や祝祭日を定めている。旗司誓はと言うと、悔踏区域外輪にいる限りは、買い取った農作物の移り変わりで季節を感じることが多い―――下っ端であれば、駆り出された先で四季の催しに触れることもあるのだろうが。
ともあれ、そんな旗司誓であっても、公用暦法表に基づいて生活していれば、七日ものカウントずれはまず起こさない。毎時毎分という厳密な管理をされているであろう王家が王宮でとなると、尋常ではなかった。二週間前の、春閉め日―――
「義父さん。そう言えば、王家から接触があったのも、そこいらでしたよね?」
口走るまま、ゼラを見る。
「そう……そうですよ。思い出した。ザーニーイさんが、春もろとも<彼に凝立する聖杯>の依頼窓口も閉め切っときゃよかったなー、とか旋毛曲りなことぼやいてて、」
「そしたら僕らも窓口から内側もろとも、お先真っ暗になってましたでしょーよ……と、君も舌打ち混じりに臍を曲げてましたけど」
「……義父さんは何を曲げてましたっけ?」
「スプーンを三本」
「実害がないとみて嘘こくの止めてもらえます? 嘘でないにしても備品壊さないでください」
「まあ、冗談は置いておくにせよ。これは、なんともはや……」
ジト目になりつつあった眼差しは、あっさり相手から避けられたが。
不意打ちしてきた仮説に含まれたうそ寒い気配に、身震いを覚えながら。それでも思案の末に、シゾーは遅蒔きながら口にした。
「キルルさん。もしや毒で昏倒して、朦朧としてたんじゃありません? その……一週間分」
当の彼女を見やる。注視する。
歩き方、喋るテンポ、眉の傾げ方―――害された何らかの痕跡らしきものをキルルから感じ取ったことは無いが、そもそも王城での彼女の様子を知る者など、ここには誰もいない。なんてことない癖や欠点が後遺症であってもおかしくないし、少なくともシゾーは彼女の微妙な癖や欠点が気になるほど親密な仲になっていない。
(なっといた方が良かったか? もっと性根入れて)
ふと、暗算が遅れて脳裏に追い付いてくる。
(<彼に凝立する聖杯>に俺しかいないんじゃ余裕も機会もなかったし、ちょっかいを出すならあいつが戻ってからで充分だと高を括っていたが―――)
当のキルルはどうだろうか? 見やれば、輪郭を青ざめさせた少女が衝撃に打ち震えている姿は、確かに恋人が支えるのにうってつけの構図といえた。ただしその体つきの線の細さは、わきの甘い若造よりも、親か教師からの保護を求めているように見える。呼吸の数をみるみる増やして、しゃくり上げ始めていた。
「でもわたし、約束しただけで。でも、それも、約束を守った記憶なくしてるだけ? ―――じゃあ……死んだの? 本当に、イーニアは死んじゃったっていうの? ―――……」
(しかもそこかよ)
軽い落胆に―――なぜそれが軽いかと言えば、落胆でさえ繰り返せば、重量挙げのようにこなせるようになるからだが―――シゾーは、げんなりと眉根を揉んだ。肩はともかく、ここは凝らすなと……言っていたのが誰だったのか。思い出せないが。
(宴会の時に踊りの相方させられた身からすると、あのすばしっこさと柔軟性は、しばらく寝返りしかしてなかったとは思えないけどな。王家なら、どんな化け物じみた医者や練成魔士がお抱えだっておかしくない。普段からイイモノ食ってる子どもなら、回復力も高いか)
こじつけにしても言い訳じみてきた気がして、シゾーは長考を止めた。投げやりに、煮え切らないせりふをひねり出す。
「イーニアという女―――毒を盛るはずだったのが、直前で断念して自決したか。それとも、キルルさんの身代わりに毒を食らっての事故死か。または、容疑者として利用できると踏んだ真犯人が、もろとも殺害を謀ったか。ルブ・ゲインニャへのイヅェン後継第三階梯の態度からすれば巻き添えの線が濃い気もしますけど、あの弔辞のどこまでが見せかけだか分かったもんじゃないし」
「口に気をつけなさい」
ぴしゃりと口止めをくれて、ゼラがキルルに身体を向けた。優し気な、静まった声音で、断りを挟む。
「勿論これは、全部が全部、推測です。イーニアちゃんの死に、キルルちゃんが無関係ということだってある。彼女自身も貴族ですので、それ絡みの怨恨から命を狙われた可能性も」
「無いに近いけど」
「口を慎みなさい」
制止は二度目だったが、シゾーは二度と聞き入れる気はなかった。ゼラの瞳は温和に色づいていた漆黒を失くし、苛立った熱を籠らせたせいで乾いた刺々しさを発していたが、沸騰するならシゾーの怒声の方が早い。まくし立てるように、言及する。
「だとするなら、どうしてわざわざ王城で実行するんですか? 靴箱貴族が恨みつらみを買うなら、住んでる靴箱で村人相手が関の山でしょう。凶器は、土くれこびりつかせた鎌や鍬じゃないんですよ。毒だ……もしかしたら、ひと口ふた口の経口摂取が致死量の、無味無臭の猛毒だ。そんなもん手に入れる能と金と人脈があれば、もっと有益で建設的な腹いせ見つけてトンズラしてますってェの」
「だとしても今この場で言う必要があるか!」
