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新らしい景色の中へ
雨
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紫煙立ち上る澱んだ空間。あの市場の裏路地にある阿片窟にボロを纏い、身体を震わせながら蹲る若い男の影がある。
手には火傷の傷跡がまだ赤黒く爛れたまま。
阿片窟の中に誰か入ってくる度に、男はビクビクとした様子で一層縮こまって壁へと顔を背け俯いた。
二人組の男達が阿片窟へと入って来ると、そいつらは人探しをしている様子で一人一人の顔を見分して回っていた。
彼らは息を殺して蹲る男の背後に立つと、頑なに見えるその肩に手を置いた。
必死に顔を隠す様子は怪しく、強引にこちらに向かせると、望みのものが手に入ったらしく、2人組の男達はうっそりと微笑んだ。
「ああ、いたいた。こんな所にいたんですか?院長が心配して貴方をお探しですよ、さあ一緒に学院に帰りましょう。タオ君」
◆◆◆
学院から帰って来てからヴィクトーは難しい顔をしたままだった。一見、人当たりの良さそうな男なのに学院長からはどこか邪悪な臭気が立ち上っていた。
「親父は本当は何を見つけようとしていたんだ?なあ、エルネスト。親父は資金の見返りに何を学院長に渡そうとしていたのかな。本当は知ってるんだろう?」
黙々と三人で食事をしている席で、ヴィクトーが唐突にエルネストに聞いて来た。
エルネストは手にしていたナイフとフォークをテーブルの上に置き、改めてヴィクトーへと向き直る。
「ヴィクトー。あの当時、私らは学院長にこう言われていたんだ。発見物は考古学的な価値がある。出て来た遺物や資料は独占的に極東学院に渡して貰いたいと。
あの時は本当にただそれだけだったんだよ。ルイは未知の古代文明が必ずあるとか言ってはいたが、誰もがその時はどんな物が出てくるか分からなかったんだ。私も、あの学院長もね」
「でも、あの院長は今はそれが何だか分かっている口ぶりだった。俺はどうも嫌な感じがして堪らない。もしも何かを発見したとしても、あの人はきっと正しい事のために使うんじゃないと思う。俺の感触は間違っているだろうか」
テーブルの上に置かれたヴィクトーの手におずおずとエリックが手を重ねた。
「…あの、ヴィクトー。僕も何だかそんな気がします。研究資料を全て見せるのは怖い気がするんです」
皆口には出さなかったが、学院長は自分たちの敵だ。そんな三人の総意が漂った。
「こうなったら雨季だろうと何だろうと、シュアンの言った遺跡を早く見に行かないとな」
気の急いているヴィクトーをエルネストが嗜めた。
「こっちの雨季を舐めてはいかんぞ、ヴィクトー。滝のように降ってはあっという間に増水して川は濁流になってしまうぞ。雨で地形が変わる事だって珍しく無い。悪い事は言わん、探査に行くのは少し待ったほうがいい」
食事を終えたヴィクトーは自室の机の上で、ここ数日彼の頭を悩ませているものと格闘していた。
この雨季に出来ることと言ったら、当面は遺跡探索よりも象形文字の解読しかないと思われたからだ。
机の上には子供の頃に写しとった象形文字と緑の煙突から書き写した象形文字。
そして黒鞄に入っていた、ヒエログラフの彫られた石板の切れ端。それらを並べ、父の膨大な資料を片手に頭を捻っていた。
それはもう、こっちに来た当初から続けていた事だ。
だがここへ来て漸く少しだけ見えて来たこともあった。
これらに共通して沢山出てくる言語があるのだ。
それは何かの花の名前であったり、知らない虫の名前や香油の精製、保湿、乾燥、などの単語が並び、これらはひょっとしたら古代の美容法なのでは?と思ってみたり、それならば不老不死と言うキーワードに近いのでは無いかなど、ヴィクトーは頭の中で色々とこねくり回していた。
部屋には時を刻む時計の音と、それを凌ぐほどの激しい雨音が響いていた。
フランスにいる頃にはついぞ体感したことのない程の激しさに、思わずヴィクトーは窓の外へと視線を馳せた。
外には水煙が立っていた。
不意に、雨音に混じって何か弦楽器を奏でるような音が切れ切れにヴィクトーの耳には聞こえた気がした。
「エリック!…エリック!」
ヴィクトーが呼ぶと書斎へとエリックが顔を出した。
「どうしたんですか?…それにしても凄い雨ですね」
