痣の娘

綾里 ハスミ

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 ハネムーンのために、汽車に乗って観光地を目指す。実のところ、パトリシアが汽車に乗るのは初めてだった。痣のある娘を外に出すのを嫌がった両親は、家族旅行にパトリシアを連れて行ってくれなかったのだ。いつも屋敷に一人残されていた。だから、汽車に乗るのは初めてなのだ。馬車から下りて、大きな駅を見てパトリシアは驚く。中も天井がガラス張りになっていて、光が射し込み綺麗だった。駅員のいるゲートの前で、アレクサンダーが切符を差し出す。すると駅員が切符を確認して、スタンプを押した。
「良い旅を」
 彼はにこやかに言って、二人をホームへ通した。そこで再びパトリシアは驚く。そこには、黒い巨体の汽車が停まっていたのだ。白い蒸気が辺りに漂っていて、ホームにはたくさんの人間がいる。旅行用に用意された大量の旅行用バッグをメイド達が汽車に積み込んでいるのを横目で見ながら通り過ぎ、パトリシアとアレクサンダーは一等車の車両に乗り込んだ。中に入れば、外の黒い鉄の見た目とは一転して、まるで豪華なお城の廊下のような彩色が施されていた。赤い絨毯を歩き、その中の一室に入る。一緒に付いて来たメイドが、パトリシアの傘と帽子を受け取って部屋の中のクローゼットに入れた。アレクサンダーの上着と帽子も受け取って入れる。
「失礼いたしました」
 そうして、頭を一つ下げて出て行った。置かれた、深い赤色のソファに腰掛けて外を見る。そこはまだ駅構内で隣にも、線路があった。向こうでもたくさんの人々が汽車の到着を待っている。
「何か珍しい物でもあったかい」
 隣に座ったアレクサンダーが尋ねて来る。
「全部、珍しいわ! 私、汽車に乗るの初めてなの」
 パトリシアはつい、興奮気味に言ってしまった。
「そうなのかい!」
 彼は少し驚く。
「遠出の旅行も初めてなの……だから、すごく楽しみだわ」
 パトリシアは彼に笑いかけた。
「……うん、たくさんいろいろな物を見よう」
 そうしてパトリシアの頬にキスをする。
 窓の外から誰かに見られてないかと思い、少しパトリシアは恥ずかしくなる。
 しばらくすると汽車は大きな汽笛を鳴らして走り出し、駅を出る。ゆっくりと動き出した大きな乗り物が、音を立てて走る。風景が窓の外を流れて行く。それをパトリシアは目を輝かせて見る。
「すごいわ、なんて速さなの」
 馬車の比較にならない速度で、風景が後ろへと流れて行く。長く続く、草原の大地をパトリシアは飽きずに眺め続ける。そこに給仕係がノックをして入って来る。赤い服を着た男が、壁にはめられた板を下ろしてテーブルを作った。そこに、紅茶と砂糖とミルクの入った器を置く。彼は頭を下げて、部屋を出て行く。
「動く汽車の中で紅茶が飲めるなんて」
 この場所で見る湯気の立つ、紅いお茶はまるで魔法で作られた飲み物ように思える。
「紅茶だけじゃなくて、食事だってできるよ」
「まぁ、なんてこと。それじゃあこの列車には、キッチンもついているのね」
 口元を押さえると、アレクサンダーがくすくす笑う。
「いいね。この旅行では、君の驚いた顔がたくさん見られそうだ」
 彼はうれしそうに笑った。
 長い間、汽車に揺られながら、パトリシアは彼に尋ねた。
「ハネムーンはどこへ行くの?」
「サゼールに行こうかと思っているよ」
「サゼール? 遠い場所じゃなかったかしら」
 パトリシアのいるダオト国の外にある国のはずだ。
「あぁ。だから、汽車から乗り換えて船に乗るよ」
「船ですって!?」
「そうさ」
 もちろん船に乗るのも初めてである。
「そんな。まさか、ハネムーンで国から出るなんて」
「以前は珍しかったけど、サゼール国とは友好的な外交を結んでから、観光地として有名になっているよ」
「そうなんですね」
 社交界との縁の薄いパトリシアは、世間の貴族の話題に疎かった。
「サゼール国では、何を見るんですか? 特別な遺跡などがあるのでしょうか」
「いや、海があるよ」
 パトリシアは瞬きした。
「海……ですか?」
 本を読んで知識としては知っている。大陸の外には、海と言う塩辛い水が広がっているらしい。しかしパトリシアがそれを見た事はない。
「パトリシアは泳げるのかな?」
「いえ……泳いだ事はありません」 
「そうか。じゃあ、波にさらわれないように俺が側で見ているね」
「はい……」
 そう言えば、ハネムーン用の荷物の中に水着がいつの間にか用意されていた。
「なんだか少し不安です。海に入るなんて」
 ダオトでも夏になれば、貴族達は川に入って泳いだ。しかしパトリシアは痣の事もあって、そのような行事には参加できていなかった。
「大丈夫ですよ。サゼールは暖かく、海はとても綺麗ですから。きっと、貴方も気に入ります」
 彼がパトリシアの手を握ってほほえむ。その笑みを見て、パトリシアも少し安心する。
「そうね、楽しみだわ」
 パトリシアは笑みを返してうなずいた。

