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結章
結章 第五部 第三節
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だから提灯を持たずに済んだのか。と、場違いな納得を呑んでから、わらってしまう。
そうだ。確かにその時、エニイージーは、微笑んでいた。力なく……眉を下げて、目尻を落とし、やんわりと唇を左右に弛ませていた。弱り切って声も出ない。泣けたら泣き声も出せたのに、呼気に嗚咽を練るどころか、涙ひと粒さえ作れないまでに無力で―――彼は、微笑んでいた。
連れ出されるまま要塞から踏み出した世界は、煌々と灯された明かりで曖昧に溶かされて いがらっぽく、これまでとどこまでも違ってしまっていた……少なくとも、そう感じた。<彼に凝立する聖杯>の、前庭グラウンド。夜。なのに、昼よりも旗司誓らしい旗司誓たち―――武器を佩き、暗器を潜めた帯を撫で、生死の境目に入れられる鋏の尖端を見定めるべく無心に眼光を研いでいる。その背が物語る、二十重ある祝福を受けた義を知っていた―――はずだったのに、どの背すじも今は震撼しかかるのを押し殺して、肉薄してくる断罪を遠のけようと企んでいる。受け入れがたい窮状を、茶化して誤魔化したい者は冗談めかし、怒って掃き払いたい者は罵声で八つ当たりし、遠巻きにして逃げたがっている者はむっつりと観察眼を決め込んで、みじめにも悪巧みを続けている。その姿を知っていた。追い詰められた悪党どもが、旗幟を拝んで合わせていた手を地に突いて、畏怖を代価に慈悲を乞う―――その、瀬戸際だった。
(俺たちが……悪党……?)
知り得ていたすべてが、こうまで違ってしまっていた。
エニイージーを連れ、グラウンドを進んでいく彼―――フィアビルーオもそうだ。部隊長第一席次席。態度は本質を正すという座右の銘に則り、武張った余裕を常に崩さなかった彼が、本能的に蹌踉めこうとする足取りへ理性的に鞭打っていると一目瞭然の、ぎくしゃくとした速足で先を行く。こちらの姿を見咎めるなり道を開ける旗司誓たちの顔つきはどれもぎこちなく、ぎょっと目を剥き、じっとりと険を張りつかせ、それどころではないと揺れ動き―――つまりは、肌に馴染まない。感じたことのない距離感を齎してくる彼らのかわりのように、定点的に焚かれた篝火の火影を引っ掻き回して行き交う人影が伸び縮みして、闇と混和し、陰と融合し、こちらへ迫る。火の影であろうと人の影であろうと、影なのだから見分けがつかない。見分けられていたはずだったのに、こうまで世界はすげ替わってしまった。闇夜、夜、夜空、空隙……隙間。そこに零れ落ち、取り込まれ、なにもかもが失われて―――
「――― ージー! おいエニイージー!」
ぼんやり朦朧めく渦中から、声がする。それは理解していた。
理解していたことは、他にもあった。フィアビルーオと共に辿り着いた、厩舎……第一厩舎―――なのに騎獣を一匹残らず吐き出して、鬱蒼とした暗がりに沈んでいる。愛嬌ある寝息や悪意ない喧騒で四六時中ふくふくと満たされていたはずの巣穴が、もはや虚じみた廃屋だ。廃屋―――
(ここまで……こうまでも、ゆるされないのか……)
「大丈夫かエニイージー!? おいったら!」
立ち尽くすまま、濡れる目玉を目蓋で拭っていると、己の掛け声を追い抜くようにしてひとりの青年が眼前に割り込んできた。アレルケン―――旗司誓。同僚。友人でもあったろう。どっこいどっこいの背丈をしていたこともあってか、なんとはなしに目が通じ合うことが多かった……その、黄色味の濃い金髪によく似合う明るい目付きを売りにして、誰彼問わず誑し込んでは さみしがりの性根を慰めていた彼は、いざこざの緩衝役を買って出ることが多かった。こんな風に、その目を白黒させながら、切羽詰まったおっかなびっくり面で正面からエニイージーにむしゃぶりついてくるなど……在り得ないはずだったのに。在り得てしまっていた。
アレルケンは小脇にいるフィアビルーオを無視して、握りしめたこちらの両の二の腕をがくがく揺さぶりながら、控え目な檄を唾ごと飛ばしてくる。
「おい! おい。大丈夫なのか。どうしたんだよ、ぼうっとして。どっか痛いとこでもあんのかよ?」
「いた、い?」
言われ、気付く。
痛い。痛いのだ―――おそらく、自分は。顔の痣や、切ってしまった唇に限った話ではなく、こうまでも、どうしようもないまでに―――痛い。痛みを感じると、それだけで死んでしまえるまでに傷んでしまっている。痛めつけられ過ぎたのだ。この身体は。弱い……身体は。
(弱すぎる)
エニイージーには、微笑むしかない。それほどまでに弱ってしまった。だから、とっくにそうだったように、こうして【わら】うしか……なかった。
(弱すぎるんだ。こんなにも、脆くて……儚い……なにもかも)
厩舎を見上げていた目線を、首ごと項垂れさせる。そのままぐるりと、周りに振り撒く。
篝火に火照らされた雹砂が地味に乱反射して、風紋のように砂をうねらせた地上……そこを揺らし、爆ぜさせ、刻一刻と空気に波紋を刻んでいく半鐘の音。前者を踏み、後者を薙いで、進み往く旗司誓。進む? どこへ行こうと言うのか? 過去、どこに到達した者がいる? 赤子の時には玉のようだった身体は、こうして傷つき、完膚無いほど痛めつけられ、満身創痍の半死半生を引きずりながら涎も涙も枯らしている。この肋間へと刺し込まれた刃の冷たさを知っているのに、その切っ先を翻して付け焼刃にも鎬を削り、腐敗する時を待ちわびて呼吸する臓物に、汚物となりゆく反吐を後生大事に包んで、先延ばしを繰り返す。繰る繰る、くるくる、狂々り―――
(ああオカしい)
【わら】うしかない。この顔を知っている。見ずとも知れた。知りつくしたこの顔を、もうエニイージーは憎めなかった。正確には、憎むだけでいられた自分には戻れなかった。
(なんて……無意味で……無力で……あわれな、俺たちなんだろう……)
矢先だった。
「うえ。顔らへん以外にも、どっか痛むのか。腹か? 腹イタか? でも医者なんて、副頭領すら―――アレだし」
「ふく、と」
口走るより先に、ぞっとした怖気が肺腑を痺れさせる。ぎくりと、筋骨まで跳ねるように竦み上がった―――まるで、脾腹でも刃物で突かれたように。
なにも知らずにいるアレルケンばかり、ばたばたと慌てふためいていた。エニイージーの襟ぐりから肩まわりから眺めまわして、いつしか右手を顎に思案顔を加速させている。
「どうしたもんだろ。それっぽい草でも煎じてみるか? あとは、こないだ露骨に猫背から眼球まで病んでる路傍敷から買い付けた、どうみても怪しいぴるぴる動く二本足した魚の瓶詰め酢ならあるけど。スンギュムベツレモバレルハニヤとか言ってたな。商品名なのか呪文なのか分からんけど、ひとまず唱えながらラッパ飲み―――」
「―――す、しかなかった」
「へ?」
考えるテンポを表すようにグラウンドでタップさせていた片足の先っぽまで、ぴたと固まらせたアレルケンに。
エニイージーは、顔を向けた。そして、面前まで上げた両手を広げて、握る。からっぽの五指は、骨に肉を巻いて爪で覆い、血を通わせて体温を燈していたが、むなしく無様に震えては、指の間から見えない何かを取り零していく―――見えはしないが。まるで、見えないそれを代行するかのように、取り留めのない言葉が続く。
「おれが、やった。やった。殺し、に、いった。殺す、しか、なかった。なかったんだ。そうだろ。なかったように、俺からなくしてくれた奴こそ、あいつじゃねえか。俺には、他にやりようなんて、なかったし―――」
と。
かぶりを振って、せりふを噛み切る。がり、と実際に犬歯を鳴らしてから、それをこじ開けた。
「いいや。あったんだ。きっとあったはずだ。俺は、昔とは違う。でも」
振り下げてしまっていた左右の手を、拳に変える―――丸まり、震え、まるで殴られ終わるのを待っているおびえきった犬の背中のような拳骨を、それでも振りかざして言い募る。
「あいつが悪いんだ。俺を、追い詰めた! こうまで……追い詰めた! こうなるのが当然ってもんだろ! 死ぬのも―――殺されたって! あいつが悪いんだから! 何が悪い!」
「エニイージー?」
勢い余って身を乗り出したこちらから、仰け反るようにして間合いを保ちつつ、アレルケンは目の白黒のさせ方を やや変えたようだった。表向きの無傷を確かめていた時よりもばつの悪い、裏を探る意図を足した怪訝そうな眼差しを、やんわりと触れ直させてくる。
そのまっさらな心配に、エニイージーは息を呑んだ。ひゅっ、と。目を見開いた。
(今。俺は。こいつに、言い逃れを……)
逃れようとした。
逃げ果せようと。言い訳をした。
なりふり構わず。遮二無二。例えそれが、口先だけでも構わないから―――と。
「まさか。そんなにも……俺は……弱い……? ……強く、なって―――支えるって誓って……俺は。旗幟と……頭領を……!」
ぼたぼたと垂れていく言葉に、歯止めが利かない。自制できない―――浅くなる息も。高鳴る動悸も。眼球の揺らぎも。
コントロールできていたはずの肌身にすらつぶさに裏切られていく感触を味わううちに、がくがくと歯の根が合わなくなり出して、頭を抱える。血の気が下がる音を聞いた気がした―――真逆に、縒り上がっていく心拍に脈打ったこめかみでは、触れ合う産毛に痒みを覚えていた。そこを引っ掻いてから、記憶まで掻き出すように頭蓋へと爪を立てる。そこに巻き付けたままのバンダナを、指先に感じた―――みどりの……燐眼色の―――
(とうりょ、う―――頭領……!!)
