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想い遂げても(終幕)
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朝日が顔を出す明け六つになると、そろそろ遊女達が床入り客を送り出す為起き出して来る頃なのだが、源之助が目覚めたのはまだ外が薄暗い暁四つ時だった。
精根尽きるまで睦あい、いつの間にか泥のように眠ってしまったらしい。
寝床から抜け出した紅天神が崩れてしまった島田の髪を解いて緩く玉結びに背中に垂らし、湯屋帰りの女のような婀娜《あだ》っぽさで身軽な着物姿へと身支度を整えていた。
その洒脱な様子が如何にも事後の物憂い色気を漂わせているようで、源之助は寝床の中でじっとそんな紅天神を見つめていた。
「…そんなに見つめるな。照れる」
紅天神は源之助が盗み見ていることに気がついていた。
帯を上から指でシュ!と扱いて整えながら、鏡越しに写る源之助に困った様な顔を上げた。
「もう行くのか?」
その問いに、紅天神は黙したまま頷いた。
「ここに潜りんだのは初めてじゃないのだろう?」
「…ここの髪結いに懇意の者がいる。中に入る手引きをしてくれて布団部屋とか、行燈部屋に隠れてやり過ごしたり、案外廊下を彷徨つていても気づかれなかったりするんだ」
波に千鳥の手拭いをパッと広げて頰被りをすると俄に遊女紅藤から義賊紅天神の顔へと変わっていく。
昨夜己と情を交わした事が今を限りに消えていくのかと思うと、源之助の胸が切なく締め付けられる。
「…ここに来ればまた、お前に会えたりするのか?」
未練がましいと思いながら源之助は思わず尋ねずにはいられなかった。だが紅天神は首を横に振って寂しそうに微笑んだ。
「ここに捕り方に踏み込まれた。髪結いに迷惑がかかるといけねえからここにはもう…」
お互いはなから分かっていることだった。其々生きる道がある。その道がほんの少し、交差した。ただそれだけ。
「……復讐を果たしたらその後はお前はどうする」
うっ、と紅天神は言葉に詰まる。
そんな事は今まで考えたこともなかった。寺の皆の無念を晴らす。ただその一念だけが全てだった。
だがその後は…。見事復讐できたとしてもその後己はどうしたいのだ?
「…アンタ、俺と来るかい?」
ふとそんな言葉がぽろりと溢れたが、それが戯れでない己の本心だと気づく。
だが、源之助からは返事がない。
せめて笑って欲しいのに。
鏡に映る源之助を見ると、影を落とした眼差しが畳をじっと見つめていた。
「嫌だねえ!嘘だよ、戯れに言ったまでの事。だってその頃アンタはもう人のもの…っ、」
そう笑って振り返る紅天神を源之助がふいに抱きしめた。
「復讐なんて止めねえか?」
「……じゃあ、アンタ婿入りなんてやめるかい?」
お互いに無い物ねだりだった。
武士の一分、己の一分、手に手を取ってそれらを捨てられるかと言えばそれは無理だと互いに知っていた。
——今生の別れ——
その言葉を二人は深く噛み締めながら一頻り固く抱きしめ合った。やがて源之助も紅天神も相手の中に心を残したままゆっくりと腕を解いで行った。
「これ以上は未練だから…もう行くよ」
そう言うと、紅天神は思いを断ち切るように、着物の裾を捲り上げ、帯に挟んで窓の障子をそっと開けた。外を伺うとまだ色里は眠っている。今なら闇に紛れて逃げられる。
紅天神の足が窓の桟に掛かった時、背後の源之助が呼び止めた。
「紅!捕まるなよ!」
その声に、一瞬紅天神の眼差しが揺れた。肩越しに源之助を振り返り、真心を込めて言葉を紡いだ。
「…俺が本当に活きていたのは、アンタの腕の中だけだった。……お達者で……源之助様」
その言葉のように美しい笑顔を残し、紅天神はヒラリと音もなく窓から外へと踏み出した。闇に舞い上がる蝶のように軽やかに、源之助の元から飛び立ってしまった。
慌てて源之助が窓に飛びつくと、屋根伝いに逃げて行く紅天神の姿が薄らと夜目に浮かんで見えた。だがその姿もすぐに闇間に掻き消えた。この一夜がまるで胡蝶の夢のように源之助の胸の中だけにその波紋を残して。
