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起章

起章 第四部 第一節

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 それは濃密だというのにどこまでも軽く、泳ぐことなどできずとも、おのずと浮き上がらせてくれる。ただようならば人は自由だ。心だけならどこまでもいける。

 これが陽気だ。キルルは、周囲の歓声に合わせて息吹いぶきを発した。酔い任せに呂律ろれつを崩した男達の歌声は、相変わらず調子外れにひとつの曲をたれながし続けている。その音の波ごと腕で風を切り、足で空気を割って、シゾーめがけて間合いを詰めた。足首をひねり、手首を回すと、見せかけの殴打おうだも派手になる―――シゾーがそれに的確に呼吸を合わせ、更にキルルの動作が見栄えする動作で受け流した。肺臓はいぞうの震え、視界の万化、それ以外のなにもかもが、嬉々ききとして肌を喜ばす。

 歌の最後のいんに合わせて突き出した正拳は、上から落とされたシゾーのこぶしと衝突し、手の甲の骨同士が乾いた響きを残した。

 余韻よいんまで消えるのを待たず、拍手と喝采かっさいが噴出した。大食堂の空気をはじけさせる万雷ばんらいの好意に、上がった呼吸がまた別の熱を含む。キルルはくるりとその場で回って、あたりにたむろする旗司誓きしせいたちに辞儀じぎをした。

(うん。大丈夫。もう大丈夫。気持ちいい!)

 昼間の惨劇―――としか言いようが無いのだ、慣れない自分にとっては―――をちらりと思い出してみたが、そこから感じる寒気は、急速に薄らぎつつあった。

 記憶自体は変わらない。あれよあれよと始まった戦闘は、現実だというのに現実味がなく、入り乱れた人間がうごめく地上は、豆をぶちまけた床と大差なく見えた。ザーニーイがその怒号どごう戛然かつぜんの混濁へと滑翔かっしょうした時も、正直わけが分からなかった。そんなもんなの? あなた。

 実際そんなものでもなかったようで、ゼラははたからみても血相を変えた。それは頭領の役割を代行せねばならなくなったことよりも、もっと違う何かに根ざしているように思えたが、見極める余裕はなかった。ゼラが真っ先にキルルの退避を決定したため、言われた通りの部屋に閉じこもるしかなかったからだ。自分がぐるぐる回る落ち着きない足音が、防音の効いた圧縮煉瓦あっしゅくれんがの部屋をこすりあげるのにも飽きた頃、エニイージーがやってきてくれて正直にほっとした。ザーニーイによってつかわされたという彼が説明する顛末てんまつは、戦闘の―――ついでに頭領からじかに拝命したという―――興奮の残り香にくすぶられるまま伸縮し、明らかに誇張と分かる部分も含まれていたが、解釈に難儀するほど粗雑な出来でもなかった。細部はさておいてかなり望ましい形で勝利したらしいと目星をつけたあとも、何とはなしにエニイージーに耳を傾けるうちに、お互いの大まかな輪郭くらいしか判然としない程度には日が暮れた。

「勝った。けど終わんねえ。来な」

 迎えにきたザーニーイのせりふを思い出す。彼と目が合った瞬間、自分は何かとんでもない過ちでも犯してしまったのではないかと危惧きぐしたが、連れて来られたのは談判場だんぱんじょうでも裁判室でもなく、祝杯をあげる大食堂だった。それ自身円卓になりそうな大きさの灯火輪シャンデリアが六台、ゆるゆると夜闇よやみを溶かしているものの、家具をどかせば運動会くらいできるだろうこの部屋では、それでもまだ光量が足りない。しかし旗司誓たちは、そんなことなど気にするでもないらしい。喊声かんせいに負けず劣らずの呵呵大笑かかたいしょうが場の明度を倍増させていたので事実その部屋は明るく感じられたし、そもそも彼らの酒精にめしいた目は、景観について気分が盛り上がるかどうか以外の価値観をなくしているのだろう。

(だから、こんなハチャメチャなことになってるのに、誰も気にしないのね)

 後継第二階梯こうけいだいにかいていが旗司誓と付け焼き刃の演舞をやらかし、挙句にごちゃごちゃと上がる発破はっぱはどれもこれも頓珍漢とんちんかんときている。キルルはその場に立ったまま、偶然通りすがった会話を耳に引っかけた。

「んー? なーおい。副頭領と一発かました、あの新顔。なんつう名前だっけ?」

「知んねぇけど、ゲッチョメとかでいいんじゃね?」

「そだな。いいぞゲッチョメー!」

(いくないいくない)

 こっそり言い返していると、こちらと同じくらい煮え切らない様相を引っさげたシゾーが、手を差し伸べてきた。余興の終わりを示すために、握手を見せ付けたいらしい。途端に黄色い声がブーイングへと様変わりしたが、それに萎縮したキルルが腕を引く前に、強引に右手をさらわれる。

 そして握り終え、あっさりと彼女の手を放してなお、シゾーの目鼻は当惑をおびて薄暗かった。さっきまでの相方の心境を察して、尋ねてみる。

「驚いた?」

「はい。驚きました」

 あっさりと認めて、息のひとつも切らしていない彼は、支障無くせりふを後続した。

「最初から分かってたら、もっと僕の役割が軽い曲にすべきだったと思うくらいです。防御方ぼうぎょがたの立ち回り、いらないくらいじゃないですか」

「えへへ。ありがと!」

「でも、なんでこんな男物の舞芸ぶげいなんて知ってるんですか? これ、基礎は一応、なんかの武術ですよ? 貴族が見たりしたりするのは、もっとこう、まどろっこしい……じゃなくて、おしとやかなものだっていうイメージがありましたけど」

「どっちのイメージでも間違ってないわよ。間違ってるのは、シゾーさんの―――いえ、あなたたちの、わたしへのイメージの方!」

「へあ?」

 適当に指差した先にいた旗司誓が酒色しゅしょくもあらわにほうけたが、キルルはそれにかかずらうことなく適当に視線を散らした。そうすると、どこをどう見回しても、だれかしらと顔を合わせることになる……彼女が立っているのは部屋のほぼ中央にぽっかりと開いた場所で、普段は配膳の手間をはぶくために調理鍋などを置いておくスペースらしいのだが、軽食もなおざりになる酒宴しゅえんではこうした立ち回りをする遊戯台ゆうぎだいとして使われることが多いのだろう。旗司誓の多くが慣れたようにこちらを眺め、思わぬ出し物の続きにまゆを上げている。