「畜生……畜生チクショウちっくしょう!」
「エニイージー、あのな」
三度、アレルケンからの呼びかけ。
彼には、何が何だかさっぱりだったのだろう。なので、当たり障りない口上を探して彷徨わせた目線の先で、先程までエニイージーが殴りつける仕草を向けていた地面を見つけると―――まるきり誰か嵌った落とし穴から目を逸らす風体で、気まずそうな双眸を向けてくる。
「なんつーか、副頭領とのことについては……どうしようもない。だろ? もう」
「どうしようもない?」
はたと繰り返す。どうしようもない? 問い返す。
「どう意味だよ? どうしようもないなんて」
「どう、って……」
「どうにか出来なかった俺が、しょうもないって言うのかよ? 俺が悪いってのか?」
「そうじゃなくて。つまり、俺が言いたいのは―――……」
アレルケンは、弱々しく口ごもっていく。
分かっていた。エニイージーには分かっていた。どのようなつもりで、アレルケンがそんな風に口を衝いたのか。要は理解していないということを、エニイージーには分かっていた。これがなんなのかを。知らない、相手に―――
(言い訳するな―――するんじゃ、ない!)
「悪いか? 悪いかよ。俺が殺したんだ。いいか。俺が、殺した、んだ」
声は横隔膜より奥底から渦巻き、喉肉まで巻き込んで声帯を引き攣らせる。痛むほど―――血が滲むほどまで。それともこの舌の根で腐りゆく錆の味は、噛み切った口の中から流れ出た血のそれだったのか。どちらであっても構いはしない。エニイージーの意識を攫ったのは、血まみれの痛みそのものだった。こうまでも続く責め苦の中で、ちょっとした痛覚刺激はひどく心地よく、快感に変わってしまっていた。すげ替わって、しまった……
「いいか。あの野郎は、裏切り者で、ウソツキで、いいように周囲を騙して立ち回って、だから仇で―――仇討ちを、した。俺は。それだけだ。殺したあいつを、こ」
ろした。こ
「ろし」
た。
殺した。
お前も殺した。
あいつを殺した。
「うるせえ……」
気分はどうだ? なあ教えてくれよ。
「るっせえ……」
俺はそれを知っているんだ―――今日が来る日を……
「うるさい、うるさい、うるさい……!」
「エニイージーっ!」
アレルケンが、ついに口調を怒らせて、こちらの片肘に掴みかかってくる。振り払うのだが、声音は途切れない。聞き慣れていたはずの、ややかん高さを残した少年のような彼の声色が、どこまでも不愉快で耳障りな音階となって膨れ上がり、鼓膜の内側から削り取っていく。膨張し―――破裂する……
「とまれかくまれ、だ! ひとり気楽にトチ狂ってる場合じゃねえのは確かだろ! 伸るか反るかだけど、酢漬けなら今取ってきてやるから―――!」
「るっせえっ!!」
見もせず、腕を横薙ぎに払う。見えず、触れず、なのに雁字搦めにしようとしてくる無音のハウリングから、振り解かれたいばかりに。
その裏拳が、たまたま勢いよく―――これもまた偶然に、アレルケンの顔面を横ざまに張り倒した。
「ぶっ!」
口内に溜まっていた息を叩き潰されて、アレルケンがよろめく。そうして、ぶたれた勢いに呑まれて斜め上に跳ね上げられてしまった顔面と入れ違うように、ずるずると腰から下が頽れて……結局、俯いてしまっていたエニイージーと、視点が上下入れ替わった格好で目が合った。合うこと、数秒―――
今になって、じんじんと熱を帯び出した右手をぷらんとさせて。エニイージーは、ぽつりと口にしていた。
「あ。ご、め……ん。なさい」
と。
「ナッニしくさりやがんだ、あんぽんたんがっ! 今日という日は一から十まで!」
顔色を豹変させたアレルケンが、食って掛かってくる。頬ではなく首筋を押さえつつ―――身構えてすらいなかったところを一撃されたのだから、軽くムチウチになってしまったとしても不思議ではない―――、膝を揃えて地べたに女座りしているのが妙にしっくりくる上目づかいで、涙目を吊り上げてきた。
「こちとら使い回しが利く副座が抜けてくれた【血肉の約定】ン時から雑用増えっぱなしになって割を食わされてたところに、三頭政治の一角相手に刃傷沙汰かましてくれやがって、てんやわんやのしまいにゃグーパンとか、とばっちりにしたって割に合わねえ過ぎてんだよ! こっちの身にもなれってんだ!」
「あ。の。ごめ、ん」
その激昂に押されるかたちで、上背を曲げたまま半歩ほど後退りしてしまうのだが。アレルケンは尻込みせず、むしろ前のめりに首を伸ばして―――どうやらムチウチについては杞憂で済んでくれたらしい―――、手当てにやっていない方の片手でエニイージーの胸倉をひっ捕らえるや否や、ぐいと引き寄せさえしてみせた。そのまま、指呼の間から怒鳴り散らしてくる。
「端からこんなじゃセヌェと生まれてくる我が子に申し開き出来ねえって思ってたら、やっぱ生理来たわゴメェンとかあっけらかんと抜かしやがるんだあのアマときたら! 生理だから犯らせもしねぇし、こんだけ振り回しときながら悪びれもせず、自分が正しくないとなんか悪いみてーな色にこっちまで染まって当然てな面ひっさげてのうのうと! お取り扱いはお間違えなくってお前どこのメーカー製だトリセツ読ませろ! それすら空気読めとか何様だ神様かエスパーか! 子どもの名前と将来設計とご両親への挨拶を考え倒した日々&急性ストレスで血祭りに上げられた俺の胃袋を返せ!」
「……ご、めん」
「くそったれ!」
怒り、叱り、鬱憤晴しも遂げたとなると、残るは捨てぜりふくらいしかアレルケンにはなかったようだ。彼は服から鷲掴みにしていたエニイージーの骨身を支点に、ばねをきかせて地面から跳ね上がると、そのままこちらを背負い投げしそうな勢いで肢体を反転させる。
そうして向き直ったのは、フィアビルーオに対してだった。手前で、厳めしい皺を口の端に噛んで腕組みを崩さずにいる不動の立ち居を目にして、アレルケンの苛立ちが上塗りされたのを感じる―――間際にした横面から突っ張りたがる青筋の浮き加減からも、衣服越しに食い込もうとする指先の力加減からも。
「いいや、垂れるクソすらありゃしねえ―――」
けったくそ悪い独白のようにも聞こえにせよ。アレルケンは、己の首に当てていた手を拳にすると、ぴっと立てた親指でこちらを指し、フィアビルーオへと泡を飛ばした。
「こんな腑抜けた伽藍堂、マジで騎獣に乗せるんすかっ!? 以心伝心すぎるあいつらには、荷が勝ちすぎってもんですぜ……乗獣じゃねえんだぞ!」
フィアビルーオは動かない。唇すらも。二言はないということか。
アレルケンが、エニイージーを示して横に倒していた拳を更に下向きに捻り、親指を逆さまにする仕草で軽はずみに呪ってきた瞬間だけは、ぴくりと眉毛を揺らした。としても、構うことなく、アレルケンはまくし立てていく。
「こんな腕あっただけのマリオネットが前線じゃ、繰り糸こんがらがって<彼に凝立する聖杯>の足くまなく引っ張られんのが目に見えてる……どんだけのっぴきならない事態だからって、一次の自暴自棄に俺ら全員の生死まで賭けんといてくださいよ!」
「現時点を以ってしての、部隊長第一席次席フィアビルーオからの直命だ! 反論権限なぞヒラ旗司にない!」
かちんときたと目に見える口調で切って捨てて、フィアビルーオは剣幕を凄めた。あっさりと詰め寄ってきたかと思うとアレルケンからエニイージーを引き剥がし、そのまま間に割り込む格好で、こちらを背に立ちはだかる。エニイージーを守ったように見えて、本当に庇ったのは己の戦術だろう……すべて併せ呑むなら、戦略でもあるのだろうが。
眇めた目から睨みを利かせて、フィアビルーオが畳み掛けていく。
「どうしても稟請したくば、主席・次席と検討のうえ―――」
「検討し終わる前にジェノサイド済みにされてますって、こんな昔取った杵柄しかない今は昔のヘボい重荷じゃあ! 司左翼ですよ相手は!」
「そうだとも司左翼だ! ただし彼らの最大戦力ではない!」
なおも泣き言を折らないアレルケンだったが、フィアビルーオの論断もまた続けられた。もしかしたら、アレルケンよりも周囲を聴衆と意識してのパフォーマンスだったのかもしれない。平静を強いるようにトーンを下げて、口ぶりもまた静かになる。
「見積もってみるからに、隊は<彼に凝立する聖杯>とおよそ同規模。宮廷議会全承認により執行された王権統治叛逆罪ではなく、単独票のみにて限定解除された即席編成派遣と見た。ならば、この場を凌ぎさえすれば、生き延びられる可能性は一気に広がる―――敗走までさせられずとも、貴奴らに身を退かせることさえ出来れば、単独票を投じた何某の審問が終わるまでの期間、身の安全は保障される……仮に我々は拘束されるとしても、それは安全に檻の中を三食昼寝付きで謳歌できる裏返しだ」
「審問が終わったら?」
「安全圏外だ。無罪放免か有罪ギロチンか。どっちみち我々の悩める埒内ではない。ふむ。ひとまずは良い面を見よう。悩まずに済む。そうだな?」
「隊長おおおォォオ! 理詰めの明君に見せかけた天然の暗君だぁこの人おおォオお! なんとか言ってやってくださいよオオオおお!」
「あー」
と、呻いたのは。
ゾラージャだった―――ゾラージャ部隊長第五席主席。有り体に金切り声を上げて発奮していく部下を見捨てることも出来ず、さりとて有り体からフィアビルーオに逆らう意味の無さを悟ってもいるようで、所在なさげに頭の古傷を掻いては目を泳がせている。こちらと意図的に距離を開けていたし、どうやら目立たないまま済ませようとの腹積もりだったようだが、矛先を向けられて泣く泣く腹を決めたようだ。気負いのない口調で、会話できる間合いまで歩み寄りがてら、口を開く。
「ズタ袋の胃、両親への挨拶・子どもの名前・将来設計の日月、っつう順じゃね? 返してもらうなら。必要度的に」
「こっちかつそっち!?」
「ついでに。神様でもエスパーでもなく、未来の奥様だろ。相手は。ありがてえって、ありがたくありがたがっとけ。金と違って、感謝と挨拶ってのは せっせと先払いしとくだけいいらしいぞ」
ゾラージャは言う駄賃とばかり、ショックを割り増ししたアレルケンの右肩を、ぽんぽんと片手でタッチしがてら撫でて―――動いたついでのように、くいっと腕ごと引いてみせる。そうやってアレルケンをよろめかせて、空かせた居所に、ひょいと靴底を移した。軽く……そのたった拳ひとつ分の場所を入れ替えただけで、あっさりとフィアビルーオの独壇場に踏み込んだのが分かる。当事者もそれを感じたのだろう。居住まいを正してネッカチーフごと胸を張ったフィアビルーオへ、ゾラージャは伏し目から探るような目付きを送った―――恐嚇するように翼を広げた双頭三肢の青鴉の刺繍に気後れしたように見せかけているが、その真意は難なく読み取れる。まさか部隊長第一席次席にお就きの御方が、こうして気構えすら後れをとった者をすげなく扱うような、悖る振る舞いをなさったりは致しませんでしょうね?
