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愛。
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晩秋の澄んだ夜空には穏やかな月明かり。波はあの日と変わらぬ表情でそこに揺蕩っていた。
今は影一つ無い静かな埠頭にその人は佇んでいた。
街灯の下。いつか棗が李仁を諦め、李仁が棗を見失ったベンチに、季節にそぐわぬ鈍色桜を身に纏った華奢な影が李仁を待ってた。
埠頭への階段を白い息を弾ませ李仁は駆け上がって来た。
まるで示し合わせたようにベンチの方へと走り出し、その姿が街灯に白く浮かび上がって見えると、李仁はその道のりを踏みしめるように丁寧に棗の元へとゆっくりと歩いた。
まるで幻のようだった。あの日、いなくなった時のままの姿が立ち上がり、李仁へと振り向いた。
見つめ合う眼差しが揺れている。切ない微笑みと穏やかな表情が広がった。
「君は虎だったんだね」
「貴方が龍だったんですね」
手が触れ合う距離で対峙し、互いの姿を懐かしむように見つめ合う。
「これは夢か?夢だとしたら残酷だ」
泣きそうな顔をして李仁が棗を見つめている。その言葉が、表情が棗の胸を揺さぶったが、だがどうしても棗は確かめねばならない事があった。
「あの…綺麗な女《ひと》とは…」
「誤解だ。彼女とは何でもない。恋人でも何でもない」
「本当…ですか?」
李仁は力強く頷いた。
「良かった。違うんですね?今度こそ本当に、貴方を諦めねばならないのかと…待っている間怖かった」
白い腕を伸ばして冷たい李仁の頬に触れると棗の頬から自然と流れる一筋の涙。
懐かしく愛しい人の体温が指先から伝わり身体の奥まで触れて来る。
「夢じゃありません、ごめんなさい。こんなに長くお待たせしてしまいました」
ゆっくりと二人の影が重なり合った。
その瞬間、欠けた片割れに出会ったような、ようやく一つの生き物に戻ったような得も言われぬ安堵が二人を包んだ。
暫くはものも言わずに互いの温もりを確かめ合い、やがて懐かしむように李仁は言葉を紡ぎ始めた。
「初めてホテルへ行った時の事を覚えているかい?君は男だとバレると知りながらオレを試した。好き以外に何が必要かと問われてオレは答えられなかった」
棗は李仁を抱き締めながら、その言葉を静かに聞いていた。
あの夜の覚悟を懐かしく思い出す。あれは正しく賭だった。拒絶され、終わったと思った。でも諦められなかった。
「でもあの時、貴方は踏み越えて来てくれましたね。私、本当に嬉しかった。生きていて良かったと思いました」
李仁の指が棗の髪を絡めて愛しむように優しく撫でる。髪からその身体から、己を苦しめ続けた白檀が香った。今は腕の中にある事が夢のようだった。
「初めてオレに抱かれた日。君は月明かりに男の身体を晒してこれでも抱けるのかとオレを試し、そして最後にもう一度君は試した。こうして君を辿れば嫌でも本当の君に出逢う。それでも自分を愛せるのかと君はオレに突きつけた」
言わないで、と棗が李仁の首に取り縋り、ふるふると首を横に振る。
「最後のは想定外でした。でも、結果的に試したのかもしれません。でも本当は、貴方だけには知られたくなかったんです。私を知って本当に追いかけてくれるかも分からなかった。
とても怖かった…、でも、貴方はこうして私を見つけてくれました。ごめんなさい。辛い思いをさせて…、こんな私でごめんなさい!」
「オレを信じてくれ。オレに全部預けろよ。どんな形をしていてもオレが必ず君を受け止め…」
李仁の最後の言葉を塞ぐように棗が李仁に口付けた。
ああ、こんな柔らかさだった。こんなに暖かく、こんなにしっとりと押し包み、口付けとはこんなに甘いものだった。
「こんな私で本当に良いの?私はきっとまた李仁さんを試してしまうかもしれない。それでも、」
「それでもだ。それでも君が好きだ。醜くて美しい君が好きだよ。大胆で臆病な君が好きだ。もう君以外なにも要らない」
「李仁さん…っ」
棗の魂が震えた。声にならない声が、言葉にならない言葉が、身体の深いところから膨れ上がり、涙となって破裂した。