それは正しいことなのだろう。そしてゼラは、正しいことしている。
不承不承ながら、シゾーは叱責を呑んだ。沈痛を認めることは容易い。ただ、それで済まされることは、あまりにも限られている。これとてそうだ―――言うべきことを言う。
「ありますとも。騎獣の件をまだ言いあぐねてる」
シゾーはキルルへと姿勢を変えた。と言っても、机に尻を落とし直した程度の身じろぎだったし、彼女を意識してというよりか同じ体勢を続けることに辛さを覚えてのことだったのだが。キルルは血相を変えて、次の致命打に身構えるように、背筋を突っ張らせてみせる。
そうさせてしまった詫びでもないが。シゾーは穏便に、口火を切った。
「キルルさん。こないだまで食事に出てたシチュー、食べました?」
「は?」
「美味しかったですか?」
唖然とするだけで、答えはない。欲しくもないが。
あっけに取られて目を瞬いているキルルに、シゾーはにっこりとしてみせた。
「美味しかったとすれば、今後は不味くなりますので勘弁してくださいね。あのお肉、もう無くなっちゃいましたから。これからあとは、いつものラインナップとなりますので」
足を組み、いつしかそうしていた腕組みをほどく。前置きにピリオドを打つには、この程度の合いの手も必要だ。
「あのシチューで使い終えました―――使い始めの筆頭は、あの戦闘の晩に振る舞われた宴会料理です。それに使った肉は、敵が操舵してた騎獣と馬を捌いたものがメインだったんですよ。調理係が、脂肪や筋肉のつき方が、砂育ちの肉質じゃないと気付いてくれました……何て言うか、あぶらっぽいと。胃腸の内容物を調べてみると、それもこちら側と違う。あれは、見てくれを重視した育て方だ」
「見てくれ?」
「ふくふくと色艶良くなるよう栄養たっぷりにストレス少なく、蝶やら花やら追いかけて大きくなった―――とでも言いましょうか。実用しない、愛玩用です。斬った時に、あんだけ刃に油膜が張ったのも納得だ」
思い返して、シゾーは吐息した。
「それなのに騎獣の左右の牙には、操舵用の手綱の摩耗痕らしき窪みが、しっかりとついていた。成獣とはいえまだ若い個体で、あの深さと角度は度が過ぎています。これはおかしい」
「おかしいの?」
「……この分野はエニイージーたちの専門になりますから、ちゃんとした代弁が出来るか分かりませんけど。僕なりに噛み砕いて解説させていただきます」
聞き返すループに陥っているキルルに、シゾーは説明を向けた。
「騎獣は、右と左の牙に法則立てて手綱を結び、それを騎手が手で引くことで進行方向を決め、両足の使い方や姿勢の取り方で進行速度を調整します。乗るメンバーが絞られれば絞られるほど、そしてその者が操舵する経験を増やせば増やすほど、騎獣の牙には騎手それぞれに順じた痕が残る……急制動をかけやすいとか、利き手の方から反転しやすいとか、そんな手癖が反映されるんですね。これを摩耗痕と言います。ここまでは宜しいですか?」
彼女がこくりと顎を引くのを見終わってから、再開する。
「旗司誓は、この状態を推奨しているんです。摩耗痕が馴染むほどに、乗り手と騎獣も反応が良くなる。時間が掛かる上に増産できない少数精鋭ですけど、それでも人馬一体となった機動力が欲しいから。正反対に、この状態を、こよなく嫌う連中もいます―――貴族です」
貴族。
言うまでもなく、我が国において無二革命を起こした百英雄の末裔であり、元来は富裕層の多くを占めた、赤毛と族名を最たる特徴とする血族らである。シゾーが直接知っているのはキアズマくらいだったが、あまり良い捉え方をされた身分ではない。司右翼から派生した警察の素行や態度の横柄さ、ならびに部屋住み者が徒党を組んで街中で不祥事を起こす等の実例の枚挙に暇がないせいだろうが、そもそも恵まれたステータスに生まれついているらしいと疑われるだけで、大なり小なり色眼鏡で見てくるのが世間というものだ。実際に体毛の色素が暖色系をした者が多い旗司誓では滅多に使われる言い回しで無いが、鼻高々な振る舞いを『赤い髪を被りやがって』と揶揄し、鼻をへし折ってやるという意味で『あの赤毛を引ん剥いてやる』と啖呵を切る場面は、往々にしてある。まあ思い返してみれば、そもそも自分が初対面から好人物と印象付けられた者など、生まれてこの方いない気もするが。
神経を逆撫でしてくる雑念を、肩をはたく仕草で胸中から落として、シゾーは言葉の残りを口にした。
「乗り手が限定されてしまうと仲間内で乗り回すことが出来なくなるし、何より彼らは審美的に敏感だ。ついでに言うなら、お散歩がてらにちょいとそこまで歩き回ったところで、何年たっても摩耗痕は残らないものでしょうからね」
「……つまりあの騎獣は、本来は貴族のところで大事にされていたものだったのに、あなたたちっぽく偽装されて戦いに使われたってこと?」
キルルは、納得できていないのか、納得できていないことに気後れでもあるのか、声の音程を低めるのだが。シゾーは頷いた。