 そのど真ん中で、キルルは突きつけていた指を、腕ごとぐるんと素振りさせた。

「あたしはただの小娘よ! お父様の痴話ちわげんかに巻き込まれて、王裾街おうきょがいでコロコロ育って、こーやって男のおどりだろうがなんだろうが勝手にやってた、ただのキルル! おかげで見なさいよ! 小さい時からロクに肢体したい矯正きょうせいも受けなかったせいで胸も腰もおしりもくびれもろくに無い寸胴ずんどうで貴族の令嬢に囲まれたら貧相でたまらない―――じゃなくて!!」

 愚痴に傾きかけたせりふを渾身こんしんで修正し、彼女は雄たけびを上げた。

旗司誓きしせい血筋ちすじなんてどーだっていいんでしょ! だったらあんたたちにとって、あたしがどこのどいつだってどーでもいいはずよね! あたしはキルルよ! ア・ルーゼだったら一生知らないはずの、汚い言葉づかいだって知ってるんだから……ええと、玉座なんかクソくらえよ、このスットコドッコイ!」

 何を言っているのか自分でも分からなかったが、酩酊めいてい謳歌おうかするのに忙しい連中にとっても、それは疑いようがないところだった―――のきなみの旗司誓が派手に破顔はがんして、吶喊とっかんもかくやの大笑をぶちまける。どうやら勝利の美酒とは、いかつい旗司誓さえ、はしが転がってもおかしい年頃まで退行させる効果も持っているらしい。

 その只中ただなかで、キルルは見渡した。どこへ目をやっても、だれもがキルルに注目している―――その中にあるザーニーイのそれに、応えるために。そして、彼のひときわの歓声が上がった。

「おー! こりゃまたすげぇ緑酒りょくしゅじゃねえか」

「こないだの仕事ン時、クライアントが付けてくれたイロなんすよ―――ま、頭領の燐眼りんがんにゃ敵わねぇんすけどね! ほらほら、飲んじゃってくださいって」

「上手いこと言うようになりやがって。その二枚舌で、今度は一体どこの女を泣かす気だ? 聞いてるぜぇ、箱庭での例のひと騒動。随分また派手にやらかしやがったそうじゃねえか―――」

「ちょっとー!!」

 上座で見知らぬ旗司誓とみ交かわしている彼に憤懣ふんまんやるかたなく、キルルはそちらへ思いっきり片手の指先を伸ばした。さすがに気付いて、ザーニーイがこちらへよこした横目は、今さっきまで話していた仲間に向けていたそれに比べて、好意的な何かを目減めべりさせているように感じる。

 そうなっては放置することもできず、キルルは持ち上げた手もそのまま、ごちゃごちゃ盛り上がる男たちや酒缸しゅこうき分けてずかずか歩み寄った。頭領の隣席につくゼラとジュサプブロスがいち早く空気を読んで、緑酒とやらを持ってきていた旗司誓を退散させてくれたことに、礼を言う余裕もない。椅子に座して動こうとしないザーニーイの間際で立ち止まって、彼の眉間みけんをえぐるように、人差し指を突きつける。そのまま突き込むようなことはしなかったが、歯列から漏れ出た怒気が、そうするのに充分すぎる心境を代弁していた。

「ザーニーイ! 出来るってんなら見ててやらぁーなんてあなたが言うからやってみせたのに、ちゃんと見てたの!?」

 演舞していたのとは別の原因で、鼻息も荒く告げる。それに加えて、立座りつざの差で、キルルは高い位置から相手の顔面を見下ろしているのだが、それでもその程度に割り増しされたところで、たかが知れている威圧感には変わりないらしい。ザーニーイは、何のふくみもなく見返してくるだけだった。

「見てたじゃねぇか。安心しろ。シゾーはセクハラしてなかったぞ」

「どういう視点よそれ!?」

「監視」

「僕、そこまで手を出すほどえちゃいませんよ」

 いつの間にか後ろにきていたシゾーからの不服そうな弁解に、キルルは思わずいきり立った。

「そこってどこよ!?」

「子どもっつうジャンルだろ」

 答えてきたのがザーニーイだったことに、なおのこと腹が立つ。沸騰する胸に手を当てて、とにかく言い張った。

「十五歳の立派なレディーよあたし!!」

「レディーってのは、芸とはいえ、亜流ありゅう手搏しゅはくを側方回転つきで一戦やり遂げるもんなのか?」

「ネオなレディーよ! 先駆けよ! 先駆け過ぎよ!」

「過ぎたらレディーじゃねえだろ。やっぱ」

「なんでよー!」

「あーうっせ。分かったっつの。あんたはレディーだ。だったら、」

「きゃ」

 急に肩に掛けられたザーニーイの右手によって、彼が立ち上がるのと入れ替わるかたちで、ぐっと椅子に押し付けられる。立ち居いを逆転し終えたというのに、ザーニーイはキルルの肩に手を置いたままだった。そしてそのてのひらに頭を寄せ、騒音に壊されないよう彼女の肩口で残りをささやく。

「イイ男からのさかずき一献いっこんくれぇは受け取っとくんだな」

 と言いながらも、引き寄せた空のうつわに注がれた液体は、酒とは異なるライトブラウン色をしていたが。

「こいつは礼だ。ありがとよ」

 ようやく得られた賛辞より、むしろ目の前にあるザーニーイの細くすじ張った左手から意識がはがれなかった。慣れたように薬指と小指で杯をひっかけて手前に寄せ、残る三指でしゃく手繰たぐるよどみない動きに面食らう。

(左手でこんなことするの、慣れてるのかしら?)

 ならばこの、肩にかかる右手も?

「あ。それ僕の」

 シゾーの声に過剰にぎくりと身を引きつらせたせいで、ザーニーイはキルルまで非難に巻き込んだと勘違いしたらしい。拍子に彼女の肩から落ちていた右手で幼馴染おさななじみを指差してから、それを左手のびんに向ける。

「ここにゃ僕の・・しか茶みてぇなもん置いてねぇんだから、しょうがねえだろ。俺は臆病おくびょう者なんだ。お前と違って、下心なきにしもあらずと取られかねない場面で臆面おくめん無く相手を酔わせる度胸なんざ持ちあわせちゃいねぇんだよ」

「そんな行動で必要とされるのは、臆病さでも度胸でもなく、馬鹿さ加減じゃないですか? それに僕は、その程度でちょろまかせる女性で間に合わせるよーな趣味しちゃいません。お分かりだと思ってましたけど?」