「あのー……」
「なんだ?」
ぶっきらぼうに促すフィアビルーオだが。ゾラージャは、あくまでマイペースに念を入れる。
「今のは、緋色いやっこさんら相手でも、俺らに勝算アリって話でしたな?」
「そう。つまるところ、彼らは旗司誓ではない」
はぐらかしたつもりはなかったのだろうが、示威的に振る舞うあまり遠回りな言い回しをしてしまった実感はあったようで、フィアビルーオは咳払いしてみせた。仕切り直しとばかり、口早に長広舌を遂げる。
「弓や槍を捨て駒として物量で押し、騎馬を戦車に用いるのが軍隊の基本だ。隊内で単騎を駆る操舵手は、司令官クラスが虚仮威しに乗りこなしている場合が多い―――第五部隊が揃い踏みした我々は、機動力で彼らに勝っている。先手を打ち、撹乱に繋げられもしよう。なにより軍は、公権に依り発動された武力だ……彼らは勝敗を見せつけにきたのであって、勝負を賭してまで鏖殺を貫徹しはすまい。理想的勝利を得られない状況下に持ち込みさえすれば、まず間違いなく彼らは撤退する―――はずだ。あの規模、かつ、宮廷議会全承認により執行された王権統治叛逆罪でさえなければ」
「えげつないこったなあ。あくまでどうあっても武力衝突する前提とくる。交渉の方は?」
「決裂している」
「没交渉って意味で?」
「没にされるまでもなく、一方的な最後通牒の端切れからさえ、一抹の交渉の余地すら無かった。聞きたいか?」
「……さわりくれえなら。お手柔らかに」
「『前略、親愛なる<彼に凝立する聖杯>殿。全力で足掻け。足掻く用意をする猶予はくれてやる。悪足掻きだと見せしめにするために。敬具。国家権力より愛を込めて』だ」
「……愛?」
「込もらんと出来るかこんなこと。まったく意味のないダメージを負うと分かって、なお実行するしかない盲目的な妄信だ。五体満足で産まれた赤ん坊なのに、六本指だったからどの指を詰めるというような話だ」
いけ好かんとばかりに吐き捨てるフィアビルーオに、ふと思う。六本指。多指症。詰める。斬る―――のは……
(―――どの指なんだろう?)
斬り落とされるのは、どの指なのだろうか。
たとえば極道者は、一家を裏切った制裁として、利き手の小指から切断する……次は反対の手の小指、その次は利き手の薬指と、かわりばんこに続く。ただしこれは、刀剣を保持する握力を殺ぎ、なおかつ日常生活上での支障を最小限に済ませる為の、計算ずくの行いだ―――言われてみれば当然で、拇指や示指を失うと、スプーンも持てなければボタンも掛けられなくなる。そういった意味では、まだしも兄弟分への温情だと言えた。
なんのついでかそう説いてくれた物知り顔のイコに、当時エニイージーは切り出すことが出来なかった。温情? 本当にそうだろうか? もう二度と約束を裏切らないよう、ゆびきり出来なくしたんじゃないのか? それか、約束そのものを世界から断ち切ったか。過去の恋文を破るように。破棄された契約書に鋏を入れるように。
おセンチだぁね、とイコだったなら肩を竦めがてら軽く流してくれたろうが―――
「……フィアビルーオ次席」
「エニイージー。どうした?」
「六本指なら、斬り落とすのって、小指なんでしょうか」
「六本目だ。親指も小指もあるか」
不意の問いかけだろうに、ばっさり断言して。フィアビルーオは、背後にいるこちらへと顔面だけ振り返らせてきた。ただし視線は考えるように横ずらせて―――さらには、付け加えてきた。
「敢えて言うなら、余分で、目に余り、なくなっても代替えが利くやつだ。見栄えが悪く不器量なら、なお好都合に見限れる」
「……どれも大体、子どもじゃないですか」
「子指とでも? センチメンタルだな」
と、にやりと破顔を決めてから、顔の向きを元に戻す。そうして……独りごちてきた。
「まあ、嫌いな比喩ではない。わたしはジャヌビダだ」
なにやらその語気は、暗い笑いでも噛み殺し損ねたように、くつくつとひくついていた。
ついでに、向き直った時に不吉な豹変を見せたアレルケンの眉間の隆起とゾラージャの吐息―――ため息―――を見聞きするだに、語気どころか破顔の度合いまで悪いベクトルを割り増ししていたに違いない。そのまま、喝破するかのように息巻いてみせる。
「親だろうが母国だろうが、ママはあなたの為に言ってるのなんて印籠文句だけで唯々諾々と受け入れてたまるものか……愛されるだけありがたいと思えなんぞ抜かすようなとんだクソペアレンツどもに、とびっきりの熨斗つけて返してくれるわ! しゃらくさい!」
フィアビルーオ―――ジャヌビダ・フィアビルーオ―――が、それを最後に、二本指を側頭に添える簡易敬礼をゾラージャらへ向けた。それに対して、ゾラージャも中指と人差し指をぴっと挙げ、その背後にいるアレルケンもしぶしぶながら倣う。
と。そこにきてフィアビルーオが、ふと気付いたと言わんばかりに、立てていた指の先をゾラージャの鼻頭に翻した。
「あと緋色いってなんだ。黄色いみたく言うからスルーしかけたが。言葉は正しく使わんか」
「えー? いいでしょ、そんくれえのことで重箱の隅を楊枝でつんつくせんでも。そもそも、黄色いって言い回しだって、本来は邪道でしょうがよ。黄色いってのが正道なら、『赤い』『青い』だって『赤色い』『青色い』ってのが正しくなっちまうし。引っ繰り返るにしたってアベがコベっすわ。それ」
それ以上拘ることでもなかったようで、のらりくらりと口ごたえするゾラージャに、フィアビルーオは小言を重ねてきはしなかった。ただ鼻をひと鳴きさせて区切りをつけると、ひと足先に離脱したアレルケンとは違う方向へ踵を返す。あのふたりきょうだいで、頭領・副頭領・部隊長第一席主席の役割まで一手に引き受けているとしたら、やるべきことは引きも切らないはずだ。ネッカチーフを戦がせるように肩で風を切っていく後姿を、なんとはなしに見送って―――
とん、と首根っこが重くなる。更には、温まる。それを感じた。
はっとして両目を正面に取り戻すと、真ん前からゾラージャが両手をこちらの肩口に掛けてきている。まっすぐ瞳を覗き込むようにして―――それなのに、フィアビルーオへ差し出していた眼差しを思い出さずにおれない、真意を隠して透明度を増した眸底を曝して、口火を切る。
「っつーわけだ。俺たちは、あいつらとカタを付ける。旗無しどもとは旗色が違うがな。勝手違いだとも、お門違いだとも、分かっちゃいる。そんでも、だ。片付ける」
そこでゾラージャは、いったんせりふを切った。もしかしたら、エニイージーを待っていたのかもしれない―――承諾したという返事か、呑んで受け入れるしかないがゆえの相槌か、もっと詳しい状況説明を欲しての質問か、そういったものが表出するだろうと。どれもこれもなかったことに落胆はしただろうが、それでも諦めず、粘り強く言い聞かせてくる。
「エニイージー。お前は強い。槍でも騎射でも右に出る奴ぁいねえ。場数も踏んできた。抜きん出た旗司誓だ。そんでも俺が上に立つのは、重石みてえなもんなのよ―――ぐんぐん天井知らずに伸びてく鼻っ柱に小躍りしながら空ぁ見てる青二才が、足元すくわれてズッコケる寸でで襟首ひっかけてやって、首を折らねえ為の。まあ憎まれ役だ。だから、憎んでくれて構わねぇんだが、」
―――と。
問いかけが、やってくる……
「今度こそ俺は間に合ったのか?」
問いはどこまでも内面から反響し、外界の現実感を遠のける。
身体は動いていた。ゾラージャから引き継がれた第五部隊の動きに流されるまま、エニイージーは武装を準備した―――革製の胸甲を着込み、征矢の込められた箙を右腰に吊り、合成弓を首から提げた。弦がうなじの窪みに落ち着く頃には、弓把も鎖骨の間に納まる。素乗りで騎獣の頸椎根に跨り、両足を双牙それぞれの歯根に掛け、右手で手綱を取った。その頃には、左手に渡された槍を左の肩に掛けている……長距離を移動する際にバランスを重視して斜めに背負うのではなく、槍の穂先と柄を連結する金輪の付け根に二つ折りの帯を結び、その二つ折りに腕を潜らせるかたちで左肩のみに担いだ。怒り肩を思わせる胸甲の造作が、槍がそこから滑り落ちるのを許しはしない。肩の後ろで直立する両刃をちらと振り返れば、騎獣の背に括りつけられた鞍までもが見えた―――集団戦において、一番槍として横隊した敵の中心を突破する槍騎兵から、縦隊した敵の側面を騎射で崩す騎馬弓兵までやりこなすエニイージーに特に合うよう、可能な限り軽量かつ小型に作られている。操舵手を限定する旗司誓ならではの、特化した技巧だった。旗司誓ならでは。