「そう考えれば、納得できる要素も増える。僕が真っ向から騎獣をずんばらりと斬り捨てることが出来たのは、ただでさえやわな育ちの騎獣が弱っていたからだ。うっすら程度の牙の擦り傷を無遠慮にがりがり削られて、神経やられて死にかけていたんですよ。しかもその傷を、呼吸が合わない乗り手にグイグイ引き回されて、ちょいとそこまでのお散歩なんて言い難い距離を歩かされた挙句に―――ってことでしょうし」
「あの騎獣が、そんなに簡単に弱るものかしら?」
「僕から言わせれば、いくら選りすぐりの体格と血筋があったって、温室育ちのボンボンが歯痛のままフルマラソンを走り切れますかね? タイマン張るなら勝てると思いますよ、僕」
開いた五指を、もう片方の拳で、ぱしんと叩く。小気味よく弾けた音の先を見やるように、ゼラが視線を上げた。マラソンで力勝ちするどまりになさいと小言を語る目付きに見えたが、言ってきた内容はもっと現実的だった。
「ただしそうなると、どうにもこうにも浅はかだ」
困惑に、シゾーは追従した。
「騎獣の件については、まさか僕たちがそんなゲテモノまで食べる野蛮人だとは思ってもみなかっただけでしょうけど。思えばあの戦闘も、悔踏区域外輪で仕掛けるにはおかしな戦法でしたし……」
「こうなると、さっさと警察へ引継ぎしてしまったのが悔やまれますね」
「しょうがないじゃないですか。いつものことだったんですから。殴りかかってきた奴に、なんでと尋ねるのは官憲の仕事でしょう?」
「常ならば、ね」
こうなっては、出来ることなど限られてしまう。
困り果てた面持ちを少し解いて、ゼラが呼びかけた。
「キルルちゃん。城から持ち込んだ、あのチェスト。使ってませんよね?」
「う、うん。食器とか、そんなのが入ってた筈だから。服も、ずっと借り物だし」
「今後、使う気もない?」
「うん。まあ」
そんなものがあったことさえ知らなかったが。口を挟む。
「これからも使わないなら、このままそっと封印しといたらどうです? 持ってきた食器やら何やらに毒が仕込まれてる可能性ごと」
絶句したキルルの顔色が、しつこく青ざめる。それを見て、挙動だけはばつが悪そうに、ゼラがやんわりとかぶりを振った。
「そうですね。薮蛇はしないに越したことはない。もしも【血肉の約定】の成就が後継第三階梯にとって本願でなく、キルルちゃんを暗殺から死守するために王城から避難させる目的だったなら―――王子は、自身の役回りをこなしながら、反逆者の捜査も行っていることになります。首を突っ込んで、邪魔だからというだけで斬り落とされては敵わない」
「どうして貴族が、あたしに毒なんか……」
余計なことだったが。キルルの震え声に、シゾーは横車を押した。
「そのまま考えるなら、キルルさんに王位が継承されると、さぞ面白くない奴がいるんでしょうよ」
「お、面白くないって。あたしが一番面白くないわよ、そんなの」
仮説上、一番はイーニア・ルブ・ゲインニャのような気がしたが。死人に口は無いし、シゾーがそれを言ったところで栓の無いことだ。別の推測を選んで、口にする。
「確かあんたら双子って、ヘタレ親父がヘマしたせいで爺さんがブチ切れて、世捨て人扱いされてたんでしょ? んで、その爺さんやら正当な後継者やらが、元気すぎるうちに遺書も残さずポックリ急死したもんだから、順当に考えればってことで、もう死にそうな息子なら間に合わせに最適だとばかり、王城に連れ込んできた。んで、いざ連れ込んでみたら、ノーマークだった奴らのくせに、息子の子どもの双子―――弟の方が姉を引き合いにやたらナチュラルに出しゃばるし、こちらから連れ込んだ手前、切って捨てる大義名分もない。……ここまで急にしゃしゃり出られたら、利権争いやら派閥争いやらで割を食ったりとばっちり食ったりする貴族は、さぞかし目白押しでしょうよ。飛び火したのはどこまでなんだか」
「そんな! そんなの、あたし、……―――」
「関係ないとでも言うおつもりで? 少なくともイーニア・ルブ・ゲインニャは、キルルさんが後継第二階梯にならなきゃ王宮には上がれなかったんでしょう。違いますか?」
「はい、そこまで」
色めき立ちかけた会話に、ゼラが仲裁の声を上げた。目を閉じ、開けて、その幕間に落ち着き払ってから、注視を振ってくる。
「それこそが、イヅェン後継第三階梯が、キルルちゃんに何の人員もつけず<彼に凝立する聖杯>に送り出した主因ではありませんかね? 王家の身の回りを固めるのは、貴族……か、司右翼が基本でしょう。しかも、移り住んで日が浅ければ、人員なんて把握しきれていない筈です。無暗な人選は出来ない、誰が潔白か確かめる時間もない、となると利害も血縁もどうでもいい外様に囲わせておくのが、まだ安全だ―――と」
「そうなると、やっぱり持ち込んだそのチェストとやらから最も残り香がしそうなんですが」
応じるシゾーに、ゼラも相槌を打ってくる。
