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廃屋の影
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木曜日は予報通り、雲は多いが青空も時々のぞく天気であった。空木はザックを担ぎ、山靴を履き、午後三時半ごろ部屋を出た。中央線国立駅から東京駅を経由し、新幹線で名古屋に向かう。名古屋に着いたのは夕刻六時少し前、空は青空でまだ明るく、少し蒸して暑かった。駅で明日の時刻を確認し、今日と明日の宿「ミユキ駅前ホテル」にチェックインを済ませる。岐阜に住んでいる土手に電話しようかと考えたが、金曜のこの時間から岐阜から出てくるのも辛いものがあるだろうし、自分も明日の仕事を控えていることを考え、止めた。酒好きの空木も、さすがに緊張していた。
この男もアルコールを飲まない時がある。それは始めての山に登る時、厳しい山に登る時、緊張する山に登る時であった。明日の山は何度も登っていたが、今回は探偵らしい初の仕事であるという緊張感のせいで飲むのを止めた。
空木はホテルの部屋で、仲内和美から送られてきたオフィスビルをバックにした男の写真を見ながら、被写体との距離感を考えた。この距離での写真しか無かったのか、仮にあったとしても他人が映っているか、自分の手元に残しておきたい写真ばかりだったのだろうか。だとすると仲内和美という、女性と思われる依頼主は、どんな気持ち、目的で今回の依頼をしてきたのか、単なる嫉妬心なのか、離婚のための証拠集めなのか、考えない訳にはいかなかった。
六月十日金曜日、天気は曇りだ。通勤客に混じっての登山姿は違和感があった。空木はこの違和感が嫌いではなかった。以前、この名古屋のバスセンターから南アルプスの玄関でもある信州伊那駅に向かう時を思い出していた。登山靴を履いて大きなザックを担いで歩くと、通勤している人たちの目が「どこにいくんだろう」という羨望の眼差しに空木には感じたのであった。実際は、好き好んで重い荷物を担いで「何が楽しくて山なんかにいくのか」が正しかったかも知れないが。
写真の男はどんな気持ちでいるのだろう。違和感よりも楽しさの方が勝っているのではないかと、空木は思った。
六時四十五分の大垣行きは、通勤の混雑の逆方向であるのか、時間が早いせいか、空いていた。網棚にザックを置いて座る。大垣で米原行きの電車に乗り換える。車両の乗客は座席の半分程度が埋まっている。関が原はガスが出ていた。天下分け目の大戦は九月であったが、こんな感じだったのだろうと空木は思った。
七時四十九分、柏原の駅で降りた乗客は空木一人であった。通学の高校生が何人か乗った。恐らく米原、彦根、長浜の高校へ通学する生徒なのだろうと思った。空木は改札を出て、さてどこで目的の男を待つか、駅の待合室から外を眺めた。待合室は五、六人ほどが座れる長いすだけで、ここではとても待つわけにはいかない。依頼人からは絶対に気づかれないようにと言われている以上、ここで待つのはいかにも具合が悪い。
駅を出て右手にある駐輪場の陰で待つことにした。
通勤の女性や通学の女子高生が、ザックの上に座っている空木に何をしているのか、という目を向けながら駅に向かっていく。
八時十五分過ぎ、上り大垣行きの電車が到着する。降りた客は誰もいなかった。八時三十分過ぎ、下り電車が入ってきた。空木はじっと目を凝らし、駅の出入り口を見つめる。緊張で身震いした。
男が一人ザックを担いでいる。半そでの白のTシャツにグレーのズボン。眼鏡をかけているが色つきの眼鏡だ。加えて帽子をかぶっているため写真との照合が難しい。しかし、降りてきたのはこの男ただ一人、しかも登山靴にザックを担いでいる。身長もほぼあっている。この男に間違いないと空木は確信した。
男は駅の出口で辺りを見回しながら、ザックを降ろし、駅の左手にあるトイレへ向かった。トイレから出てきた男はすぐには出発しなかった。携帯電話を取り出して画面を見ているようだ。落ち合う女性とメールで確認でもしているのだろうか。男は携帯電話をポケットにしまうとザックを担いで歩き始めた。
霊仙山の登山口までは三十分ほどだ。空木はどの位の距離をおいて歩くか考えていたが、カメラのズーム距離から約百メートルが限界と考えた。上に行けばもう少し距離を近づけても怪しまれないだろうと思うが、出発間もない時では姿を見られると、電車から降りた客は空木が尾行する男一人しか乗っていなかったのだから、当然どこから来たのだろうかと怪しまれる可能性が高い。登山道に入るまでは極力、距離を開けようと思った。
往時は中山道と言われた国道を渡り、名神高速道路をくぐり、林道に入る。男の姿は見えないが、霊仙山に登ることはわかっているのだから慌てる必要はなかった。男の足がどの位健脚か分からないが、休憩はするだろう。一合目のコル、四合目のコンテナの避難小屋、北霊仙手前の小屋では顔を会わせない様、気を付けなければならないと空木は思った。幾度となく登った山道だけに、姿を確認する所として空木は何ヶ所か思い浮かべていた。
登山道に入る直前の林道で二、三百メートル見通せた。前方を歩く男を確認できた。空木の歩行速度とさほど変わらないようだ。女性とはどこで落ち合うのか分からないが、落ち合うとしたら、七合目の梓河内からの合流地点か北霊仙山、もしくは頂上のいずれかだと、空木は考えていた。休憩場所をずらしながら、一合目のコル、四合目の避難小屋を通過する。汗が滴る。二週間前より山の緑が濃くなるとともに暑くなっていた。
六合目の辺りが第二の確認ポイントである。やはり二百メートルほど先を男が歩いている。空木はカメラを最大ズームにして二、三枚写真を撮るが、顔は映らない。ザックはグレーに黄色のコンビの三十リッター位の小ぶりのザックだ。七合目へは急登を登り、少し下る。梅雨の時期で登山道はぬかるんでいる。
梓河内からの合流地点を覗くように目を凝らす。誰もいなかった。次の合流点は北霊仙山だ。ここからはある程度接近しても何とかなると考え、歩く速度を早める。汗が滴り落ちた。
九合目の急坂を登ると避難小屋だ。男は健脚だ、休憩を取らずに歩いている。空木はザックを降ろし、北霊仙山山頂を見るが、人影はない。カメラをまた最大ズームにしてファインダーを覗くがやはり人影はない。前を歩く男一人だけだ。ここでも男を撮るが後ろ姿だ。ここから北霊仙山まではおよそ四百メートル、遮る物はなく人の存在は肉眼でも確認できた。男がザックを降ろすのが見えた。食事を取るのだろう。空木も緊張で空腹感はないが、ここで持参したコンビニのお握りを二個、三個と食べることにした。時間は十一時四十分だ。ここで落ち合わないとしたら、下山後しかない。どちらのコースを下山するのか。お虎が池から槫が畑に下るのか、あるいは霊仙山頂上から笹峠、落合、今畑に下るのか。空木は距離をもう少し詰めることにした。
空木が歩き始めて五分、男がザックを担いでいる。視界から消えた。空木は足を速めた。北霊仙山に着いた。男はお虎が池方面に歩いている。下山路は槫が畑だ。ぬかるむ道を下る。ここから槫が畑の廃村を抜けて、林道までは一時間程だ。空木は男が視界から消えない程度に距離をとって歩いた。男は汗拭き峠の分岐を槫が畑方面に下っていく。
「カナヤ」という看板が置かれた小屋が見えてきた。男は真っ直ぐに林道に向かう。
止まった。空木も五十メートルほど手前で立ち止まった。男は廃村の中の、朽ちてはいるが、比較的家の原型を止めている一軒の家の中に、入っていった。空木は小屋の角で男が出てくるのを待った。
五分たち、十分が経った。男は出てこなかった。空木はおかしいと思い、近づいてみる。朽ちかけた家に、覗き込むようにしながら入っていく。暗くてよく見えなかったが、柱に寄りかかって座り込むような格好をした影を見た。暗さに目が慣れてきた。ザックを背負った人間が座っている。白い半そでシャツ、帽子を被り、眼鏡をかけている。その瞬間、空木は「あっ」と声がでた。天井の梁からロープが降り、そのロープが男の首に巻きついていた。空木は思わず後ずさりし、尻餅をついた。空木は、葬儀以外では死体を見たことはなかったが、咄嗟に死体だと感じた。
「カナヤ」という小屋は、平日は無人で誰も居ない。携帯電話は圏外表示だ。空木はザックを置き、林道を走り、携帯電話のアンテナが立つ場所から警察に通報した。時間は午後一時三十分だった。
およそ二十分後、サイレンの音が谷間に響いてきた。滋賀県警湖東警察署のパトカー二台が登山口の標識前で立っていた空木の前で止まった。数人の警官と鑑識課と書かれた上着を着た警官が降りてきた。
「あなたが通報された方ですね」色黒で小太りの五十がらみの警官が言った。
「はい、空木と申します」
「湖東警察署刑事課の赤池です」赤池は警察証を見せた。
