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5.君のそばで僕はいつかの優しさを思い出す

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 髪飾りのグルーが固まったようだ。リボンの後ろ側にあたる部分で、鈴の紐を固く結んだ。鈴がちりん、と可愛らしい音を立てる。なかなかの出来栄えだと思う。早くも用済みになってしまった首輪は、捨ててしまうのがなんとなく惜しくて、引き出しの一番上の段に仕舞っておいた。

 忙しくてそれどころじゃなかったけれど、静かな部屋にひとり残されると急に寂しさがこみ上げてくる。鈴音はもう猫の姿になることはないはずだと言っていた。賑やかで世話の焼ける今の鈴音のことは、嫌いなわけではない。だけど、猫のときと同じような接し方はもうできないから。胸に抱いたときの温もりや、膝に乗ってくるときの心地よい重量感に癒されていたから。それらを味わうことができないのは、残念だと思ったのだ。

「にゃーーー!」

 風呂場から叫び声がした。今は猫じゃないのに、と思うと少し笑えてくるが、なにかしらピンチなのだろうと急いで脱衣所に向かった。鈴音はまだ風呂場にいるようだった。

「鈴音、どうした? 大丈夫か?」
「タクミー、目が、目が痛い」

 石鹸が目に入ったのかもしれない。たしかにあれは痛い。ちゃんと教えておくべきだった。

「よく洗い流して」
「目が開けられない」

 あまりにも悲痛な声で、気の毒になってくる。悩みに悩んで、バスタオルを手に風呂場の扉を開いた。幸い、最初に目に入ったのは背中だった。

「ごめん、ちょっとだけ触るよ」

 声をかけて、鈴音の身体にバスタオルを巻き付ける。顔を覗き込むと、ぎゅうっと固く目を閉じて、涙まで流していた。手のひらにお湯を溜めて、鈴音の目に近づける。

「鈴音、まばたきできる? ぱちぱちってしてごらん」

 鈴音は無言で頷くと、僕の手のひらに顔をつける。痛いのか、時折声を上げている。

「少しはましになった?」
「タクミ……シャンプー嫌いだ。もういやだ」

 そう言った鈴音は、まだ毛先に泡を残しているのにも関わらず、風呂場から出ていこうとするから、慌てて引き留めた。

「だめだめ、まだ泡ついてるから。もしかしてまだシャンプーしかしてない?」

 鈴音は口をへの字にして首を横に振った。

「体は先に洗った。でも、こんなに痛いなら汚いままでいい」
「そんなこと言うなよ。ほら、後はシャンプー流したらおしまいだろ。がんばれ、あとちょっとだ。目瞑って流せば大丈夫だって」

 すっかり心が折れてしまったのか、鈴音は口を尖らせたまま動こうとしない。明日はシャンプーハットを買いに行かなきゃだめだろうか。また出費だ、などと考えてしまうのが情けない。
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