(旗司誓……)
旗司誓。
<彼に凝立する聖杯>正門前に展開しつつある彼らの背の間を避ける動線で、騎獣を操舵したエニイージーは前庭グラウンドへ―――その先の戦端へ向かっていた。
今となっては撲滅傾向にあるものの、こうして組織として一騎打ちを挑んでくる輩も、いないではない。煮え湯を飲まされた武装犯罪者による意趣返しもあるが、売名目的に旗司誓同士でやり合うことすらあった。いわゆる決闘である―――ただし戒域綱領制定後は武装強盗旅団も解体が進む一方となった影響で、組織全体の底上げを図るいち手段としてのカチコミよりも、個人的に名を上げんが為に旗司誓であることを名目としてのタイマンのふっかけ、というケースが増えていた。旗幟よりか、己が二つ名を賭けての行いだ。集団を強固に連帯させることでしか乗り越えられない脅威の減少と共に、個々が自由を利かせられるようになってきた典型例とも言えるが、だからこそ今の<彼に凝立する聖杯>が総力戦を以って国軍をやりすごせるのか、懐疑的な空気が優勢となるのも当然の成り行きだろう。実際、追い抜きざまに小耳に挟む呟きは好戦的に湧き立つ予兆もなく、どれも動揺と陰気を込められるまま先細りしていくものばかりだった。
「どうなるんだ……特攻じゃないのか、こんなの」
「前にとっちめた、うすらとんかちの武装犯罪者が相手じゃあるまいに」
「おかしいって。こんなの、おかしすぎるって。あの英雄扱いから掌返して―――」
「でも。通達が」
「司左翼だぞ? 刃向かうだけで、公務執行妨害罪が加算されるんじゃないのか? その―――王権統治叛逆罪ってやつに」
「王権統治叛逆罪とは!!」
フィアビルーオの一喝が、ざわめきを打擲した。
その方向は分かっている。向かう先……正門の足元。そこからこちらを向いたフィアビルーオが、ふたり並んで佇立していた。腰間の剣を筆頭に武装してはいるものの、見るだに軽微だ。戦闘開始後もこの場に留まり、先へ進めた旗司誓へ指示を飛ばす魂胆が透けて見える。現状、どうせ誰かがリーダーシップを発揮しなければならないのだし、買って出てくれるなら御の字という者もいるだろうが、御の字と思っている者がいることからして気に食わないという連中も多いだろう―――そのことすらも承知した上での、なお受けて立つという威嚇か。向かって右に立つフィアビルーオが、全体へと声高に呼びかけていく。
「政権に依る治安を乱すすべての行いに適応される律令だ―――要は、キャラバンから積み荷を強奪する武装犯罪者だろうが、公共図書の貸し出し本からページを破り取るクソガキだろうが、マルチに適法となる!」
「さすがガキの時分その本で先生からビンタされた奴が言うと説得力が違う」
「前科も付かなかった過去はそれとして!!」
と、左側の独り言を大音声で揉み消す駄賃に、発言者の後ろ頭めがけて平手を叩きつけつつ、フィアビルーオ。
「あるのかよ過去」
「マジでか」
「どっちがどっちのフィアビルーオだあいつら」
「知んねぇから、もうゲッチョメとかでいいんじゃね?」
皆の困惑に、じゃっかんの濃度変化が起きたものの、それについてはきっぱりと無視して、フィアビルーオ―――右側の―――の力説は途切れない。
「ここ数日に渡り我々が国家を騒乱した事実は事実だ……ひとまずは、目には目を歯には歯をで、この場を凌ぐ!! 我ら旗司誓<彼に凝立する聖杯>、双頭三肢の青鴉を戴いた御旗を証すべく、血肉を以って義に尽くす時だ!!」
「―――なんで?」
エニイージーは、ぽつりと囁いていた。
徐々に……だが確実に、その囁き声ばかり、胸中へ浸透してくるようになる。
「凌いだから、どうなる? なんの為に―――そんなことしなきゃならないんだ」
どうせ死ぬ生ではないか。
いずれ終わる命ではないか。
「我らの。血? 肉?」
今この時すら、代謝という名の共食いを続けるだけの血と肉ではないか。
「義? 誇り? それっぽっちの……これまで死なずにいただけの分際が、ふんぞり返りやがって、いけしゃあしゃあと偉そうに。御旗? あんな砂まみれで床も拭けやしない襤褸っきれ、やいのやいの持ち上げて―――どうかしてる……どうかしてるぜ、お前ら。ちゃんちゃらおかしい馬鹿ばっかり……」
「鏑矢の射音と同時、プラン通りに行動開始! 各自、必死になるあまり、プラン変更の半鐘を聞き逃すな―――!」
騎獣ごと、身体は着々とフィアビルーオの元へ到着しつつあるというのに、その声音はどこまでも遠く、薄まっていく。それとすげ替わるようにして、己の内側から言葉が湧いて出た。ぽろぽろ、ぽろぽろと。蛆のように。落涙のように。
エニイージーは、空を仰いだ。今は夜空だが。曰く、曇天の向こうには、青空がある―――
「なければよかったんだ」
あったことを、しっている―――その、灰と青灰の色が混沌めいてひしめく叢雲の帳に閉ざされた、その袂。天と地の空隙。
そこには、棒に括りつけられた小汚い一枚布がある。やぼったい青色のそれは、悔踏区域から吹き荒ぶ風に弄ばれるまま もたもたとだるそうに蠢くだけで、そこに縫い付けられた二つ頭に三つ足を生やした化け物は、これっぽっちも飛べやしない。
かつて、それを司ると誓った。愛を誓うように―――おそらくは。神聖だったはずだ。神により、別格をゆるされたはずだ。おそらくは。
「あア馬鹿らしい」
馬も鹿も知らずにいた。無知だろうか? 馬鹿だ。
馬も鹿も見分けずにいた。無垢だろうか? 馬鹿だ。
鹿を馬だと信じていた。無心にも。こころから。
「馬鹿ばぁぁアーー……―――っか、だ」
馬も、鹿も、馬だと思えていた鹿も、いっそのこと―――馬そっくりに化けたモノまでも。どれもこれもひっくるめて、徹頭徹尾まで馬鹿馬鹿しい。そう思える。思えてしまう。
そうとも。出来てしまう。人は。誓いは破れる。人は殺せる。汚していいし、穢れていい。いやしくて、いい……ゆるされる。いつだって―――どこまでも、ゆるされている。本当に、すがすがしいまでに、真実この世は楽が出来る。楽だ。楽だ。楽園だ。
「死ねばいいのに」
裏切られていた裏切りに―――エニイージーは、【な】いた。
「いいんだ。もういい。いらねえ。なくなっちまえ。きれいさっぱり。おさらばだ。全部。この、ぜぇんぶ、だ」
全部。
無から解脱し、はじまってしまっていたこのすべてが、もれなくすげ替わるように失われていく―――あたかも、のぞみを裏切る為だけに、この【世】【界】は人に在るようだ。
のこされ続ける、失望と絶望―――そうして、失い、絶たれ、報いのないここに、それでも生きていく価値などあるものか。あると信じるのか? 愚かにも。愚かしくも、賢いと……疑わずにいられるのか?
その問いかけが試されている。とうに滅びは訪れていたのだ。司左翼ではなく―――ずっと、未知なる領域から、その問いかけは続いていた。失われるを物語るべく遣わされた、何者か……御使いからの問いかけが。
(俺は、それを見届ける。その、こたえを見届けるんだ。頭領のかわりに、俺が。頭領、頭領……)
これが何なのか―――知っている、それを、見届ける。
終焉だ。まもなく、すべてが総べられる。須らく凡ての生命は凌辱され、すげなく全ての尊厳は汚辱され、もれなく破滅に支配される。これっきりにしてくれる。耳障りな耳も目障りな目も勘に障る勘も―――気に障る全部を、これっきりにしてくれる。
死は絶望ではない。死は正義だ。平等かつ公平な、揺らぐことのない幕切れ。こんな自分ですら招き入れてくれる、大いなる御手。
その手を取りかけたことがある。
けれども、手を切った―――実の親ごと、手を切った。その替わりに、手に手を取って手渡してくれた旗幟棒を握り返した……交わす握手に、約束を証すように―――ゆびきりした小指に、誓いを立てるように。その手から、その人そのものを脳裏に手繰り出す。旗司誓。雷髪燐眼。稲妻の咬み痕。霹靂。頭領。ザーニーイ。<彼に凝立する聖杯>の英雄。英雄となり死んだ男。殺した男。この手で彼が、殺した男。
(頭領……俺が死ねば、俺と同じ裏切り者が抜かしてくれた全部が全部、なくなって―――嘘になって……くれますよね?)