その数日後、義賊紅天神は捕まったと言う瓦版が空に舞った。首をはねられ世間を騒がせた咎で小塚原の刑場にその首が晒されたと言う。源之助はとうとうそれを見ることは出来なかった。
見なければそれは真実ではない。そう思いたかった。
だが紅天神の噂はその後ふつりと途絶え、そんな義賊が居たことなど人々の記憶から少しずつ消えて行った。
そんな事があっても、源之助は兄の期待に応えるように加納家の婿となり、襟を正して武士の道を歩いた。
それまでの廓遊びも封印し、武芸に励んでお役目にもありつけ、それらを真面目にこなして人並みに妻との間に子も出来た。
良き婿、良き夫、良き父親だと褒めそやされて…。
時が経ち、夏を惜しむ蝉時雨。深い緑と苔むした寺の参道を深々と編み笠を被る一人の武士が歩いてくる。ふと前からも身なりの整った武家の男が歩いてくると、二人は軽く会釈を交わしながらすれ違う。
その刹那、空気を鋭く切り裂く音が聞こえ、一瞬、閃光が閃いた。ザアッと一斉に鴉が飛び立ち、片方の侍がぐらりと地面に崩れ落ちた。編み笠の男は何事も無かったように、着物の袖を旗めかせ悠々とその場を去っていったが、崩れた侍の羽織を見れば、その背に背負った違い鷹羽の家紋が一刀両断の元に斬られていた。
同日、源之助は誰にも知られずに出奔した。
何処へ消えたのか、その足取りもその訳も誰も知らない。同じ日に切られたその侍と何か関係があるか囁かれたが、源之助とは面識も無く、その因果関係を取り沙汰する者も居なかった。
◆◆◆
闇の深い夜。江戸を抜ける渡しの船上に源之助の姿があった。
漸く雲間から顔を出した三日月にその晴々とした顔を上げ、そこに愛しい男の影を見るかのように目を細めた。
「俺が本当に活きていたのは、アンタの腕の中だけだった」
あの時お前はそう言った。
別れたあの夜、こんな風に空に月は出ていたろうか。
それすらも目に入らぬほどに、あの夜俺はお前だけを見ていたよ。
「想いは遂げたぞ…紅…」
やがて源之助を乗せた渡し船はゆっくりと水面を滑り、やがて川霧に包まれて見えなくなった。
終幕
精根尽きるまで睦あい、いつの間にか泥のように眠ってしまったらしい。
寝床から抜け出した紅天神が崩れてしまった島田の髪を解いて緩く玉結びに背中に垂らし、湯屋帰りの女のような婀娜《あだ》っぽさで身軽な着物姿へと身支度を整えていた。
その洒脱な様子が如何にも事後の物憂い色気を漂わせているようで、源之助は寝床の中でじっとそんな紅天神を見つめていた。
「…そんなに見つめるな。照れる」
紅天神は源之助が盗み見ていることに気がついていた。
帯を上から指でシュ!と扱いて整えながら、鏡越しに写る源之助に困った様な顔を上げた。
「もう行くのか?」
その問いに、紅天神は黙したまま頷いた。
「ここに潜りんだのは初めてじゃないのだろう?」
「…ここの髪結いに懇意の者がいる。中に入る手引きをしてくれて布団部屋とか、行燈部屋に隠れてやり過ごしたり、案外廊下を彷徨つていても気づかれなかったりするんだ」
波に千鳥の手拭いをパッと広げて頰被りをすると俄に遊女紅藤から義賊紅天神の顔へと変わっていく。
昨夜己と情を交わした事が今を限りに消えていくのかと思うと、源之助の胸が切なく締め付けられる。
「…ここに来ればまた、お前に会えたりするのか?」
未練がましいと思いながら源之助は思わず尋ねずにはいられなかった。だが紅天神は首を横に振って寂しそうに微笑んだ。
「ここに捕り方に踏み込まれた。髪結いに迷惑がかかるといけねえからここにはもう…」
お互いはなから分かっていることだった。其々生きる道がある。その道がほんの少し、交差した。ただそれだけ。
「……復讐を果たしたらその後はお前はどうする」
うっ、と紅天神は言葉に詰まる。
そんな事は今まで考えたこともなかった。寺の皆の無念を晴らす。ただその一念だけが全てだった。
だがその後は…。見事復讐できたとしてもその後己はどうしたいのだ?