 半日汽車に揺られてたどり付いたのは、大きな港だった。大きな船、そして大きな海にパトリシアは口を開けて驚いてしまう。メイド達が汽車から荷物を下ろして、今度は船に運び込んでいる。船があんまり大きいので、見上げたまま目まいを覚える。
「おっと」
 倒れそうになるパトリシアの腰をアレクサンダーが抱える。
「大丈夫?」
「えぇ、なんだか本当に今日は驚いてばかりだわ」
 大きな船は、人の技によって作り出された物だと信じられなかった。そしてこの鉄の塊が水の上に浮いている事も不思議なのだった。
「世界は日々進化していますからね」
 彼がパトリシアの腕を引いて歩き始める。パトリシアは彼と並んで、騒がしい港町を歩く。港には、屋台もたくさんあり、異国の品が売られていた。大きな船から下ろされた階段を登り船に乗り込む。甲板に上がって振り向けば、下に小さくなった人々の姿が見える。そして再び目まいを覚えて、アレクサンダーの腕を強く握った。
「怖いですか」
「えぇ、少し。でも、わくわくします」
 未知への希望にパトリシアは笑みを浮かべる。こんなに、ドキドキしたのはいつ以来だろうか。
 大きな汽笛の音の後に、船は出港する。甲板には、たくさんの人が居て、港の人々に手を振っていた。パトリシアも港の人々に手を振った。しばらくすれば、港は見えなくなり四方は海になった。大きな船は、黒い煙をあげながら力強く海を進む。その光景は少し怖い、けれどワクワクもするのだった。遠くで高い声で海鳥が鳴く。
「風が強くなって来たね。そろそろ、中に入ろう」
「えぇ」
 帽子を押さえて、パトリシアはうなずいた。
 船の中に入ると、そこは屋敷の中のように装飾が施されていた、赤いカーペットに、花瓶に花も添えてある。飴色の木の壁を見ながら、ドアの一つに入った。そこも同じように、豪華な部屋の一室となっていた。
「なにも知らなければ、ここが船の中だなんて気づかないでしょうね」
 パトリシアはメイドに帽子と傘を預けながらつぶやく。
「全くだね。一年中船の旅を続ける貴族もいると聞くが、確かにこれなら快適な旅になるだろうな」
 メイドがクローゼットを閉じ、頭を下げて部屋から出て行く。アレクサンダーは、パトリシアを引き寄せる。
「夜はパーティーがあるんだ」
「船の中でパーティーですか?」
「あぁ、面白そうだろ」 
 パトリシアはしかし、とっさに不安を顔に出してしまった。
「パトリシア?」
 目を反らし、髪を押さえる。
「……前髪は下ろして、パーティーに出ると良いよ」
「でも……」
 貴族の令嬢は礼儀として、パーティーでは髪を全て上にあげるのが普通だった。髪を下ろしているのは、成人前の娘の証である。
「良いんだ。君が見せたくないと言うのなら、無理に見せる必要はない。パーティーも出たくないのなら、無理強いはしない。俺は君が一番大事だからね」
 アレクサンダーがパトリシアの頬にキスをする。
「あなたは優しいのね……」
 パトリシアはしばらく考え、そして口を開く。
「パーティーに出るわ。でも、前髪は下ろしておく。それでも良いかしら?」
「もちろんだよ」
 彼は、優しく笑みを浮かべた。