李仁と棗が暮らしたのは一年ほどだったが、離れていた二年の間、愛は更に芳醇に熟成を極めていた。
「誰に抱かれてもずっと貴方が私の胸の中にいた。やっぱり貴方しか居なかった…」
こんな感動的な場面にありながら李仁はこれを聞き逃さなかった。
「あの写真家とやっぱり君は…」
棗がわざと李仁に火をつけただけなのか、それともそれは真実なのか。ただ曖昧に艶やかに微笑んで棗は否定も肯定もしなかった。
これが棗なのだ。そんな棗ごと自分は愛してしまったのだ。
「ふふ、李仁さん。今でも焼き餅焼いてくれるんですね。好きですよ?李仁さんのそう言うとこ」
してやられた気もする。
もし、棗が誰かに抱かれていたとしても、李仁の気持ちは揺らが無い事を棗は良く知っていた。
「そんな事言って良いのか?オレはいつか本当に嫉妬で君を殺してしまうかもしれないよ?」
二人の鼻先同士が戯れる。幾度もついばみを繰り返しながら甘ったるく微笑み合い、頬を擦り合わせては愛しさを分け合った。
「李仁さん、貴方になら例え何度殺されたって構わない。愛の刃で私を沢山突き刺して?」
ふふ、と李仁の肩が震えた。悪戯な笑みを口元に浮かばせて、わざと己の腰を擦り付けた。
「お望みなら、今夜君を挿し殺してやろうか」
今度は棗がしてやられたと李仁を可愛く睨みつけた。
「んもう…っ、エッチっ」
そう言って可愛く睨む棗の頬が照れたように薔薇色に染まった。
はにかみながらのび上がり、李仁の耳元に、貴方に良い事を教えてあげますと囁いた。
「貴方は私の…初恋の人です」
それは多分本当の事だ。
李仁は深い笑みを湛えた唇で棗の唇を甘く食んだ。
棗の薄く開いた唇が李仁を迎え入れ、幾度となくくり返された口付けも、今宵は水蜜桃の甘さを含み、そこに二人の万感の思いが込められた。
二人の飽くこと無い口付けに、さっきまで晴天の夜空には叢雲が湧き、恥入る月が重なり合う二人の姿を隠くして行った。
沢山の愛の形がある。純粋な愛。歪んだ愛。耐える愛。裏切る愛。溺れる愛。貫く愛。
だが愛という言葉はこの世に一つだけだ。愛は愛でしか無い。
そして愛を贖《あがな》うのもまた、愛でしかないのだ。
end.
今は影一つ無い静かな埠頭にその人は佇んでいた。
街灯の下。いつか棗が李仁を諦め、李仁が棗を見失ったベンチに、季節にそぐわぬ鈍色桜を身に纏った華奢な影が李仁を待ってた。
埠頭への階段を白い息を弾ませ李仁は駆け上がって来た。
まるで示し合わせたようにベンチの方へと走り出し、その姿が街灯に白く浮かび上がって見えると、李仁はその道のりを踏みしめるように丁寧に棗の元へとゆっくりと歩いた。
まるで幻のようだった。あの日、いなくなった時のままの姿が立ち上がり、李仁へと振り向いた。
見つめ合う眼差しが揺れている。切ない微笑みと穏やかな表情が広がった。
「君は虎だったんだね」
「貴方が龍だったんですね」
手が触れ合う距離で対峙し、互いの姿を懐かしむように見つめ合う。
「これは夢か?夢だとしたら残酷だ」
泣きそうな顔をして李仁が棗を見つめている。その言葉が、表情が棗の胸を揺さぶったが、だがどうしても棗は確かめねばならない事があった。
「あの…綺麗な女《ひと》とは…」
「誤解だ。彼女とは何でもない。恋人でも何でもない」
「本当…ですか?」
李仁は力強く頷いた。
「良かった。違うんですね?今度こそ本当に、貴方を諦めねばならないのかと…待っている間怖かった」
白い腕を伸ばして冷たい李仁の頬に触れると棗の頬から自然と流れる一筋の涙。
懐かしく愛しい人の体温が指先から伝わり身体の奥まで触れて来る。
「夢じゃありません、ごめんなさい。こんなに長くお待たせしてしまいました」
ゆっくりと二人の影が重なり合った。
その瞬間、欠けた片割れに出会ったような、ようやく一つの生き物に戻ったような得も言われぬ安堵が二人を包んだ。
暫くはものも言わずに互いの温もりを確かめ合い、やがて懐かしむように李仁は言葉を紡ぎ始めた。
「初めてホテルへ行った時の事を覚えているかい?君は男だとバレると知りながらオレを試した。好き以外に何が必要かと問われてオレは答えられなかった」