「はは―――そうだな。確かにそうだったな」

 喧嘩けんかを買う顔を固めたシゾーに降参のポーズをとって、ザーニーイが彼へと距離を詰めた。と言っても、シゾーはゼラを挟んだキルルの横に腰を落ち着けていたので、ほんの半身をずらす程度だったが。そして剣呑けんのんさをかもし出す目線と共につき出されたシゾーのわんへと、キルルにそうしたように茶を満たしてやる―――まあ自分の座位からは背後のザーニーイの姿はろくに見えやしなかったので、それらしく思っただけだ。

 とにかくその水音で正気を取り戻し、キルルはようやっとザーニーイに言い返すことができた。たとえそれが、何だか裏返りかけの声だったとしても。

「じ、自分でイイ男なんて言ってちゃ世話ないわね!」

「それについては、昼間てめぇでてめぇを美少女なんつってたあんたと勝負になるたぁ思っちゃいねぇよ」

 笑みさえ皮肉げにキルルを受け流し、ザーニーイは持っていた茶のびんを卓へ返した。ついで、そのまま座る様子のない彼をきょとんと見上げてきたゼラより先に開口し、いつの間にやら取り上げた数本の酒瓶さかびんを示してみせる。

「ちょっくら病舎見てから、外の連中にも振舞ふるまってくる」

「お酒でしたら、もう多少なりとも勝手にやっていると思いますけれど。これだけ勝ったのですし、交逸警察こういつけいさつへの引継ぎもつつがなく終わりましたし。重傷者だって、数えるほどもいませんが……」

「いいんだよ。いい知らせってのは何回聞かされたって、いい気しかしねぇもんなんだから。じゃ、しばらく頼んだぜ」

「あ。だったら僕もぐえ」

 ゼラによってバンダナのすそをつかまれていたため、シゾーは立ち上がりかけたいきおいのままうなじを折って奇声を上げた。それにおおいかぶせるようにして、ゼラが声を大きくする。

「まあ、そうですね。あの子たちにとっては、非常に喜ばしい。知らせそのものよりも、それをもたらすためにわざわざ足を運んでくれた頭領の顔がね。もう足元も暗いので、気をつけていってらっしゃい。ほらジュサプブロス、わたしの分も、見送り見送り」

「いってらっしゃらったらー?」

「なんだその疑問形。―――ま、その子ども扱いがなくなりゃ、俺もその非常に喜ばしい連中に仲間入りなんだけどな」

 角度的に、ザーニーイからは義理の親子のモーションが分からなかったらしい。彼はぶんぶん両手を振る魔神へ向けてひとりごちるようにつぶやいて、肩掛けにした紐吊ひもつり瓶を肩甲骨の上でがちゃつかせながらきびすを返した。時間をかけて―――というのは無論、一歩進むごとに幾多とかかる献酬けんしゅうにいちいち応えていたからだが、それでも数分と掛からずに、その姿を室外へ見失う。

 追いかける機をいっするにつれて、シゾーはじわじわとゼラへの憤懣ふんまんけぶらせた。いまだ片手でシゾーのバンダナを掌握しょうあくしたまま平然と酒をめている養父をめつけて……途端、肩車の姿勢でその人の頭に張り付いていたジュサプブロスににゅうとのぞき込まれて、ことさら気分が害されたようにくちびるを引きつらせる。思わずだろうが、魔神と練成魔士れんせいましがもたらす視界の矛盾に対して、姿勢までってしまっている。

 と。そのシゾーの胸倉むなぐらを、唐突にバンダナを解放したゼラの右手とせりふが押しのけた。

「ほら、シッズァはここの管轄ですよ。たとえ得手ではないにしても、副頭領でしたら、不在の頭領の分までおしゃくでも何でもしてらっしゃい」

「子ども扱いは義父とうさんのくせだとしても、どーしてあの人は頭領で僕だけいまだにシーちゃんシッズァ呼ばわりなんですか!?」

「安心なさい。ちゃんと大人になったらやめてあげます」

「そーよね。なんでシゾーさんの麦茶こんなに甘ったるいの? 飲むほどびみょーよコレ」

「いーじゃないですか好きなんだから! ていうかやめてくれません!? キルルさんと義父とうさんタッグ組むのやめてくれません!? ただでさえなんかノリ似通にかよってるのに二人!」

 シゾーがまともに……まだまともに応答できたのはそこまでだった。義父ぎふによって席から追いやられたが最後、あっという間に酔っ払い集団に腕やら服やらから引きずり込まれ、長身ちょうしん痩躯そうく跡形あとかたもなく人垣ひとがきに沈む。

 彼が餌食えじきとなって消えてから、言われた意味に急に気づいて、キルルはとりあえずゼラに向き直った。甘味がきつい麦茶からくちびるを離して、交互に自分と相手を指で示し、意見を求めてみる。

「似通ってる?」

「さあ。子どもが言うことですから」

 それで済ませ、ゼラはまた舌の先を酒にひたした。その両肩を踏んでかがんでいるジュサプブロスは、ひとり素面しらふのシゾーが、酒乱たちが雪崩なだれ只中ただなかで上げる冷静な忠告―――というか押し殺した怒声―――などとは到底とうてい言えない悲鳴―――と見せかけた地味な哀願か―――を、適当に声真似してにやついているが、そちらを見ることも無い。魔神が本当に完璧な人型だったことに、初めて見たときはひたすら驚いたものだが、そもそも魔神など実際に目にしたことなどなかった自分にとって、慣れてしまえばすんなりとこれも当然と思えるようになっていた。練成魔士れんせいましについておどろおどろしく嫌忌けんきづいて記してあった教本など、こうしてみたらその程度のものだ。嫌忌―――

警戒環けいかいかんで、ザーニーイがゼラさんのこと練成魔士じゃなくてお医者さんって紹介してくれたのも、そのせいなのかしら)

 そこでふと思い出し、キルルは改めて隣席を見やった。

「ゼラさん。ゼラさんってお医者さんなんでしょ。ザーニーイったら、あんなにもうろうろしちゃって怪我けがは大丈夫なの?」

「頭領は、今回は大した傷は負っていませんが」

 苦もなくかわされ、キルルは食い下がった。

「きっと、やせ我慢してるのよ」

「男の子ですからねえ」

「そんな一言ぽっちの理由で死んじゃったら馬鹿みたいじゃない。何とかしてあげて」

 主張を引っ込めないキルルに、ゼラは黙り込んだ。それは曖昧あいまいに会話が立ち消えになるのを待つ腹積もりとも思えたが、彼はしばらくそうして、最後に苦笑してから、声を上げる。

