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ぼくのそんごくう その8

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 治美たちが博多に着いた五日後の朝、最後のコマを糊付けしてすべての原稿はほぼ同時に完成した。

 編集者たちはひったくる様に原稿用紙を受け取ると、大慌てで東京へと帰っていった。


 一方、治美を博多まで連れ出した犯人として、一人最後に残されたK談社の編集員新井は旅館の食堂でやけ酒を飲んでいた。

「うちの原稿はオチた!もうおしまいだ。俺はクビだ……」

 そこへ帰り支度をした治美たちがのほほんと現れた。

「お疲れ様でした、新井さん。迷惑かけちゃったわね」

「はあ……」

 新井は力なくうなだれた。

 すると、治美は封筒に入った漫画原稿の束を新井に手渡した。

「えっ!?こ、これは!?」

「遅くなってごめんね!別冊用の『火の鳥 ギリシャ編』よ」

 新井は驚いて封筒の中の原稿を震える指で数えた。

「ちゃんと64ページある!?」

「鉛筆描きだからペン入れはトキワ荘の人達にでもお願いしてくださいね」

「で、でも、一体いつの間に描いたのですか!?」

「一度仮眠を取りたいって三時間だけ別室で寝させてもらったでしょ。その時に布団の中で隠れて、寝ころびながら描いたの」

「布団をかぶってこっそりと描いていたのですか!?一ページ描くのに三分かかっていませんよ。いや、それより手塚先生、この五日間眠っていないのではないですか!?」

 確かに誰も治美が寝ているところを一度も見なかった。

「わたしが締め切り遅らせたのだから仕方ないわ」

「ありがとうございます!ありがとうございます!」

 新井は泣きそうに顔を歪めて何度も頭を下げた。

「それより早く原稿を東京に送ってきなさいよ」

「わかりました!失礼します!」

 酔っぱらって顔を真っ赤にした新井は、おぼつかない足取りで封筒を抱えて旅館を飛び出して行った。

「さて、わたしたちも退散しましょうか」

「――手塚先生。こんな生活を続けていては早死にするよ」

 雅人はそう治美に忠告したが、どうせ無駄だとは分かっていた。

 本物の手塚治虫と同じだけの質と量の作品を生み出すには、治美は自分の生命を削って描き続けるしかなかった。



 治美と雅人は松本少年たちを連れて駅に向かって歩いて行った。

「君たちには本当にお世話になったわね。これ、少ないけど受け取ってね」

 治美はお札の入った封筒を松本たちに手渡した。

「いえ。お礼なんてもらえません!」

 そう松本少年たちが固辞したが、治美は無理やり封筒を渡した。

「それじゃあ、みんなで映画でも観に行きましょうか。ちょうど今、黒澤明の『蜘蛛巣城』をやってるわよ」

「えっ!?今からですか!?」

 松本たちは互いに顔を見合わせた。

 せっかくの治美のお誘いだったが、みんな疲労困憊で一刻も早く家に帰って眠りたかった。

「しょうがないわね。みんな、漫画家になるなら体力をつけておきなさいよ」

 そう言うと治美は何か思いついたのか、コミックグラスを操作して検索を始めた。

 松本たちは突然治美が空中を指でかき回し始めたのを奇異の目で見ている。

 治美は道の中央で立ち止まるとおもむろに上りゆく朝日を指さした。

「君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ!」

(ああ、なるほど)
 
 雅人は察した。

 治美は松本たちにカッコつけて何か良い助言を与えようと思い、本物の手塚治虫の名言を検索していたのだ。

 治美の思惑通り、松本少年たちは治美の言葉に感動し、尊敬の眼差しでいつまでも彼女を見つめていた。


 それから治美は記念にと、松本、高井、大野、井上の四人の高校生たちと街の写真館で写真を撮った。

 写真館でカメラの前で治美を囲んで緊張して立つ高校生たちに治美は言った。

「予言します。君たちはみんな将来立派な漫画家になるわ。必ず東京に来て漫画を描くのよ!」

 四人の高校生たちは瞳を希望で輝かせ、「はい!」と大きく返事した。
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