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1.君との出会いは偶然だった
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仕事終わりはいつも憂鬱だ。職場でシャワーを借りて全身隈なく洗っても、染みついた油の匂いはなかなか取れない。人とすれ違うたびに嫌な顔をされるから、なるべく人通りの少ない道を選ぶ。今朝歩いた道は、そういった意味では都合がよかった。
小さな黒い影が視界の端で動く。その影は、足元に寄り添うように近づいてきた。身を屈めてその影――黒猫に手を伸ばそうとして、躊躇った。黒く染まった指先が目に入る。こんな汚れた手で触れてもいいものだろうか。
黒猫は僕のことを見上げ、額の上で停止したその手の匂いを嗅ぐと、ぺろりと指先をひと舐めした。ざらりとした舌の感触に驚きつつも、自分が受け入れられたような喜びを感じ、されるがままに自分の人さし指を差し出した。黒猫は満足そうにぺろぺろと僕の指を舐め続けた。
「おまえ、この辺に住んでるのか?」
「にゃあ」
「ちゃんとメシ食ってるか?」
「にゃあ」
まるで返事をするように鳴き声をあげる黒猫を反対の手で優しく撫でた。黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。真っ黒な毛並みは、誰かが手入れしているのだろうか。艶々としていて、ビロードのように美しい。
「なあ、僕の家に一緒に来るか?」
「にゃあん」
「なんだよ、おまえ、可愛いな」
僕の手に自ら額を擦りつけるような仕草は、とても愛くるしくて笑みがこぼれる。両手でもう一度優しく撫でてから立ち上がった。黒猫に小さく手を振って、背を向ける。
「ごめんな、さっきのは冗談だ。またね」
角を曲がったところで、小さく猫が鳴く声が聞こえた気がした。鈴を転がしたような、澄んだ声だった。
小さな黒い影が視界の端で動く。その影は、足元に寄り添うように近づいてきた。身を屈めてその影――黒猫に手を伸ばそうとして、躊躇った。黒く染まった指先が目に入る。こんな汚れた手で触れてもいいものだろうか。
黒猫は僕のことを見上げ、額の上で停止したその手の匂いを嗅ぐと、ぺろりと指先をひと舐めした。ざらりとした舌の感触に驚きつつも、自分が受け入れられたような喜びを感じ、されるがままに自分の人さし指を差し出した。黒猫は満足そうにぺろぺろと僕の指を舐め続けた。
「おまえ、この辺に住んでるのか?」
「にゃあ」
「ちゃんとメシ食ってるか?」
「にゃあ」
まるで返事をするように鳴き声をあげる黒猫を反対の手で優しく撫でた。黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。真っ黒な毛並みは、誰かが手入れしているのだろうか。艶々としていて、ビロードのように美しい。
「なあ、僕の家に一緒に来るか?」
「にゃあん」
「なんだよ、おまえ、可愛いな」
僕の手に自ら額を擦りつけるような仕草は、とても愛くるしくて笑みがこぼれる。両手でもう一度優しく撫でてから立ち上がった。黒猫に小さく手を振って、背を向ける。
「ごめんな、さっきのは冗談だ。またね」
角を曲がったところで、小さく猫が鳴く声が聞こえた気がした。鈴を転がしたような、澄んだ声だった。
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