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6.僕の過去と夢の話
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アラームの音で意識がふっと浮上する。懐かしい子どもの頃の夢を見た。父さんに連れられて行ったサーキット。腹の底に響くようなエンジン音や颯爽と走り抜けるレーシングカーにももちろん興味を惹かれたが、無駄のない動きでピット作業を行い、ドライバーを送り出すメカニックに目を奪われ、憧れたのだった。
「タクミ、よく眠れたか?」
その声に目をひらくと、数センチ先に鈴音の顔があって戸惑った。寝起きだというのに一気に心拍数が上がる。
「鈴音、ちょっと離れて」
「タクミが放してくれないんだ。タクミ、あったかくてきもちいいな」
鈴音は僕の胸元に顔を埋めて、また眠ろうとする。僕の腕はたしかに抱きしめるように鈴音の身体を包んでいた。このままもうひと眠りするのも悪くないかもしれない。寝ぼけた頭で考えながら目をとじようとしたが、アラームのスヌーズ機能が働いた。やかましい音を止めようと、スマートフォンに手を伸ばし、画面を見た瞬間に眠気が吹き飛んだ。
「ダメだ、今日は仕事だ」
飛び起きて朝食用のパンをトースターに放り込むと、その間に他の支度を済ませる。焼きあがったパンにかじりついていると、眠そうな目をした鈴音がとことこと歩いてきて、隣に座った。
「ごめん、時間なくて鈴音の分用意できてないんだ。食べたかったら自分で焼いて食べて」
「……? どうすればいいんだ?」
「あー……わかんないか。困ったな」
パンすら焼けないとは。お昼ごはんだってその辺のカップ麺食べていいから、では通じないんだと思うと愕然とする。こんな様子では留守番もさせられないではないか。仕方なく自分のトーストを半分鈴音に分け与える。
「鈴音、それ食べ終わったら昨日買った服に着替えて。今日は一緒に職場に行こう」
「留守番じゃなくていいのか」
「本当は留守番しててもらいたいんだけど。遊びに行くわけじゃないからね」
のんびりと食べる鈴音をせっつきながら、歯磨きを済ませる。食事と着替えを済ませた鈴音が歯磨きをしている間に髪を結わいてあげた。昨夜作った髪飾りをじっくり見せる時間がなかったことは少し残念だ。
目の前で黒髪が揺れる。それに合わせて鈴がちりん、と音を立てる。鈴音が歩くたびにこの音がするのだと思うと、自然と頬が緩む。
「鈴音、行こうか」
ふたり揃って家を出る。だいぶ急かしたから、いつもと同じくらいに家を出ることができてほっと胸を撫で下ろした。外を歩くときはそうするものだと思っているのか、鈴音は僕の手を握ってくる。僕はそれを照れ臭いけれど、嫌だとは思わなかった。
「鈴音は猫のときは毎日何して過ごしてたの?」
「寝たり、散歩したりだ。留守番はすることがなくて退屈だった」
「ごめん、今日は家じゃないだけで、僕は構ってあげられないから退屈かもしれない。梨花さんがいてくれたらいいんだけど」
そもそも職場に鈴音のことを連れて行って、一日過ごさせること自体が可能なのかもわからないのだけど。そんなことを考えながら歩いていると、鈴音がぎゅっと手を握る力を強めた。どうしたのだろうと思って鈴音の視線を辿ると、あの日の酔っ払いのおじさんがいた。
「大丈夫だよ。今は人間の姿なんだから、わかりっこないよ。何も言われない。何か言われたとしても――」
――僕が守るよ。
そう言い切るにはもう少し勇気が必要で、僕は鈴音の手を握り直した。鈴音は僕に隠れるようにして一歩後ろを歩く。おじさんは僕のほうをちらりと見たものの、特に表情も変えずに家の前に水を撒いた。たった一度、しかも酔っぱらっているときに会った人間の顔なんて覚えていないのだろう。足早にその横を通り抜けた。
「タクミ、よく眠れたか?」
その声に目をひらくと、数センチ先に鈴音の顔があって戸惑った。寝起きだというのに一気に心拍数が上がる。
「鈴音、ちょっと離れて」
「タクミが放してくれないんだ。タクミ、あったかくてきもちいいな」
鈴音は僕の胸元に顔を埋めて、また眠ろうとする。僕の腕はたしかに抱きしめるように鈴音の身体を包んでいた。このままもうひと眠りするのも悪くないかもしれない。寝ぼけた頭で考えながら目をとじようとしたが、アラームのスヌーズ機能が働いた。やかましい音を止めようと、スマートフォンに手を伸ばし、画面を見た瞬間に眠気が吹き飛んだ。
「ダメだ、今日は仕事だ」
飛び起きて朝食用のパンをトースターに放り込むと、その間に他の支度を済ませる。焼きあがったパンにかじりついていると、眠そうな目をした鈴音がとことこと歩いてきて、隣に座った。
「ごめん、時間なくて鈴音の分用意できてないんだ。食べたかったら自分で焼いて食べて」
「……? どうすればいいんだ?」
「あー……わかんないか。困ったな」
パンすら焼けないとは。お昼ごはんだってその辺のカップ麺食べていいから、では通じないんだと思うと愕然とする。こんな様子では留守番もさせられないではないか。仕方なく自分のトーストを半分鈴音に分け与える。
「鈴音、それ食べ終わったら昨日買った服に着替えて。今日は一緒に職場に行こう」
「留守番じゃなくていいのか」
「本当は留守番しててもらいたいんだけど。遊びに行くわけじゃないからね」
のんびりと食べる鈴音をせっつきながら、歯磨きを済ませる。食事と着替えを済ませた鈴音が歯磨きをしている間に髪を結わいてあげた。昨夜作った髪飾りをじっくり見せる時間がなかったことは少し残念だ。
目の前で黒髪が揺れる。それに合わせて鈴がちりん、と音を立てる。鈴音が歩くたびにこの音がするのだと思うと、自然と頬が緩む。
「鈴音、行こうか」
ふたり揃って家を出る。だいぶ急かしたから、いつもと同じくらいに家を出ることができてほっと胸を撫で下ろした。外を歩くときはそうするものだと思っているのか、鈴音は僕の手を握ってくる。僕はそれを照れ臭いけれど、嫌だとは思わなかった。
「鈴音は猫のときは毎日何して過ごしてたの?」
「寝たり、散歩したりだ。留守番はすることがなくて退屈だった」
「ごめん、今日は家じゃないだけで、僕は構ってあげられないから退屈かもしれない。梨花さんがいてくれたらいいんだけど」
そもそも職場に鈴音のことを連れて行って、一日過ごさせること自体が可能なのかもわからないのだけど。そんなことを考えながら歩いていると、鈴音がぎゅっと手を握る力を強めた。どうしたのだろうと思って鈴音の視線を辿ると、あの日の酔っ払いのおじさんがいた。
「大丈夫だよ。今は人間の姿なんだから、わかりっこないよ。何も言われない。何か言われたとしても――」
――僕が守るよ。
そう言い切るにはもう少し勇気が必要で、僕は鈴音の手を握り直した。鈴音は僕に隠れるようにして一歩後ろを歩く。おじさんは僕のほうをちらりと見たものの、特に表情も変えずに家の前に水を撒いた。たった一度、しかも酔っぱらっているときに会った人間の顔なんて覚えていないのだろう。足早にその横を通り抜けた。
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