「…アンタ、俺と来るかい?」
ふとそんな言葉がぽろりと溢れたが、それが戯れでない己の本心だと気づく。
だが、源之助からは返事がない。
せめて笑って欲しいのに。
鏡に映る源之助を見ると、影を落とした眼差しが畳をじっと見つめていた。
「嫌だねえ!嘘だよ、戯れに言ったまでの事。だってその頃アンタはもう人のもの…っ、」
そう笑って振り返る紅天神を源之助がふいに抱きしめた。
「復讐なんて止めねえか?」
「……じゃあ、アンタ婿入りなんてやめるかい?」
お互いに無い物ねだりだった。
武士の一分、己の一分、手に手を取ってそれらを捨てられるかと言えばそれは無理だと互いに知っていた。
——今生の別れ——
その言葉を二人は深く噛み締めながら一頻り固く抱きしめ合った。やがて源之助も紅天神も相手の中に心を残したままゆっくりと腕を解いで行った。
「これ以上は未練だから…もう行くよ」
そう言うと、紅天神は思いを断ち切るように、着物の裾を捲り上げ、帯に挟んで窓の障子をそっと開けた。外を伺うとまだ色里は眠っている。今なら闇に紛れて逃げられる。
紅天神の足が窓の桟に掛かった時、背後の源之助が呼び止めた。
「紅!捕まるなよ!」
その声に、一瞬紅天神の眼差しが揺れた。肩越しに源之助を振り返り、真心を込めて言葉を紡いだ。
「…俺が本当に活きていたのは、アンタの腕の中だけだった。……お達者で……源之助様」
その言葉のように美しい笑顔を残し、紅天神はヒラリと音もなく窓から外へと踏み出した。闇に舞い上がる蝶のように軽やかに、源之助の元から飛び立ってしまった。
慌てて源之助が窓に飛びつくと、屋根伝いに逃げて行く紅天神の姿が薄らと夜目に浮かんで見えた。だがその姿もすぐに闇間に掻き消えた。この一夜がまるで胡蝶の夢のように源之助の胸の中だけにその波紋を残して。
その数日後、義賊紅天神は捕まったと言う瓦版が空に舞った。首をはねられ世間を騒がせた咎で小塚原の刑場にその首が晒されたと言う。源之助はとうとうそれを見ることは出来なかった。
見なければそれは真実ではない。そう思いたかった。
だが紅天神の噂はその後ふつりと途絶え、そんな義賊が居たことなど人々の記憶から少しずつ消えて行った。
そんな事があっても、源之助は兄の期待に応えるように加納家の婿となり、襟を正して武士の道を歩いた。
それまでの廓遊びも封印し、武芸に励んでお役目にもありつけ、それらを真面目にこなして人並みに妻との間に子も出来た。
良き婿、良き夫、良き父親だと褒めそやされて…。
時が経ち、夏を惜しむ蝉時雨。深い緑と苔むした寺の参道を深々と編み笠を被る一人の武士が歩いてくる。ふと前からも身なりの整った武家の男が歩いてくると、二人は軽く会釈を交わしながらすれ違う。
その刹那、空気を鋭く切り裂く音が聞こえ、一瞬、閃光が閃いた。ザアッと一斉に鴉が飛び立ち、片方の侍がぐらりと地面に崩れ落ちた。編み笠の男は何事も無かったように、着物の袖を旗めかせ悠々とその場を去っていったが、崩れた侍の羽織を見れば、その背に背負った違い鷹羽の家紋が一刀両断の元に斬られていた。
同日、源之助は誰にも知られずに出奔した。
何処へ消えたのか、その足取りもその訳も誰も知らない。同じ日に切られたその侍と何か関係があるか囁かれたが、源之助とは面識も無く、その因果関係を取り沙汰する者も居なかった。
◆◆◆
闇の深い夜。江戸を抜ける渡しの船上に源之助の姿があった。
漸く雲間から顔を出した三日月にその晴々とした顔を上げ、そこに愛しい男の影を見るかのように目を細めた。
「俺が本当に活きていたのは、アンタの腕の中だけだった」
あの時お前はそう言った。
別れたあの夜、こんな風に空に月は出ていたろうか。
それすらも目に入らぬほどに、あの夜俺はお前だけを見ていたよ。
「想いは遂げたぞ…紅…」
やがて源之助を乗せた渡し船はゆっくりと水面を滑り、やがて川霧に包まれて見えなくなった。
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