空木は赤池たちを廃屋の男の所に案内した。
「あなたの知り合いの方ですか」赤池が聞いた。
「いえ‥‥‥」空木は答えながら、慌てた。何故、廃屋に入ったか聞かれたらどう答えるのか‥‥。
林道から十分ほどで廃屋の現場へ着いた。赤池たちは、座っている男にゆっくり近づき、ライトを照らし、その死亡を確認した。頸部をほぼ水平に走る索痕。絞殺である。赤池は警官をパトカーに走らせ、本部に至急の連絡を入れさせた。
「一見、自殺のようにみせかけていますが、首の周りの索痕を見れば、我々でも自殺ではないとわかります。まあ、検死解剖すれば死因、死亡推定時刻もわかるでしょうが」
赤池が空木に向けて話した。
「殺された?」空木は呟くように言った。
混乱していた。この男と自分以外に誰かが居たのか。自分が見ていた限り、自分とこの男意外に誰もいなかったのは間違いない。この男はこの廃屋に約束でもあるかのように躊躇することなく入っていった。
赤池は詳しく話を聞きたいので、一緒に警察まで来てもらうことになると思う、と空木に言った。
およそ二十分後、けたたましいサイレンの音とともに、何台かのパトカーと救急車が到着した。
鑑識のフラッシュが眩しく光り、廃屋の内、外を丹念に調べる。靴の跡も入念に調べている。死体は救急車に乗せられ、病院に向かう。司法解剖され、改めて死因、死亡推定時刻が明らかになるだろう。
赤池が半そでの白い開襟シャツを着た四十半ばと見える細身の男と話している。
開襟シャツの男が空木の前に立ち、挨拶する。
「湖東警察署刑事課の大林です」
「空木と申します」空木は軽く会釈した。
「通報されたのはあなたですか。亡くなっていた方とは知り合いではないということですね」
「はい、‥‥‥」どう説明するのか、一瞬目が宙を泳いだ。
「山登りに来られたんですか」
刑事の大林は空木の顔、目を見て聞いた。
「はい、柏原から登って、ここに降りてきて、廃屋が気になって覗いてみたら、ロープに繋がった人が座っていて、びっくりして警察に連絡しました」
嘘はついていない。空木は廃屋に入った訳をどう言おうか考えていたが、全ては話さないまでも、嘘はつかないようにしようと、考えた上の返答だった。
「空木さんはどちらからこられたんですか」
空木の言葉に関西弁の臭いがないと思ったのか、大林は聞いた。
「東京から登りにきました」
「ほー、東京からわざわざこんなところに来られたんですか」
刑事は、とても信じられない、という顔だ。
「ところで、あの男性とは山でお話されましたか」
「いえ、ずっと私の先を歩いていましたので、話す機会はありませんでした」
これも嘘ではない。
「空木さん、そんなに時間は取らせませんので、署でもう少し話を聞かせていただけませんか」
刑事は当然来てくれるだろう、という表情で空木に言った。
「分かりました。今日は名古屋に泊まりますので、大丈夫です」
空木は躊躇せずに答えた。
「名古屋にお泊りですか。じゃあ署の人間に送らせますよ」
空木は、それには答えなかった。パトカーでホテルに乗り付けるのは勘弁してほしいし、まさか電車がなくなるような時間までかかるのだろうかと、困惑したからだ。
湖東警察署は米原駅の近くにあり、四階建ての灰色の建物だった。入口から入って、右手の階段を上がった左側に刑事課の部屋があった。室内は、他殺と思われる死体が発見された直後だけにあわただしかった。
大林は課長らしき男と話をした後、一人の若い刑事を連れて出てきた。空木を、一つ部屋を隔てた小ぶりの会議室に案内した。取調室ではなく、会議室にしたのは空木への配慮だった。
婦警がお茶を運んできた。
「じゃあ、空木さん、あそこで死体を見つけるまでのことを、覚えている限り話して下さい」
大林も、若い刑事も手帳を手にしている。
空木はここに来るパトカーの中で、依頼を受けてあの男を尾行していたことを話すべきかどうか思案していた。
尾行していた男が死んだ。しかも殺人の可能性が高い。通報者は自分だが、尾行していたとなれば、疑われるのはまず自分だろう。まして、依頼者の居場所も、素性も分からない、知らない。当然会ったことも無いから、顔も知らない。また、都合が悪いことに、五月の末の土曜日に同じ霊仙山に登っている。これはまずいことになった。
「はい、柏原の駅には八時半ごろ着きました。あの亡くなった方も同じ電車だったと思います。たまたま私は一番前の車両でしたので間近には顔は見ていませんが、後姿は見ました。私は駅のトイレで用足しをしましたので、その方とはかなり距離が離れたと思います。一合目と四合目で休憩しましたが、一緒にはなりませんでしたので、かなり距離はあったと思います。九合目の避難小屋に着いた時、北霊仙山の頂上を見たら、人影がありました。多分その方だったのではないでしょうか」
空木は、自分が探偵を業としていることは勿論、尾行であったこと、写真を二回にわたって撮ったことも話さなかった。
「その山の頂上には一人だけだった」大林が確認するように聞いた。
「ええ、私の方角から見えたのは一人だけでした。南側、つまり向こう側にだれか居ればわかりませんが」
空木は、その避難小屋で昼食のお握りを食べたこと、その男は頂上で食べていたと思うこと、自分が頂上に着いた時は、その男はお虎が池に向けて下山していたことを話した。霊仙山に登りながら、霊仙の最高峰である頂上には行かなかったことは話さなかった。
大林がまた確認する。
「あの男性は頂上で食事をして下山した。下山の時もあの男性以外は誰も見なかった、ということですね」
「ええ、間近で見たわけではありませんが、時間的に考えても食事をしていたと思います」
「廃屋に入って、死体を発見するまでの状況をお願いします」
「ぬかるんだ道を、見晴台、汗拭き峠と下っていきました。男性も同じコースを下っていて、私の五、六十メートル先を下山していました。下り坂が終わって、小屋を過ぎたところで、その男の人は、スッと廃屋に入って行きました。私は小屋の前で休憩しましたが、その男の人が中々出てこないので、何をしているのかなと思い、覗いてみることにしたんです。そしたらああいう状態だったんです」
空木は、一つだけ嘘をついた。小屋で休憩ではなく、男の様子を窺っていた、というのが真実だ。
「あの男性が廃屋に入る時、誰か一緒に入った様子はなかったということですか」大林が念を押す。
「はい」空木は頷いた。
「空木さんは何故、この山にわざわざ東京から登りに来たんですか。旅費も宿泊費もかけて」
空木は、やっぱり聞いてきたか、と思った。
「この山は、私が名古屋にいた四年間で何回も登っている好きな山でした。もう十年近く登っていなくて、会社を辞めたこともあって、久し振りに登ってみようかと思ったからなんです」
空木はここでも嘘をついた。二週間前に土手と一緒に登っている。
大林は、自分は伊吹山には登ったことはあるが、霊仙山がそんなに良い山だとは知らなかったと言い、他にどんな山に登っているのか興味深げに聞いてきた。
「わかりました。では空木さん、身分証明になるものがありましたらお見せください。それと連絡場所を教えてください」
大林がメモ用紙を差し出した。
空木は、国分寺の住所が書かれた免許証と国民健康保険証を見せ、連絡場所には自分の携帯電話の番号を書いた。
「健康保険証をお持ちなんですね」大林だ。
「ええ、山に行く時は必ず持って行くようにしています」
「固定電話はお持ちではない」大林が確認する。
「独身なので、固定は止めました。携帯だけです」
大林は納得顔で頷いた。独身だからいろんな山に登れるのだと、その顔は言いたげだった。
その時、大林の上司らしき刑事が入ってきた。何か、耳打ちしている。
大林は空木の方を向いて言った。
「他殺と断定されました。持ち物からは身元は判明していません。それと少しおかしなところがあります。空木さん、申し訳ないのですが、被害者の顔を見て、山に登っていた方と同一人物かどうか確認してほしいんです」
「見るのは構わないんですが、はっきり顔を見たわけではないので、確認できるか自信はありません」
空木は時計に目をやりながら、答えた。時間は六時を回っていた。
「被害者の遺体はあと一時間ぐらいでここに搬送されてきますので、食事でも取っていただいてお待ちください。名古屋のホテルには送ります」
大林は、そう言うと今度は、宜しくというように頭を下げた。
空木はまた混乱した。同一人物かどうか確認しろ、ということは別人の可能性があるというのだろうか。それに顔の確認と言っても全く自信は無い。
「刑事さん、身元が判らないと言っていましたが、財布の中にカードはなかったんですか」
「お札以外は何も入っていませんでした」大林が答えた。
七時を回った頃、空木は地下へ案内された。そこは遺体安置所だった。室内灯に照らされた遺体の顔はどす黒かった。