「キルルちゃんには、どうしてそれほどまでの確信があるんです? 頭領が怪我けが人だと」

 脈絡みゃくらくない話題の深まりように、酔いの欠片かけらも見せないゼラの漆黒しっこくの目だけが、きょろんとこちらへめぐった。それは、手袋でふくれた両手で包み込むようにしてわんを持っている様子と相まって、殊更ことさらに若い……いや、むしろ幼いというべきだろう空気を感じさせたが、話題を引っ込めようとまでは思えなかった。続ける。

「だって、何だか調子悪そうだったじゃない。目付きなんかすごいささくれちゃってたし。今だってみんなとやり取りはするけど、なんかよそよそしくてタッチングもしてないし。きっと、触られたら痛いのよ。もう一回ちゃんとてあげて」

「はあ……」

「むっだぼね♪ 診てあげたって、身体からだなんか全然まったくほとほと意味なぁーし♪」

 うだつの上がらない返事に、即席の幼稚な歌が割り込んだ。顔すら上げず、ゼラがぺしっと平手ひらてを頭上へひるがえす。

「ジュサプブロス、めっ」

「やーん」

 うずくまったジュサプブロスが大仰おおぎょうかかえ込んだ頭を引っ込めるのを見て、キルルは問い詰める姿勢を強めた。

「からだなんか、ってどういうこと?」

「ジューの馬鹿」

 ぽそりと吐き捨てた一瞬だけ、ゼラが優男やさおとことは不釣合ふつりあいな鋭さに半眼はんがんいだ。聞かない振りをしてそっぽを決め込んだ魔神を無視して、酒への接吻せっぷん依怙地いこじに中断しないまま、天井にふらりと目を向ける。

「あの子が頭領となってから、悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんでは長らくこういったことは起こらなかったのですが……だからこそ、それなりにショックだったんでしょう。久々に、嫌な感じにののしられて」

 そのせりふに、問い詰めるための思考もほどけてしまう。自分は今、見逃すことなどとてもできない、絶好の機会を得たのかもしれない……

「嫌な、って」

 出そうとした言葉は、自分の鼓動を不自然に意識したせいで、喉元のどもとでつかえてせきじみた違和にけた。軽く深呼吸を飲み込むことでそれをやりすごして、とにかく慎重に言い直す。

「ゼラさん。嫌な、って、ザーニーイが、その……赤い髪、ってこと?」

「はい?」

 と、頓狂とんきょうに、ゼラがまゆを跳ね上げた。そのせいで、かしげさせていた機嫌きげんまで顔面から取りこぼしたゼラの様子は、ちょっと見ただけでも、意表を突かれた者のそれと分かる。ただしその突かれた部分とは、頭領が赤毛であることが部外者にばれてしまった、というそれではないらしい。それを裏づけるように、

「―――はぁー、そうですね。違いますよ」

 と、凹凸おうとつのつかない声が上がる。

 わけが分からず、キルルは眉間をせばめた。

「なにそれ。『そうですね』で『違いますよ』?」

「君が勘違いしてることに納得した『そうですね』と、その勘違いが事実と『違いますよ』です。キルルちゃんは恐らく、赤い髪が貴族と因縁がある出自だとの憶測を呼んでいるせいで、頭領は他の旗司誓としこりがある―――とでも、お思いなのでは?」

「……うん」

 躊躇ためらいながらうなずくのだが、ゼラは真逆の素早さで息をいた。

「ならばやはり、『そうですね』と『違いますよ』じゃありませんか」

「違うの?」

「ぶっぶー♪」

「音いいから」

 うめくキルルへ、擬音ぎおんを発して気を良くしたジュサプブロスが笑いかけてくる。

「そういえばザーニーイ、シェッティの足元では自分の紹介してなかったよね。じゃあここは、俺が代わりに言ってしんぜよう! えへん。やーやー我こそはオメガスペシャルなもが」

「あの子は現在、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の頭領をつとめています」

 万歳ばんざいするようにして両手で魔神の口を押さえ込み、ゼラがすらすらと解説を継いだ。

「養父のシザジアフよりその座を襲職しゅうしょくしてから、旗司誓きしせいの八割・義賊の七割と規約を取りまとめ、潰れかけていた<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>を事実上の外輪筆頭まで押し上げるという、とんでもない離れ業をやってのけてくれました。性格は、まあまあ旗幟に醇乎じゅんこで、基本的に清廉潔白せいれんけっぱく。年齢は、確か二十二か、それくらいだったと思います。吟遊詩人ぎんゆうしじんうたい名は、霹靂へきれき―――ええと、雷髪燐眼らいはつりんがん稲妻いなづまあと金髪碧眼きんぱつへきがんと首のケロイドが、そんな風にあてこすられているんでしたっけ?」

「あの髪、もともと茶色っぽい赤毛なのにねー」

 顔面をぶんぶか振り回して手から逃げたジュサプブロスに逆らわず、下げた両手と入れ違いにそちらを見上げて、ゼラが首肯している。その様子からすると、どうやらこのことは、禁忌きんきではないらしい。意を決し、キルルは彼らへ向けて身を乗り出した。話へ、体まで踏み込むように。

「ねえ―――あの、やっぱり赤いの? 生まれは、やっぱり……貴族?」

「はあ。まあ。多分」

「しっくりこない言い方ね」

「不可抗力です。君は王家で、それ以外ですらない」

 不快な触れ方をしてきたせりふに、キルルは声音を荒らげた。

「そんな。あたし、これでもずっと王襟街おうきんがいから王裾街おうきょがいに入りびたりで……」

「箱庭で生きているのは国民だけでしょう」

「……―――」

 言葉に詰まる。ゼラの切りかえしは、真意が分からないにもかかわらず、こちらに深読みを求める響きでもなかったため、逆に扱いに困ると言えた。

 迷ったが、会話が途切れることだけは避けたいという思いだけは明白だった。とにかく、自分にとってまっとうな返事を選択して、舌に乗せる。

「それって、普通そうでしょ?」

「そうですよ。そして、死んだ国民がいるのは墓場。これもまあ、通常は当たり前ですね。ならば、箱庭―――市街地では死ななければならなかった人間は、どこにいると思いますか?」

「市街地では死ななければ、って……」

「つーまーりっ! 国民になってもらっちゃ困っちゃう奴のことだよ!」

 業を煮やしたというよりは、出番が絶えた状況に飽きたらしく、またしてもジュサプブロスが割り込んだ。キルルの注目が向いたのが嬉しいらしく、鼻高々に指を振ってみせる。

 そんな無邪気にはしゃいだ様子に、言っている内容の凄まじさを化かされたのにも気づかない。

「国民になってもらっちゃ困るから、箱庭の外におっ放り出ーす! 外ならあの世でもこの世でもどーでもいいんだけど、まあこの世だったら、死なない限り生きなくっちゃね。とまあそんなわけで正解は、死に損った捨て子は悔踏区域外輪にいる、でしたー。ずばり、特に赤い髪っ! ちなみに孤児院は心根が箱庭なのでぶっぶー♪ でーす」

