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ノアの事情 05
しおりを挟む朝から街を走り回っていたノアは、焦りから速くなる鼓動を持て余しながらファムファタルへの通りを進んでいた。
昨夜デズモンドから信じられないことを聞かされ、店の女性たちと出せる金額を話し合った。集まった金は百二十万。友人のために集まった金額としては驚くべき数字だが、アイリーンの貯蓄を足してもまだ賠償額に足りない。
ノアは街が活動を始めると同時に何件も金貸しを回ってみたが、色良い返事はひとつももらえなかった。
アイリーンの賠償金は、ノアの稼ぎで返せる額ではない。
だが年季が明ければ、ノアは自分の身体を自分で売ることができる。人間を、ファムファタルでは想像もできないような扱い方をしている市場がある。泣き叫ぶ姿を愉しむための安い人間とは違い、どう扱っても息絶えるまで従順に傅く人間が高値で売れるという。痛いのは苦手だが、薬に漬けられるらしいのできっと大丈夫だ。アイリーンの部屋の宝飾品を勝手に売ればきっと足りる。
そう思ってのことだったが、そんな三年後の約束では担保にならなかった。
ファムファタルは良くも悪くも名が通っている。まともな金貸しは担保もない娼婦に金を貸すわけもなく、まともでない金貸しはファムファタルを相手取っても面倒なばかりと話も聞かない。
アイリーンの助けになりたいのに、ノアには貯蓄もなく、売り払える装飾品もない。己の無力さに吐き気がする。
ファムファタルの豪奢な門の前に戻ると、ここにはいないはずの男がノアを見つけて駆け寄ってきた。
「久しぶり」
ぎこちなく笑う顔に、最悪な別れ方を思い出す。
「……アイザック……」
「ちょっと、忙しくて来れなかった。
新聞読んだ? けっこう活躍してきたんだけど、
………もう、俺の記事なんか見てないか」
―――見てるよ。
すごいね。
国王陛下に勲章を頂いたんだね。
貴族のお姫様と結婚するんだね。
今までなら素直に言えたおめでとうが、胸の奥で醜く歪む。
返事をしないノアに、アイザックは少し悲しい顔をした。
「会えない間に、ノアに言われたこと、ちゃんと考えてみた。
やっぱり俺はタリアを娼婦にしたくないし、俺も娼館で働く覚悟はない。でも、信じてもらえないかもしれないけど、ノアを汚いなんて絶対思わない。
筋が通ってないって、自分でも分かるよ。ノアが言ってたとおり、俺は考えが甘いんだと思う」
褐色の瞳が、ノアを真っ直ぐに捕まえる。
「でもひとつだけ、俺の方が正しかった。
もう抱けなくても、俺のこと好きじゃなくても―――名前も知らなくても、やっぱりノアが好きだったよ」
笑おうと努めて失敗しているアイザックの声が愛しい。
(……そうか、私、)
良いお客さんだから、いつも呼んでくれると嬉しいのだと思っていた。
良いお客さんだから、会えない時に気にかかるのだと思っていた。
抱きしめてもらうと高揚して、他愛無い贈り物が嬉しくて、寝込んでいたら心配で―――他のどの客よりも、お金で抱かれることが、虚しい。
いつからなのかは、分からない。
初めての感情だったから、気づかなかった。
(………私、アイザックが、好きだったんだ)
いつも真っ直ぐなアイザック。
あまり深く考えなくて、贈り物のセンスが壊滅的で、甘えん坊の、朝が弱い、新聞記事からは分からないアイザック。
あんな綺麗なお姫様と結婚するアイザックが、私を好きだと言う。
「……嬉しい……」
逞しい腕をとり、身体を寄せる。アイザックの頬を両手で包み、つま先を伸ばしてゆっくりと唇を合わせる。舌を差し入れると、アイザックが驚いたようにノアの肩を剥がした。
「ノア?」
「……………お金を、貸してほしいの……」
アイリーンを助けるための金を。
何の見返りもなくノアを抱きしめてくれた、ただひとりの人。
彼女がいたから、つらい中でもノアは心を保っていられた。
彼女がいなければ、笑い方すら忘れていただろう。
彼女の愛情がノアだけのものでないことは知っている。それでも、彼女を見殺しにして、その事実を負ったまま生きていくなんてできない。
アイリーンが助かるなら、なんでもする。
アイリーンのものを盗んで、勝手に売る。
この身体も命も売る。
アイザックの好意も利用する。初めての、きっと、最後の恋が泥にまみれても、アイリーンの命と引き換えなら笑って諦められる。
「金が要るのか。いくら?」
ぐるぐると勝手な算段が巡る思考をアイザックの声が止めた。
何でもないことのような声の調子に、すっと頭が醒めて、妄想が破れる音にノアの琥珀色の瞳からぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。
アイザックは、きっと五千とか一万とか、それくらいの金額を想定しているのだろう。それにしたってただの顔見知りに貸すには大金だけれども。
三百万という金は、気に入った娼婦に貸せる金額を超えている。
「…………ごめんなさい、なんでもない」
アイザックのお金は、彼がこの国を守るためにつらい仕事で命懸けで稼いだ金だ。
走り去ろうとするノアの腕をアイザックが掴まえた。
「どこ行くんだ」
「ごめんなさい、急いでるの。
あと二百八十万、なんとかして集めなきゃ」
「何があった?」
「アイリーンが、賠償金が払えなくて、収監されてるの。怪我してるのに、病気なのに、………急がないと、死んでしまう。今アイリーンが死んだら、私、生きていけない。急いでるの、放して」
「…………そうか」
アイザックはノアの腕を掴んだまま厳しい顔で呟いた。腕を振り払おうと踠くノアの手を握り直して、門番の前まで進む。
「支配人と約束してるアイザック・フレイザーだ」
「承っております。支配人がお待ちです。応接室へご案内いたします」
門番が通用門を開け、案内の使用人に付いて庭園を歩く。手を繋いだまま引っ張られるように後をついていくノアはアイザックの腕を拳で叩きながら抗議する。
「ねぇ、放して!」
「ノアにも話があるから、一緒に来て。
―――俺は多分、今日のために金を稼いでたんだと思うよ」
デズモンドの応接室に通され、ソファに座るなりアイザックは挨拶もせず話を始めた。
「支配人。ノアの残りの年季、全部予約するのに、いくら必要?」
デズモンドはちらりとノアを見遣ったが、すぐにアイザックに視線を戻す。
昨夜、ノアの年季を減らす手続きをしようとしていたデズモンドを止めたのはノアだ。アイリーンの貯蓄は賠償金に充てて欲しかったので、ノアの年季はまだそのまま残っている。
「全部ですか? 今身請けされた方が、お安く済みますが」
「それはふられたんだよ。予約で」
「休日もありますから、三年、毎日ですと、………二百四十万ほどでございましょうか」
「即金で三百、今週中に五百持ってくる。ノアを予約して、アイリーンって子の釈放の手続きして、元気になるまで面倒見るって可能?」
デズモンドが目を見開く。
「フレイザー様がアイリーンを? ……今週中であれば、フレイザー様がお約束されるなら釈放は可能でしょう。業務外ですので、よろしければ私が個人的にご対応いたしましょう」
「助かる。あんたの手間賃も貸しといて」
「―――では、お先に拘置所に向かい、話をしてきます。後から現金か証書をお持ちください。
ノアの件は、後ほど」
デズモンドにしては珍しく、慌ただしく離席し、応接室を飛び出す。廊下で副支配人に早口で指示を出している声が遠ざかっていく。
ノアは呆然と閉められた扉を眺めた。
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