大林が被害者の身長、体重、血液型、およその年齢を空木に説明した。身長は一七三センチ、体重八十キロ、血液型は0型、年齢は四十後半から五十代半ばとのことだった。眉の濃淡はあまり判然とはしなかったが、唇は比較的厚かった。帽子、服装は尾行していた男とよく似ていた。
「色付きの眼鏡はありませんでしたか」
死体の顔を見ても、空木には判断は出来なかったが、眼鏡は記憶に残っていた。空木が北霊仙山で見た男は、色付きの眼鏡をかけていた。
「これですか。色付きではありませんよ」
大林が遺留品の中から銀縁の眼鏡を取った。
「遺体にかけてみてくれませんか」
空木の要請に大林が死体の顔に眼鏡をかけた。
「うーん、何ともいえません」
空木は、仲内和美から送られてきた写真の男に良く似ていると思った。身長、年齢は合致する。服装も良く似ている。しかし、写真の男が尾行した男、つまり霊仙山に登った男とは確信が持てなくなっていた。今思えば、柏原の駅で見た時が、その男との距離としては最も近かったが、色付き眼鏡と帽子で写真との照合はできなかった。もし、登った男が、写真の顔と照合されるのを避けていたら、それは何故か。別人なのか、と考えた時、大林が言った。
「検死、司法解剖の結果、この被害者は死亡推定時刻が昨日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められたことによる窒息死、絞殺です。それと、胃の残留物に蕎麦がありましてね。さっきの空木さんの話からすると、登山していた男とは別人ではないかと」
「別人‥‥‥」
空木はそうかもしれないと思った。そして。
「刑事さん、この人が履いていた靴とザックを見せてもらってもいいですか」と言った。
大林の後ろのビニールを敷いた机の上にはザック、靴、帽子が置かれていた。この被害者の持ち物だ。持ち物の中にあるはずの携帯電話が無いことに、空木は気づいたが、これは話すのは止めた。
空木は、廃屋から運ばれていく死体を見た時、靴が比較的きれいなことに、違和感を感じていた。
ザックは三十リッターのグレーに黄色のコンビで比較的新しい。靴は国内製の軽登山靴だが、よく履かれている感じだ。
「刑事さん、この靴あの山から下りて来たにしては随分きれいです。私の靴と比べたら判ると思いますが、泥はもう乾いていても、ソールには泥が入り込んでいるはずなのに、全くない。あの山から下りてきた靴じゃないと思います」
空木は自分の登山靴の靴底を見せながら、別人の靴だと確信したように言った。
「そうですね、靴底はきれいですね」
大林は手袋をはめた手で登山靴を取り、空木の見せた靴を眺めて言った。
空木は刑事にザックの中身がどこにあるのか聞いて、その答えに驚いた。何も入っていないと言うのだ。
「刑事さん、山に登るのに空のザッ クを担いで登る人なんかいませんよ。それと携帯電話を持っていないというのも不自然かも知れません」
「その通りです。私も伊吹山に登った時は、昼飯は勿論、水筒やらお菓子やら入れて登りました。カメラも持っていく人も多いと思いますし、今では携帯電話は必ずと言っていいほど持っていくでしょうね」
「やっぱりこの人は登っていないと思います。別人だと思います」
空木は言いながら、もう一度登山靴の靴底を見た。5ミリぐらいの石粒が靴底の溝に固く挟まっていたが、泥は全くと言っていいほど挟まってはいない。
空木は、死体安置所に用意された線香台に手を合わせ、二階の刑事部屋に案内された。入口には「霊仙山殺人事件捜査本部」と書かれた長細い紙が張られていた。所謂、戒名という貼り紙だった。
大林から、何か思い出すようなことがあったら連絡してほしい、と名刺を渡された。湖東警察署刑事課、大林宏とあった。
現場に最初に到着した赤池が待っていた。時間は八時半を回っている。空木は、赤池が助手席に乗ったパトカーの後部座席に座り、名神高速道路を名古屋に向かった。サイレンこそ鳴らしていないが、赤色灯を回しながら走ると、まるで大名行列のように、走行車線側に一列縦隊となった。パトカーの前方も一列縦隊だ。先を急ぐ運転者にとってはいい迷惑だろう。
赤池も山が好きらしく、車中、北アルプスの槍ヶ岳に一度は登ってみたいとか、鈴鹿の御在所岳は観光客だらけでつまらないとか、話しながら、あの被害者も山好きだったのだろうかとか、空木に話しかけていたが、空木はじっと目を瞑りあることを考えていた。
被害者はあそこで殺されたのだろうか。被害者は山には登ってはいない。自分が尾行していた男は、どこに消えたのか。廃屋には間違いなく入っていった。そして死体を見ている。見ていて通報していないというのは何故だ。面倒なことに巻き込まれたくないからか。
いずれにしろ依頼者の仲内和美の依頼である、男と女性が一緒にいる写真は撮れなかった。いや、それはあの男が女性と落ち合うことが、山ではなかったから結果として仕方がないことだ。と思った時、空木は仕事が成功しなかった事を依頼者に報告しなければならないことを思い出した。
パトカーがホテルの前で停まった。時間は九時半を過ぎているが、名古屋駅前の人通りは多く、赤色灯を点けたパトカーから降りるのはやはり気まずいものがあった。しかも赤池が敬礼している。空木は送ってもらった礼もそこそこに、足早にホテルに入った。
自販機でビールを買い、部屋に戻った空木は、石山田に電話した。石山田は自宅にいた。小学生になる娘が電話に出て、石山田は風呂に入っていると言った。風呂から上がったら携帯に電話してくれるようお願いして電話を切った。空木もシャワーを浴びる。こんな時でもビールが美味かった。携帯電話が鳴った。石山田だった。空木は今日の一連の出来事、事件を石山田に話した。
「健ちゃん、その柏原とかいう駅で、待っている姿を誰かに見られていないか。通学通勤時間だし、誰かに見られているとしたら、警察の聞き込みでばれるよ」
石山田は、空木が被害者と同じ電車で降りたという説明が、警察にはすぐに嘘だと判ると言い、依頼されて尾行していたことも含め、全部話した方が良いと勧めた。
「それから、依頼主には連絡したかい」石山田が聞いた。
「いや、携帯メールしか方法はないけどまだだ」
「‥‥‥多分、連絡は取れないだろうけど、やってみて」
「わかった、また後で電話する」
空木は、電話を切り、すぐにその携帯電話で、目的の写真は撮れなかったと、仲内和美に送信した。すぐに返信が帰ってきたと思ったが、それは送信先不明の表示であった。すぐに石山田に電話した。
「巌ちゃん、アドレス不明で帰ってきたよ」
空木は力なく電話の向こうの石山田に言った。
「やっぱり。アドレスから持ち主が判る筈だから、消したんだ。健ちゃん嵌められたかも知れないよ。昨日の夜のアリバイはあるかい」
石山田の「嵌められた」と言う言葉に、空木の頭は真っ白になった。これが五十万の代償なのかと。
「ずっとホテルにいて、十一時過ぎには寝た」
空木は、後輩の土手に電話して飲めば良かったと、後悔した。
石山田は、自分が空木の身元証明人になるから心配するな、と言って電話を切った。
空木は、湖東警察署で大林から貰った名刺を出し、電話した。刑事課の直通電話だった。大林はまだ署に居るようだった。
「思い出したことがあるので明日伺います」
「どんなことですか」
「いえ、明日伺ってお話しないと、電話では説明しにくいので」
「判りました。ではこちらから迎えを行かせましょう」
「いや、パトカーはもう結構ですので。電車で行きますから」
空木は、さすがに朝からパトカーのお迎えは、ホテルもびっくりするだろうと思った。
「心配しないで下さい。パトカーでは行きませんから」大林は空木の心配を察して言った。
刑事課の車で迎えに来るということで、ホテル前で九時に約束した。
翌朝、空木は迎えに来た大林とともに、刑事課の車で湖東署に向かった。
空木はパトカー以外の警察の車に乗ったのは初めてだった。
車中で思い出したこととは何か、聞かれたが空木は警察署で話した方が良いので、と言うだけにした。大林は、身元はまだ判明していないが、行方不明者の届出が出るだろうからいずれ判明する、というようなこと、県警本部から応援が入ったことなどを話していた。
空木は、捜査本部の紙が張られた部屋の向かい側の、応接室に通された。
向かい側に座った、大林ともう一人の刑事に向かい、空木は「スカイツリー万相談探偵事務所」空木健介と書かれた薄い名刺を差し出しながら言った。
「すみません。実は私、探偵業をしています。それである人に頼まれて、死んだあの男を尾行していました」
空木はテーブルに手を着き、頭を下げた。
「何故、最初からそれを言わなかったんですか」大林が怒ったように言った。
「迷ったんですが、依頼主のことを全く知らないんです。全く知らないで尾行をしているなんて、信じて貰えないと思い、余分なことは話す必要はないと思ってしまったんです」