 頭がしらけた。

 わずかばかりそこをよぎったのは、曖昧あいまいな面影だった。顔ですらない。暗がりでは雷髪らいはつでなくなる彼は、その時キルルへ顔を見せやしなかった。

 ゼラは、キルルが絶句したのは、底抜けに空気を読まない暴露によって受けた衝撃が大きすぎたせいだと思ったらしい。わずかにこちらを撫でた眼差まなざしが、れる際には魔神をとがめるとげを含んでいた。が、それ以上にたしなめたところでどうにもならないと割り切ったらしく、ゼラはさかづきの小さな湖面こめんをちびちびと波立たせながら声をいでいくのに専念する。

「そりゃあ赤い髪持ちなんて、孤児院もおいそれとは引き取れませんよねえ。うっかり手を出せば、どこの骨肉こつにくの争いの引き金を引いて焼き討ちされるか、分かったものじゃない。そういった孤児を、どこの旗司誓でも、たまに気まぐれのまにまに拾ってくるんです。箱庭のしがらみは、悔踏区域外輪にはほとんど及びませんので」

「気まぐれでも続けば、ぼちぼち混血も始まるじゃん。ただでさえ血縁って概念が薄いこの業界で、拾い物の由来なんて気に掛けるもんか。もしかしたら、拾った拾われたの当人たちくらいは、思い出として胸に取り置きしてるかもしんないけどさ」

「当人たちの例を挙げるなら、シザジアフと頭領、頭領とエニイージー、わたしにとってはシゾーでしょうか……あ、見て分かるでしょうが、エニイージーは別に頭領の養子ではありませんよ」

「あのなつき方は、モノホン親子のファザマザコンプレックスどころじゃないけどねぇー。ギャングエイジの遅咲きも追い風してんのかなぁ?」

 やっとのことで二人のやり取りに意識が追いついて、とにかく彼女は真っ先に、そのことを問うた。

「な、なんで拾うのが、気まぐれなの?」

「べっつに旗司誓の本業は廃品回収じゃないもーん」

 瞬間。ジュサプブロスはびくっと首をそらしたかと思うと、こそこそとゼラの黒髪の影に顔を隠していった。どうやら、相当にとんでもない険相けんそうで相手をにらえているらしい。ほおの肉のこわばりがそれを確証させてきたものの、キルルは迷うことなく顔面に力を込め続けた。この程度のきゅうの据え方では生ぬるいと、本心が断言するままに。

「ゼラぁ。俺のたとえ、的確だったよね? よね?」

「そうですね。ついでに堪忍袋かんにんぶくろの尾の切断も」

「ほらね的確だってチクタクだってー!」

 げんなりとひたいを押さえたゼラの肩線上けんせんじょうで、契約者の遠まわしな指摘を勝手に拍車と受け取り、魔神が声を荒らげる。丸い目玉に幼稚な断罪者の傲岸ごうがんをてからせながら、びしっとこちらへ腕先をしならせてみせた。もうその態度から彼女への気後きおくれは一掃されていたが、さりとてそれがこちらにとって気後れを与えるかと言えばそういったものでもなく、ただただお互いへの反発に、互いに感情を塗り込めていく。

「だいったい! フツー! じょおしきとしてっ! 要るんだったら捨てないでしょ! 要らないから捨てるんでしょ! だったらゴミでしょ! それをひろってリサイクルするのが廃品回収でしょ! モノが人間だっただけで、どーして目くじら立てるのさ! そもそも勝手に、作っちゃ捨て作っちゃ捨てしてるのはそっちのくせに! 俺は拾ってあげてんだよ!」

「嘘おっしゃい。魔神のくせにいけずうずうしい」

「なんでだよ違うもん俺だもん。ちっこいシゾー見つけたの俺だもん」

「そうですね。ですが、あの子を拾ったのはわたしです。その証拠に、どれでもいいので、あの時のシッズァの言葉を復唱してみなさい。ほら、さん・はい」

「『ぶっ殺すアマ野郎!』」

「ね? わたしでしょう?」

 ゼラはわざとそうやって話題を中座しようとしたのだろうが、とっくにそんな気遣いを受け入れる余裕などなくしていた。わんわんと心中を飛び交かう言葉―――自分でも信じられないほど口汚くちぎたなののしる単語もちらほらと見え隠れする中から、冷ややかな温度が指に触れたものだけを選んで、どうにか反論へとつくろう。

「捨て子にも、やむをえない事情っていうのがあるはずよ。とにかく、とにかくどうしようもなくて、仕方なく……」

「すみませんが。キルルちゃん」

 ゼラが答えた。

「それは経緯けいいに過ぎません。だから無意味です」

 答え続けた。

「捨て子は、結果からしか生まれません」

 キルルは―――

 ただそれを聞いていた。呼吸しかできない。抗弁が消えてしまった以上、のどの役割はそれしか残されていない。

 単純に暗算して、自分が言葉を選んだほうが彼女を無益に逆上させないと結論付けたのだろう。ゼラから淡々とつづられる説明は、私的な感情を含まない棒読みだった。

捨てられた・・・・・という結果があってこその捨て子・・・です。言い回しとしては非人道的でしょうが、そうですね。わたしは、先のジュサプブロスのそういった表現は、否定し得ない一面であると言わざるをえないと考えますよ」

「そんな―――」

「では仮に捨てるまでのプロセスとして、寸前まで母親が『可愛かわいい坊やごめんね。どうしても育てられないの。いつかきっと迎えにくるわ』などと涙ぐんでいたとします。だとしても現実的に、そんな三秒と残らない哀憐あいれんが、なんのツールとなりましょう? 降りそそぐ豪雨から守ってくれるはずはありません。野犬も撃退しません。つまりは役に立ちません。そして、捨て主がそれを知らないはずもありません。それでも放置して去るのはなぜかというと、……まあ、言わずと知れるところかと」

 意識が呆然ぼうぜんとすると、痛む拳もけた。食い込んでいたつめから、肉が外れる。思ったよりもりきんでいたらしい。

「ちょくちょくそいつを再利用してるだけなのに、そんな目で見るなんておかど違いもはなはだしいよ! 俺からすると、今ゼラが言ったおかーさんの言いわけの方が『今は邪魔だから捨てるけど、あとで都合がついたら取りに来るかも』なんて本音がすけすけの分、よっぽど始末におえないね」