「ええ。そっとしておいた方が無難でしょう。食器に毒が塗られていたとしても、それを確かめる実験なんて、見通しも立ちませんし。仔馬にでも舐めさせてみるのが妥当な案なのでしょうけれど」
「馬って。もうちょっと手軽に……せめて、便所蛆でも汲んでみます?」
「虫と哺乳類では構造が違い過ぎます。しかも幼生とあっては、毒性が発露しないかもしれません。仮に蛆が死んだにせよ、それは食器に含まれた成分にアレルギーを起こしてのことかも分からないし」
「そんな漆にかぶれるみたいな神経が、蛆虫にあるとも思えませんけど……」
「だとするなら、どだい手詰まりです」
「堂々巡りか……」
「それに実験をしてみたところで見返りに得られるのは、その品物に毒物らしきものが付着していた・していなかった、という結果だけです。どっちみち、<彼に凝立する聖杯>が【血肉の約定】を遂行するのに役立つとも思えません。徒労でしょう」
率直な応酬は、言い募るごとに弁解がましさが拭い切れなくなっていったが、それでも算段を立てて深入りすべきは本業の方だ。道草を食っていると、足元を掬われる隙が出来る。足元を掬うのを虎視眈々と狙っていそうな相手が感じ取れた以上、脇道には近寄らないのが鉄則だ。
(毒、か。ここの連中と初日から居住食を同じくしてるのが、毒見や検品に繋がったかたちか。キティ・ボーイとやらも、まんざらじゃなくなってしまうが……)
こうなっては、キルルが<彼に凝立する聖杯>に親和していることが強みとなってしまう。水、食事、衣服、生活動作―――どこになにが仕込んであったとしても、キルルが毒に触れるより先に、血気盛んで手が早い旗司誓の誰かが、彼女を追い越して犠牲になるだろう。微量ずつ毎日毎日、井戸や鍋そのものに蓄積毒でも入れられれば、長い目で見てキルルを中毒にさせることも出来るかもしれないが、それより先にまず間違いなく摂食量の多い旗司誓の方から体調不良者が続出する。長期的に敷地内に潜伏して毒殺を狙うとも考えにくい。
(いや。どういった方法であれ殺害するチャンスが最もあったのは、【血肉の約定】初日だった筈だ……あのゴタゴタに乗じてのアクションを逃して、今日まで見逃した。次に成算を狙ってくるとすれば、中弛みする頃―――)
要は、今日あたりから、となる。
(念のためルブ・ゲインニャについては、ひととおり調べることになるな。貴族と騎獣の線は<風青烏>に洗わせるか。この姫様の護衛については、哨戒レベルだけの対応で済まして……いいのかどうか、また三頭会議かよ。畜生)
なにをどこまで鵜呑みにするか、三人がかりで七面倒くさく腹を探り合うのだ。少なくとも、そういう振りをする。選択できる余地などありはしなかったとしても、余地があるように挑むことで、余地を築く―――その希望を繋ぐのだ。
(こういったことは……大抵は、見栄を切ることから始まって、見栄を張り続けるうちに本物になるんだ。大人になるまでに、子どもが寝小便を直すのと同じ。だから、……体面ってのは、大事にするんだ。<彼に凝立する聖杯>はもう、小便袋を自制するだけで成り立てるような根城じゃなくなっている)
立ち小便を禁止することから法度を定めた翁たちは死んだ。ひとつを作り、ふたつを打ち立て、そして到達したここにはもう彼らはいない。残された者たちは、いつまで残されるのかも分からないなら、出来るように引き受けてやりたいように先へ進むしかない。
開き直ってドアを開けるようなものだ。開けずに、閉じこもっていることは出来る。それは悪いことではない。扉の向こうを恐れず、意気込んでドアを開けたなら、打ち勝てる程度の敵と、財宝が盛られた宝箱が応えてくれるという訳でもないのだから。それでも―――目途のつかない寿命と幾らかの腹積りがあるなら、それらを抱かかえて、ドアを開けるしかない。叩き割ってでも行くしかない。取っ手を捻って、押しのける……そうできる余地がないのなら。
やはり会議をする必要がある。歯噛みして、シゾーは首を振った―――俯いてしまっていた。鼻梁にかかった髪が邪魔臭い。
と。退いた黒髪の向こう側に、キルルがいたことを思い出した。
見ると彼女はその場に立ち尽くして、あどけない目鼻を引き攣らせながら項垂れている。それだけだ。せめてまた狼狽していれば露骨に慰められただろうし、闇雲にヒステリーでも起こして卒倒してくれれば患者らしく丸め込めたように思えたのだが。
つまりは性分ではなかったが、これも役割か。没頭を手放して、呼びかける。
「キルルさん。不安にさせてしまいましたね。申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
こちらを向いた彼女の表情が、目に見えて晴れたということはない。それでも、暗澹の中にありながらも晴れ間を探しているのは感じ取れた。落ち着いた語気で、それを保証する。
「でも大丈夫です。<彼に凝立する聖杯>は、誰であれ、あなたには触れさせない。絶対に―――」
―――守る、と。
誓うのだろうと、シゾーには思えた。ザーニーイならば。ならば……なにに……誰に?
