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2.君の温もりを僕は知ってしまった

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 午前中の仕事は上の空だった。僕が迎えに行くまでに、あのおじさんの気が変わったりしたら、とか、怯えた黒猫があの路地から出ていって、広い通りで車に轢かれてしまったら、とか、悪いことばかり考えてしまう。

 ぼんやりしてしまって、だめだ。点検作業用のチェックリストがいつの間にかひとつずつずれてしまっていることに気がついた。最初の項目から再確認し、修正してから慌てて提出した。

「工藤、ちょっと来い」

 どきりとして身構える。片づけをしていると熊谷さんから呼び出されてしまった。あのミスのせいで、いつもより倍近く時間がかかってしまったからか。もしくはまだ直し切れていないところがあったのだろうか。

 熊谷さんのところへ行くと、吉野さんもそこにいて、苦い顔で僕を見ていた。手のひらに汗をかく。

「すみません。ちょっとミスしてしまって。でも、気づいて、やり直したので問題ありません」

 怒られる。そう思った僕は熊谷さんが口を開く前に頭を下げた。頭上で熊谷さんが嘆息するのが聞こえた。

「もう、今日は帰っていいぞ」

 冷淡な声に、はっと顔を上げる。期待を裏切ったんだ。そう思った。

「午後は気持ち切り替えて、ちゃんとできます。だから――」
「なんか、心配事があるんじゃないのか。朝からそんな顔してた」

 吉野さんはゆっくりと小さな子どもに話しかけるみたいに言った。熊谷さんは僕の左腕に触れる。ちょうど、傷痕のあるあたり。熊谷さんは雇い主だから、当然あの事故のことを知っている。クビにされるかもしれない。

「お前だってわかってるだろうけど……この仕事はちょっとの油断が大事故に繋がる。それはお前自身もそうだし、整備不良のある車に乗ったお客さんが危険な目に遭うかもしれない。無理はするな。今日はもう帰れ」

 僕は何も言えなかった。ミスはやり直して挽回すればいいだなんて浅はかな考えだ。傷痕がまたひりひりと痛む。僕はこれだけで済んだ。だけど、僕を庇った先輩は、右腕が使い物にならなくなった。僕のミスのせいで。命に関わる事故じゃなかっただけマシだった。わかっていたはずなのに。あのとき散々思い知ったはずなのに。

「本当にすみませんでした。明日からまた、よろしくお願いします」

 熊谷さんは深く頭を下げた僕の背中を優しく二回叩いて去っていった。吉野さんは何も言わなかったけれど、表情から心配してくれていることはわかった。シャワー室に入り、熱いお湯を頭からかぶる。涙も後悔もすべて流してしまえ。開き直るわけじゃない。引きずるのはよくないから。最後に冷水を浴びると、頭がいくらかすっきりした気がした。
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