「違うわよ……!」

 ジュサプブロスにだけはなびけず、キルルはふるえ声をらした。

「その子をそうしたくないけど、それでもそうするしかないから、せめて伝えておきたい―――そんな言葉があるのよ!」

「あのさぁ」

 と、心底うんざりしたように、魔神がこれみよがしに肩を落とす。

いなくなってくれるから好きになれるだけのこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・を、そんなに美談にしなきゃ気に食わないの?」

「は―――?」

「いたらやだし、だから嫌い。いなくなったらやじゃないから、嫌いにもなんない。だったらゴメンネくらい言えちゃうよ。好きにもなれるかも。なんでそんだけ・・・・じゃ毛嫌いすんの? デコレートしたら、しただけ大好物のくせに、わっけわかんねぇえー」

 さじを投げたのか、ゼラは魔神の発言に対し、どうというフォローもしなかった。ただ、拳で眉根まゆねをこするようにして、視線をいったん彼女からへだててみせる。それは、さとされた現実に理想をくじかれた若者に対しての、いささかの猶予ゆうよでもあったのだろうが―――

「君の味方になれず、ごめんなさいね。わたしはジュサプブロスを有する練成魔士れんせいましである以上、この魔神の発言をくつがえしがたい核心を共有するより他ない身なので」

「ちょっとこらゼラ、このおたんちん!」

「わわわ」

 魔神に髪の毛をわしづかみにされ―――とはいえ無機抽象むきちゅうしょうのすることなので、物理的にはなんら感じるものではないはずだが―――、ゼラがわたわたと声を上げる。そうしてからジュサプブロスは、片手を腰に、片手を顔の横で一本指を立てた拳にしてふんぞり返り、はるかな高みから半目はんめをよこしてきた。

「四角いものをまぁるく丸め込むそーいった人間社会的な美辞麗句びじれいくは、いっちばん最後にとっとくものなの! もう大人なんだから、目先にばっか気をとられてると、最後に決算が合わなくなっちゃうのくらい知ってるでしょ!」

「……最後?」

「俺らが無罪の論拠ろんきょはまだあるってこと。ね? ゼラ」

 そこまできてようやっと、あきらめがついたらしい。ゼラは嘆息たんそくひとつでその無念さを片付けると、初めてまともに酒を放棄してこちらを見詰めてきた。その双眸そうぼうは水気もさほど感じさせないくせに、瞳の漆黒しっこくそのものが角膜を湿しめらせているかのように、きらめきを絶やさない。

「キルルちゃん。君、先ほどジュサプブロスを侮蔑ぶべつしましたね。目をどこへ向けるのも君の自由ですが、おもだった貴族にもそれを分けて差し上げてはいかがでしょうか? つばさ頭衣とうい瞥見べっけんを受ければ、あの乱心した風紀も、一時くらいは血肉への忠義ごとかしこまるかもしれません」

「……乱心? 血肉への忠義が?」

「知らないの? あいつら流行はやりの時間つぶしは淫行だよ」

 聞けば自失するしかなくとも、耳にしてしまった声音はもう防げない。過去に耳にしたそれにさえ抗えない。まさか、自分たちが今もなおそうできるんだ・・・・・・・とでも思っていやしないだろう?

 寒気はなくとも体温が下がる。言葉の理解は鼓膜でこおる。固まり、止まって、頭が割れる―――

「子作りをいくら楽しんだところで【血肉の忠】違反じゃないけど、できちゃっていらないって壊したら違反なんだもん。だったらオーナー分かんなくして不法投棄したらいーじゃんってなっちゃうんだよね。逆に、親元におかれてる子どもの価値は跳ね上がっちゃうから、貴族相手の誘拐とかが繁盛しちゃうわけだ」

 ジュサプブロスは盛大に鼻息を吹いて、頬杖ほおづえをついた頭を揺らした。

「まあ、あいつらの退屈も分からないではないよね。戦争っていう絶好の酒のさかなを取り上げられちゃって、はや八年だもん。ありとあらゆる享楽きょうらくをやりつくしちゃった連中が、飽きの来ない原始欲求に回帰するのだって相場だし。ま。結局は他人事だから、昼夜お構いなしにとっかえひっかえしてもらっていーんだけどさ? こっちに文句を寄越よこすもあ」

「つまりこういった所以ゆえんがありまして、」

 キルルを尻目しりめに長講していた魔神の顔面をまたも挙手で押さえつけ、ゼラはせりふに使うよりも余分に吐息した。

「悔踏区域外輪では、赤毛は珍しくもなんともありません。機会があるならそれとなく見てみればよろしいでしょうが、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>にいる二割強の旗司誓の体毛は、それなりに赤味がかっていますよ。自発的に隠したり、ここで暮らすうちに色褪せたりした子たちを含めれば、もっとね」

 つとゼラが見やった先では、半裸をさらした青年が、空の大皿をおうぎに武勇伝に花を咲かせていた。彼の汗の浮いたうなじに張り付く巻き毛が、まぎれもなく紅色べにいろを帯びていることを実例として暗に示したらしいが、キルルが眼球すら動かす意気もないと悟ると、双眸そうぼうは元通りに落ち着いた。

「ここだけではありません。うちの義賊に、風青烏ふうせいき―――<風青烏ロゾ>なんて子がいますけれど、あそこの構成員は濃淡の差はあれ、みんな赤毛です。まあ、あそこは頭領のキアズマ君がちょっと異なった経歴でリーダーになったおかげで、そのような属性の子たちが集まったともいえますが。要は、」

「こっちのみんながターバンとかカツラとかみーんな取っ払っちゃって箱庭に乗り込んだら、前代未聞の見世物じゃんね。想像だけでご飯が三杯いけふむぐー!」

「要は、頭領が赤い髪だったところで、それが爪弾つまはじきにあういわれとはならないということです」

 頑固に復活してきたジュサプブロスを執拗しつように抑えつけ、彼は早口にせりふを終えた。

 耳障みみざわりなのは彼らの声ではなく、それよりよほど派手な自分の呼吸の音だった。自分の肺を、喉をこするようにして、吸っては吐いてを繰り返す。部屋の空気はにおいをためこんで重かったが、それから逃げることもできない。吐逆とぎゃくできたところで、し続けることはできない。生きている以上は。生きていて……ここにいる以上は。