(やってられるか)
もう、言い続けることなど出来なかった。声になることなく抜けた吐息が、笑い声に転じたせいで喉の奥に蟠る―――見たか? 所詮こんなものだ、誓いだなんて。
シゾーは、へらりと半笑いした。誓い。約束……契約。どれもこれも信じられないと音をあげて、その頼りなさに肩を竦め、侮蔑のあまり見くだして、―――その上、思いついてしまった。
言ってしまう。とんでもないことを。
「―――なぁんて、こんな殺し文句、ザーニーイさんにプライベートで言わせておくのがお似合いかな。うん。たまにはそれくらい優しくしてあげればいいんだ。あんだけ一途にされてるんだから」
「え?」
「あ。知りませんでした? キルルさん」
素っ頓狂に齎された暗示に、怖気づいていたことすら忘れて、鼻白む少女。
その横には、ゼラがいる。常日頃の柔和な薄笑いは便利な仮面のように変わらないようでいて、冷えた眼光からまたひとつ熱を失くしていた。
解釈したようだ―――出し抜かれ、金切り声すら失くした阿呆の顔だ。
シゾーは、奥まったところから湧き上がる腹の疼きを堪えられなくなり、己の鼻先に一本指を立てて、キルルに向けた内緒の仕草で誤魔化した。余計にそのせいで、詮索に答える打ち明け話に浮足立つような素振りになりながら、一方でそれらを見せつける心地よさに酔う。
「ザーニーイさんに首ったけなのが、ひとり。ね?」
刹那だった。
「キルルちゃん」
弾かれるように、言いながらゼラが彼女の片手を引っ掴む。
ぎょっとしたキルルを急かして強引に引きずりつつ、そのまま廊下へと身体を向ける。
「やっぱり一回は見てみましょうか。王家から持ってきたモノ」
「え? あ。の」
「さ。行きましょう。わたしの部屋に置いたままでしたものね。エニイージー、そこにいますか?」
そして、二人はシゾーへ一瞥ずつ振り返らせて、ドアの向こうへと消えた。
一度ずつの瞥見。キルルからのそれは、会話への未練と動揺だった。ゼラのそれは、少女よりも、もう少し小賢しい―――愚か者を見るようにしながら、賢い者を気取る眼差し。それが真に狡猾であれば、疑問より脱兎の衝動を重んじた筈もない。更には、その衝動が均される頃には、愚者への禍根より優先すべき他者の茶飯事をこなさねばならないようになっている。日常は凄まじい力で殺到し、圧倒し、押し寄せて、押し流すものだ。そうして今日とて殺される。三年以上前からそうだったのだから。
「様ァ見ろ。いい気味だ」
閉ざされたドアへ、空虚に勝ち誇る。それを聴く者はいない―――否。
シゾーは、座っていた机上から、床に立ち上がった。外して適当に立てかけていた斬騎剣を装備し直そうと、手を伸ばして。
「―――おっかしいだろ?」
そこにある青い羽根に呟いてから、それごと剣を掴む。
そして、背の武器帯を元通りにしてから、身を返してもうひとつのドアへ向かった。隣室の書庫へと通じる扉だ。
それを開けて、床へ目線を落とす。
「もう動いていいですよ」
「はったおすぞ、てめぇ」
「そこまで動かれると迷惑です」
床から……蹲っているそこから、這い出るような恫喝を差し向けて、ザーニーイがシゾーへ頤を上げた。
このまま跳び上がれるなら殴りかかりたいという魂胆が透けて見えたが、いかんせん衰弱した病み上がりだ。鎮静剤も抜けきったかあやしい。上限を超えた悪夢からは脱したにせよ、頭に急な高低差を起こすような動作は膝下がもつれて出来ないだろうし、強行したところで目算が狂って当たらない。その推察を体現するかのように、ザーニーイはずるずると四つん這いを崩した動作で手足を使って、大儀そうに執務室へ移動してくる。いったんはきちんと身繕いした筈なのに、書庫の埃を被ったのかどことなく薄汚れていてもいて、あんまりと言えばあんまりの醜態だったが、道を開けたシゾーへと腐る威勢だけは定番並みだ―――どころか、怒り狂っている。絶不調を補って余りある剣幕で、饒舌に悪態をつき続けていた。
「大体、なんで俺が除け者にされなきゃなんねーんだ。こんな重大な内容、キルルに伝えるなら俺の分掌だろが」
「その面の皮にへばり付いた痣が治ってたら、どんだけでも許可しましたとも」
「一杯ひっかけりゃ分かんなくなるだろ」
「へろへろになってる怪我人の肝臓にアルコール入れる医者がどこにいますか?」
「へろへろじゃねーよ馬鹿」
「じゃあヘロンヘロンだ馬鹿。人と怪我人が同じなら馬と鹿も同じだバーカ」
「人と怪我人は人間だ」
「馬と鹿も四つ足だ」
「馬と鹿くらい見分けは付く」
「だったら負傷者と健常者も見分けてみせろ」
「俺の目が節穴だってのか?」
「医者なら藪医者に成り下がれないだけだ」
「手習いのガキが四の五の偉そうに―――」
