ほどけるくらい、愛して

上原緒弥

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本編

前編(02)

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 そんな願いが通じたのだろうか。彼──ギルベルト・フリートハイムは、彩瑛の返事に嬉しそうに頬を緩めた。貴重なその笑みに彩瑛が見惚れていると、伸びてきた手が彼女の腕を取り──そして彩瑛が気付いたときにはギルベルトの腕の中に抱かれていた。
 鼻先に感じた彼の匂いに、一気に頬が熱くなる。

「ありがとう、サエ」

 ──お礼なんて言わないで欲しい。わたしは嘘を、吐いているのに。囁かれたその言葉に彩瑛の胸が苦しくなる。
 このままでは泣いてしまいそうだと、彩瑛は口を開いた。

「ギルベルト様、く、苦しいです……」

 そう訴えかければ、密着していた体は慌てて離れていった。すまない、と呟く彼の顔も僅かに赤い。
 彩瑛よりも年上のはずなのに可愛らしい彼の表情に胸が高鳴る。今日はギルベルトの色んな表情を見られる日だ。最後だから、神様も気を使ってくれたのだろうか。
 でも、それもそろそろ終わりにしなければ。仕事も抜けさせてもらっているので、戻らなければいけない。

「そろそろ仕事に戻らないと。ギルベルト様は、お城に戻るんですか?」
「ん、仕事の続きをしようと、思ってる。──一日でも早く、完成させたいから」
「お仕事熱心なのは構いませんが、ご飯もちゃんと食べてくださいね。倒れたって話を聞いて、心臓が止まる思いはもうしたくないですから」
「……気を付ける」

 返事までに沈黙があったことが気がかりだが、今日、昼食を取りに寄ってくれたギルベルトの部下に食事には気を付けて欲しいと伝えたから最悪の事態にはならないだろう。

「──それでは、」

 それでは『また』、といつもは伝えていた。だけどもう、次はない。さよならも伝えられない彩瑛の、精一杯の別れの言葉だった。
 彩瑛は踵を返してその場を後にしようとして、けれどその前に伸びてきた手が彩瑛の手首を掴んだ。振り返ると、ギルベルトが怪訝そうな顔で彩瑛を見つめている。

「ねえサエ、何か僕に……隠してる?」
「え?」

 心臓が大きく跳ねた。けれどここで冷静さを欠いたら、そうだと言っているようなものだ。笑って、いえ、と彩瑛は否定した。
 琥珀色とこがね色の瞳が、真偽を確かめるかのように彩瑛を見つめてくる。目を逸らしたら肯定しているのと同じことで、目を逸らすことはできない。
 恐らく視線が合っていたのは数十秒ほどだっただろう。ギルベルトは、「そう」と言って、彩瑛の手首を離した。

「術が完成したら、一番に会いに来る。だから……待ってて」

 するりと頬を撫でられる。彩瑛が呆然としている間に、ギルベルトは外衣を翻して、その場から消えてしまった。
 辺りにはただ闇夜が広がるだけで、彼の姿はもう見えない。
 我に返った彩瑛は、こみ上げてくるものを必死に堪えながら、大きく息をした。まだ仕事は終わっていないし、黙って姿を消すことを選んだのは、彩瑛自身だ。泣くことは許されない。
 熱くなった目尻を拭って、彩瑛は改めて裏口の扉に手を掛けた。中に入ると、いつも通りの賑やかさに安堵した。昼は食堂として営業しているけれど、夜は酒場の色が濃く、騒がしいのだ。
 何度か茶化されたりもしたが、事情を知っている女将に助けられたりしながら、彩瑛はギルベルトのことを考えないように慌ただしく動き続けた。

 翌日も、翌々日も、元の世界に帰る日まで彩瑛は普段と変わらず過ごした。
 別れは、世話になった食堂の女将さんと、シフトが一緒になることは少なかったが一緒に働いていた子にだけ伝えて。
 この世界に来て一年目の、それは綺麗な満月の夜。
 彩瑛はこの世界の土を最初に踏んだ場所に向かい、この世界に来たときの格好で、そっと目を閉じる。
 そして元の世界に帰るための言葉を、静かに口にした。
 体が温かいものに包まれ、しばらくして温もりがなくなってから目を開く。目の前に広がっていたのは、一年前までは毎日見ていた、自分の部屋の玄関だった。
 居眠りをして、夢でも見ていたのだろうか?
 そう思うぐらいに、何も変わっていなかった。
 ──ただひとつ、落としたバッグから飛び出た髪留めが目に入るまでは。
 それはギルベルトが彩瑛に贈ってくれたものだった。唯一処分のできなかったそれを、彩瑛はハンカチに包んでバッグの中に入れていた。
 途端にぼろぼろと涙が出てきて止まらなくなる。今まで堪えていた涙腺が崩壊したように溢れて止まらなくなった。
 ひとしきり泣いて、そっと髪留めを胸に抱く。
 ──明日からまた、このバレッタを付けて頑張ろう。この想いはきっと、いつか思い出にできる。
 そして、彩瑛にあの世界へ行く前と同じ日常が、帰ってきた。
 何か変わった? と同僚に聞かれることが多くなったけれど、そのたびに何でもないと首を横に振る。
 帰ってきて二次元が恋人に戻ってしまったけれど、彩瑛はそれなりに充実した日々を過ごしていた。
 始めのうちは見ることも辛かった彼に似たゲームの推しキャラも、ひと月、ふた月と経つうちに、まったくの別人だと割り切れるようになった。
 初恋は結局叶わなかった。だけどそれで良かったのだと想いに蓋をして。
 きっといつか思い出話になる日まで、その蓋は開けないつもりだった。

 帰ってきてひと月が経ち、それは綺麗な満月が夜空に輝く、今日までは。
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