【わら】いながら、エニイージーは到来を待つ。
そうだ。確かにその時、エニイージーは、微笑んでいた。力なく……眉を下げて、目尻を落とし、やんわりと唇を左右に弛ませていた。弱り切って声も出ない。泣けたら泣き声も出せたのに、呼気に嗚咽を練るどころか、涙ひと粒さえ作れないまでに無力で―――彼は、微笑んでいた。
連れ出されるまま要塞から踏み出した世界は、煌々と灯された明かりで曖昧に溶かされて いがらっぽく、これまでとどこまでも違ってしまっていた……少なくとも、そう感じた。<彼に凝立する聖杯>の、前庭グラウンド。夜。なのに、昼よりも旗司誓らしい旗司誓たち―――武器を佩き、暗器を潜めた帯を撫で、生死の境目に入れられる鋏の尖端を見定めるべく無心に眼光を研いでいる。その背が物語る、二十重ある祝福を受けた義を知っていた―――はずだったのに、どの背すじも今は震撼しかかるのを押し殺して、肉薄してくる断罪を遠のけようと企んでいる。受け入れがたい窮状を、茶化して誤魔化したい者は冗談めかし、怒って掃き払いたい者は罵声で八つ当たりし、遠巻きにして逃げたがっている者はむっつりと観察眼を決め込んで、みじめにも悪巧みを続けている。その姿を知っていた。追い詰められた悪党どもが、旗幟を拝んで合わせていた手を地に突いて、畏怖を代価に慈悲を乞う―――その、瀬戸際だった。
(俺たちが……悪党……?)
知り得ていたすべてが、こうまで違ってしまっていた。
エニイージーを連れ、グラウンドを進んでいく彼―――フィアビルーオもそうだ。部隊長第一席次席。態度は本質を正すという座右の銘に則り、武張った余裕を常に崩さなかった彼が、本能的に蹌踉めこうとする足取りへ理性的に鞭打っていると一目瞭然の、ぎくしゃくとした速足で先を行く。こちらの姿を見咎めるなり道を開ける旗司誓たちの顔つきはどれもぎこちなく、ぎょっと目を剥き、じっとりと険を張りつかせ、それどころではないと揺れ動き―――つまりは、肌に馴染まない。感じたことのない距離感を齎してくる彼らのかわりのように、定点的に焚かれた篝火の火影を引っ掻き回して行き交う人影が伸び縮みして、闇と混和し、陰と融合し、こちらへ迫る。火の影であろうと人の影であろうと、影なのだから見分けがつかない。見分けられていたはずだったのに、こうまで世界はすげ替わってしまった。闇夜、夜、夜空、空隙……隙間。そこに零れ落ち、取り込まれ、なにもかもが失われて―――
「――― ージー! おいエニイージー!」
ぼんやり朦朧めく渦中から、声がする。それは理解していた。
理解していたことは、他にもあった。フィアビルーオと共に辿り着いた、厩舎……第一厩舎―――なのに騎獣を一匹残らず吐き出して、鬱蒼とした暗がりに沈んでいる。愛嬌ある寝息や悪意ない喧騒で四六時中ふくふくと満たされていたはずの巣穴が、もはや虚じみた廃屋だ。廃屋―――
(ここまで……こうまでも、ゆるされないのか……)
「大丈夫かエニイージー!? おいったら!」
立ち尽くすまま、濡れる目玉を目蓋で拭っていると、己の掛け声を追い抜くようにしてひとりの青年が眼前に割り込んできた。アレルケン―――旗司誓。同僚。友人でもあったろう。どっこいどっこいの背丈をしていたこともあってか、なんとはなしに目が通じ合うことが多かった……その、黄色味の濃い金髪によく似合う明るい目付きを売りにして、誰彼問わず誑し込んでは さみしがりの性根を慰めていた彼は、いざこざの緩衝役を買って出ることが多かった。こんな風に、その目を白黒させながら、切羽詰まったおっかなびっくり面で正面からエニイージーにむしゃぶりついてくるなど……在り得ないはずだったのに。在り得てしまっていた。
アレルケンは小脇にいるフィアビルーオを無視して、握りしめたこちらの両の二の腕をがくがく揺さぶりながら、控え目な檄を唾ごと飛ばしてくる。
「おい! おい。大丈夫なのか。どうしたんだよ、ぼうっとして。どっか痛いとこでもあんのかよ?」
「いた、い?」
言われ、気付く。
痛い。痛いのだ―――おそらく、自分は。顔の痣や、切ってしまった唇に限った話ではなく、こうまでも、どうしようもないまでに―――痛い。痛みを感じると、それだけで死んでしまえるまでに傷んでしまっている。痛めつけられ過ぎたのだ。この身体は。弱い……身体は。
(弱すぎる)
エニイージーには、微笑むしかない。それほどまでに弱ってしまった。だから、とっくにそうだったように、こうして【わら】うしか……なかった。
(弱すぎるんだ。こんなにも、脆くて……儚い……なにもかも)
厩舎を見上げていた目線を、首ごと項垂れさせる。そのままぐるりと、周りに振り撒く。
篝火に火照らされた雹砂が地味に乱反射して、風紋のように砂をうねらせた地上……そこを揺らし、爆ぜさせ、刻一刻と空気に波紋を刻んでいく半鐘の音。前者を踏み、後者を薙いで、進み往く旗司誓。進む? どこへ行こうと言うのか? 過去、どこに到達した者がいる? 赤子の時には玉のようだった身体は、こうして傷つき、完膚無いほど痛めつけられ、満身創痍の半死半生を引きずりながら涎も涙も枯らしている。この肋間へと刺し込まれた刃の冷たさを知っているのに、その切っ先を翻して付け焼刃にも鎬を削り、腐敗する時を待ちわびて呼吸する臓物に、汚物となりゆく反吐を後生大事に包んで、先延ばしを繰り返す。繰る繰る、くるくる、狂々り―――
(ああオカしい)
【わら】うしかない。この顔を知っている。見ずとも知れた。知りつくしたこの顔を、もうエニイージーは憎めなかった。正確には、憎むだけでいられた自分には戻れなかった。
(なんて……無意味で……無力で……あわれな、俺たちなんだろう……)
矢先だった。
「うえ。顔らへん以外にも、どっか痛むのか。腹か? 腹イタか? でも医者なんて、副頭領すら―――アレだし」
「ふく、と」
口走るより先に、ぞっとした怖気が肺腑を痺れさせる。ぎくりと、筋骨まで跳ねるように竦み上がった―――まるで、脾腹でも刃物で突かれたように。
なにも知らずにいるアレルケンばかり、ばたばたと慌てふためいていた。エニイージーの襟ぐりから肩まわりから眺めまわして、いつしか右手を顎に思案顔を加速させている。
「どうしたもんだろ。それっぽい草でも煎じてみるか? あとは、こないだ露骨に猫背から眼球まで病んでる路傍敷から買い付けた、どうみても怪しいぴるぴる動く二本足した魚の瓶詰め酢ならあるけど。スンギュムベツレモバレルハニヤとか言ってたな。商品名なのか呪文なのか分からんけど、ひとまず唱えながらラッパ飲み―――」
「―――す、しかなかった」
「へ?」
考えるテンポを表すようにグラウンドでタップさせていた片足の先っぽまで、ぴたと固まらせたアレルケンに。
エニイージーは、顔を向けた。そして、面前まで上げた両手を広げて、握る。からっぽの五指は、骨に肉を巻いて爪で覆い、血を通わせて体温を燈していたが、むなしく無様に震えては、指の間から見えない何かを取り零していく―――見えはしないが。まるで、見えないそれを代行するかのように、取り留めのない言葉が続く。
「おれが、やった。やった。殺し、に、いった。殺す、しか、なかった。なかったんだ。そうだろ。なかったように、俺からなくしてくれた奴こそ、あいつじゃねえか。俺には、他にやりようなんて、なかったし―――」
と。
かぶりを振って、せりふを噛み切る。がり、と実際に犬歯を鳴らしてから、それをこじ開けた。
「いいや。あったんだ。きっとあったはずだ。俺は、昔とは違う。でも」
振り下げてしまっていた左右の手を、拳に変える―――丸まり、震え、まるで殴られ終わるのを待っているおびえきった犬の背中のような拳骨を、それでも振りかざして言い募る。
「あいつが悪いんだ。俺を、追い詰めた! こうまで……追い詰めた! こうなるのが当然ってもんだろ! 死ぬのも―――殺されたって! あいつが悪いんだから! 何が悪い!」
「エニイージー?」
勢い余って身を乗り出したこちらから、仰け反るようにして間合いを保ちつつ、アレルケンは目の白黒のさせ方を やや変えたようだった。表向きの無傷を確かめていた時よりもばつの悪い、裏を探る意図を足した怪訝そうな眼差しを、やんわりと触れ直させてくる。
そのまっさらな心配に、エニイージーは息を呑んだ。ひゅっ、と。目を見開いた。
(今。俺は。こいつに、言い逃れを……)
逃れようとした。
逃げ果せようと。言い訳をした。
なりふり構わず。遮二無二。例えそれが、口先だけでも構わないから―――と。
「まさか。そんなにも……俺は……弱い……? ……強く、なって―――支えるって誓って……俺は。旗幟と……頭領を……!」
ぼたぼたと垂れていく言葉に、歯止めが利かない。自制できない―――浅くなる息も。高鳴る動悸も。眼球の揺らぎも。
コントロールできていたはずの肌身にすらつぶさに裏切られていく感触を味わううちに、がくがくと歯の根が合わなくなり出して、頭を抱える。血の気が下がる音を聞いた気がした―――真逆に、縒り上がっていく心拍に脈打ったこめかみでは、触れ合う産毛に痒みを覚えていた。そこを引っ掻いてから、記憶まで掻き出すように頭蓋へと爪を立てる。そこに巻き付けたままのバンダナを、指先に感じた―――みどりの……燐眼色の―――
(とうりょ、う―――頭領……!!)