慣れた小競り合いだった筈のものから、踏み外れた。それを感じる。
かっとするまま、シゾーは逆上に身を委ねた。
「その手習いの―――!」
そこから言いよどんでしまったことに、さらなる熱の上塗りを覚える。
それでもどうにか、憤激し続けやすい言い方へと乗り換えて、
「見習い風情でさえキッパリはっきり言い切れるくらいズタボロなんだってのが分からなくなるほど痩せ我慢が板についただけのことを―――虫のいい様に履き違えて侮るのも、いい加減にしろよ。いいか?」
業を煮やしながら、ドアを閉めるついでに殴りつけて八つ当たりを済ませると―――彫り物細工といい暴力といい、実に不幸な巡り合わせにある戸板だ―――、シゾーはザーニーイへと身体の正面を向けた。こんな時でさえ兄貴分を止めない利かん坊は、人相悪く胡坐をかいて腿に爪を立て、世迷い言と強がりを一緒くたに、小生意気な弟分へ当たり散らしている。度を越して。
しゃがみ込んで、眦が痛むほどの形相で歯を剥き、指呼の間から相手の眉間めがけて人差し指を突き付ける。肉薄され、それ以上の圧迫感をもって気圧されると、さすがにザーニーイが罵声を呑んだ。その隙に、筋道というものを突き刺す。
「酒で食欲出すのはいいが、もれなく肉の治りは遅れて血の造りが滞る。いいのか? 脳みそ煮崩れるほど熱発して、自傷・他傷で全身打撲、片側耳介と耳介裏に裂傷、束縛縫製を引き千切ろうとしたと思われる擦過傷に、痙攣を繰り返したことに因る筋肉痛。ああついでに、戻した胃酸で焼いた鼻粘膜と、叫んで痛めた喉も入れるか? 言っとくが、その貧血じゃ殴りっこしたところで鼻血も出ねぇぞ」
何か言おうとしたのだろう。ザーニーイの口の端が、言葉を噛んで歪みを増す。その目障りな動き以上に耳障りだと断言できる文句で食って掛かられる気もない。機先を制したまま、喝破を続ける。
「十中八九腕が届くより先にズッコケるが、そいつは結構。おあつらえ向きだ。拳骨よりも地面にタンコブ作らされた方が思い知れるだろうよ。お前が、ただの人間だってな!」
「………………」
「…………こっちは終わりだ。悪罵の雨が降る悪天候を続けたいならやってみろ」
「―――そんでも、キルルと話してやるくらいなら問題なかったろ」
「ありまくりだ馬ァ鹿」
今度こそ口惜しそうに、ザーニーイが黙り込む。
頭ごなしに正論を言ってのけるのに後ろめたいことは無かったが、言い負かしたなりの気まずさは生じた。血管の中を暴れ終えた血液が巡る首が、こめかみが、鼻筋が痒い。ひとしきり撫でながら、シゾーはため息をついて、立ち上がった。
「真面目な話。アンタただでさえ生っ白いのに、今回は長いこと暗闇で絶食してたもんだから拍車がかかって、まだアオタンのやつも治りがかった黄色のやつも覿面に悪目立ちして、色んなカビ生やした餅みてぇになってんですよ。似顔絵に残して、あとあとまで笑い種にしたいくらいだ。気持ち悪い」
「もーちょっと歯切れよく後腐れしない仕返ししろよ。お前」
「そうですね。僕の方はもう割と元気ぴんぴんです。やーい」
「うわ、歯切れよく後腐れしなくなった上で倍ドンにムカつく腹黒さを感じるコノヤロー」
「消耗ついでにしょぼくれてたら、蒸しパンまで賄いにもらえました。糖蜜煮の桃が入ったやつ。甘えー。うめえー」
「かつ、ねっとりとして嫌味たらたらな追撃に余念がないえげつなさ。お前だよ。マジお前」
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小癪な抗議を折りながら、執務椅子の座面に置いていた皿を、机の上に移す。キルルを部屋に迎え入れるにあたって彼女の視界から隠していたのだが、時間が経った腸詰は卓上から下げられた時点から行く末を悲観したかのように冷めきっていた。汁気と白い油脂を固まらせて横たわる姿は、でっぷりとした蚯蚓が泥溜りで死んでいるようで、とうに食欲が湧くような代物でもなくなっている。
腸詰の後釜として椅子に座ったザーニーイの辛気臭い面構えも、見様によってはそれと似たり寄ったりだった。どっと脱力し、冷めた影が頬に差している。逆光による陰影に嫌気が輪をかけているせいだろうが、血液が足りていないせいで肌寒いのかもしれない。あるいは虚勢を張っているせいで、疲労を割り増しして溜め込んでいるのか。気だるく不愉快そうに、眉の間を狭めている。
そこ目掛けて、シゾーは机の上の皿を押し出した。その勢いに、腸詰と並んでいたフォークが皿の上でちゃりんと転ぶ。相手の幽鬼じみた容貌と合わせて見れば、粗悪な供養を受けて反撃も許されない生き霊のような有り様だが。
「これは、あんたの分の役得です」
「…………」
「味に飽きようが食欲が無かろうが、痛みと倦怠感があるうちは肉を食わせますからね」