「じゃ、何故話そうと思ったんですか」
「私の知り合いに警察関係者がいまして、相談したら全部話せと言われました」
「知り合いの方というのは」
「国分寺警察署の刑事をしている石山田という男です」
「嘘はすぐばれると言われましたか」
大林は睨んでいた。
「ええ、柏原の駅であの男を待っている時、高校生に見られていることを話したら、警察の聞き込みで、それはすぐに判ることだと言われました」
空木は再度、机に手を着いて頭を下げた。
「朝方の聞き込みで、登山服姿の男が駅の方をずっと見ていた、という目撃者がいました。我々は重要参考人と思っていますが、あなたでしたか」
そう言うと大林は席を立った。
しばらくして大林が戻った。
「国分寺署に確認しました。石山田刑事とは高校の同級生で、尾行依頼の相談もされたと言ってました」
「あなたを信用しない訳ではありませんが、重要参考人として調書を取らせていただきますので、場所を変えます」
大林は空木を、階段を隔てた取調室へ連れて行った。
「空木さん、今度は本当に全部話してください」
空木は、二週間前に友人と霊仙山に登っていることをまず話した。そして仲内和美と名乗る女性から、尾行の依頼を受けたことを、ワープロで書かれた手紙をみせながら説明し、五十万円の着手料を受け取ったことも話した。そして朝の電車到着時刻、男が出発前に携帯電話を見ていたこと、距離が四、五十メートル離れていて、色付き眼鏡、帽子のため写真の男と照合できなかったことも、依頼の写真を見せながら説明した。登山中については離れていて、二度写真を撮ったが、顔は映らなかったこと、北霊仙山で男が食事を摂っていたように見えたこと、女性とは最後まで落ち合うことはなかったことを話した。そして、下山して槫が畑の廃村に、男が一人で入って行ったこと、その時自分は、「カナヤ」の小屋の隅に隠れて、男が出てくるのを待っていたこと、全てを話した。その間誰にも会わなかったし、誰も見なかったことも加えた。
「二週間前に登っていたんですか」
「はい」
「どなたと登られたんですか」
「岐阜に住んでいる土手登志男という後輩です」
「たまたまとは言え不思議なめぐり合わせですね。おかしいとは思いませんでしたか」
「こんなことがあるのか、とは思いましたが、偶然だと思いました」
空木は、石山田が言っていたことを思い出していた。探偵としての初の調査依頼に浮かれていた自分が情けなかった。
「空木さん、この写真の男は被害者と良く似ていますよね。遺体を見た時困ったでしょ」
「はあ、あの時は山に登っていた男かどうか、と考えていたんで、ああ答えましたが、写真の男に良く似ていると思いました」
「被害者はこの方にほぼ間違いないでしょう。依頼文にある年齢が本当だとすればなおさらです」
大林は写真を見ながら言った。
「空木さんの話しからは、山に登った男と殺された男は別人だと思われますが、その男はどこに消えたのか。それと依頼者の仲内とかいう女性は何者なんですかね。会ってないと言いますけど、会ってもいないのに手付けを払うというのはちょっと不自然だと思いますが。それと空木さん、会っていないということは女性か男性かも判らないということですよね」
大林は、空木から出された男の写真から目を上げて言った。
「別人だとしたら、私の尾行していた男がどこに消えてしまったのか。それと刑事さんの言う通り、私も少し変だなとは思いましたし、石山田からも気をつけろと言われました。尾行する男性と依頼人との関係、それから男性の所在地もメールで問い合わせましたが、無しの礫でした。男か女かは、全く考えませんでした。女性とばかり思っていました」
空木は、探偵らしい始めての依頼だったので、受けてしまったとは言えなかった。しかし、仕事を受けたい気持ちが、大林の言うように、依頼者が女か男かも判断する冷静さを消してしまったと、思った。もし、男なら石山田が言うとおり自分は嵌められたに違いない。
「その依頼者とは事件後連絡は取られましたか」
当然の質問であった。
「昨晩、連絡のメールを送りましたが、送信先不明で送れませんでした」
空木は携帯電話を手にしながら答え、一度だけ来た仲内和美からの返信のメールを大林に見せた。
「ということはこの依頼者はアドレスを変えたか携帯電話を処分した。いずれにしてもアドレスから自分の身元が判ることを嫌った。しかも、依頼事が成就したかどうかも分からないまま」
大林は男の写真をまた手に取った。
「女性と落ち合うことなくあなたの尾行から消えた登山者と、依頼者、そして被害者との関係がこの事件の鍵を握っていますね」
「ところで、空木さん木曜日の夜十時から十二時の間はどこに居られましたか」
大林はまた、睨みつけた。
「木曜の晩はずっとホテルにいました。外出してません。証明してくれる人はいません。石山田に自分にはアリバイがない、と言われました」
空木は観念したかのようにキッパリと答えた。
「被害者はあそこで殺されたのではないと、我々は思っています。木曜の夜、どこかで殺されてあそこに運ばれた。恐らく車を使っているでしょうし、女一人で運ぶのはとても無理でしょう。被害者の身元が判れば足取りも追えますし、容疑者も浮かんで来ると思います。空木さん、あなたは重要参考人であり、容疑者ですからね。石山田刑事があなたの保証人ということで拘束はしませんが、行動には十分配慮してください。出来れば、所在を常に明らかにしておいて下さい」
大林は机に手を置きながら念を押すように言った。
十二時を回っていた。取調室から出た空木は、大林から、依頼文、男の写真、カメラのSDカードを複写、現像するのでしばらく預かる。出来るだけ早く返すと言われ、承諾した。さらに大林は、空木に聞いた。
「山によく行っている空木さんから被害者を見て、何か気付かれたことはありませんか。参考までに聞かせて下さい。探偵でもあるそうですし」
空木にはかなりの嫌味に聞こえた。探偵が簡単に嵌められるとは、と言っているように。
「帽子も、服装も、それとザックも、新しい感じでしたが、靴だけは履きこんだ感じでした。服だけ新調したのかも知れませんが、違和感はありました。その靴ですが、ソールに花崗岩と思われる石粒が挟まっていました。最近そういう山、例えば鈴鹿でしたら御在所岳かその南の鎌ヶ岳などですが、そういった山に行った形跡だと思います。それと私の尾行していた男ですが、あの廃屋に何の躊躇もなく入って行ったことから考えると、この山に登るのは初めてではないと思います」
空木は、昨日見た被害者の遺体を思い出しながら、嫌味な質問に出来るだけの答えをした。同時に空木は、嵌められた悔しさを何とか晴らしたいと思う気持ちが込み上げてきた。新米探偵の未熟さに付け込まれた悔しさと腹立たしさだった。
大林の、署の車で送るという申し出を断り、空木は米原駅までザックを担いで、歩きながら考えた。考えれば考えるほど腸が煮えくり返ってくる。
冷静に最初から一つずつ順に考えてみようと思うが、イライラして来るばかりだ。時計を見た。午後一時を回っていた。空腹感は感じなかったが、これが原因だと、空木は思った。腹が減るとイライラするのは空木の癖でもあった。
米原駅で東京までの切符と駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。都合よく乗り換え無しのひかりに乗れた。土曜日で比較的混雑していたが、これも運良く三人がけの窓際に座ることが出来た。
米原駅を出るとすぐに、右手に霊仙山の山並みが望めるが、今は雲に覆われている。空木は米原駅で買った弁当を食べ、腹を満たした。窓の外を眺めながら、仲内和美から来た尾行依頼のワープロ文を思い浮かべた。何故、ワープロだったのか。一つは筆跡で男女の違いが判らないように。もう一つは、後々に筆跡を残すと都合が悪い。これだけでも十分怪しい。
次に依頼内容を考えてみた。「女と一緒に山に登るから女と一緒にいる写真を撮れ」だった。山でなければ一緒にいるところの写真はだめだったのか。だめな筈はないだろう。ただ、確実に撮るためには予定が分かっている方が好都合ではある。しかし、それらしい男は来たが、女は現れなかった。女の予定が狂ったのか、それとも最初から女が現れる予定は無かったのか。仲内和美の携帯メールのアドレスが、変更若しくは削除されていることから考えれば、最初から女と会う予定は無かったと考えるべきだ。
廃屋までの下山路を思い浮かべた。自分はあの男の後ろ五、六十メートル位まで近づいていたが、あの男は一度も止まりもせず、振り向きもしなかった。ただ、一度だけ止まった。廃屋に入る登山道のところで立ち止まった。あれは自分が付いて来ていることを確認したのではないか。顔を見られずに、最後まで着いて来ているか。