「畜生……畜生チクショウちっくしょう!」
「エニイージー、あのな」
三度、アレルケンからの呼びかけ。
彼には、何が何だかさっぱりだったのだろう。なので、当たり障りない口上を探して彷徨わせた目線の先で、先程までエニイージーが殴りつける仕草を向けていた地面を見つけると―――まるきり誰か嵌った落とし穴から目を逸らす風体で、気まずそうな双眸を向けてくる。
「なんつーか、副頭領とのことについては……どうしようもない。だろ? もう」
「どうしようもない?」
はたと繰り返す。どうしようもない? 問い返す。
「どう意味だよ? どうしようもないなんて」
「どう、って……」
「どうにか出来なかった俺が、しょうもないって言うのかよ? 俺が悪いってのか?」
「そうじゃなくて。つまり、俺が言いたいのは―――……」
アレルケンは、弱々しく口ごもっていく。
分かっていた。エニイージーには分かっていた。どのようなつもりで、アレルケンがそんな風に口を衝いたのか。要は理解していないということを、エニイージーには分かっていた。これがなんなのかを。知らない、相手に―――
(言い訳するな―――するんじゃ、ない!)
「悪いか? 悪いかよ。俺が殺したんだ。いいか。俺が、殺した、んだ」
声は横隔膜より奥底から渦巻き、喉肉まで巻き込んで声帯を引き攣らせる。痛むほど―――血が滲むほどまで。それともこの舌の根で腐りゆく錆の味は、噛み切った口の中から流れ出た血のそれだったのか。どちらであっても構いはしない。エニイージーの意識を攫ったのは、血まみれの痛みそのものだった。こうまでも続く責め苦の中で、ちょっとした痛覚刺激はひどく心地よく、快感に変わってしまっていた。すげ替わって、しまった……
「いいか。あの野郎は、裏切り者で、ウソツキで、いいように周囲を騙して立ち回って、だから仇で―――仇討ちを、した。俺は。それだけだ。殺したあいつを、こ」
ろした。こ
「ろし」
た。
殺した。
お前も殺した。
あいつを殺した。
「うるせえ……」
気分はどうだ? なあ教えてくれよ。
「るっせえ……」
俺はそれを知っているんだ―――今日が来る日を……
「うるさい、うるさい、うるさい……!」
「エニイージーっ!」
アレルケンが、ついに口調を怒らせて、こちらの片肘に掴みかかってくる。振り払うのだが、声音は途切れない。聞き慣れていたはずの、ややかん高さを残した少年のような彼の声色が、どこまでも不愉快で耳障りな音階となって膨れ上がり、鼓膜の内側から削り取っていく。膨張し―――破裂する……
「とまれかくまれ、だ! ひとり気楽にトチ狂ってる場合じゃねえのは確かだろ! 伸るか反るかだけど、酢漬けなら今取ってきてやるから―――!」
「るっせえっ!!」
見もせず、腕を横薙ぎに払う。見えず、触れず、なのに雁字搦めにしようとしてくる無音のハウリングから、振り解かれたいばかりに。
その裏拳が、たまたま勢いよく―――これもまた偶然に、アレルケンの顔面を横ざまに張り倒した。
「ぶっ!」
口内に溜まっていた息を叩き潰されて、アレルケンがよろめく。そうして、ぶたれた勢いに呑まれて斜め上に跳ね上げられてしまった顔面と入れ違うように、ずるずると腰から下が頽れて……結局、俯いてしまっていたエニイージーと、視点が上下入れ替わった格好で目が合った。合うこと、数秒―――
今になって、じんじんと熱を帯び出した右手をぷらんとさせて。エニイージーは、ぽつりと口にしていた。
「あ。ご、め……ん。なさい」
と。
「ナッニしくさりやがんだ、あんぽんたんがっ! 今日という日は一から十まで!」
顔色を豹変させたアレルケンが、食って掛かってくる。頬ではなく首筋を押さえつつ―――身構えてすらいなかったところを一撃されたのだから、軽くムチウチになってしまったとしても不思議ではない―――、膝を揃えて地べたに女座りしているのが妙にしっくりくる上目づかいで、涙目を吊り上げてきた。
「こちとら使い回しが利く副座が抜けてくれた【血肉の約定】ン時から雑用増えっぱなしになって割を食わされてたところに、三頭政治の一角相手に刃傷沙汰かましてくれやがって、てんやわんやのしまいにゃグーパンとか、とばっちりにしたって割に合わねえ過ぎてんだよ! こっちの身にもなれってんだ!」
「あ。の。ごめ、ん」
その激昂に押されるかたちで、上背を曲げたまま半歩ほど後退りしてしまうのだが。アレルケンは尻込みせず、むしろ前のめりに首を伸ばして―――どうやらムチウチについては杞憂で済んでくれたらしい―――、手当てにやっていない方の片手でエニイージーの胸倉をひっ捕らえるや否や、ぐいと引き寄せさえしてみせた。そのまま、指呼の間から怒鳴り散らしてくる。
「端からこんなじゃセヌェと生まれてくる我が子に申し開き出来ねえって思ってたら、やっぱ生理来たわゴメェンとかあっけらかんと抜かしやがるんだあのアマときたら! 生理だから犯らせもしねぇし、こんだけ振り回しときながら悪びれもせず、自分が正しくないとなんか悪いみてーな色にこっちまで染まって当然てな面ひっさげてのうのうと! お取り扱いはお間違えなくってお前どこのメーカー製だトリセツ読ませろ! それすら空気読めとか何様だ神様かエスパーか! 子どもの名前と将来設計とご両親への挨拶を考え倒した日々&急性ストレスで血祭りに上げられた俺の胃袋を返せ!」
「……ご、めん」
「くそったれ!」
怒り、叱り、鬱憤晴しも遂げたとなると、残るは捨てぜりふくらいしかアレルケンにはなかったようだ。彼は服から鷲掴みにしていたエニイージーの骨身を支点に、ばねをきかせて地面から跳ね上がると、そのままこちらを背負い投げしそうな勢いで肢体を反転させる。
そうして向き直ったのは、フィアビルーオに対してだった。手前で、厳めしい皺を口の端に噛んで腕組みを崩さずにいる不動の立ち居を目にして、アレルケンの苛立ちが上塗りされたのを感じる―――間際にした横面から突っ張りたがる青筋の浮き加減からも、衣服越しに食い込もうとする指先の力加減からも。
「いいや、垂れるクソすらありゃしねえ―――」
けったくそ悪い独白のようにも聞こえにせよ。アレルケンは、己の首に当てていた手を拳にすると、ぴっと立てた親指でこちらを指し、フィアビルーオへと泡を飛ばした。
「こんな腑抜けた伽藍堂、マジで騎獣に乗せるんすかっ!? 以心伝心すぎるあいつらには、荷が勝ちすぎってもんですぜ……乗獣じゃねえんだぞ!」
フィアビルーオは動かない。唇すらも。二言はないということか。
アレルケンが、エニイージーを示して横に倒していた拳を更に下向きに捻り、親指を逆さまにする仕草で軽はずみに呪ってきた瞬間だけは、ぴくりと眉毛を揺らした。としても、構うことなく、アレルケンはまくし立てていく。
「こんな腕あっただけのマリオネットが前線じゃ、繰り糸こんがらがって<彼に凝立する聖杯>の足くまなく引っ張られんのが目に見えてる……どんだけのっぴきならない事態だからって、一次の自暴自棄に俺ら全員の生死まで賭けんといてくださいよ!」
「現時点を以ってしての、部隊長第一席次席フィアビルーオからの直命だ! 反論権限なぞヒラ旗司にない!」
かちんときたと目に見える口調で切って捨てて、フィアビルーオは剣幕を凄めた。あっさりと詰め寄ってきたかと思うとアレルケンからエニイージーを引き剥がし、そのまま間に割り込む格好で、こちらを背に立ちはだかる。エニイージーを守ったように見えて、本当に庇ったのは己の戦術だろう……すべて併せ呑むなら、戦略でもあるのだろうが。
眇めた目から睨みを利かせて、フィアビルーオが畳み掛けていく。
「どうしても稟請したくば、主席・次席と検討のうえ―――」
「検討し終わる前にジェノサイド済みにされてますって、こんな昔取った杵柄しかない今は昔のヘボい重荷じゃあ! 司左翼ですよ相手は!」
「そうだとも司左翼だ! ただし彼らの最大戦力ではない!」
なおも泣き言を折らないアレルケンだったが、フィアビルーオの論断もまた続けられた。もしかしたら、アレルケンよりも周囲を聴衆と意識してのパフォーマンスだったのかもしれない。平静を強いるようにトーンを下げて、口ぶりもまた静かになる。
「見積もってみるからに、隊は<彼に凝立する聖杯>とおよそ同規模。宮廷議会全承認により執行された王権統治叛逆罪ではなく、単独票のみにて限定解除された即席編成派遣と見た。ならば、この場を凌ぎさえすれば、生き延びられる可能性は一気に広がる―――敗走までさせられずとも、貴奴らに身を退かせることさえ出来れば、単独票を投じた何某の審問が終わるまでの期間、身の安全は保障される……仮に我々は拘束されるとしても、それは安全に檻の中を三食昼寝付きで謳歌できる裏返しだ」
「審問が終わったら?」
「安全圏外だ。無罪放免か有罪ギロチンか。どっちみち我々の悩める埒内ではない。ふむ。ひとまずは良い面を見よう。悩まずに済む。そうだな?」
「隊長おおおォォオ! 理詰めの明君に見せかけた天然の暗君だぁこの人おおォオお! なんとか言ってやってくださいよオオオおお!」
「あー」
と、呻いたのは。
ゾラージャだった―――ゾラージャ部隊長第五席主席。有り体に金切り声を上げて発奮していく部下を見捨てることも出来ず、さりとて有り体からフィアビルーオに逆らう意味の無さを悟ってもいるようで、所在なさげに頭の古傷を掻いては目を泳がせている。こちらと意図的に距離を開けていたし、どうやら目立たないまま済ませようとの腹積もりだったようだが、矛先を向けられて泣く泣く腹を決めたようだ。気負いのない口調で、会話できる間合いまで歩み寄りがてら、口を開く。
「ズタ袋の胃、両親への挨拶・子どもの名前・将来設計の日月、っつう順じゃね? 返してもらうなら。必要度的に」
「こっちかつそっち!?」
「ついでに。神様でもエスパーでもなく、未来の奥様だろ。相手は。ありがてえって、ありがたくありがたがっとけ。金と違って、感謝と挨拶ってのは せっせと先払いしとくだけいいらしいぞ」
ゾラージャは言う駄賃とばかり、ショックを割り増ししたアレルケンの右肩を、ぽんぽんと片手でタッチしがてら撫でて―――動いたついでのように、くいっと腕ごと引いてみせる。そうやってアレルケンをよろめかせて、空かせた居所に、ひょいと靴底を移した。軽く……そのたった拳ひとつ分の場所を入れ替えただけで、あっさりとフィアビルーオの独壇場に踏み込んだのが分かる。当事者もそれを感じたのだろう。居住まいを正してネッカチーフごと胸を張ったフィアビルーオへ、ゾラージャは伏し目から探るような目付きを送った―――恐嚇するように翼を広げた双頭三肢の青鴉の刺繍に気後れしたように見せかけているが、その真意は難なく読み取れる。まさか部隊長第一席次席にお就きの御方が、こうして気構えすら後れをとった者をすげなく扱うような、悖る振る舞いをなさったりは致しませんでしょうね?