断固として態度を崩さずにいると、口八丁に窮したらしいザーニーイが、風采を欠いた弱音を吐いた。
「顎が痛むんだよ」
「夢見の悪さに歯ぎしりでもしたんでしょ。がむしゃらに万力込めて」
「お前が殴ったところだ」
かちんときたようだ。語尾が喧嘩腰になっている。
が。むしろこっちの方が、あしらい慣れてもいる。シゾーは、鼻を鳴らした。鼻で笑えたら、まだしも痛快ではあったと思うが。
「買いかぶられたもんだな。素手で雷を生け捕りにするのに手心を加えられるような腕っ節が、僕にあるとでも?」
「顔面殴りつけて止まるのは、びびる脳がある獲物だけだろが。見境なく発奮した暴れ馬にゃ、どてっ腹の急所に一撃必殺かましたれってんだ。しくじりやがって、リーチ長ぇくせして無駄な手足してんじゃねぇぞド下手くそ」
「ごめんなさいねーエ。お詫びにナデナデしてあげましょうかーあ?」
「やめろ」
「イタたいのイタいの飛んでいけーエ」
「やめろ!」
「よちよちー。イイコでちゅねー」
「イイコにするからやめろ! 食うよ。食うっての。ったく」
「あー良かった。はいアーンする瀬戸際だった」
とどめが効いたらしく、相当に本気と思しきぞっとした顔で、唾棄を引っ込めたザーニーイがフォークを掴んだ。それを腸詰に突き刺して、かぶりつく。そして、やはり美味そうでも味わうようでもなく義務的に咀嚼を終えて飲み下すと、空になった皿にフォークを捨てた。こちらに向けて舌を出したとも、辛子や胡椒にひりついた薄皮を舐めたともとれる仕草をひとしきり口元にさせて、負け惜しみしてくる。
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「お粗末様でした。ひと休みしたら腹ごなしに書類やっつけといてくださいね」
皿を下げるシゾーに、ザーニーイは裏返った悲鳴をひしゃげさせた。
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「こないだみたいに吸殻の残り火落として紙にコゲ穴開けたらブチのめしますから」
「そんときゃいっそ燃え上がって焼身事故死だな。仕事中なら労災おりるか?」
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ふてくされた顔で机上の書類の一枚をつまみあげて、ザーニーイは頬杖を突いた。途端に、痣のどれか―――か、ムチウチか―――が痛んだようで、やるせなく上体を元に戻す。書類を手放すと、そのまま後ろ頭で両手を組んで、背もたれに寄り掛かった。すくみ上ろうとする筋骨を伸ばしたいのか、仰け反るようにして……
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「ついさっき義父さんと僕と三人で話し合った内容の復習と、キルルさんの現状把握は、しておくに越したことないです。あんた臆面無くそんなことする性根でなしに、仕事なら割り切って取り組めるでしょう?」
「ああ。だからこそ、公私混同したお前には腹が立つがな」
ふ、と―――
食器を持ったまま立ち尽くして、シゾーはザーニーイを見詰めた。束縛縫製はとうに脱いでいるが、あとは革胴衣と鉄骨入りのブーツくらいで、愛用の剣だの手斧だのは身に着けていない。物欲しげな視線が時折、シゾーの佇いに触れてくることには気づいていた……丸腰の平服を強いたのは自分だったが、診断と善意に基づいてのことであり、それは相手も納得ずくのことだ。沽券を抜きにして骨休めのために時を待つなら、血気を逸らせる身なりは抜いておいた方がいい。それでも……溌剌さを失くし、窶れた肢体―――負傷もあるが、固形物を嘔吐しなくなったのはここしばらくのことだ―――に、擦り切れたシャツとズボンを引っ掛けておくだけで一杯一杯の幼馴染みは、言ってしまえば無力に見えた。いやそれは、あの愚かしい真っ赤な襟巻きをしていないせいかもしれない。伸びた襟ぐりから、肉を無残に癒着させた一条の傷痕が覗いている……昨日の今日ついた生傷ではなく、癒えてなお深みへと裂け目が及び、食い込んだ楔と棘。
それに後押しされたからではないにせよ、シゾーは言っていた。
「首ったけなのがひとり」
言ってしまえば、楽になった。場違いな高揚感がある。屈託なく笑える。軽口にすら出来る。
「ああ。ふたりかな? いっそ三人か」
「はったおされてぇのか、てめぇ」
「そう思います? 本当に?」
「正気か?」
狂気を疑うでなく、口にすることでシゾーが正気であることに釘を刺して。
机の上から身を乗り出し、ザーニーイが剣呑に凄む。
「どうしてあんなことを言った? キル―――」
「『キルルもそうだが、ゼラの目の前で?』」
