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一目惚れ
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その人はアンティークで小洒落た着物の裾を、ちょっとだけたくし上げた。細く白い足首が春の朧月を思わせ、一瞬で心を掴まれた。
透明に近い灰色の鼻緒に、楚々とした様子で足指が収まっている。普段使いの下駄のはずが、艶めいて見えたのは、その人の美しい足が雄弁だったからに他ならない。
李仁へと下駄を履いた足を見せて来たのは、この呉服店の初見の客だった。こんな美人、一度見たらそうそう忘れるものではない。
「この色、鈍色《にびいろ》って言うのでしょう?」
「よくご存じですね。日本の伝統色にお詳しいのですね。お若いのに、落ち着ついた色味をお好きですか?」
そう言う李仁に相手は不思議そうに目を丸くした。
こぼれ落ちそうなほど、大きな瞳がクルクルとその表情を豊かに魅せていた。
「地味ですか?
私にはとても明るい色に感じます」
「明るくて上品な色味ですね。
良くお似合いになりますよ」
本当のことを言った。
お客は直ぐに世辞に気がつく。
世辞を言われたと思えば、その客は二度と来ない。
他のアパレル業よりも、着物を買い求めるお客にはこだわりの強い客が多い分、下手な事は言えないのだ。
「この下駄頂いていきます」
「ではお包みいたしますので、少々お待ち下さい」
そう言う李仁に、にっこりと微笑んで首を横に振る。
「これ、履いていきます」
たまにこう言う客もいる。李仁は「ならば値札を切りましょう」と言って、もう片方にぶら下がる木綿糸で吊るされた値札を、懐から取り出した小さな握り挟みで切り落とした。
そしてその片方の下駄も、その美しい足に収まった。
「はる君~、これ持って帰る~」
彼女はそう言って店内を振り返り、遠くに立っていた男に今脱いだばかりの下駄を掲げて見せた。
なんだ。男がいたのか。
顔には出さなかったが、李人は心なしかガッカリした。
別に彼氏がいたからと言って何だと言うのか。
やって来た「はる君」はそこそこな男前だった。近付いて分かったが、目の前の彼女とは随分と歳の差があるように見えた。
自分と同じくらいか、あるいはもっと歳上の落ち着きのある風態だ。
「では、この袋にお入れしましょう」
この二人は恋人なのか?兄妹《きょうだい》か?まさか親子と言う訳でもあるまい。飲み屋の女将さんとお客さんかも知れない。
しかし、女将さんと言うには貫禄がない。
心では色々なことを詮索していたが、そんな事は全く顔には出さずに「はる君」にも和かに丁寧に李仁は接した。
「いや、袋は良いよ。直に持って行こう」
「はる君」はそう言うと、揃えた下駄の鼻緒を指に引っ掛けぶら下げて、ごく自然体のように、隣で嬉しそうに、履いた下駄を眺めている彼女へと腕を差し出した。
「では帰ろう。後は果物を買って行くのだろう?」
決定打の言葉を聞いた気がする。
この二人は少なくとも一つ屋根に暮らす、恐らくは男女の仲なのだ。
李仁は心の中で、想像以上にがっかりしている自分に出会った。
烏《からす》の濡れ羽色したショートボブは前下がりに艶めいて、後ろは少しだけ刈り上げた襟足から白い頸《うなじ》がスラリと惜しげもなく伸びていた。
適度に抜いた襟元は上品だが艶かしく、着物に包まれた両肩は、着物がよく似合う幅の狭い撫で肩をしていた。
優美な弓形《ゆみなり》の眉の下にはくるくると良く動く大きな二重のアーモンドアイ。
小振りな鼻。尖って小さな顎。そして何より目立ったのは、落ちた椿の花びらのような可憐で楚々とした紅い唇。
日本人形より華やかな顔立ち。華奢で小さな身体は着物の上からでもしなやかな事が見て取れた。
客の引けた午後7時。
一人ぽつんと店仕舞いをしながら、李仁は繰り返し昼間来たあの客の事ばかりが頭を占めていた。
これを一目惚れと言わずになんと呼ぶのか。
自分が知りたかったのは「はる君」では無く、彼女の名前の方だった。
李仁は高校時代から大学時代、自慢ではないが彼女と言うものには一度も不自由をした事が無い。
何時も相手から告白されて、そのまま付き合うと言うのが常だった。
要するに、贅沢な事に自らが好きになり、告白して付き合うと言う事が全く無く、27歳の今日まで来た希少種であった。
一人の人でこれ程頭をいっぱいにする事など今まで経験がした事はない。
もしも、あの客に告白するとしたら、初めての経験にしては些かハードルが高い。
まずは「はる君」に勝たねばならないのだ。
争い事から極力遠ざかろうとしてきた李仁には、何より恋人からもぎ取る度胸などはなから無かった。
始まってもいないのに、すでに終わりは見えていた。
反物を何時迄も手元でくるくると回しながら、これは諦めるしか無いのかと大きなため息をついていた。
店を閉めて外へと出ると、何処からか散り際を迎えた桜の花びらが舞って来た。
肩に留まったその花びらに慰められながら、花冷えのする夜に肩を窄め、李人は孤独な帰路についていた。
透明に近い灰色の鼻緒に、楚々とした様子で足指が収まっている。普段使いの下駄のはずが、艶めいて見えたのは、その人の美しい足が雄弁だったからに他ならない。
李仁へと下駄を履いた足を見せて来たのは、この呉服店の初見の客だった。こんな美人、一度見たらそうそう忘れるものではない。
「この色、鈍色《にびいろ》って言うのでしょう?」
「よくご存じですね。日本の伝統色にお詳しいのですね。お若いのに、落ち着ついた色味をお好きですか?」
そう言う李仁に相手は不思議そうに目を丸くした。
こぼれ落ちそうなほど、大きな瞳がクルクルとその表情を豊かに魅せていた。
「地味ですか?