「あのー……」
「なんだ?」
ぶっきらぼうに促すフィアビルーオだが。ゾラージャは、あくまでマイペースに念を入れる。
「今のは、緋色いやっこさんら相手でも、俺らに勝算アリって話でしたな?」
「そう。つまるところ、彼らは旗司誓ではない」
はぐらかしたつもりはなかったのだろうが、示威的に振る舞うあまり遠回りな言い回しをしてしまった実感はあったようで、フィアビルーオは咳払いしてみせた。仕切り直しとばかり、口早に長広舌を遂げる。
「弓や槍を捨て駒として物量で押し、騎馬を戦車に用いるのが軍隊の基本だ。隊内で単騎を駆る操舵手は、司令官クラスが虚仮威しに乗りこなしている場合が多い―――第五部隊が揃い踏みした我々は、機動力で彼らに勝っている。先手を打ち、撹乱に繋げられもしよう。なにより軍は、公権に依り発動された武力だ……彼らは勝敗を見せつけにきたのであって、勝負を賭してまで鏖殺を貫徹しはすまい。理想的勝利を得られない状況下に持ち込みさえすれば、まず間違いなく彼らは撤退する―――はずだ。あの規模、かつ、宮廷議会全承認により執行された王権統治叛逆罪でさえなければ」
「えげつないこったなあ。あくまでどうあっても武力衝突する前提とくる。交渉の方は?」
「決裂している」
「没交渉って意味で?」
「没にされるまでもなく、一方的な最後通牒の端切れからさえ、一抹の交渉の余地すら無かった。聞きたいか?」
「……さわりくれえなら。お手柔らかに」
「『前略、親愛なる<彼に凝立する聖杯>殿。全力で足掻け。足掻く用意をする猶予はくれてやる。悪足掻きだと見せしめにするために。敬具。国家権力より愛を込めて』だ」
「……愛?」
「込もらんと出来るかこんなこと。まったく意味のないダメージを負うと分かって、なお実行するしかない盲目的な妄信だ。五体満足で産まれた赤ん坊なのに、六本指だったからどの指を詰めるというような話だ」
いけ好かんとばかりに吐き捨てるフィアビルーオに、ふと思う。六本指。多指症。詰める。斬る―――のは……
(―――どの指なんだろう?)
斬り落とされるのは、どの指なのだろうか。
たとえば極道者は、一家を裏切った制裁として、利き手の小指から切断する……次は反対の手の小指、その次は利き手の薬指と、かわりばんこに続く。ただしこれは、刀剣を保持する握力を殺ぎ、なおかつ日常生活上での支障を最小限に済ませる為の、計算ずくの行いだ―――言われてみれば当然で、拇指や示指を失うと、スプーンも持てなければボタンも掛けられなくなる。そういった意味では、まだしも兄弟分への温情だと言えた。
なんのついでかそう説いてくれた物知り顔のイコに、当時エニイージーは切り出すことが出来なかった。温情? 本当にそうだろうか? もう二度と約束を裏切らないよう、ゆびきり出来なくしたんじゃないのか? それか、約束そのものを世界から断ち切ったか。過去の恋文を破るように。破棄された契約書に鋏を入れるように。
おセンチだぁね、とイコだったなら肩を竦めがてら軽く流してくれたろうが―――
「……フィアビルーオ次席」
「エニイージー。どうした?」
「六本指なら、斬り落とすのって、小指なんでしょうか」
「六本目だ。親指も小指もあるか」
不意の問いかけだろうに、ばっさり断言して。フィアビルーオは、背後にいるこちらへと顔面だけ振り返らせてきた。ただし視線は考えるように横ずらせて―――さらには、付け加えてきた。
「敢えて言うなら、余分で、目に余り、なくなっても代替えが利くやつだ。見栄えが悪く不器量なら、なお好都合に見限れる」
「……どれも大体、子どもじゃないですか」
「子指とでも? センチメンタルだな」
と、にやりと破顔を決めてから、顔の向きを元に戻す。そうして……独りごちてきた。
「まあ、嫌いな比喩ではない。わたしはジャヌビダだ」
なにやらその語気は、暗い笑いでも噛み殺し損ねたように、くつくつとひくついていた。
ついでに、向き直った時に不吉な豹変を見せたアレルケンの眉間の隆起とゾラージャの吐息―――ため息―――を見聞きするだに、語気どころか破顔の度合いまで悪いベクトルを割り増ししていたに違いない。そのまま、喝破するかのように息巻いてみせる。
「親だろうが母国だろうが、ママはあなたの為に言ってるのなんて印籠文句だけで唯々諾々と受け入れてたまるものか……愛されるだけありがたいと思えなんぞ抜かすようなとんだクソペアレンツどもに、とびっきりの熨斗つけて返してくれるわ! しゃらくさい!」
フィアビルーオ―――ジャヌビダ・フィアビルーオ―――が、それを最後に、二本指を側頭に添える簡易敬礼をゾラージャらへ向けた。それに対して、ゾラージャも中指と人差し指をぴっと挙げ、その背後にいるアレルケンもしぶしぶながら倣う。
と。そこにきてフィアビルーオが、ふと気付いたと言わんばかりに、立てていた指の先をゾラージャの鼻頭に翻した。
「あと緋色いってなんだ。黄色いみたく言うからスルーしかけたが。言葉は正しく使わんか」
「えー? いいでしょ、そんくれえのことで重箱の隅を楊枝でつんつくせんでも。そもそも、黄色いって言い回しだって、本来は邪道でしょうがよ。黄色いってのが正道なら、『赤い』『青い』だって『赤色い』『青色い』ってのが正しくなっちまうし。引っ繰り返るにしたってアベがコベっすわ。それ」
それ以上拘ることでもなかったようで、のらりくらりと口ごたえするゾラージャに、フィアビルーオは小言を重ねてきはしなかった。ただ鼻をひと鳴きさせて区切りをつけると、ひと足先に離脱したアレルケンとは違う方向へ踵を返す。あのふたりきょうだいで、頭領・副頭領・部隊長第一席主席の役割まで一手に引き受けているとしたら、やるべきことは引きも切らないはずだ。ネッカチーフを戦がせるように肩で風を切っていく後姿を、なんとはなしに見送って―――
とん、と首根っこが重くなる。更には、温まる。それを感じた。
はっとして両目を正面に取り戻すと、真ん前からゾラージャが両手をこちらの肩口に掛けてきている。まっすぐ瞳を覗き込むようにして―――それなのに、フィアビルーオへ差し出していた眼差しを思い出さずにおれない、真意を隠して透明度を増した眸底を曝して、口火を切る。
「っつーわけだ。俺たちは、あいつらとカタを付ける。旗無しどもとは旗色が違うがな。勝手違いだとも、お門違いだとも、分かっちゃいる。そんでも、だ。片付ける」
そこでゾラージャは、いったんせりふを切った。もしかしたら、エニイージーを待っていたのかもしれない―――承諾したという返事か、呑んで受け入れるしかないがゆえの相槌か、もっと詳しい状況説明を欲しての質問か、そういったものが表出するだろうと。どれもこれもなかったことに落胆はしただろうが、それでも諦めず、粘り強く言い聞かせてくる。
「エニイージー。お前は強い。槍でも騎射でも右に出る奴ぁいねえ。場数も踏んできた。抜きん出た旗司誓だ。そんでも俺が上に立つのは、重石みてえなもんなのよ―――ぐんぐん天井知らずに伸びてく鼻っ柱に小躍りしながら空ぁ見てる青二才が、足元すくわれてズッコケる寸でで襟首ひっかけてやって、首を折らねえ為の。まあ憎まれ役だ。だから、憎んでくれて構わねぇんだが、」
―――と。
問いかけが、やってくる……
「今度こそ俺は間に合ったのか?」
問いはどこまでも内面から反響し、外界の現実感を遠のける。
身体は動いていた。ゾラージャから引き継がれた第五部隊の動きに流されるまま、エニイージーは武装を準備した―――革製の胸甲を着込み、征矢の込められた箙を右腰に吊り、合成弓を首から提げた。弦がうなじの窪みに落ち着く頃には、弓把も鎖骨の間に納まる。素乗りで騎獣の頸椎根に跨り、両足を双牙それぞれの歯根に掛け、右手で手綱を取った。その頃には、左手に渡された槍を左の肩に掛けている……長距離を移動する際にバランスを重視して斜めに背負うのではなく、槍の穂先と柄を連結する金輪の付け根に二つ折りの帯を結び、その二つ折りに腕を潜らせるかたちで左肩のみに担いだ。怒り肩を思わせる胸甲の造作が、槍がそこから滑り落ちるのを許しはしない。肩の後ろで直立する両刃をちらと振り返れば、騎獣の背に括りつけられた鞍までもが見えた―――集団戦において、一番槍として横隊した敵の中心を突破する槍騎兵から、縦隊した敵の側面を騎射で崩す騎馬弓兵までやりこなすエニイージーに特に合うよう、可能な限り軽量かつ小型に作られている。操舵手を限定する旗司誓ならではの、特化した技巧だった。旗司誓ならでは。
