運命の女

花鶏

文字の大きさ
上 下
11 / 12

ノアの事情 05

しおりを挟む

 朝から街を走り回っていたノアは、焦りから速くなる鼓動を持て余しながらファムファタルへの通りを進んでいた。

 昨夜デズモンドから信じられないことを聞かされ、店の女性たちと出せる金額を話し合った。集まった金は百二十万。友人のために集まった金額としては驚くべき数字だが、アイリーンの貯蓄を足してもまだ賠償額に足りない。
 ノアは街が活動を始めると同時に何件も金貸しを回ってみたが、色良い返事はひとつももらえなかった。

 アイリーンの賠償金は、ノアの稼ぎで返せる額ではない。
 だが年季が明ければ、ノアは自分の身体を自分で売ることができる。人間を、ファムファタルでは想像もできないような扱い方をしている市場がある。泣き叫ぶ姿を愉しむための安い人間とは違い、どう扱っても息絶えるまで従順に傅く人間が高値で売れるという。痛いのは苦手だが、薬に漬けられるらしいのできっと大丈夫だ。アイリーンの部屋の宝飾品を勝手に売ればきっと足りる。
 そう思ってのことだったが、そんな三年後の約束では担保にならなかった。

 ファムファタルは良くも悪くも名が通っている。まともな金貸しは担保もない娼婦に金を貸すわけもなく、まともでない金貸しはファムファタルを相手取っても面倒なばかりと話も聞かない。

 アイリーンの助けになりたいのに、ノアには貯蓄もなく、売り払える装飾品もない。己の無力さに吐き気がする。

 ファムファタルの豪奢な門の前に戻ると、ここにはいないはずの男がノアを見つけて駆け寄ってきた。

「久しぶり」

 ぎこちなく笑う顔に、最悪な別れ方を思い出す。

「……アイザック……」
「ちょっと、忙しくて来れなかった。
 新聞読んだ? けっこう活躍してきたんだけど、
 ………もう、俺の記事なんか見てないか」

 ―――見てるよ。
 すごいね。
 国王陛下に勲章を頂いたんだね。
 貴族のお姫様と結婚するんだね。

 今までなら素直に言えたおめでとうが、胸の奥で醜く歪む。

 返事をしないノアに、アイザックは少し悲しい顔をした。

「会えない間に、ノアに言われたこと、ちゃんと考えてみた。
 やっぱり俺はタリアを娼婦にしたくないし、俺も娼館で働く覚悟はない。でも、信じてもらえないかもしれないけど、ノアを汚いなんて絶対思わない。
 筋が通ってないって、自分でも分かるよ。ノアが言ってたとおり、俺は考えが甘いんだと思う」

 褐色の瞳が、ノアを真っ直ぐに捕まえる。

「でもひとつだけ、俺の方が正しかった。
 もう抱けなくても、俺のこと好きじゃなくても―――名前も知らなくても、やっぱりノアが好きだったよ」

 笑おうと努めて失敗しているアイザックの声が愛しい。

(……そうか、私、)

 良いお客さんだから、いつも呼んでくれると嬉しいのだと思っていた。
 良いお客さんだから、会えない時に気にかかるのだと思っていた。
 抱きしめてもらうと高揚して、他愛無い贈り物が嬉しくて、寝込んでいたら心配で―――他のどの客よりも、お金で抱かれることが、虚しい。

 いつからなのかは、分からない。
 初めての感情だったから、気づかなかった。

(………私、アイザックが、好きだったんだ)

 いつも真っ直ぐなアイザック。
 あまり深く考えなくて、贈り物のセンスが壊滅的で、甘えん坊の、朝が弱い、新聞記事からは分からないアイザック。
 あんな綺麗なお姫様と結婚するアイザックが、私を好きだと言う。

「……嬉しい……」

 逞しい腕をとり、身体を寄せる。アイザックの頬を両手で包み、つま先を伸ばしてゆっくりと唇を合わせる。舌を差し入れると、アイザックが驚いたようにノアの肩を剥がした。

「ノア?」
「……………お金を、貸してほしいの……」

 アイリーンを助けるための金を。

 何の見返りもなくノアを抱きしめてくれた、ただひとりの人。
 彼女がいたから、つらい中でもノアは心を保っていられた。
 彼女がいなければ、笑い方すら忘れていただろう。
 彼女の愛情がノアだけのものでないことは知っている。それでも、彼女を見殺しにして、その事実を負ったまま生きていくなんてできない。