「なあ、エリック。今何か聞こえなかったか?何かこう…弦楽器の様な音が雨音に混じって切れ切れに…」
「楽器…ですか?」
二人は耳を澄ましてみたが、さっき微かに聞こえたと思った音はもうヴィクトーの耳にも聞こえては来なかった。
また直ぐに会おう。そう約束したまま別れたきりとなったシュアンは今頃どうしているだろうか。
ふとそんな事がヴィクトーの脳裏を過っていた。
シュアンはずっと、部屋にこもって一弦琴のダンバウを奏でていた。
ダンバウは縦に伸びた細い竿に弦がたった一本だけ張られた琴だ。
その竿を揺らして微妙な抑揚を響かせる。それはベトナムらしい美しい音色の楽器だ。
切ない響きを奏でているすぐその目の前で、あの精霊が膝を抱えてじっとそれに聞き入っている。
その紫の瞳からは涙がしとどに流れていた。
「貴方は何をそんなに悲しんでいるのでしょうか。ヴィクトー がそれほどまでに恋しいですか?それとも何かを嘆いていらっしゃるのでしょうか。貴方が誰なのか分かったら良いのに…」
雨音に琴の音色はかき消され、シュアンが顔を上げた時、その精霊の姿はもうそこにはなかった。
「今頃貴方はどうしているでしょうね、ヴィクトー」
シュアンは別れたきりのヴィクトーの事を奇しくも考えていた。
翌朝はあんなに降った雨が止んでいて、すっきりとした青空だった。
こんな空を見ると、遺跡調査に直ぐにでも行ける様な気がしてくるが、雨季のハノイの空は不安定で、いつまた昨夜の様に激しい雨に見舞われるかも分からない。そしてまたパタっと雨は止んでしまうのだが、そんな気まぐれな雨をエルネストはスコールと呼んでいた。
そんな爽やかな朝に、エブラール邸にメイドの悲鳴が響き渡った。
「旦那様ー!旦那様ー!!ヴィクトー様!!」
エルネストもヴィクトーもそしてエリックも、その悲鳴に驚いて寝巻きのまま廊下に飛び出し、悲鳴の聞こえた屋敷の裏門へと駆けつけた。
「どうしたっ!泥棒か?!青嵐か?!」
「旦那様、どうしましょう!人がっ、血だらけの人が…っ!」
動揺するメイドの足元を見ると、男がうつ伏せに倒れている。
強か雨に濡れた身体は、上着や髪、頬や首筋が泥と血に塗れていた。
「大丈夫か?!君…!どうしたんだ?!」
ヴィクトーとエルネストが駆け寄ってその男を抱き起そうとすると、苦しそうなうめきが真っ青な唇から漏れた。
「うぅ…っ、せ、せん、せ…」
それは聞き覚えのある声だった。
手には火傷の傷跡がまだ赤黒く爛れたまま。
阿片窟の中に誰か入ってくる度に、男はビクビクとした様子で一層縮こまって壁へと顔を背け俯いた。
二人組の男達が阿片窟へと入って来ると、そいつらは人探しをしている様子で一人一人の顔を見分して回っていた。
彼らは息を殺して蹲る男の背後に立つと、頑なに見えるその肩に手を置いた。
必死に顔を隠す様子は怪しく、強引にこちらに向かせると、望みのものが手に入ったらしく、2人組の男達はうっそりと微笑んだ。
「ああ、いたいた。こんな所にいたんですか?院長が心配して貴方をお探しですよ、さあ一緒に学院に帰りましょう。タオ君」
◆◆◆
学院から帰って来てからヴィクトーは難しい顔をしたままだった。一見、人当たりの良さそうな男なのに学院長からはどこか邪悪な臭気が立ち上っていた。
「親父は本当は何を見つけようとしていたんだ?なあ、エルネスト。親父は資金の見返りに何を学院長に渡そうとしていたのかな。本当は知ってるんだろう?」
黙々と三人で食事をしている席で、ヴィクトーが唐突にエルネストに聞いて来た。
エルネストは手にしていたナイフとフォークをテーブルの上に置き、改めてヴィクトーへと向き直る。
「ヴィクトー。あの当時、私らは学院長にこう言われていたんだ。発見物は考古学的な価値がある。出て来た遺物や資料は独占的に極東学院に渡して貰いたいと。
あの時は本当にただそれだけだったんだよ。ルイは未知の古代文明が必ずあるとか言ってはいたが、誰もがその時はどんな物が出てくるか分からなかったんだ。私も、あの学院長もね」
「でも、あの院長は今はそれが何だか分かっている口ぶりだった。俺はどうも嫌な感じがして堪らない。もしも何かを発見したとしても、あの人はきっと正しい事のために使うんじゃないと思う。俺の感触は間違っているだろうか」
テーブルの上に置かれたヴィクトーの手におずおずとエリックが手を重ねた。
「…あの、ヴィクトー。僕も何だかそんな気がします。研究資料を全て見せるのは怖い気がするんです」
