ほどけるくらい、愛して

上原緒弥

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本編

前編(01)

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「……今手を付けてる仕事が一段落するまで、しばらく来られない。でも全部終わったら、休みを取ろうと思ってる。……そのときに、君の一日を僕に欲しい」

 会計が終わったあと少し出てきて欲しいと言われた店の裏口でそう伝えられて、藤原ふじわら彩瑛さえは驚いたように目を見開いた。
 向けられた琥珀色の瞳は今までに見たことのない熱を孕んでいる。
 心臓が早鐘を打って期待感を彩瑛にもたらした。けれどすぐに、誤解してはいけないと自分を戒める。
 勘違いしてしまいそうな視線。まるでデートの誘いとでも思ってしまいそうな言葉。だが、彼と彩瑛がそういう関係になるなんてありえない。
 だって彩瑛と彼は、あまりにも住む世界が違いすぎている。
 事実でしかないことのはずなのに、胸の奥がずきりと痛んだ。
 彩瑛は街の食堂で働く、ただの一般人、ただの街娘だ。元々この世界ではない国から何の因果かやってきてしまって、運良く食堂の女将に拾われ、元の世界に帰らないままもうすぐ一年を迎えようとしている、なんて経歴はあるけれど、元の世界でだってごく普通の一般人だった。
 対して彼は元王族で、現王太子の兄。側妃の子だからと王族を抜けて今は貴族の位にいるけれど、それにしても《公爵》という貴族の一番上の爵位を持っている。魔術に精通していて、この国で魔術師と言えば彼の名前が一番に上がるぐらいに有名な人だ。
 普段は外衣に付いたフードで隠されていて、あまり顔を晒さないから知っている人は少ないが、ちょっとした事故で素顔を見てしまった彩瑛は、彼の顔立ちが整っていることを知っていた。すっと通った鼻筋に、滅多に笑みを浮かべないが、形のいい口元。
 闇夜でも輝く艶のある黒髪は、襟足だけが長い。片目は完全に前髪で隠されているが、その下には宝石のように輝く紅色の瞳が潜んでいることを知っている。隠されていない方の瞳は琥珀色で、僅かに色彩の違うその瞳が、彩瑛は好きだった。
 そして声。どちらかと言えば低めでどこか気怠げで、彩瑛は今までに一度も大声を出した彼の声を聞いたことがない。すっかり耳に馴染んだ彼の声で名前を呼ばれると、胸が大きく跳ねる。
 背は高く、恐らく百八十は越えているだろう。けれど一般的な同年代の男性と比べるとその肢体は細身だ。本人はこの体格を少し気にしているらしいが、けして不健康という細さではないようなので、彩瑛としてはこのままでいて欲しい。
 彼が王家の血を引いているということは秘されている。元々引き籠もりがちであまり人前に出なかったことも幸いして、現国王の側妃が生んだ第一子は病死したことにされた。何故彩瑛がそんな王家の秘密を知っているのかと言えば、先日彼女を浚ってわざわざ釘を刺してくれた人が、丁寧に教えてくれたからだ。
 比べることすら烏滸がましい、雲の上のひと。
 縁があって接点ができたけれど、本来であれば言葉を交わすことはおろか、顔を合わせることもなかった。
 なのに彩瑛は、そんな彼に《恋》をしてしまった。きっかけは、たまたま目にした容姿がこの世界に来るまでにやっていたゲームのキャラクターに似ていたという、不純なものだった。けれど彼と関わるうちにそれは《恋》へと変わっていた。
 ぬるい夜の風に髪が揺れ、頬を撫でていく。

『あの人には、幸せになって欲しいと思っている』

 身の程を弁えろと、先日の出来事を思い出した彩瑛は自分に言い聞かせる。

『王族や貴族の結婚は、政略的なものが多い。だが兄には、どんな形にせよ、愛のある結婚をして欲しい。あの人に相応しい女性と、幸せな結婚生活を送ってもらいたいんだ』

 どこか気怠げな、それでいて耳に馴染む低めの彼の声と違って、冷静で、けれど柔らかい声から放たれた王太子の言葉が、彩瑛の頭に蘇る。
 今までに恋してきたのは二次元ばかりだったし、こんなにも苦しくなる恋をしたのは初めてだったけれど、さすがに彩瑛だって気付いていた。この気持ちが報われることはないことを。

『身内の贔屓と言われても仕方ないだろうが、俺にできるのは、このぐらいしかないから』

 切なげに笑う王太子の姿が蘇る。
 ──決めた、はずだった。あるべき形に戻そうと、出会う前の日常に帰ろうと。
 なのに、決めたはずの心は迷子になったように揺らいでいた。

「……サエ?」

 想い人の声で、彩瑛ははっと我に返る。心配そうな瞳が、彼女を見つめていた。
 必死に彼の言葉の答えを探す。意気地なしの彩瑛は、さよならを伝えることもできない。何とか引いてくれないだろうかと、誤魔化す言葉を口にする。

「……これから忙しくなるので、いつごろお時間取れるか、わからないんです。ですから、」
「それでもいい。落ち着いたらまた顔を出すから、そのときに予定を決めよう。……君に、伝えたいことがあるんだ」

 伝えたいこととは、何だろう?
 痛む胸を押さえながら、首を傾げて彼に問いかける。

「それは今だと、だめなんですか?」
「……っああ」
「そう、ですか」

 ──ならきっと自分は、もう彼と会えることはないだろう。
 胸元に下げたネックレスを、彩瑛はそっと握り締める。
 この世界に来て半年のときに、帰る方法は教えられていた。今は魔女と呼ばれ、愛する人とひっそりと暮らす──かつては同じ現代で生きていたという女性から。
 彼女はこの世界で生きることを選び、そして不要になったという帰る方法を記したメモを彩瑛に握らせてくれた。
 帰れるのは、一年刻みで。ただし、満月が出ていないといけない。そして一番重要なことは、この世界の人間と交わっていないこと。
 彩瑛の場合、そのチャンスは、今だった。あと半月弱で彼女がこの世界に来て一年になる。そして幸いにも、その日は満月だった。
 最重要項目には一番最初にチェックを入れた。恋はしていても、この恋は叶うはずのないものだ。だからと言って体だけでもと迫る勇気も彩瑛にはない。

『恐らくあの人は、半月後には術を完成させるだろう。──だから、』

 魔術師がどんな仕事をしているのか、彩瑛は詳しいことは知らない。だが、王太子と彼の話を合わせて考えると、どうやら彼は新しい術の開発をしているらしい。
 そしてその術は、半月後には完成する。
 もしも彼が時間を取ってくれると言うのなら、その後だろう。だがそのころにはもう彩瑛はこの世界にはいない。

『だからそれまでに、覚悟を決めて置いて欲しい』

 ──公爵家の当主として何れ相応しい妻を娶る彼の周りに、庶民とは言え女の影があるのは目障りでしかない。
 はっきりとは言わなかったけれど、きっと『覚悟を決めて欲しい』と言った王太子の言葉は、そう言うことなのだろう。
 約束を反故にしてしまうことに後ろめたい気持ちを抱きながら、彩瑛は作り笑いに見えないように必死に笑みを浮かべながら、頷いた。

「……わかり、ました。お仕事頑張ってくださいね、ギルベルト様」

 嘘を吐くことには慣れていない。他の誰かに気付かれてもいい。でも彼には、気付かれたくはなかった。
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