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番外編(本編IF/現パロ要素有)
(02)
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駅から少し離れ、背の高い建物が多く立ち並ぶビジネス街の一角に、その建物はあった。
天高く聳えるそのフォルムは、テレビ番組の特集などでよく取り上げられている。
曰く、泊まりの客でなくとも利用できるレストランが季節ごとにフルーツを変えて提供する、ビュッフェ形式のスウィーツがとても美味しいのだとか。平日休日関係なく、開店前から並ぶ人たちの姿を香穂がテレビ越しに見たのは、ほんの数週間前だったように思う。
今日は休日だが、時間が時間なので列はできていないし、上品な橙色の外灯が灯っているだけだった。
一泊宿泊するのに、平日の一般客室でも数万、スイートルームに至っては数十万というお値段の、この辺りでも有名な高級ホテルの扉を恐る恐る潜りながら、香穂は肩に掛けていたバッグの紐を強く握り締めた。
――敷居高すぎる、もう帰りたい……!
内心回れ右をしてしまいたい気持ちを押さえ付け、香穂はフロアマップから待ち合わせを指示された場所を探す。
迎えに行くよ、と言ってくれた電話越しの言葉を何とか説得して、友人と別れて店を出たのが二十分ほど前の話だ。
彼女と食事をした場所からここまで、普通ならば徒歩でも十分ほどで着くことができる。
にも関わらず、それよりも倍以上の時間が掛かったのは、足取りが重く、なかなか前に進めなかったからだ。途中、心の準備をするためという名目であちらこちらに寄り道をしたことも、理由のひとつではあるが。
タクシーではなく徒歩でここまで来たのも、目的地に永遠に着かなければいいのに、と思ったからだった。
現実は無情で、目的地に向かって歩けば何れは着いてしまうし、こうして目的地の敷居を跨ぐことになってしまったわけだが。
待ち合わせ場所であるバーラウンジは、一番上の宿泊階のひとつ下の階にある。重たい足を動かして、人が降りて空になったエレベーターへと乗り込んだ。さすが高級ホテルと言うべきか、中にはアテンダントの女性がいて、声を掛けてくれる。眩いくらいの笑みを浮かべた彼女に目的階を尋ねられたのでバーラウンジのある階を答えると、ゆっくりと扉は閉まり、上へと登っていく。
思わず張り詰めていた息を吐きながら、香穂はどうしてこうなったのか、ここに至るまでの出来事を思い出した。
始まりは、もう二度と会えないと思っていた人と再会したことが発端だった。香穂の名前を愛おしそうに呼んだ、想い人。
冷静になって考えれば、彼がこの世界で、スーツを着て、香穂もよく知る外国の企業の役員のひとりだなんて、おかしいことのはずなのだ。だって香穂が彼と会ったのはこの、地球という世界ではなかったのだから。
赤の他人が、何らかの方法で香穂が思い出にしようとしている過去を知って、彼を装っている。そう考えた方が自然なくらいに、疑問点ばかりで。
けれど事情を尋ねる前に、香穂は待ち合わせを約束していた友人にその場から離脱させられ――遅れるよう、彼女が連絡をしてくれたらしい――予約していたイタリアンバルで、何があったのか洗いざらい吐かされたのだ。
幸いだったのは、香穂が、彼女にはあの四年間の話をしていて、ある程度の事情を知っていたことだろうか。
憔悴して、やつれて。ようやく普通の食事を戻さずに食べられるようになったころに、夢を見たのだと笑われてもおかしくないあの四年間の話を彼女へと話した。
香穂も、真面目に受け取ってくれるとは思っていなかった。いい年をした女が、まるで十代の夢見る乙女のようなことを口走っている自覚はあったからだ。
けれど彼女は香穂の話を馬鹿にするどころか、話してくれてありがとね、と笑った。見惚れてしまうくらいの、男前な笑みで。
年甲斐もなく頭を撫でられて、涙ぐんでしまったのは仕方ない。その日も確か彼女が選んだお店だったが、個室で良かったとそのときほど思ったことはない。
そしてこの世界に帰ってきて月日が経ち――やっと思い出にできるかと思ったころに、香穂は彼とよく似た青年に、会ったのだ。
――香穂、この話、あたし以外にした?