皆口には出さなかったが、学院長は自分たちの敵だ。そんな三人の総意が漂った。
「こうなったら雨季だろうと何だろうと、シュアンの言った遺跡を早く見に行かないとな」
気の急いているヴィクトーをエルネストが嗜めた。
「こっちの雨季を舐めてはいかんぞ、ヴィクトー。滝のように降ってはあっという間に増水して川は濁流になってしまうぞ。雨で地形が変わる事だって珍しく無い。悪い事は言わん、探査に行くのは少し待ったほうがいい」
食事を終えたヴィクトーは自室の机の上で、ここ数日彼の頭を悩ませているものと格闘していた。
この雨季に出来ることと言ったら、当面は遺跡探索よりも象形文字の解読しかないと思われたからだ。
机の上には子供の頃に写しとった象形文字と緑の煙突から書き写した象形文字。
そして黒鞄に入っていた、ヒエログラフの彫られた石板の切れ端。それらを並べ、父の膨大な資料を片手に頭を捻っていた。
それはもう、こっちに来た当初から続けていた事だ。
だがここへ来て漸く少しだけ見えて来たこともあった。
これらに共通して沢山出てくる言語があるのだ。
それは何かの花の名前であったり、知らない虫の名前や香油の精製、保湿、乾燥、などの単語が並び、これらはひょっとしたら古代の美容法なのでは?と思ってみたり、それならば不老不死と言うキーワードに近いのでは無いかなど、ヴィクトーは頭の中で色々とこねくり回していた。
部屋には時を刻む時計の音と、それを凌ぐほどの激しい雨音が響いていた。
フランスにいる頃にはついぞ体感したことのない程の激しさに、思わずヴィクトーは窓の外へと視線を馳せた。
外には水煙が立っていた。
不意に、雨音に混じって何か弦楽器を奏でるような音が切れ切れにヴィクトーの耳には聞こえた気がした。
「エリック!…エリック!」
ヴィクトーが呼ぶと書斎へとエリックが顔を出した。
「どうしたんですか?…それにしても凄い雨ですね」
「なあ、エリック。今何か聞こえなかったか?何かこう…弦楽器の様な音が雨音に混じって切れ切れに…」
「楽器…ですか?」
二人は耳を澄ましてみたが、さっき微かに聞こえたと思った音はもうヴィクトーの耳にも聞こえては来なかった。
また直ぐに会おう。そう約束したまま別れたきりとなったシュアンは今頃どうしているだろうか。
ふとそんな事がヴィクトーの脳裏を過っていた。
シュアンはずっと、部屋にこもって一弦琴のダンバウを奏でていた。
ダンバウは縦に伸びた細い竿に弦がたった一本だけ張られた琴だ。
その竿を揺らして微妙な抑揚を響かせる。それはベトナムらしい美しい音色の楽器だ。
切ない響きを奏でているすぐその目の前で、あの精霊が膝を抱えてじっとそれに聞き入っている。
その紫の瞳からは涙がしとどに流れていた。
「貴方は何をそんなに悲しんでいるのでしょうか。ヴィクトー がそれほどまでに恋しいですか?それとも何かを嘆いていらっしゃるのでしょうか。貴方が誰なのか分かったら良いのに…」
雨音に琴の音色はかき消され、シュアンが顔を上げた時、その精霊の姿はもうそこにはなかった。
「今頃貴方はどうしているでしょうね、ヴィクトー」
シュアンは別れたきりのヴィクトーの事を奇しくも考えていた。
翌朝はあんなに降った雨が止んでいて、すっきりとした青空だった。
こんな空を見ると、遺跡調査に直ぐにでも行ける様な気がしてくるが、雨季のハノイの空は不安定で、いつまた昨夜の様に激しい雨に見舞われるかも分からない。そしてまたパタっと雨は止んでしまうのだが、そんな気まぐれな雨をエルネストはスコールと呼んでいた。
そんな爽やかな朝に、エブラール邸にメイドの悲鳴が響き渡った。
「旦那様ー!旦那様ー!!ヴィクトー様!!」
エルネストもヴィクトーもそしてエリックも、その悲鳴に驚いて寝巻きのまま廊下に飛び出し、悲鳴の聞こえた屋敷の裏門へと駆けつけた。
「どうしたっ!泥棒か?!青嵐か?!」
「旦那様、どうしましょう!人がっ、血だらけの人が…っ!」
動揺するメイドの足元を見ると、男がうつ伏せに倒れている。
強か雨に濡れた身体は、上着や髪、頬や首筋が泥と血に塗れていた。
「大丈夫か?!君…!どうしたんだ?!」
ヴィクトーとエルネストが駆け寄ってその男を抱き起そうとすると、苦しそうなうめきが真っ青な唇から漏れた。
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