(旗司誓……)
旗司誓。
<彼に凝立する聖杯>正門前に展開しつつある彼らの背の間を避ける動線で、騎獣を操舵したエニイージーは前庭グラウンドへ―――その先の戦端へ向かっていた。
今となっては撲滅傾向にあるものの、こうして組織として一騎打ちを挑んでくる輩も、いないではない。煮え湯を飲まされた武装犯罪者による意趣返しもあるが、売名目的に旗司誓同士でやり合うことすらあった。いわゆる決闘である―――ただし戒域綱領制定後は武装強盗旅団も解体が進む一方となった影響で、組織全体の底上げを図るいち手段としてのカチコミよりも、個人的に名を上げんが為に旗司誓であることを名目としてのタイマンのふっかけ、というケースが増えていた。旗幟よりか、己が二つ名を賭けての行いだ。集団を強固に連帯させることでしか乗り越えられない脅威の減少と共に、個々が自由を利かせられるようになってきた典型例とも言えるが、だからこそ今の<彼に凝立する聖杯>が総力戦を以って国軍をやりすごせるのか、懐疑的な空気が優勢となるのも当然の成り行きだろう。実際、追い抜きざまに小耳に挟む呟きは好戦的に湧き立つ予兆もなく、どれも動揺と陰気を込められるまま先細りしていくものばかりだった。
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「前にとっちめた、うすらとんかちの武装犯罪者が相手じゃあるまいに」
「おかしいって。こんなの、おかしすぎるって。あの英雄扱いから掌返して―――」
「でも。通達が」
「司左翼だぞ? 刃向かうだけで、公務執行妨害罪が加算されるんじゃないのか? その―――王権統治叛逆罪ってやつに」
「王権統治叛逆罪とは!!」
フィアビルーオの一喝が、ざわめきを打擲した。
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「政権に依る治安を乱すすべての行いに適応される律令だ―――要は、キャラバンから積み荷を強奪する武装犯罪者だろうが、公共図書の貸し出し本からページを破り取るクソガキだろうが、マルチに適法となる!」
「さすがガキの時分その本で先生からビンタされた奴が言うと説得力が違う」
「前科も付かなかった過去はそれとして!!」
と、左側の独り言を大音声で揉み消す駄賃に、発言者の後ろ頭めがけて平手を叩きつけつつ、フィアビルーオ。
「あるのかよ過去」
「マジでか」
「どっちがどっちのフィアビルーオだあいつら」
「知んねぇから、もうゲッチョメとかでいいんじゃね?」
皆の困惑に、じゃっかんの濃度変化が起きたものの、それについてはきっぱりと無視して、フィアビルーオ―――右側の―――の力説は途切れない。
「ここ数日に渡り我々が国家を騒乱した事実は事実だ……ひとまずは、目には目を歯には歯をで、この場を凌ぐ!! 我ら旗司誓<彼に凝立する聖杯>、双頭三肢の青鴉を戴いた御旗を証すべく、血肉を以って義に尽くす時だ!!」
「―――なんで?」
エニイージーは、ぽつりと囁いていた。
徐々に……だが確実に、その囁き声ばかり、胸中へ浸透してくるようになる。
「凌いだから、どうなる? なんの為に―――そんなことしなきゃならないんだ」
どうせ死ぬ生ではないか。
いずれ終わる命ではないか。
「我らの。血? 肉?」
今この時すら、代謝という名の共食いを続けるだけの血と肉ではないか。
「義? 誇り? それっぽっちの……これまで死なずにいただけの分際が、ふんぞり返りやがって、いけしゃあしゃあと偉そうに。御旗? あんな砂まみれで床も拭けやしない襤褸っきれ、やいのやいの持ち上げて―――どうかしてる……どうかしてるぜ、お前ら。ちゃんちゃらおかしい馬鹿ばっかり……」
「鏑矢の射音と同時、プラン通りに行動開始! 各自、必死になるあまり、プラン変更の半鐘を聞き逃すな―――!」
騎獣ごと、身体は着々とフィアビルーオの元へ到着しつつあるというのに、その声音はどこまでも遠く、薄まっていく。それとすげ替わるようにして、己の内側から言葉が湧いて出た。ぽろぽろ、ぽろぽろと。蛆のように。落涙のように。
エニイージーは、空を仰いだ。今は夜空だが。曰く、曇天の向こうには、青空がある―――
「なければよかったんだ」
あったことを、しっている―――その、灰と青灰の色が混沌めいてひしめく叢雲の帳に閉ざされた、その袂。天と地の空隙。
そこには、棒に括りつけられた小汚い一枚布がある。やぼったい青色のそれは、悔踏区域から吹き荒ぶ風に弄ばれるまま もたもたとだるそうに蠢くだけで、そこに縫い付けられた二つ頭に三つ足を生やした化け物は、これっぽっちも飛べやしない。
かつて、それを司ると誓った。愛を誓うように―――おそらくは。神聖だったはずだ。神により、別格をゆるされたはずだ。おそらくは。
「あア馬鹿らしい」
馬も鹿も知らずにいた。無知だろうか? 馬鹿だ。
馬も鹿も見分けずにいた。無垢だろうか? 馬鹿だ。
鹿を馬だと信じていた。無心にも。こころから。
「馬鹿ばぁぁアーー……―――っか、だ」
馬も、鹿も、馬だと思えていた鹿も、いっそのこと―――馬そっくりに化けたモノまでも。どれもこれもひっくるめて、徹頭徹尾まで馬鹿馬鹿しい。そう思える。思えてしまう。
そうとも。出来てしまう。人は。誓いは破れる。人は殺せる。汚していいし、穢れていい。いやしくて、いい……ゆるされる。いつだって―――どこまでも、ゆるされている。本当に、すがすがしいまでに、真実この世は楽が出来る。楽だ。楽だ。楽園だ。
「死ねばいいのに」
裏切られていた裏切りに―――エニイージーは、【な】いた。
「いいんだ。もういい。いらねえ。なくなっちまえ。きれいさっぱり。おさらばだ。全部。この、ぜぇんぶ、だ」
全部。
無から解脱し、はじまってしまっていたこのすべてが、もれなくすげ替わるように失われていく―――あたかも、のぞみを裏切る為だけに、この【世】【界】は人に在るようだ。
のこされ続ける、失望と絶望―――そうして、失い、絶たれ、報いのないここに、それでも生きていく価値などあるものか。あると信じるのか? 愚かにも。愚かしくも、賢いと……疑わずにいられるのか?
その問いかけが試されている。とうに滅びは訪れていたのだ。司左翼ではなく―――ずっと、未知なる領域から、その問いかけは続いていた。失われるを物語るべく遣わされた、何者か……御使いからの問いかけが。
(俺は、それを見届ける。その、こたえを見届けるんだ。頭領のかわりに、俺が。頭領、頭領……)
これが何なのか―――知っている、それを、見届ける。
終焉だ。まもなく、すべてが総べられる。須らく凡ての生命は凌辱され、すげなく全ての尊厳は汚辱され、もれなく破滅に支配される。これっきりにしてくれる。耳障りな耳も目障りな目も勘に障る勘も―――気に障る全部を、これっきりにしてくれる。
死は絶望ではない。死は正義だ。平等かつ公平な、揺らぐことのない幕切れ。こんな自分ですら招き入れてくれる、大いなる御手。
その手を取りかけたことがある。
けれども、手を切った―――実の親ごと、手を切った。その替わりに、手に手を取って手渡してくれた旗幟棒を握り返した……交わす握手に、約束を証すように―――ゆびきりした小指に、誓いを立てるように。その手から、その人そのものを脳裏に手繰り出す。旗司誓。雷髪燐眼。稲妻の咬み痕。霹靂。頭領。ザーニーイ。<彼に凝立する聖杯>の英雄。英雄となり死んだ男。殺した男。この手で彼が、殺した男。
(頭領……俺が死ねば、俺と同じ裏切り者が抜かしてくれた全部が全部、なくなって―――嘘になって……くれますよね?)
【わら】いながら、エニイージーは到来を待つ。
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