龍虎の契り

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暗雲

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智也の結婚式の日取りが決まった。三月末日の吉日大安。とんとん拍子の結婚だった。
李仁も棗も当の智也の中にも何か蟠《わだか》まりの残る結婚だった。
棗は李仁に店には当分出なくて良いと言い渡されていた。
今日は気晴らしがてら、智也の結婚祝いの下見にデパートへと来ていたのだった。
沢山の品物の中からこれぞと言う一つを選びあぐね、李仁に相談する為にカタログを集めて帰る所だった。
広い館内を歩き回ったせいで少々疲れを感じていた棗は、一休みする為に洒落たカフェのドアをくぐった。
窓辺の二人がけの狭いテーブル席に腰を下ろし、暖かいミルクティーを注文すると暇を持て余すように貰ったカタログをパラパラめくって眺めていたが、李仁を諦めた智也の気持ちを考えると、少しも頭に入って来なかった。
しかも、玩具にしたら許さないと言った時の彼の顔がチラつき、視線は窓の外に注がれ、手元のページだけが無機質にめくられていく。
知らず知らずに棗は大きなため息をついていた。

「結婚式の贈り物ですか?」

突然聞き覚えのない男の声に棗は顔を上げた。散らばっていた意識が男の存在に集中した。
シュッとした立ち姿に長い指。優しげで少し冷たそうな顔の男が、傍で棗に会釈していた。
何処かで見た事があるような…。
ピンと来ずに暫しの沈黙が流れた。
男がふと思いついたように、テーブルの上に挿してあった白いナプキンを取り出し、棗に差し出しながら言った。

「記入漏れがあったのでご記入願いますか?」

「あっ、貴方あの時のお医者様」

漸く棗も気がついた。病院でチェックシートを持ってきたあの若いインターンだと言う事に。

「良かった。思い出して頂けましたね。ここまでやっても思い出してもらえなかったらどうしようかと思いましたよ。今日はお一人ですか?旦那様は…」

「主人は…仕事で…」

「主人」そう、側から見ればそうなのだろう。「主人」その言葉を口にするたびに、心の中で「そうなんだけどね…」と一々言い訳をしてしまう自分がいた。

「失礼、貴方は男性でしたね。
でも、貴方がご主人という訳じゃなさそうだ」

「ど、どうして男だと?大概皆んな気がつかないのに。
あ、チェックシートですか?それともカルテで…」

「いいえ、僕は心理学専門なんです。貴方を少しだけ観察させて頂いただけの事ですよ」

口元は穏やかそうに微笑みながらも、瞳は得体の知れない暗い光を孕んでいるよう見えた。

「…そ、そうですか。怖いですね、心理学って」

「少し、ここに座っても?」

同席を求められたが、何か異質なものを感じて棗は慌てて席を立ち上がった。

「もうっ、帰る所でしたからっ、座るならどうぞここに…っ」

「待って」

立ち上がった棗の手首を、男は引き留めた。

「貴方、本当は覚えていますよね、パニックになった時のこと全部」

「だったら何ですか?離してください!人を呼びますよ?!」

意外と強い力で引き止められた手首は引っ込めようとしてもびくともしない。

「僕と同じ匂いがするんだよ貴方から。貴方を助けてあげられるかもしれない。辛くなったときは僕に連絡を」

棗の着物の胸元に一枚の名刺を差し入れると握っていた棗の手首を離して見透かしたように笑った。
慌ててカードで支払いを済ませると、その場から逃げ出すように棗は店を飛び出していた。
棗が座っていた所に男は腰を下ろしながら視界から消えていく棗を見えなくなるまでずっと目で追っていた。

「ハハっ、可愛い人だ」

まだ一口ほどしか口をつけていなかった棗のミルクティーを男は躊躇なく啜って目を細めた。


街は春と言うにはまだ程遠い、冬の只中にあった。
白い息を弾ませながら、謎の男から逃げるように走ってきた棗は漸く立ち止まった。

「なんだろうあの人、なんだか怖い人だった。私の事、全部見透かすような目をして…」

懐で何か擦れる乾いた音がして、棗は胸元に差し込まれた名刺の事を思い出した。
取り出して目を落とすと、臨床心理士 狭山蓮《さやまれん》と言う名前と、連絡先が記されていた。

「さやま、れん…?…変な人」

その名刺は棗の着物のたもとへと、握り潰され丸めて落とされ、不愉快な人物として棗の中で処理された。



「お帰りなさい、李仁さんお疲れ様です」

冷たい夜気を纏って家に帰ってきた李仁を棗は玄関で出迎えた。

「ただいま。今日はご苦労だったね。何か良い贈り物は見つかったかい?」

着物用のコートを脱ぐと、それを棗に渡しながら尋ねた。

「カタログを頂いて来たので後で見て下さい。私じゃ決められなくて」

「うん?何かあったかい?」

いつもより沈んだ様子に気がつくと、李仁は棗の頭をくしゃりと撫でる。 

「それが変な人に会ったんです」

「変な人?」

「この前の病院にいたインターンの先生覚えてますか?」

李仁の脳裏に、チェックシートを書く棗を、やたらに眺めていた青年の事が思い浮かび、不愉快そうに顔を顰《しかめ》た。

「ああ、あの不躾な青年か。彼がどうした?」

その顔を見ると、まずい事を話してしまったと棗は後悔していた。
また李仁に浮気を疑われそうで、咄嗟に話の流れを変えた。

「ひ、一人でぶつぶつ独り言を言いながらすれ違っていったんですよ?変な人ですよね」

「へえ、夜勤のやり過ぎで疲れてるんじゃないか?医者の不養生にならなきゃ良いがね。
あぁ、身体が冷え切ってるな。先に風呂に入ってくるよ」

そう言うと、夕食の支度をしている棗を尻目に、李仁はバスルームへと入って行った。
着替えを始めた李仁の足元に、小さな紙屑が転がっているのに気がついた。いつも塵一つなく掃除の行き届いた我が家に珍しいな、とそれを拾い上げてみた。それは紙屑ではなく、名刺だった。

「何だ?」

くしゃくしゃになった名刺を広げてみると、病院の名と臨床心理士 狭山蓮という文字。
それがさっき棗が話した変な人に違いないだろうが、すれ違っただけなら名刺などあるはずも無い。
良く、女の第六感と言うが、李仁にもその時、第六感が動いてた。

「なんで…、誤魔化した…?」

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