最後に何故、霊仙山だったのか。廃村、廃屋の存在を知っていたからか、それとも自分があの山を良く知っているということを承知していたからか。何れにしろ、自分を嵌めるのに最も都合が良い山だった、ということだったのだ。
しかし、最大の疑問は、何故自分を、空木健介を嵌めようとしたのか、ということだった。全く答えは浮かんでこないまま空木はうとうととした。
この男もアルコールを飲まない時がある。それは始めての山に登る時、厳しい山に登る時、緊張する山に登る時であった。明日の山は何度も登っていたが、今回は探偵らしい初の仕事であるという緊張感のせいで飲むのを止めた。
空木はホテルの部屋で、仲内和美から送られてきたオフィスビルをバックにした男の写真を見ながら、被写体との距離感を考えた。この距離での写真しか無かったのか、仮にあったとしても他人が映っているか、自分の手元に残しておきたい写真ばかりだったのだろうか。だとすると仲内和美という、女性と思われる依頼主は、どんな気持ち、目的で今回の依頼をしてきたのか、単なる嫉妬心なのか、離婚のための証拠集めなのか、考えない訳にはいかなかった。
六月十日金曜日、天気は曇りだ。通勤客に混じっての登山姿は違和感があった。空木はこの違和感が嫌いではなかった。以前、この名古屋のバスセンターから南アルプスの玄関でもある信州伊那駅に向かう時を思い出していた。登山靴を履いて大きなザックを担いで歩くと、通勤している人たちの目が「どこにいくんだろう」という羨望の眼差しに空木には感じたのであった。実際は、好き好んで重い荷物を担いで「何が楽しくて山なんかにいくのか」が正しかったかも知れないが。
写真の男はどんな気持ちでいるのだろう。違和感よりも楽しさの方が勝っているのではないかと、空木は思った。
六時四十五分の大垣行きは、通勤の混雑の逆方向であるのか、時間が早いせいか、空いていた。網棚にザックを置いて座る。大垣で米原行きの電車に乗り換える。車両の乗客は座席の半分程度が埋まっている。関が原はガスが出ていた。天下分け目の大戦は九月であったが、こんな感じだったのだろうと空木は思った。
七時四十九分、柏原の駅で降りた乗客は空木一人であった。通学の高校生が何人か乗った。恐らく米原、彦根、長浜の高校へ通学する生徒なのだろうと思った。空木は改札を出て、さてどこで目的の男を待つか、駅の待合室から外を眺めた。待合室は五、六人ほどが座れる長いすだけで、ここではとても待つわけにはいかない。依頼人からは絶対に気づかれないようにと言われている以上、ここで待つのはいかにも具合が悪い。
駅を出て右手にある駐輪場の陰で待つことにした。
通勤の女性や通学の女子高生が、ザックの上に座っている空木に何をしているのか、という目を向けながら駅に向かっていく。
八時十五分過ぎ、上り大垣行きの電車が到着する。降りた客は誰もいなかった。八時三十分過ぎ、下り電車が入ってきた。空木はじっと目を凝らし、駅の出入り口を見つめる。緊張で身震いした。
男が一人ザックを担いでいる。半そでの白のTシャツにグレーのズボン。眼鏡をかけているが色つきの眼鏡だ。加えて帽子をかぶっているため写真との照合が難しい。しかし、降りてきたのはこの男ただ一人、しかも登山靴にザックを担いでいる。身長もほぼあっている。この男に間違いないと空木は確信した。
男は駅の出口で辺りを見回しながら、ザックを降ろし、駅の左手にあるトイレへ向かった。トイレから出てきた男はすぐには出発しなかった。携帯電話を取り出して画面を見ているようだ。落ち合う女性とメールで確認でもしているのだろうか。男は携帯電話をポケットにしまうとザックを担いで歩き始めた。
霊仙山の登山口までは三十分ほどだ。空木はどの位の距離をおいて歩くか考えていたが、カメラのズーム距離から約百メートルが限界と考えた。上に行けばもう少し距離を近づけても怪しまれないだろうと思うが、出発間もない時では姿を見られると、電車から降りた客は空木が尾行する男一人しか乗っていなかったのだから、当然どこから来たのだろうかと怪しまれる可能性が高い。登山道に入るまでは極力、距離を開けようと思った。
往時は中山道と言われた国道を渡り、名神高速道路をくぐり、林道に入る。男の姿は見えないが、霊仙山に登ることはわかっているのだから慌てる必要はなかった。男の足がどの位健脚か分からないが、休憩はするだろう。一合目のコル、四合目のコンテナの避難小屋、北霊仙手前の小屋では顔を会わせない様、気を付けなければならないと空木は思った。幾度となく登った山道だけに、姿を確認する所として空木は何ヶ所か思い浮かべていた。
登山道に入る直前の林道で二、三百メートル見通せた。前方を歩く男を確認できた。空木の歩行速度とさほど変わらないようだ。女性とはどこで落ち合うのか分からないが、落ち合うとしたら、七合目の梓河内からの合流地点か北霊仙山、もしくは頂上のいずれかだと、空木は考えていた。休憩場所をずらしながら、一合目のコル、四合目の避難小屋を通過する。汗が滴る。二週間前より山の緑が濃くなるとともに暑くなっていた。
六合目の辺りが第二の確認ポイントである。やはり二百メートルほど先を男が歩いている。空木はカメラを最大ズームにして二、三枚写真を撮るが、顔は映らない。ザックはグレーに黄色のコンビの三十リッター位の小ぶりのザックだ。七合目へは急登を登り、少し下る。梅雨の時期で登山道はぬかるんでいる。
梓河内からの合流地点を覗くように目を凝らす。誰もいなかった。次の合流点は北霊仙山だ。ここからはある程度接近しても何とかなると考え、歩く速度を早める。汗が滴り落ちた。
九合目の急坂を登ると避難小屋だ。男は健脚だ、休憩を取らずに歩いている。空木はザックを降ろし、北霊仙山山頂を見るが、人影はない。カメラをまた最大ズームにしてファインダーを覗くがやはり人影はない。前を歩く男一人だけだ。ここでも男を撮るが後ろ姿だ。ここから北霊仙山まではおよそ四百メートル、遮る物はなく人の存在は肉眼でも確認できた。男がザックを降ろすのが見えた。食事を取るのだろう。空木も緊張で空腹感はないが、ここで持参したコンビニのお握りを二個、三個と食べることにした。時間は十一時四十分だ。ここで落ち合わないとしたら、下山後しかない。どちらのコースを下山するのか。お虎が池から槫が畑に下るのか、あるいは霊仙山頂上から笹峠、落合、今畑に下るのか。空木は距離をもう少し詰めることにした。
空木が歩き始めて五分、男がザックを担いでいる。視界から消えた。空木は足を速めた。北霊仙山に着いた。男はお虎が池方面に歩いている。下山路は槫が畑だ。ぬかるむ道を下る。ここから槫が畑の廃村を抜けて、林道までは一時間程だ。空木は男が視界から消えない程度に距離をとって歩いた。男は汗拭き峠の分岐を槫が畑方面に下っていく。
「カナヤ」という看板が置かれた小屋が見えてきた。男は真っ直ぐに林道に向かう。
止まった。空木も五十メートルほど手前で立ち止まった。男は廃村の中の、朽ちてはいるが、比較的家の原型を止めている一軒の家の中に、入っていった。空木は小屋の角で男が出てくるのを待った。
五分たち、十分が経った。男は出てこなかった。空木はおかしいと思い、近づいてみる。朽ちかけた家に、覗き込むようにしながら入っていく。暗くてよく見えなかったが、柱に寄りかかって座り込むような格好をした影を見た。暗さに目が慣れてきた。ザックを背負った人間が座っている。白い半そでシャツ、帽子を被り、眼鏡をかけている。その瞬間、空木は「あっ」と声がでた。天井の梁からロープが降り、そのロープが男の首に巻きついていた。空木は思わず後ずさりし、尻餅をついた。空木は、葬儀以外では死体を見たことはなかったが、咄嗟に死体だと感じた。
「カナヤ」という小屋は、平日は無人で誰も居ない。携帯電話は圏外表示だ。空木はザックを置き、林道を走り、携帯電話のアンテナが立つ場所から警察に通報した。時間は午後一時三十分だった。
およそ二十分後、サイレンの音が谷間に響いてきた。滋賀県警湖東警察署のパトカー二台が登山口の標識前で立っていた空木の前で止まった。数人の警官と鑑識課と書かれた上着を着た警官が降りてきた。
「あなたが通報された方ですね」色黒で小太りの五十がらみの警官が言った。
「はい、空木と申します」
「湖東警察署刑事課の赤池です」赤池は警察証を見せた。
空木は赤池たちを廃屋の男の所に案内した。
「あなたの知り合いの方ですか」赤池が聞いた。
「いえ‥‥‥」空木は答えながら、慌てた。何故、廃屋に入ったか聞かれたらどう答えるのか‥‥。
林道から十分ほどで廃屋の現場へ着いた。赤池たちは、座っている男にゆっくり近づき、ライトを照らし、その死亡を確認した。頸部をほぼ水平に走る索痕。絞殺である。赤池は警官をパトカーに走らせ、本部に至急の連絡を入れさせた。