 アイリーンが助かるなら、なんでもする。
 アイリーンのものを盗んで、勝手に売る。
 この身体も命も売る。
 アイザックの好意も利用する。初めての、きっと、最後の恋が泥にまみれても、アイリーンの命と引き換えなら笑って諦められる。

「金が要るのか。いくら?」

 ぐるぐると勝手な算段が巡る思考をアイザックの声が止めた。
 何でもないことのような声の調子に、すっと頭が醒めて、妄想が破れる音にノアの琥珀色の瞳からぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。

 アイザックは、きっと五千とか一万とか、それくらいの金額を想定しているのだろう。それにしたってただの顔見知りに貸すには大金だけれども。
 三百万という金は、気に入った娼婦に貸せる金額を超えている。

「…………ごめんなさい、なんでもない」

 アイザックのお金は、彼がこの国を守るためにつらい仕事で命懸けで稼いだ金だ。
 走り去ろうとするノアの腕をアイザックが掴まえた。

「どこ行くんだ」
「ごめんなさい、急いでるの。
 あと二百八十万、なんとかして集めなきゃ」
「何があった?」
「アイリーンが、賠償金が払えなくて、収監されてるの。怪我してるのに、病気なのに、………急がないと、死んでしまう。今アイリーンが死んだら、私、生きていけない。急いでるの、放して」

「…………そうか」

 アイザックはノアの腕を掴んだまま厳しい顔で呟いた。腕を振り払おうと踠くノアの手を握り直して、門番の前まで進む。

「支配人と約束してるアイザック・フレイザーだ」
「承っております。支配人がお待ちです。応接室へご案内いたします」

 門番が通用門を開け、案内の使用人に付いて庭園を歩く。手を繋いだまま引っ張られるように後をついていくノアはアイザックの腕を拳で叩きながら抗議する。

「ねぇ、放して!」
「ノアにも話があるから、一緒に来て。
 ―――俺は多分、今日のために金を稼いでたんだと思うよ」


 デズモンドの応接室に通され、ソファに座るなりアイザックは挨拶もせず話を始めた。

「支配人。ノアの残りの年季、全部予約するのに、いくら必要?」

 デズモンドはちらりとノアを見遣ったが、すぐにアイザックに視線を戻す。
 昨夜、ノアの年季を減らす手続きをしようとしていたデズモンドを止めたのはノアだ。アイリーンの貯蓄は賠償金に充てて欲しかったので、ノアの年季はまだそのまま残っている。

「全部ですか? 今身請けされた方が、お安く済みますが」
「それはふられたんだよ。予約で」
「休日もありますから、三年、毎日ですと、………二百四十万ほどでございましょうか」
「即金で三百、今週中に五百持ってくる。ノアを予約して、アイリーンって子の釈放の手続きして、元気になるまで面倒見るって可能?」

 デズモンドが目を見開く。

「フレイザー様がアイリーンを? ……今週中であれば、フレイザー様がお約束されるなら釈放は可能でしょう。業務外ですので、よろしければ私が個人的にご対応いたしましょう」
「助かる。あんたの手間賃も貸しといて」
「―――では、お先に拘置所に向かい、話をしてきます。後から現金か証書をお持ちください。
 ノアの件は、後ほど」

 デズモンドにしては珍しく、慌ただしく離席し、応接室を飛び出す。廊下で副支配人に早口で指示を出している声が遠ざかっていく。

 ノアは呆然と閉められた扉を眺めた。


.
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】もうやめましょう。あなたが愛しているのはその人です