私にはとても明るい色に感じます」
「明るくて上品な色味ですね。
良くお似合いになりますよ」
本当のことを言った。
お客は直ぐに世辞に気がつく。
世辞を言われたと思えば、その客は二度と来ない。
他のアパレル業よりも、着物を買い求めるお客にはこだわりの強い客が多い分、下手な事は言えないのだ。
「この下駄頂いていきます」
「ではお包みいたしますので、少々お待ち下さい」
そう言う李仁に、にっこりと微笑んで首を横に振る。
「これ、履いていきます」
たまにこう言う客もいる。李仁は「ならば値札を切りましょう」と言って、もう片方にぶら下がる木綿糸で吊るされた値札を、懐から取り出した小さな握り挟みで切り落とした。
そしてその片方の下駄も、その美しい足に収まった。
「はる君~、これ持って帰る~」
彼女はそう言って店内を振り返り、遠くに立っていた男に今脱いだばかりの下駄を掲げて見せた。
なんだ。男がいたのか。
顔には出さなかったが、李人は心なしかガッカリした。
別に彼氏がいたからと言って何だと言うのか。
やって来た「はる君」はそこそこな男前だった。近付いて分かったが、目の前の彼女とは随分と歳の差があるように見えた。
自分と同じくらいか、あるいはもっと歳上の落ち着きのある風態だ。
「では、この袋にお入れしましょう」
この二人は恋人なのか?兄妹《きょうだい》か?まさか親子と言う訳でもあるまい。飲み屋の女将さんとお客さんかも知れない。
しかし、女将さんと言うには貫禄がない。
心では色々なことを詮索していたが、そんな事は全く顔には出さずに「はる君」にも和かに丁寧に李仁は接した。
「いや、袋は良いよ。直に持って行こう」
「はる君」はそう言うと、揃えた下駄の鼻緒を指に引っ掛けぶら下げて、ごく自然体のように、隣で嬉しそうに、履いた下駄を眺めている彼女へと腕を差し出した。
「では帰ろう。後は果物を買って行くのだろう?」
決定打の言葉を聞いた気がする。
この二人は少なくとも一つ屋根に暮らす、恐らくは男女の仲なのだ。
李仁は心の中で、想像以上にがっかりしている自分に出会った。
烏《からす》の濡れ羽色したショートボブは前下がりに艶めいて、後ろは少しだけ刈り上げた襟足から白い頸《うなじ》がスラリと惜しげもなく伸びていた。
適度に抜いた襟元は上品だが艶かしく、着物に包まれた両肩は、着物がよく似合う幅の狭い撫で肩をしていた。
優美な弓形《ゆみなり》の眉の下にはくるくると良く動く大きな二重のアーモンドアイ。
小振りな鼻。尖って小さな顎。そして何より目立ったのは、落ちた椿の花びらのような可憐で楚々とした紅い唇。
日本人形より華やかな顔立ち。華奢で小さな身体は着物の上からでもしなやかな事が見て取れた。
客の引けた午後7時。
一人ぽつんと店仕舞いをしながら、李仁は繰り返し昼間来たあの客の事ばかりが頭を占めていた。
これを一目惚れと言わずになんと呼ぶのか。
自分が知りたかったのは「はる君」では無く、彼女の名前の方だった。
李仁は高校時代から大学時代、自慢ではないが彼女と言うものには一度も不自由をした事が無い。
何時も相手から告白されて、そのまま付き合うと言うのが常だった。
要するに、贅沢な事に自らが好きになり、告白して付き合うと言う事が全く無く、27歳の今日まで来た希少種であった。
一人の人でこれ程頭をいっぱいにする事など今まで経験がした事はない。
もしも、あの客に告白するとしたら、初めての経験にしては些かハードルが高い。
まずは「はる君」に勝たねばならないのだ。
争い事から極力遠ざかろうとしてきた李仁には、何より恋人からもぎ取る度胸などはなから無かった。
始まってもいないのに、すでに終わりは見えていた。
反物を何時迄も手元でくるくると回しながら、これは諦めるしか無いのかと大きなため息をついていた。
店を閉めて外へと出ると、何処からか散り際を迎えた桜の花びらが舞って来た。
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