「一見、自殺のようにみせかけていますが、首の周りの索痕を見れば、我々でも自殺ではないとわかります。まあ、検死解剖すれば死因、死亡推定時刻もわかるでしょうが」
赤池が空木に向けて話した。
「殺された?」空木は呟くように言った。
混乱していた。この男と自分以外に誰かが居たのか。自分が見ていた限り、自分とこの男意外に誰もいなかったのは間違いない。この男はこの廃屋に約束でもあるかのように躊躇することなく入っていった。
赤池は詳しく話を聞きたいので、一緒に警察まで来てもらうことになると思う、と空木に言った。
およそ二十分後、けたたましいサイレンの音とともに、何台かのパトカーと救急車が到着した。
鑑識のフラッシュが眩しく光り、廃屋の内、外を丹念に調べる。靴の跡も入念に調べている。死体は救急車に乗せられ、病院に向かう。司法解剖され、改めて死因、死亡推定時刻が明らかになるだろう。
赤池が半そでの白い開襟シャツを着た四十半ばと見える細身の男と話している。
開襟シャツの男が空木の前に立ち、挨拶する。
「湖東警察署刑事課の大林です」
「空木と申します」空木は軽く会釈した。
「通報されたのはあなたですか。亡くなっていた方とは知り合いではないということですね」
「はい、‥‥‥」どう説明するのか、一瞬目が宙を泳いだ。
「山登りに来られたんですか」
刑事の大林は空木の顔、目を見て聞いた。
「はい、柏原から登って、ここに降りてきて、廃屋が気になって覗いてみたら、ロープに繋がった人が座っていて、びっくりして警察に連絡しました」
嘘はついていない。空木は廃屋に入った訳をどう言おうか考えていたが、全ては話さないまでも、嘘はつかないようにしようと、考えた上の返答だった。
「空木さんはどちらからこられたんですか」
空木の言葉に関西弁の臭いがないと思ったのか、大林は聞いた。
「東京から登りにきました」
「ほー、東京からわざわざこんなところに来られたんですか」
刑事は、とても信じられない、という顔だ。
「ところで、あの男性とは山でお話されましたか」
「いえ、ずっと私の先を歩いていましたので、話す機会はありませんでした」
これも嘘ではない。
「空木さん、そんなに時間は取らせませんので、署でもう少し話を聞かせていただけませんか」
刑事は当然来てくれるだろう、という表情で空木に言った。
「分かりました。今日は名古屋に泊まりますので、大丈夫です」
空木は躊躇せずに答えた。
「名古屋にお泊りですか。じゃあ署の人間に送らせますよ」
空木は、それには答えなかった。パトカーでホテルに乗り付けるのは勘弁してほしいし、まさか電車がなくなるような時間までかかるのだろうかと、困惑したからだ。
湖東警察署は米原駅の近くにあり、四階建ての灰色の建物だった。入口から入って、右手の階段を上がった左側に刑事課の部屋があった。室内は、他殺と思われる死体が発見された直後だけにあわただしかった。
大林は課長らしき男と話をした後、一人の若い刑事を連れて出てきた。空木を、一つ部屋を隔てた小ぶりの会議室に案内した。取調室ではなく、会議室にしたのは空木への配慮だった。
婦警がお茶を運んできた。
「じゃあ、空木さん、あそこで死体を見つけるまでのことを、覚えている限り話して下さい」
大林も、若い刑事も手帳を手にしている。
空木はここに来るパトカーの中で、依頼を受けてあの男を尾行していたことを話すべきかどうか思案していた。
尾行していた男が死んだ。しかも殺人の可能性が高い。通報者は自分だが、尾行していたとなれば、疑われるのはまず自分だろう。まして、依頼者の居場所も、素性も分からない、知らない。当然会ったことも無いから、顔も知らない。また、都合が悪いことに、五月の末の土曜日に同じ霊仙山に登っている。これはまずいことになった。
「はい、柏原の駅には八時半ごろ着きました。あの亡くなった方も同じ電車だったと思います。たまたま私は一番前の車両でしたので間近には顔は見ていませんが、後姿は見ました。私は駅のトイレで用足しをしましたので、その方とはかなり距離が離れたと思います。一合目と四合目で休憩しましたが、一緒にはなりませんでしたので、かなり距離はあったと思います。九合目の避難小屋に着いた時、北霊仙山の頂上を見たら、人影がありました。多分その方だったのではないでしょうか」
空木は、自分が探偵を業としていることは勿論、尾行であったこと、写真を二回にわたって撮ったことも話さなかった。
「その山の頂上には一人だけだった」大林が確認するように聞いた。
「ええ、私の方角から見えたのは一人だけでした。南側、つまり向こう側にだれか居ればわかりませんが」
空木は、その避難小屋で昼食のお握りを食べたこと、その男は頂上で食べていたと思うこと、自分が頂上に着いた時は、その男はお虎が池に向けて下山していたことを話した。霊仙山に登りながら、霊仙の最高峰である頂上には行かなかったことは話さなかった。
大林がまた確認する。
「あの男性は頂上で食事をして下山した。下山の時もあの男性以外は誰も見なかった、ということですね」
「ええ、間近で見たわけではありませんが、時間的に考えても食事をしていたと思います」
「廃屋に入って、死体を発見するまでの状況をお願いします」
「ぬかるんだ道を、見晴台、汗拭き峠と下っていきました。男性も同じコースを下っていて、私の五、六十メートル先を下山していました。下り坂が終わって、小屋を過ぎたところで、その男の人は、スッと廃屋に入って行きました。私は小屋の前で休憩しましたが、その男の人が中々出てこないので、何をしているのかなと思い、覗いてみることにしたんです。そしたらああいう状態だったんです」
空木は、一つだけ嘘をついた。小屋で休憩ではなく、男の様子を窺っていた、というのが真実だ。
「あの男性が廃屋に入る時、誰か一緒に入った様子はなかったということですか」大林が念を押す。
「はい」空木は頷いた。
「空木さんは何故、この山にわざわざ東京から登りに来たんですか。旅費も宿泊費もかけて」
空木は、やっぱり聞いてきたか、と思った。
「この山は、私が名古屋にいた四年間で何回も登っている好きな山でした。もう十年近く登っていなくて、会社を辞めたこともあって、久し振りに登ってみようかと思ったからなんです」
空木はここでも嘘をついた。二週間前に土手と一緒に登っている。
大林は、自分は伊吹山には登ったことはあるが、霊仙山がそんなに良い山だとは知らなかったと言い、他にどんな山に登っているのか興味深げに聞いてきた。
「わかりました。では空木さん、身分証明になるものがありましたらお見せください。それと連絡場所を教えてください」
大林がメモ用紙を差し出した。
空木は、国分寺の住所が書かれた免許証と国民健康保険証を見せ、連絡場所には自分の携帯電話の番号を書いた。
「健康保険証をお持ちなんですね」大林だ。
「ええ、山に行く時は必ず持って行くようにしています」
「固定電話はお持ちではない」大林が確認する。
「独身なので、固定は止めました。携帯だけです」
大林は納得顔で頷いた。独身だからいろんな山に登れるのだと、その顔は言いたげだった。
その時、大林の上司らしき刑事が入ってきた。何か、耳打ちしている。
大林は空木の方を向いて言った。
「他殺と断定されました。持ち物からは身元は判明していません。それと少しおかしなところがあります。空木さん、申し訳ないのですが、被害者の顔を見て、山に登っていた方と同一人物かどうか確認してほしいんです」
「見るのは構わないんですが、はっきり顔を見たわけではないので、確認できるか自信はありません」
空木は時計に目をやりながら、答えた。時間は六時を回っていた。
「被害者の遺体はあと一時間ぐらいでここに搬送されてきますので、食事でも取っていただいてお待ちください。名古屋のホテルには送ります」
大林は、そう言うと今度は、宜しくというように頭を下げた。
空木はまた混乱した。同一人物かどうか確認しろ、ということは別人の可能性があるというのだろうか。それに顔の確認と言っても全く自信は無い。
「刑事さん、身元が判らないと言っていましたが、財布の中にカードはなかったんですか」
「お札以外は何も入っていませんでした」大林が答えた。
七時を回った頃、空木は地下へ案内された。そこは遺体安置所だった。室内灯に照らされた遺体の顔はどす黒かった。
大林が被害者の身長、体重、血液型、およその年齢を空木に説明した。身長は一七三センチ、体重八十キロ、血液型は0型、年齢は四十後半から五十代半ばとのことだった。眉の濃淡はあまり判然とはしなかったが、唇は比較的厚かった。帽子、服装は尾行していた男とよく似ていた。
「色付きの眼鏡はありませんでしたか」
死体の顔を見ても、空木には判断は出来なかったが、眼鏡は記憶に残っていた。空木が北霊仙山で見た男は、色付きの眼鏡をかけていた。