本屋に行くと連絡をしたあとのことを一部始終伝えると、何かを考え込むような仕草をした彼女は香穂にそう尋ねてきた。首を横に振ると、尚更黙りこくってしまう。
こんな夢物語、親友とも呼べる仲である彼女以外に話せるはずがない。家族にだって話していなかったものを、他人に話せるはずがなかった。
テーブルの上には香穂が彼から手渡されたメモが一枚、少しだけよれてはいるものの、存在感を主張していた。おもて面には、縁がなくてもブランド名くらいは聞いたことのある外国企業の会社名と連絡先が記載され、その下には何度も確認してしまった、上級管理職の役職名が踊っている。
そして、役職名のさらに下には、滑らかな字で彼の名前が書いてあった。
――“Kyle Edomond Ludendorff”
何度も、その名前を目で追った。彼女にも確認してもらって、目の錯覚ではないことを思い知る。
これだけの大企業に勤め、あの若さで重役を勤めているのだから、ネットで検索すれば何か情報が得られるかもしれない。そんな彼女の助言に従って名前を入力して検索すると、彼がモデルを務めた自社製品のプロモーションが一番にヒットした。その次に出てきたのは、彼が答えたインタビュー記事を日本語に翻訳したものだった。
簡単な経歴も情報として拾うことができたが、香穂は騎士団団長と言う役職に就いていた彼しか知らない。わかったのは姿形が似ていて、名前と年齢が同じことぐらいで、それ以外の情報の真偽の程は調べようがなかった。
けれど香穂が思っていた以上に、この世界での彼も有名人で、より一層、尻込みしてしまう。
例え「やっと会えた」というあの言葉が、耳元で囁かれた愛の言葉が本当だったとして、住んでいる世界が違うのならこのまま知らないふりをして関わり合いにならない方がいいに決まっている。
奮発して頼んだ少し高いスパークリングワインで喉を潤しながら、香穂はちらりと名刺に視線をやった。
裏面には、彼の個人用のものだろう連絡先が書いてある。
「……香穂」
「うん?」
頼んだ料理にちまちま手を付けながら、呼び掛けられた声に香穂は視線を上げる。
真剣な目で見つめてくる友人に、伸ばしていたフォークが止まる。
「香穂は、どうしたいの。あの男に会いたい?」
問い掛けられた言葉に、香穂は一瞬息をするのを忘れてしまう。
会いたい、かと聞かれたら、会いたい気持ちはもちろんある。何せずっと、想いを寄せて――忘れられなかった人なのだ。会いたくないわけがない。
しかし同時に、会わない方がいいのでは、という気持ちも存在していた。彼と過ごした記憶は、想い出になり掛けている。そのまま想い出にするのならば、会わない方が得策だろう。
それに、彼は本当に香穂の知る彼自身なのだろうか。
もし何らかの方法でこの世界にやってきた、もしくはこの世界に生まれ変わった彼自身だったとしても、以前と似たような状況の今、香穂が彼の言葉を素直に受け取ることも難しかった。
ならばこの連絡先を破り捨てて、会わなかったことにしてしまった方がいい。
そう思おうとしたのに、待ってると言った彼の表情が思い出されて決意が鈍ってしまった。
「わたし、は……」
先ほど喉を潤したばかりなのに、ひどく乾いているような気がする。答えが出ないまま声にしてしまったせいで、言葉に詰まる。
会いたい。会いたくない。天秤が片方に傾いては、すぐに反対側へと秤を落とす。
ふと、香穂は落としていた視線を横に走らせた。そしてはっと、我に返った。窓側の席だったため、香穂の目には窓ガラスに反射する自分の姿が映る。
そこに映るのは夢の中で見た二十歳くらいの自分ではなく、二十代も終わりに差し掛かっている、自分の姿だった。日本人は童顔に見えるとは言うけれど、さすがに二十歳には見えないだろう。
――ああ、そっか。わたしもう、ルーデンドルフ団長と会ってたときと同じ年じゃ、ないんだ。
彼と会ったという衝撃が強すぎて、すっかり忘れていた。
香穂の容姿は、大学生だった二十歳くらいのころと比べても大きく変わっていない。けれど二十歳になりたてのころと二十代も後半の今では、自信や勇気と言った精神的な面が悪い方に変わってしまった。
例え年齢に釣り合いが取れても、あんな美しい人の隣に立つ自信や勇気はない。
膝の上に重ねた手のひらに、ぎゅっと力を込める。そして視線を上げて、友人へ視線を向けた。
「会わないことにしようかなって。……もう想い出に、したいし」
なるべく声を震わせないようにしたいのに、出てくる言葉は震えてしまう。
気を紛らわせるためにワイングラスを手に取って、香穂はそれを一気に呷ろうとする。けれど、香穂がグラスを持ち上げる前に伸びてきた手が香穂の動きを封じた。
視線の先に映るのは、真っ直ぐに香穂を見つめる、彼女の姿だ。