 午後が過ぎ、夜のパーティーの準備のためにパトリシアはメイドの手を借りてドレスを着て髪をセットしてもらっていた。
「前髪はそのままに、えぇ、そんな感じよ」
 後ろの髪だけ上にあげ、前髪は顔の痣が隠れるように垂らしたままにした。ドレスは青い花達が散りばめられたドレスにした。鏡で姿を確認する。
「準備はできたかな?」
 衝立の向こうからアレクサンダーが聞いて来る。
「えぇ、良いわ」
 衝立を出て彼に姿を見せる。
「どうかしら」
「うん、すごく良いよ」
 彼が立ち上がりパトリシアを上から下までじっくり見た後に、笑みを浮かべる。
「ありがとう」
「では行こう」
 彼に差し出された腕を握り、パトリシアは部屋を出る。廊下を出れば、同じようにめかし込んだ男女が歩いている姿が見えた。長い廊下を歩き、階段を登り、そしてパーティー会場にたどり着いた。パトリシアは目を見開く。天井にはきらめく大きなシャンデリア、テーブルに並ぶ料理達、そして広いフロアで踊る人々、彼らに音楽を提供する楽団。そこは本当に、どこかの屋敷で開かれるパーティーのようだった。海の上にいるなんて思えない。
「……信じられない」
 パトリシアは目まいを覚える。
「少し座ろうか」
「えぇ」
 彼に手を引かれソファに座る。手渡された、フルーツジュースを飲んだ。酸味があって甘いジュースを飲んだら、少し落ち着いた。そして、代わりに視線を感じる。フロアの四方から、視線が突き刺さる。そっと辺りを見れば、扇子で隠しながら貴族達がこちらを見ている。パトリシアの前髪を見ているのだろう。貴族社会は無作法者に酷く冷たいのだ。
「おぉ、イズスター卿ではないか」
 その時、黒いタキシードの男が声をかけて来る。恰幅の良い男は、にこやかにアレクサンダーに話しかける。
「セルベル卿、お久しぶりです」
 アレクサンダーは落ち着いた様子で答える。
「えぇ、本当にお久しぶりです。三年ぶりですかな」
「おそらく」
「私も船旅が長いので、どうしても中央の貴族とはお会いする機会が少なく」
「貿易に熱心なセルベル卿です。仕方のない事ですよ」
 二人の会話を、パトリシアは黙って聞いていた。
「ところで、こちらのお嬢さんは? 妹さんですか」
「いえ、こちらは妻のパトリシアです」
 パトリシアは立ち上がる。
「アレクサンダーの妻のパトリシアです。以後お見知りおきを」
「セルベルです。よろしく」
 彼はパトリシアの手を取り、手袋越しにキスをした。
「お美しい奥方ですな。よもや、結婚しておられたとは」
「つい先日、結婚したばかりなのでまだ新婚ですよ」
「ははぁ、ではハネムーンですな」
「その通りです」
「私の妻にも、こんな風に初々しい時があったのですよ。良い旅を」
「ありがとうございます」
 それから、しばらくセルベルさんは仕事の話をした後に去って行った。パトリシアの長い前髪については、何も指摘はなかった。その後も、何人も貴族達が次々やって来たがにこやかにあいさつするだけで彼らはパトリシアの前髪について何も指摘しなかった。少しばかり拍子抜けしたパトリシアはソファに座って、少し安堵のため息をついていた。きっと、酷い言葉を投げかけられるだろうと覚悟していたからだ。
「どうしたの、パトリシア? 喉が乾いた?」
 隣に立ったアレクサンダーが尋ねて来る。
「いえ……少し驚いているだけ。誰も何もおっしゃらないから」
「あぁ、それは俺が押さえ込んでいるからね」
 パトリシアは彼を見上げる。
「誰もイズスター家を敵に回したいなんて、思うやつはいないさ。家の威厳なんて物に、あまり興味はなかったけど君を守るために使うのなら気分が良いかな」
 パトリシアは周囲を見渡す。最初は好奇の目でパトリシアを見ていた貴族達は、今やその視線を他に向けていた。貴族は階級社会である。同じ貴族でも、自分より地位の高い貴族の方がより偉いのだ。その事をパトリシアは今日、あらためて肌で感じた。
「一曲どうですか」
「えぇ……踊ります」
 パトリシアは立ち上がり、彼の後に着いて行く。二人の前を、貴族達が自然に避けて空間を作る。彼と向きあい、手を組んだ。
「胸を張ってパトリシア。ここにいる誰も、君を傷つける事はできない」
 音楽が代わり、二人は踊り始めた。流れて行く風景、彼の言う言葉は本当だろう。このフロアには、イズスター家よりも上級の家は一つもなかったのだ。

 パーティ会場を後にして、二人は部屋に帰る。メイドにドレスを脱がせてもらって、パトリシアはお風呂に行った。船の中で暖かいお風呂まで入れるなんて、本当にすごい。着替えて、ベッドに横になる。お酒を飲んだので、見つめる天井が揺れているように感じた。しばらくすると、アレクサンダーもお風呂から出て来る。片付けの終わったメイドが、部屋を出て行き二人きりになる。
「船のパーティーはどうだった」
「そうね……すてきだったわ」
 最後まで誰もパトリシアに、面と向かって酷い言葉を投げかけて来るものはいなかった。
「でも……これからが大変ね」
 パトリシアは転がって、彼の腕に頬を擦り寄せる。
「あなたが、私を連れ歩けば自然と噂は広がるわ」
 礼儀知らずの妻を連れ歩く貴族と噂されるだろう。
「構わないさ。俺が黙らせる」
 パトリシアは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「あなたの運は本当に開けるのかしら」
「……全て問題無いよ」
 アレクサンダーは、パトリシアの疑いを拭うようにキスをした。
―本当にそうかしら……?
 パトリシアの胸の中には、この先への不安が重くあった。


つづく
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