「これですか。色付きではありませんよ」
大林が遺留品の中から銀縁の眼鏡を取った。
「遺体にかけてみてくれませんか」
空木の要請に大林が死体の顔に眼鏡をかけた。
「うーん、何ともいえません」
空木は、仲内和美から送られてきた写真の男に良く似ていると思った。身長、年齢は合致する。服装も良く似ている。しかし、写真の男が尾行した男、つまり霊仙山に登った男とは確信が持てなくなっていた。今思えば、柏原の駅で見た時が、その男との距離としては最も近かったが、色付き眼鏡と帽子で写真との照合はできなかった。もし、登った男が、写真の顔と照合されるのを避けていたら、それは何故か。別人なのか、と考えた時、大林が言った。
「検死、司法解剖の結果、この被害者は死亡推定時刻が昨日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められたことによる窒息死、絞殺です。それと、胃の残留物に蕎麦がありましてね。さっきの空木さんの話からすると、登山していた男とは別人ではないかと」
「別人‥‥‥」
空木はそうかもしれないと思った。そして。
「刑事さん、この人が履いていた靴とザックを見せてもらってもいいですか」と言った。
大林の後ろのビニールを敷いた机の上にはザック、靴、帽子が置かれていた。この被害者の持ち物だ。持ち物の中にあるはずの携帯電話が無いことに、空木は気づいたが、これは話すのは止めた。
空木は、廃屋から運ばれていく死体を見た時、靴が比較的きれいなことに、違和感を感じていた。
ザックは三十リッターのグレーに黄色のコンビで比較的新しい。靴は国内製の軽登山靴だが、よく履かれている感じだ。
「刑事さん、この靴あの山から下りて来たにしては随分きれいです。私の靴と比べたら判ると思いますが、泥はもう乾いていても、ソールには泥が入り込んでいるはずなのに、全くない。あの山から下りてきた靴じゃないと思います」
空木は自分の登山靴の靴底を見せながら、別人の靴だと確信したように言った。
「そうですね、靴底はきれいですね」
大林は手袋をはめた手で登山靴を取り、空木の見せた靴を眺めて言った。
空木は刑事にザックの中身がどこにあるのか聞いて、その答えに驚いた。何も入っていないと言うのだ。
「刑事さん、山に登るのに空のザッ クを担いで登る人なんかいませんよ。それと携帯電話を持っていないというのも不自然かも知れません」
「その通りです。私も伊吹山に登った時は、昼飯は勿論、水筒やらお菓子やら入れて登りました。カメラも持っていく人も多いと思いますし、今では携帯電話は必ずと言っていいほど持っていくでしょうね」
「やっぱりこの人は登っていないと思います。別人だと思います」
空木は言いながら、もう一度登山靴の靴底を見た。5ミリぐらいの石粒が靴底の溝に固く挟まっていたが、泥は全くと言っていいほど挟まってはいない。
空木は、死体安置所に用意された線香台に手を合わせ、二階の刑事部屋に案内された。入口には「霊仙山殺人事件捜査本部」と書かれた長細い紙が張られていた。所謂、戒名という貼り紙だった。
大林から、何か思い出すようなことがあったら連絡してほしい、と名刺を渡された。湖東警察署刑事課、大林宏とあった。
現場に最初に到着した赤池が待っていた。時間は八時半を回っている。空木は、赤池が助手席に乗ったパトカーの後部座席に座り、名神高速道路を名古屋に向かった。サイレンこそ鳴らしていないが、赤色灯を回しながら走ると、まるで大名行列のように、走行車線側に一列縦隊となった。パトカーの前方も一列縦隊だ。先を急ぐ運転者にとってはいい迷惑だろう。
赤池も山が好きらしく、車中、北アルプスの槍ヶ岳に一度は登ってみたいとか、鈴鹿の御在所岳は観光客だらけでつまらないとか、話しながら、あの被害者も山好きだったのだろうかとか、空木に話しかけていたが、空木はじっと目を瞑りあることを考えていた。
被害者はあそこで殺されたのだろうか。被害者は山には登ってはいない。自分が尾行していた男は、どこに消えたのか。廃屋には間違いなく入っていった。そして死体を見ている。見ていて通報していないというのは何故だ。面倒なことに巻き込まれたくないからか。
いずれにしろ依頼者の仲内和美の依頼である、男と女性が一緒にいる写真は撮れなかった。いや、それはあの男が女性と落ち合うことが、山ではなかったから結果として仕方がないことだ。と思った時、空木は仕事が成功しなかった事を依頼者に報告しなければならないことを思い出した。
パトカーがホテルの前で停まった。時間は九時半を過ぎているが、名古屋駅前の人通りは多く、赤色灯を点けたパトカーから降りるのはやはり気まずいものがあった。しかも赤池が敬礼している。空木は送ってもらった礼もそこそこに、足早にホテルに入った。
自販機でビールを買い、部屋に戻った空木は、石山田に電話した。石山田は自宅にいた。小学生になる娘が電話に出て、石山田は風呂に入っていると言った。風呂から上がったら携帯に電話してくれるようお願いして電話を切った。空木もシャワーを浴びる。こんな時でもビールが美味かった。携帯電話が鳴った。石山田だった。空木は今日の一連の出来事、事件を石山田に話した。
「健ちゃん、その柏原とかいう駅で、待っている姿を誰かに見られていないか。通学通勤時間だし、誰かに見られているとしたら、警察の聞き込みでばれるよ」
石山田は、空木が被害者と同じ電車で降りたという説明が、警察にはすぐに嘘だと判ると言い、依頼されて尾行していたことも含め、全部話した方が良いと勧めた。
「それから、依頼主には連絡したかい」石山田が聞いた。
「いや、携帯メールしか方法はないけどまだだ」
「‥‥‥多分、連絡は取れないだろうけど、やってみて」
「わかった、また後で電話する」
空木は、電話を切り、すぐにその携帯電話で、目的の写真は撮れなかったと、仲内和美に送信した。すぐに返信が帰ってきたと思ったが、それは送信先不明の表示であった。すぐに石山田に電話した。
「巌ちゃん、アドレス不明で帰ってきたよ」
空木は力なく電話の向こうの石山田に言った。
「やっぱり。アドレスから持ち主が判る筈だから、消したんだ。健ちゃん嵌められたかも知れないよ。昨日の夜のアリバイはあるかい」
石山田の「嵌められた」と言う言葉に、空木の頭は真っ白になった。これが五十万の代償なのかと。
「ずっとホテルにいて、十一時過ぎには寝た」
空木は、後輩の土手に電話して飲めば良かったと、後悔した。
石山田は、自分が空木の身元証明人になるから心配するな、と言って電話を切った。
空木は、湖東警察署で大林から貰った名刺を出し、電話した。刑事課の直通電話だった。大林はまだ署に居るようだった。
「思い出したことがあるので明日伺います」
「どんなことですか」
「いえ、明日伺ってお話しないと、電話では説明しにくいので」
「判りました。ではこちらから迎えを行かせましょう」
「いや、パトカーはもう結構ですので。電車で行きますから」
空木は、さすがに朝からパトカーのお迎えは、ホテルもびっくりするだろうと思った。
「心配しないで下さい。パトカーでは行きませんから」大林は空木の心配を察して言った。
刑事課の車で迎えに来るということで、ホテル前で九時に約束した。
翌朝、空木は迎えに来た大林とともに、刑事課の車で湖東署に向かった。
空木はパトカー以外の警察の車に乗ったのは初めてだった。
車中で思い出したこととは何か、聞かれたが空木は警察署で話した方が良いので、と言うだけにした。大林は、身元はまだ判明していないが、行方不明者の届出が出るだろうからいずれ判明する、というようなこと、県警本部から応援が入ったことなどを話していた。
空木は、捜査本部の紙が張られた部屋の向かい側の、応接室に通された。
向かい側に座った、大林ともう一人の刑事に向かい、空木は「スカイツリー万相談探偵事務所」空木健介と書かれた薄い名刺を差し出しながら言った。
「すみません。実は私、探偵業をしています。それである人に頼まれて、死んだあの男を尾行していました」
空木はテーブルに手を着き、頭を下げた。
「何故、最初からそれを言わなかったんですか」大林が怒ったように言った。
「迷ったんですが、依頼主のことを全く知らないんです。全く知らないで尾行をしているなんて、信じて貰えないと思い、余分なことは話す必要はないと思ってしまったんです」
「じゃ、何故話そうと思ったんですか」
「私の知り合いに警察関係者がいまして、相談したら全部話せと言われました」
「知り合いの方というのは」
「国分寺警察署の刑事をしている石山田という男です」
「嘘はすぐばれると言われましたか」
大林は睨んでいた。
「ええ、柏原の駅であの男を待っている時、高校生に見られていることを話したら、警察の聞き込みで、それはすぐに判ることだと言われました」