 ゼラが、こちらへ瞳を向けていた―――とはいっても、見つめているのは、キルルの姿かたちではないような気がした。それは多分、眼差まなざしをたゆたわせる黒瞳こくどうが、天井の灯火に撫でられて、ひどく柔らかく見えたからだろう。

「疲れさせてしまいましたね。小休止にしましょう」

 ゼラが席を立つ。それをさえぎる勇気は無かった。いや、勇気の問題ではなかったとしても。あの時父の言葉を止められなかったように、彼女は今もまた、そこに無力でいる。



     □ ■ □ ■ □ ■ □



 それは濃密だというのにどこまでも軽く、泳ぐことなどできずとも、おのずと浮き上がらせてくれる。漂うならば人は自由だ。心だけならどこまでもいける。

 これが積算せきさんだ。ゼラは目を細め、歩きゆく廊下の奥をただただ見やった。手に光源などなくとも、体をひねるべき方向、たもつべき歩幅ほはば、すべての情報はジュサプブロスを介せば理解できる……

 顔をしかめる。自覚なく、積算を意識しすぎていたらしい―――脳の深奥まで指を忍び込まされたような悪感が、慣れた不快を生じていた。積算とは世界を構築する設計図のようなもので、練成魔士・魔神・魔術の根幹といえる存在だが、扱える度量衡どりょうこうを測り間違えば、たかが一介の炭素生物で抗しきれるものではない。人に生まれた時から呼吸が必要であるように、練成魔士れんせいましが魔神を隷属れいぞくさせるのを自明とするのは、つまりはこれが端的たんてきな原因だった。酸素が無くば人体が水を燃やせぬように、魔神が無ければ練成魔士は積算を仮初かりそめにすら圧伏あっぷくできない。できないならば死ぬのだろう。できないことなど一度も無かったので、よく分からないが。

げる封緘ふうかんを受け入れるはなんじ、‘子爵’ジュサプブロス」

 魔神を封印すれば、練成魔士としての能力が制限される分、負荷は格段に軽減される。ジュサプブロスが隔絶かくぜつされるのを待って、ゼラは目蓋で眼球をいた。まだしばらくはジュサプブロスを現出させておくつもりだったが、これから彼女に相まみえる以上、背に腹は換えられない。

(本当に?)

 背と腹。どちらが本当にかけがえないのかなど、分かろうはずもない。あるいは、これからの経験によっては、どちらがより致命的なのかくらいは知り得るだろうか? 事典のほんの一文字を盗み見るようなものかもしれないが……

(その事典が欲するは許諾すなわち録視書ザライザン・ロワナンなら、救いもあったろうに)

 それか、とどめが。

 皮肉にもならないつぶやきを、声に変えずに切り上げる。必要な分の廊下を歩き終え、ゼラは部屋の前に立っていた。

 躊躇ためらうべき状況かもしれない。乾いた字面じづらでそんなことを胸中につらねただけで、最低限の動作で中へと滑り込む。

 夜にひたされた以外は昼間から変哲へんてつなく、そこにはいつもの自室が広がっていた。ひたすら狭く空間を押し縮める大量の積載物に、呼吸すら遠慮させるような圧迫感。それを把握している練成魔士にとっては、どのような些細ささいな異変さえ忠告しうる、限定された無敵の防壁。いや……

 そのような足掻あがきは無駄だった。彼女は部屋の中央に、毛先さえ隠れることもなく座っていた。適当な荷物の角に腰をひっかけて、ひざの上に置いた白い箱の中をのぞき込んでいる―――不意にゼラは、口蓋こうがいうずを巻く吐息の熱が上がるのを感じた。それは確かに、彼女が手にしてはいけないものだった。

 激昂げっこういぶられるまま出そうとした恫喝どうかつは、相手が口火を切ったことで取りこぼした。こちらへ跳ね上げられた彼女の顔に、最初からそれを狙いすましていたとでもいうような勝ち誇りがあったならば、これほど苛立いらだちはしなかっただろう―――その顔には、こちらへの親愛しかにじんでいなかった。

 と。彼女は指を箱の中身をからませて、音でも聞かせるように、軽くこちらへと示した。

「やっほ。綺麗きれいなもんだね、これ」

「それを―――」

「返せばいいんだろ。これで最後。ちゃーんと全部、返したさ。綺麗なもんは、白い綺麗なのの中に、ね」

 嫌味いやみのつもりなのだろう。含むように告げながらつめをほどいて、箱の上蓋うわぶたを閉じる。

「それとも社交辞令しゃこうじれいとしては、あんたの容姿でもめた方が心証にいいんかな?」

「小手先をろうしたところで、もう手遅れだとご存じでしょう?」

「やっぱか。ちぇ」

 そして、手遅れの最大の原因となったであろう箱を、適当に床において立ち上がる。ゼラはその余計な動作が終わるのを待ちながら、相手の外見から、彼女の変化を見極めようとした―――年のころは、やはり十代も半ば。虚弱体質も変わっていないのか、肌の病的な白さも変化していない。ただ、髪にまだらに混入した白い色の量は増えた気がする。窓辺から差し込むかすのような月光を、一心に受ける場所にいたからかもしれないが。

 立ってみれば、肉体における視座しざも、自分とほとんど変わらない―――粗悪そあくなあてこすりは胸間きょうかんに捨てて、こちらを向いてきた黄色い瞳に映る自分の姿を確認し、ゼラは慇懃いんぎんに一礼した。

「お久しぶりです、ティエゲ―――少なくとも、こうして顔を合わせるのは。後継こうけい第二階梯かいていを招いた帰りにもお世話になり、感謝のしようもありません」

「……その口ぶりといい、あたしに気づいてここにやってくるまでの時間といい、相変わらず鋭い勘してんねあんた」

 ゼラは莞爾かんじを顔でる。

 それと違って、隠すことなく顔をしかめてみせる彼女の様子は、やはり以前から変わらず年端としはも行かない少女のそれだった。恐らく昼も彼女は、表情だけをこのようにして―――つまり表情以外はすべてを洗練せんれんされた練成魔士へと昇華させて、ゼラたちの騎獣きじゅうにまつわる動向を私情混じりに監視したに違いない。誰が頼んだことでもないが、他ならぬ自分がそれを利用した以上、こちらから何を言ったところで今更だろう。現に彼女―――ティエゲは、縁の下の力持ちをしようとしたことがばれて、軽い自噴じふんでも抱えているらしかった。

(いや)