棗は李仁を抱き締めながら、その言葉を静かに聞いていた。
あの夜の覚悟を懐かしく思い出す。あれは正しく賭だった。拒絶され、終わったと思った。でも諦められなかった。
「でもあの時、貴方は踏み越えて来てくれましたね。私、本当に嬉しかった。生きていて良かったと思いました」
李仁の指が棗の髪を絡めて愛しむように優しく撫でる。髪からその身体から、己を苦しめ続けた白檀が香った。今は腕の中にある事が夢のようだった。
「初めてオレに抱かれた日。君は月明かりに男の身体を晒してこれでも抱けるのかとオレを試し、そして最後にもう一度君は試した。こうして君を辿れば嫌でも本当の君に出逢う。それでも自分を愛せるのかと君はオレに突きつけた」
言わないで、と棗が李仁の首に取り縋り、ふるふると首を横に振る。
「最後のは想定外でした。でも、結果的に試したのかもしれません。でも本当は、貴方だけには知られたくなかったんです。私を知って本当に追いかけてくれるかも分からなかった。
とても怖かった…、でも、貴方はこうして私を見つけてくれました。ごめんなさい。辛い思いをさせて…、こんな私でごめんなさい!」
「オレを信じてくれ。オレに全部預けろよ。どんな形をしていてもオレが必ず君を受け止め…」
李仁の最後の言葉を塞ぐように棗が李仁に口付けた。
ああ、こんな柔らかさだった。こんなに暖かく、こんなにしっとりと押し包み、口付けとはこんなに甘いものだった。
「こんな私で本当に良いの?私はきっとまた李仁さんを試してしまうかもしれない。それでも、」
「それでもだ。それでも君が好きだ。醜くて美しい君が好きだよ。大胆で臆病な君が好きだ。もう君以外なにも要らない」
「李仁さん…っ」
棗の魂が震えた。声にならない声が、言葉にならない言葉が、身体の深いところから膨れ上がり、涙となって破裂した。
李仁と棗が暮らしたのは一年ほどだったが、離れていた二年の間、愛は更に芳醇に熟成を極めていた。
「誰に抱かれてもずっと貴方が私の胸の中にいた。やっぱり貴方しか居なかった…」
こんな感動的な場面にありながら李仁はこれを聞き逃さなかった。
「あの写真家とやっぱり君は…」
棗がわざと李仁に火をつけただけなのか、それともそれは真実なのか。ただ曖昧に艶やかに微笑んで棗は否定も肯定もしなかった。
これが棗なのだ。そんな棗ごと自分は愛してしまったのだ。
「ふふ、李仁さん。今でも焼き餅焼いてくれるんですね。好きですよ?李仁さんのそう言うとこ」
してやられた気もする。
もし、棗が誰かに抱かれていたとしても、李仁の気持ちは揺らが無い事を棗は良く知っていた。
「そんな事言って良いのか?オレはいつか本当に嫉妬で君を殺してしまうかもしれないよ?」
二人の鼻先同士が戯れる。幾度もついばみを繰り返しながら甘ったるく微笑み合い、頬を擦り合わせては愛しさを分け合った。
「李仁さん、貴方になら例え何度殺されたって構わない。愛の刃で私を沢山突き刺して?」
ふふ、と李仁の肩が震えた。悪戯な笑みを口元に浮かばせて、わざと己の腰を擦り付けた。
「お望みなら、今夜君を挿し殺してやろうか」
今度は棗がしてやられたと李仁を可愛く睨みつけた。
「んもう…っ、エッチっ」
そう言って可愛く睨む棗の頬が照れたように薔薇色に染まった。
はにかみながらのび上がり、李仁の耳元に、貴方に良い事を教えてあげますと囁いた。
「貴方は私の…初恋の人です」
それは多分本当の事だ。
李仁は深い笑みを湛えた唇で棗の唇を甘く食んだ。
棗の薄く開いた唇が李仁を迎え入れ、幾度となくくり返された口付けも、今宵は水蜜桃の甘さを含み、そこに二人の万感の思いが込められた。
二人の飽くこと無い口付けに、さっきまで晴天の夜空には叢雲が湧き、恥入る月が重なり合う二人の姿を隠くして行った。
沢山の愛の形がある。純粋な愛。歪んだ愛。耐える愛。裏切る愛。溺れる愛。貫く愛。
だが愛という言葉はこの世に一つだけだ。愛は愛でしか無い。
そして愛を贖《あがな》うのもまた、愛でしかないのだ。
end.
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