横取りしたせりふは、他人から言い直されると、それなりの威力があったようだ。胸糞悪そうに口内の残りを食いしばって、それに渋味でも感じたかのように渋面をひどくする。いや、単に力んだせいで苦しくなっただけか。ターバンと頭帯の下、汗で額に前髪が張り付いている。ひくつく瞼も、どことなく腫れていた―――それとて発作の名残なのだろうが、怒張する顔皮にあてられてのことなのかも知れない……まさか泣き腫らしてのことだったとしても、知ったことではない。だって、そうだろう? ―――
(お前のせいだ。なにもかも)
陳腐な言い草が、この上なく腑に落ちる。
そして、胸に落ちていたはずの生臭い泥のような蟠りが、鼻の奥で煮詰まることに、まぎれもない憤怒を覚える。それを相手にも伝染させる心地で、シゾーは芝居がかった口ぶりで語気を落とした。仄めかす。
「ザーニーイさん。ねぇそれ、本気で分からないから訊いてます? 僕の方はね……クリアーですよ。とても。今までにないくらい。とても、ね」
ザーニーイは答えない。
それはそうだろう。とうに答えていた。ザーニーイだけではない。シゾーも含めた全員で答え続けたせいで、誰も彼もがここに来た。
囁く。そっと―――秘密めいた口ぶりで。消え入るほどに小さいほど、軽々しくできなくなることを。
「警告するより効果的に、キルルさんが近寄ろうとするのを突っぱねるためですよ。僕ら以外に……本物の家族に、シヴツェイアを近付け―――」
「ここでそいつの名前を呼ぶな」
せりふを、なか途中で捻り潰される。汚らわしいと言わんばかりに。そうなるだろうとは思っていた。いつものことだ。
―――思ってはいたが。喉の奥でだけ反響させることに慣れていた筈の言葉が、今ばかりは反感が勝って歯止めが効かない。破れかぶれで、一歩……間合いに……踏み込む。
「臆病だから、俺が寝床で懸想に耽る分には大目に見れるのにな?」
ザーニーイが、机上の万年筆を手に取る。
シゾーは反射的に、手にしていた皿の上から、フォークを取り上げた。そして。
同じく出しっ放しになっていたインク壷の蓋を開け、そこに万年筆がつけられるのを、見送る。続いてザーニーイは、黙々と書類を手に取り、目を通すだけの資料と、それ以上の手続きが必要なものを選り分けていた。もう、こちらに見向きすらしない。これだ―――繰り返し、シゾーは認めた―――これだ。途方もない砂場に巣窟があっただけのことで、好き勝手する愚昧な手駒を牛耳り、ろくでなしどもの丁々発止と続くすったもんだを宥め、手に負えない心労に負けないだけの辛労を真実の舎弟として、死ぬ時だけは率先して先頭にいる男。いつしか彼は雷髪燐眼を従え、稲妻の咬み痕を手懐け、頑なな美学を語る双頭三肢の青鴉を使い魔に、屈指の存在として霹靂と謳われていた。ザーニーイ。
「お前なんかのどこがいい?」
呪うしかない。ただし、こうなっては、口の中だけで。
だから、聞こえたはずもないのだが。ザーニーイが、書類を横目に言ってくる……朴訥と。ただし億劫そうに。いがらっぽい声音で。
「なんか言ったか?」
「さあ。風の音でも聞こえました?」
屈辱は残っていたが、シゾーもまた、表向きは素っ気なく応じた。のだが。
「隙間風か。ここも時々ひでぇんだよな。風向きによっちゃ笛みてぇになっちまうのか、地響きかと思うこともある。まあ、お前の部屋ほどじゃねぇか」
ふと、応答が続いた。
それも当然だった。ザーニーイは、ただ成り行きで話しているだけだ。裏も表もない。嘲笑もなく、愚弄もなく、―――それでもだ……彼は屈辱を与えた―――
「どっかに、まだ見つけてない仕掛けや隠し部屋があって、そこを空気が抜けるんだろうな。あの頃あんだけ探したのに、碌な手がかりも見つからなかったっけか。大した骨折り損のくたびれ儲けだった。けど……けれども、―――」
言いよどんだのではないだろう。それでも、それを疑わせるだけの空白はあった。
その空隙に、風の音を聴いたのか。
シゾーには聞こえない。残響すら残らない。ただ、ザーニーイの独白が閉ざされるまで、そこにいた。
「この風は……心地いい時もあるんだ」
「だろうさ」
だから、ここにいる。
答えのひとつだ。答え続けた中の、ちっぽけなひとつだ。
この手の皿と、握りしめたままのフォークと、今は無い腸詰だって、そうだ。これがあるから、ここにいる。
(……―――片付けるついでに、やっぱり調理場に顔を出してから、俺もキリがいいところで休もう)
そして娼婦館に行く。胸のすくキャット・ファイトは見られないだろうとも、あのペルビエがシゾーを使わない日などありはしない。
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