 自噴か? 彼女の様子は、悪戯いたずらの正当性を訴えようと挑んでくる子どものそれにも思える。

 確かめるべく、ゼラは言葉を続けた。

「わたしがここにきたのは、あなたに気付いてのことではありません」

「じゃ、なによ?」

「自分のむかつきの確認ですよ。ティエゲ。わたしは、来訪はご遠慮願いたいと繰り返し申し上げている」

「間違えた。前言にプラスアルファ。相変わらず、鋭い勘を鈍磨どんまさせてあまりある感性を兼ね備えてんね、あんた。あたしはただ心配なだけだい」

(後者か)

 胸くそ悪さが顔を出したのは、胸奥きょうおうまでで済んだ。それゆえに、会話も予想からそれることなく、じわじわとティエゲの不平不満でり固まっていく。

「あんねー、あんたが音信不通なんが悪いっしょ? ろくに魔術も使いやしないから、こうやってじかに拝まないと、生き死にだって確かめらりゃしないし」

「当たり前でしょう。練成魔士として動けば動くほど、あなた以外の連中にまでわたしのことが露見ろけんする確率が高まります。頭領たちに渡した鉱石でさえ、研磨けんま彫琢ちょうたくでどれほどルール違反しているか。そうまでしても、わたしの心の砕き具合は察していただけませんか?」

「あんたは単に、口幅くちはばったいおりと会いたかないんだ」

「ティエゲ。もっともらしい建前をつけたんです。折角の愛想は受け取っておくべきですよ」

 いなすことにも飽きてきて、笑顔とは異なるニュアンスでもって、目を細める……とは言え、眼輪筋がんりんきんに変化を加えたとて、ティエゲを見ることにも、とうに興味を失っていた。

 好意的でない空気に感化されたはずもなかろうが、ティエゲもまた、ちくりとした感情に目尻をひたしている。大仰おおぎょうに腕を組んで―――しかし背が低いためガキ大将のような印象をぬぐいきれず、どこか間の抜けた絵面えづらで、彼女が声を上げた。

「ふーんだ。あたしがあんたからもらいたいのは、愛想なんかじゃない。安心だ」

「と、言うと?」

「大した事じゃない。つまり、あたしはいつも以上に、あんたが心配で心配でしょうがない。教えなよ。あんた、いつまでガロの血族の三男坊に、いいように使われてるつもりなのさ? 今日の昼間だって、言われるままのこのこと出向いちゃって―――ってちょっと、その顔ひっこめてよ。大丈夫。このことは、あたしのとこでとめてる」

 言われ、ゼラは彼女から隔離する意味で、顔面を撫でた。指のおりの影からちらと見やったティエゲの肌は、青ざめて引きつり、少なめに表現しても恐怖していると感じる。彼女のせりふの末尾が異なっていれば、その顔のまま死神に引き渡す必要があったが、今となってはどうでもいい帰結だった。彼女を殺すのはかなり厄介やっかいなことに違いない以上は―――またひとつ借りを作ってしまったことになるにしろ―――今回の気遣いだけはありがたがった。

 素直に礼が口に出る。

「ありがとうございます」

「あんたから貰いたいものは言ったっしょ。ちょうだいな」

 ここは、おびえが尾を引いている割にはずけずけと言ってのける彼女に、舌でも巻くべき場面か……ゼラは一層の嘘を口の端に貼り付けて、その切れ目からせりふをこぼした。

「差し上げましょう。順調ですよ・・・・・

 唇を半分開いて、閉じること、数回―――ティエゲは確かに、詰問してこようとしたのだろう。その目玉にちらついた光は、月光の反射にしては温度が高過ぎる。だが結局は、双眸そうぼう諦観ていかんを宿らせた時点で、攻撃的な色ごと熱も冷めてしまう。その負け惜しみでもないのだろうが、次に彼女が発した声は、負け惜しみをする時のような執念深い地熱が感じられた。

「ねえ。あんたが今、なんかたくらんでるのだけは分かるよ。だって、三男坊の脅迫は筋違すじちがいだし、だったらあんたがあの馬鹿に調子合わせてやる必要だってないんだから。だから、それをしてるってことは、なにかあんだ。しかもそいつはきっと、えげつない」

 そこで笑ってやってもよかったのだが。視線だけで合いの手を入れると、彼女はようやっと残りを吐き出した。

「でもあたしは、あたしがたったこの程度のレベルじゃ、あんたがその企みを明かしたりしないってことも分かってんだ。悲しいね。けどね」

「けれど、安心はしたでしょう?」

「まあね。そんな自分にむかっ腹。だけど悲しくて差し引きゼロだから、もう一個答えてもらう」

 しゃあしゃあと言ってのけ、声もろとも体も前に出てこようとするティエゲを、ゼラは目付きだけで拒絶した。

 彼女はそれに逆らってまで進もうとはしなかった。それでも、こぼれ落ちた呟きが、距離を埋めて脳の底に触れる。

「あんたいつまで、ゼラに隠れてるつもり?」

 遠まわしな言い分にしては、ひどく安直な嫌味だ―――ゼラは胸中で言い聞かせた。そして歯がゆくも、認めざるをえない。自分は今、ティエゲからの致命打を防げなかった。

 だからといって捨てばちに暴発するでもなかったが、優位を保障していたすべてがたたき落とされたのは分かっていた。失態だ。ゼラは口の内側を噛んで自制を守りながら、必死に視線を逸らした。危機をかいくぐる糸口を見つけるよりもはるかに速く、彼女の声音がすがり付いてくる。

「いつまでか分からないなら、あたしと約束―――それがいつか・・・、約束だ」

 あらわではないにしても、鼻先まで漂う彼女の感情に、息が詰まる。やはり実際に近づきはしなかったが、それでも確かに、なにより致命的な一歩が埋まる―――

「約束はしません」

 現実に一歩後退し、ゼラは、静かに叫んだ。

 またたき、記憶を焼いた光景がある。三年前。びた雲色の髪の名残なごりなく、脳天から血にまみれた赤い男。死んでいくゆえに、死んでいった彼―――激痛を錯覚し、思わず後頭部を押さえる。三年。あの時この動作をできなかった自分が今、三年経ってこの動作を行っている。

 これがある限り、自分はあらゆる反論を許さない。

「先約が、ありますので」

 特に含むでもなく答えたはずの言葉は、それでも確かに、ゼラの心に毒をした。そんな気がした。

 あるいは、ティエゲのそれにさえ。

 彼女は、瞳だけだったはずの諦めを顔すべてにまでおよばせて、それでもその侵略に抗うように、その身体全体を固まらせていた。背も、腹も―――あるいはそれ以上に、引き替えのきかないなにかまでも。
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