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W3 その5

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 金子は治美たちにコミックグラスを初期化するのかどうかと尋ねた。 

 治美たちは言葉に詰まってお互いの顔を見合わせていた。

 誰もいきなり漫画家を辞める決心がつかなかった。

 みんなが押し黙っているのを見て雅人が口火を切った。

「治美、もう終わりにしてもいいんじゃないかな?お前はよくやったよ。今や日本中に漫画雑誌があふれている。不可能だと言われたテレビアニメも始まった。歴史は修正されたんだ。あとはお前がいなくても日本は漫画とアニメの大国になってゆくだろうさ」

「でもアトムのアニメはまだ始まったばかりよ。たとえアトムが大ヒットしてもきっと一時的なブームで終わってしまうわ。漫画やアニメはまだまだ低俗な子供だましと思われているもん。だからわたしは継続して良質な手塚作品を世の中に発表し続けなきゃいけないのよ。わたしまだ手塚先生の代表作を半分も描けていないのよ!」

「しかしお前の身体はもうボロボロだぞ。凡人のお前が神様と同じだけの仕事をしているんだ。相当無理をしているんじゃないのか?」

「好きでやっていることだから。好きでやっている間はどんな辛いことでも我慢できるわ。わたしの周りにいる人はみんなそうでしょ。横山さんはどうなの?」

 治美が壁際に立って煙草を吸っていた横山に尋ねた。

「――僕はもともと金儲けのために漫画家になった男。偉そうなことは言えません。でも最近では漫画家の仕事も結構気に入っているのですよ。もう少しだけ続けてみますよ」

「章子さんと玲奈ちゃんはどうする?」

「やりかけの仕事もあるし、後継者も選ばないといけないし、いきなりは辞められませんね」

「いつでも初期化できると分かったから、とりあえずもうちょっとだけ頑張ってみる」

 金子は他の未来人の言葉を聞いてただ黙って頷いた。

「その方がよろしいでしょうね……」

 寂しげな表情で治美が金子に尋ねた。

「金子さんはそのメガネは誰に渡すつもりなの?」

「チーフアシスタントの藤木くんに託そうと思います」

「藤木氏に!?」

「はい。彼とは神戸時代からの付き合いですし、絵は抜群に早くてうまい。なにより若くて元気だ。私よりよっぽど適任ですよ」

「それじゃあ藤木氏に自分が未来から来た人間だと告白するの?」

「はい。でもみなさんのことは内緒にしておきますから安心してください」

「さぞかし藤木氏驚くでしょうね。金子さんは漫画家辞めてこれからどうするつもり?」

「ノープランです」

「だったら虫プロに来ない?漫画を描かなくてもいいから、わたしの相談に乗って欲しいの」

「大変ありがたいお申し出です。考えておきますよ。でもわたしは一度、自分の実家を見に行ってみようと思います」

「実家?」

「はい。この時代の私に会ってみたいのです」

「そっか!唯一金子さんだけがこの時代、もう生まれているものね!」

「ええ。今は4才になるはずです。私はかすかにテレビで『鉄腕アトム』を見た記憶があるのですよ」

「会ってどうするの?」

「うーん、そうですねぇ…。こっそりとマーブルチョコでもあげようかな…」

「通報されるわよ」

「はははは!この時代はまだまだおおらかですから大丈夫ですよ」

 漫画を描くという重圧から解放された金子は晴々とした笑顔を浮かべた。


 翌朝、未来からタイムスリップして来た人たちはそれぞれの家に戻っていった。

 彼らを見送った後、雅人はエリザに引きずられるようにしてあたふたと去っていった。

 雅人は神戸に戻って、エリザの父親が経営している貿易会社で働くのだった。

 治美は自分の祖父が若い頃貿易の仕事をしていたことを知っていた。

 回り道をしたが、これで雅人とエリザの未来も歴史通りに進んでゆくだろう。




 治美には寂しがって感傷に浸っている暇はなかった。

 次々と漫画の締め切り日とアトムの放映日が迫ってくるのだ。

 翌週、テレビアニメ「鉄腕アトム」の初回視聴率が出た。

 27.4%。

 大成功だった。

 続く1月8日、第2話「フランケン」の回、28.8%。

 1月15日、第3話「火星探検」の回、29.6%。

 1月22日、第4話「ゲルニカ」の回、32.7%。

 どんどんと面白いぐらいに視聴率が上がっていった。

 しかしその一方、第4話を放映し終えて治美のコミックグラスの中に保存されていたアトムの動画は品切れとなってしまった。

 あとは第193話、最終回の「地球最大の冒険」の回しか動画ファイルは持っていなかった。

 トレースができなければ治美は自力で絵コンテを描くことはできない。

 5話以降は治美はノータッチですべて虫プロダクションのスタッフにまかせることになった。

 しかし、月刊誌「少年」に連載している「鉄腕アトム」の原作はいずれストックがなくなるだろう。

 アトムは長期連載していたが、半年分の原作でもたった一話にまとめて放送しているため、みるみるうちに原作のストックがなくなっていった。

 原作が枯渇する前に、アニメのオリジナルストーリーを書ける人材を育てる必要があった。

 しかし、鉄腕アトムのようなSFを書ける人間はおいそれとは現れなかった。

 なにしろSFという言葉も一般人は知らない時代だ。

 治美は日本最古のSF同人誌『宇宙塵』の会員にもなり、東京の目黒で開かれた第一回SF大会、通称メグコンにも参加した。

 SFを書ける人間を捜すためだった。

 創成期の日本のアニメは「鉄腕アトム」が人気がでたことからSF物ばっかり作られるようになる。

 そのためSFを書ける脚本家はどこでも引っ張りだことなる。

 そうなることを知っていた治美は若いSF作家の卵たちを高給で次々とスカウトしていった。
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