空木は再度、机に手を着いて頭を下げた。
「朝方の聞き込みで、登山服姿の男が駅の方をずっと見ていた、という目撃者がいました。我々は重要参考人と思っていますが、あなたでしたか」
そう言うと大林は席を立った。
しばらくして大林が戻った。
「国分寺署に確認しました。石山田刑事とは高校の同級生で、尾行依頼の相談もされたと言ってました」
「あなたを信用しない訳ではありませんが、重要参考人として調書を取らせていただきますので、場所を変えます」
大林は空木を、階段を隔てた取調室へ連れて行った。
「空木さん、今度は本当に全部話してください」
空木は、二週間前に友人と霊仙山に登っていることをまず話した。そして仲内和美と名乗る女性から、尾行の依頼を受けたことを、ワープロで書かれた手紙をみせながら説明し、五十万円の着手料を受け取ったことも話した。そして朝の電車到着時刻、男が出発前に携帯電話を見ていたこと、距離が四、五十メートル離れていて、色付き眼鏡、帽子のため写真の男と照合できなかったことも、依頼の写真を見せながら説明した。登山中については離れていて、二度写真を撮ったが、顔は映らなかったこと、北霊仙山で男が食事を摂っていたように見えたこと、女性とは最後まで落ち合うことはなかったことを話した。そして、下山して槫が畑の廃村に、男が一人で入って行ったこと、その時自分は、「カナヤ」の小屋の隅に隠れて、男が出てくるのを待っていたこと、全てを話した。その間誰にも会わなかったし、誰も見なかったことも加えた。
「二週間前に登っていたんですか」
「はい」
「どなたと登られたんですか」
「岐阜に住んでいる土手登志男という後輩です」
「たまたまとは言え不思議なめぐり合わせですね。おかしいとは思いませんでしたか」
「こんなことがあるのか、とは思いましたが、偶然だと思いました」
空木は、石山田が言っていたことを思い出していた。探偵としての初の調査依頼に浮かれていた自分が情けなかった。
「空木さん、この写真の男は被害者と良く似ていますよね。遺体を見た時困ったでしょ」
「はあ、あの時は山に登っていた男かどうか、と考えていたんで、ああ答えましたが、写真の男に良く似ていると思いました」
「被害者はこの方にほぼ間違いないでしょう。依頼文にある年齢が本当だとすればなおさらです」
大林は写真を見ながら言った。
「空木さんの話しからは、山に登った男と殺された男は別人だと思われますが、その男はどこに消えたのか。それと依頼者の仲内とかいう女性は何者なんですかね。会ってないと言いますけど、会ってもいないのに手付けを払うというのはちょっと不自然だと思いますが。それと空木さん、会っていないということは女性か男性かも判らないということですよね」
大林は、空木から出された男の写真から目を上げて言った。
「別人だとしたら、私の尾行していた男がどこに消えてしまったのか。それと刑事さんの言う通り、私も少し変だなとは思いましたし、石山田からも気をつけろと言われました。尾行する男性と依頼人との関係、それから男性の所在地もメールで問い合わせましたが、無しの礫でした。男か女かは、全く考えませんでした。女性とばかり思っていました」
空木は、探偵らしい始めての依頼だったので、受けてしまったとは言えなかった。しかし、仕事を受けたい気持ちが、大林の言うように、依頼者が女か男かも判断する冷静さを消してしまったと、思った。もし、男なら石山田が言うとおり自分は嵌められたに違いない。
「その依頼者とは事件後連絡は取られましたか」
当然の質問であった。
「昨晩、連絡のメールを送りましたが、送信先不明で送れませんでした」
空木は携帯電話を手にしながら答え、一度だけ来た仲内和美からの返信のメールを大林に見せた。
「ということはこの依頼者はアドレスを変えたか携帯電話を処分した。いずれにしてもアドレスから自分の身元が判ることを嫌った。しかも、依頼事が成就したかどうかも分からないまま」
大林は男の写真をまた手に取った。
「女性と落ち合うことなくあなたの尾行から消えた登山者と、依頼者、そして被害者との関係がこの事件の鍵を握っていますね」
「ところで、空木さん木曜日の夜十時から十二時の間はどこに居られましたか」
大林はまた、睨みつけた。
「木曜の晩はずっとホテルにいました。外出してません。証明してくれる人はいません。石山田に自分にはアリバイがない、と言われました」
空木は観念したかのようにキッパリと答えた。
「被害者はあそこで殺されたのではないと、我々は思っています。木曜の夜、どこかで殺されてあそこに運ばれた。恐らく車を使っているでしょうし、女一人で運ぶのはとても無理でしょう。被害者の身元が判れば足取りも追えますし、容疑者も浮かんで来ると思います。空木さん、あなたは重要参考人であり、容疑者ですからね。石山田刑事があなたの保証人ということで拘束はしませんが、行動には十分配慮してください。出来れば、所在を常に明らかにしておいて下さい」
大林は机に手を置きながら念を押すように言った。
十二時を回っていた。取調室から出た空木は、大林から、依頼文、男の写真、カメラのSDカードを複写、現像するのでしばらく預かる。出来るだけ早く返すと言われ、承諾した。さらに大林は、空木に聞いた。
「山によく行っている空木さんから被害者を見て、何か気付かれたことはありませんか。参考までに聞かせて下さい。探偵でもあるそうですし」
空木にはかなりの嫌味に聞こえた。探偵が簡単に嵌められるとは、と言っているように。
「帽子も、服装も、それとザックも、新しい感じでしたが、靴だけは履きこんだ感じでした。服だけ新調したのかも知れませんが、違和感はありました。その靴ですが、ソールに花崗岩と思われる石粒が挟まっていました。最近そういう山、例えば鈴鹿でしたら御在所岳かその南の鎌ヶ岳などですが、そういった山に行った形跡だと思います。それと私の尾行していた男ですが、あの廃屋に何の躊躇もなく入って行ったことから考えると、この山に登るのは初めてではないと思います」
空木は、昨日見た被害者の遺体を思い出しながら、嫌味な質問に出来るだけの答えをした。同時に空木は、嵌められた悔しさを何とか晴らしたいと思う気持ちが込み上げてきた。新米探偵の未熟さに付け込まれた悔しさと腹立たしさだった。
大林の、署の車で送るという申し出を断り、空木は米原駅までザックを担いで、歩きながら考えた。考えれば考えるほど腸が煮えくり返ってくる。
冷静に最初から一つずつ順に考えてみようと思うが、イライラして来るばかりだ。時計を見た。午後一時を回っていた。空腹感は感じなかったが、これが原因だと、空木は思った。腹が減るとイライラするのは空木の癖でもあった。
米原駅で東京までの切符と駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。都合よく乗り換え無しのひかりに乗れた。土曜日で比較的混雑していたが、これも運良く三人がけの窓際に座ることが出来た。
米原駅を出るとすぐに、右手に霊仙山の山並みが望めるが、今は雲に覆われている。空木は米原駅で買った弁当を食べ、腹を満たした。窓の外を眺めながら、仲内和美から来た尾行依頼のワープロ文を思い浮かべた。何故、ワープロだったのか。一つは筆跡で男女の違いが判らないように。もう一つは、後々に筆跡を残すと都合が悪い。これだけでも十分怪しい。
次に依頼内容を考えてみた。「女と一緒に山に登るから女と一緒にいる写真を撮れ」だった。山でなければ一緒にいるところの写真はだめだったのか。だめな筈はないだろう。ただ、確実に撮るためには予定が分かっている方が好都合ではある。しかし、それらしい男は来たが、女は現れなかった。女の予定が狂ったのか、それとも最初から女が現れる予定は無かったのか。仲内和美の携帯メールのアドレスが、変更若しくは削除されていることから考えれば、最初から女と会う予定は無かったと考えるべきだ。
廃屋までの下山路を思い浮かべた。自分はあの男の後ろ五、六十メートル位まで近づいていたが、あの男は一度も止まりもせず、振り向きもしなかった。ただ、一度だけ止まった。廃屋に入る登山道のところで立ち止まった。あれは自分が付いて来ていることを確認したのではないか。顔を見られずに、最後まで着いて来ているか。
最後に何故、霊仙山だったのか。廃村、廃屋の存在を知っていたからか、それとも自分があの山を良く知っているということを承知していたからか。何れにしろ、自分を嵌めるのに最も都合が良い山だった、ということだったのだ。
しかし、最大の疑問は、何故自分を、空木健介を嵌めようとしたのか、ということだった。全く答えは浮かんでこないまま空木はうとうととした。
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