堀 和三盆
恋愛
「それじゃあ、ちょっと番に会いに行ってくるから。ええと帰りは……7日後、かな…」  申し訳なさそうに眉を下げながら。  でも、どこかいそいそと浮足立った様子でそう言ってくる夫に対し、 「行ってらっしゃい、気を付けて。番さんによろしくね!」  別にどうってことがないような顔をして。そんな夫を元気に送り出すアナリーズ。  獣人であるアナリーズの夫――ジョイが魂の伴侶とも言える番に出会ってしまった以上、この先もアナリーズと夫婦関係を続けるためには、彼がある程度の時間を番の女性と共に過ごす必要があるのだ。 『別に性的な接触は必要ないし、獣人としての本能を抑えるために、番と二人で一定時間楽しく過ごすだけ』 『だから浮気とは違うし、この先も夫婦としてやっていくためにはどうしても必要なこと』  ――そんな説明を受けてからもうずいぶんと経つ。  だから夫のジョイは一カ月に一度、仕事ついでに番の女性と会うために出かけるのだ……妻であるアナリーズをこの家に残して。  夫であるジョイを愛しているから。  必ず自分の元へと帰ってきて欲しいから。  アナリーズはそれを受け入れて、今日も番の元へと向かう夫を送り出す。  顔には飛び切りの笑顔を張り付けて。  夫の背中を見送る度に、自分の内側がズタズタに引き裂かれていく痛みには気付かぬふりをして――――――。 

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

【完結】愛とは呼ばせない

野村にれ
恋愛
リール王太子殿下とサリー・ペルガメント侯爵令嬢は六歳の時からの婚約者である。 二人はお互いを励まし、未来に向かっていた。 しかし、王太子殿下は最近ある子爵令嬢に御執心で、サリーを蔑ろにしていた。 サリーは幾度となく、王太子殿下に問うも、答えは得られなかった。 二人は身分差はあるものの、子爵令嬢は男装をしても似合いそうな顔立ちで、長身で美しく、 まるで対の様だと言われるようになっていた。二人を見つめるファンもいるほどである。 サリーは婚約解消なのだろうと受け止め、承知するつもりであった。 しかし、そうはならなかった。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

【完結】ルイーズの献身~世話焼き令嬢は婚約者に見切りをつけて完璧侍女を目指します!~

青依香伽
恋愛
ルイーズは婚約者を幼少の頃から家族のように大切に思っていた そこに男女の情はなかったが、将来的には伴侶になるのだからとルイーズなりに尽くしてきた しかし彼にとってルイーズの献身は余計なお世話でしかなかったのだろう 婚約者の裏切りにより人生の転換期を迎えるルイーズ 婚約者との別れを選択したルイーズは完璧な侍女になることができるのか この物語は様々な人たちとの出会いによって、成長していく女の子のお話 *更新は不定期です

アリシアの恋は終わったのです。

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

【完結】望んだのは、私ではなくあなたです

灰銀猫
恋愛
婚約者が中々決まらなかったジゼルは父親らに地味な者同士ちょうどいいと言われ、同じ境遇のフィルマンと学園入学前に婚約した。 それから3年。成長期を経たフィルマンは背が伸びて好青年に育ち人気者になり、順調だと思えた二人の関係が変わってしまった。フィルマンに思う相手が出来たのだ。 その令嬢は三年前に伯爵家に引き取られた庶子で、物怖じしない可憐な姿は多くの令息を虜にした。その後令嬢は第二王子と恋仲になり、王子は婚約者に解消を願い出て、二人は真実の愛と持て囃される。 この二人の騒動は政略で婚約を結んだ者たちに大きな動揺を与えた。多感な時期もあって婚約を考え直したいと思う者が続出したのだ。 フィルマンもまた一人になって考えたいと言い出し、婚約の解消を望んでいるのだと思ったジゼルは白紙を提案。フィルマンはそれに二もなく同意して二人の関係は呆気なく終わりを告げた。 それから2年。ジゼルは結婚を諦め、第三王子妃付きの文官となっていた。そんな中、仕事で隣国に行っていたフィルマンが帰って来て、復縁を申し出るが…… ご都合主義の創作物ですので、広いお心でお読みください。 他サイトでも掲載しています。

さようなら、家族の皆さま~不要だと捨てられた妻は、精霊王の愛し子でした~

みなと
ファンタジー
目が覚めた私は、ぼんやりする頭で考えた。 生まれた息子は乳母と義母、父親である夫には懐いている。私のことは、無関心。むしろ馬鹿にする対象でしかない。 夫は、私の実家の資産にしか興味は無い。 なら、私は何に興味を持てばいいのかしら。 きっと、私が生きているのが邪魔な人がいるんでしょうね。 お生憎様、死んでやるつもりなんてないの。 やっと、私は『私』をやり直せる。 死の淵から舞い戻った私は、遅ればせながら『自分』をやり直して楽しく生きていきましょう。

処理中です...