「アタシが聞いたのは《会う》《会わない》じゃなくて、《会いたい》か《会いたくない》かなんだけど。香穂の気持ちを聞いてるの。……まったく、いつも変なところで意地を張るんだから」
彼女の、鮮やかに彩られた爪先がテーブルを滑る。そして広がっていた名刺をひっくり返してその手に持つと、にっこりと笑みを浮かべて、香穂の名前を呼んだ。
「スマホ、出して頂戴」
「え?」
「あの男に電話するから。アタシのスマホで掛けてもいいけど有名人みたいだし、連絡先知る人は少ない方がいいでしょ」
「だ、だから会わないって、」
「じゃあ、会いたくないの?」
「それ、は……」
思わず、言葉が途切れる。
真っ直ぐに向けられた視線は、まるですべてを見透かしていると言わんばかりで。
「会わないで後悔するなら、会って来なさい」
持ち上げられたグラスの中で、赤ワインが揺れる。その先で彼女が、あのときと同じ男前な笑みを浮かべて笑っていた。
「失恋したら、一緒に泣いてあげるわよ」
「っ枯れるほど泣いたし、もう……泣きたくないんだけどな、あ」
「もうすでに泣きそうなのに、何言ってるの。ほら、思い立ったらすぐ行動、勇気が出ないなら掛けてあげましょうか」
「……ううん、大丈夫……たぶん」
香穂はバッグからスマートフォンを取り出し、ロック画面を解除して画面をタップする。そして彼女から差し出された名刺の電話番号に目を走らせながら、数字をひとつひとつ、押していく。
最後の数字を押し終わり、コールボタンをタップすると、耳元に押し当てた。
心臓が、大きく跳ねる。
一度目のコール音が、鳴って。
《――っカホ?》
一度目のコール音が鳴り終わる前に耳に届いた声に、香穂の方が驚いてしまった。
それよりも、どうして香穂からの電話だと、気付いたのだろうか。そんな疑問を感じたが、それよりも久しぶりに聞いた彼の声にスマートフォンを持つ手が震えてしまった。
香穂は、何とか声を絞り出す。
「そう、です。……突然連絡して、すみません」
《いや、……連絡貰えないかと思っていたから嬉しいよ。ありがとう》
「いえ……それであの、」
少しお時間を頂けませんか、とそう続けたかったのに、思っていた以上に意気地なしだったらしい。言葉の続きは音にならなかった。
目の前で、取り分けたサラダを食べていた彼女が怖いくらいの笑みを寄越してくる。さり気なく視線を外していると、電話先の彼が話を進めてくれた。
《連絡をくれたってことは、俺は期待して、いい?》
「っはい」
《良かった。なら君の空いている時間を、って言いたいところなんだけど、……実は仕事でこの国に来ていて、三日後に本国に戻らなければならないんだ。俺から声を掛けたのに、ごめん》
「い、いえ」
《今空いているのが、明後日の夜か、それか急だけど今夜ぐらいしかなくて……どう、かな》
「明後日か、……今夜」
彼の予定を復唱して、ちらりと聞き耳を立てていた彼女へ視線をやる。
今夜は、彼女との約束があるから無理だ。となると、明後日の夜に改めて、と言うのが良いだろう。香穂自身もまだ頭の中がこんがらがっていて、気持ちの整理ができていない。
答えは決まったと、明後日で提案しようと香穂が口を開こうとする。しかし答えを口にする前に、フォークを持ち、サラダを食べていたはずの彼女の鮮やかな指先がテーブルをコツコツ、と叩いた。
香穂がそろりと視線を上げると、友人が口元をゆっくりと開き、声を出さずに言葉を紡ぐ。「こ、ん、や」満面の笑みを浮かべながら、彼女はそう囁いた。
「え、」
《カホ?》
「何でもありません。明後日の夜か今夜ですよね。なら、あさ、」
香穂の言葉が途切れる。目の前に座る友人は、テーブルに肘を立て、指先を組みその上に形のいい顎を乗せて、怖いくらいの美しい笑みを香穂に向けていた。
「か、ほ?」と、声にはならない言葉が彼女の口から吐き出される。音はないはずなのに、どうしてか背中には嫌な汗が伝い、後退りをしたくなってしまう。
そして、こうして彼女に微笑まれると香穂は逆らえなくなってしまうのだ。
「……お時間宜しければ、今夜、お会いできますでしょうか。時間は……八時くらいで」
もちろん時間も、彼女の指先が示した時間だ。
《俺は大丈夫だけど、カホはいいの? 彼女と、一緒なんだろう?》
「あっ、と、……彼女も別件で、用事ができたようで早めに解散しようと思っていたところなんです。だから大丈夫です」
ちらりと彼女に視線を走らせると、よく出来ました、と言わんばかりに満足げな笑みを浮かべ、サラダを口に運ぼうとしていた。
香穂はつい、そんな彼女を恨めしげに見てしまう。
しかし恨めしげに思っていた気持ちも、電話先の彼の言葉に驚きに変わってしまった。
《なら、八時前くらいに着くようにそちらに迎えに行くよ。今どの辺りにいるかな?》
電話先で衣摺れの音がする。恐らく、外出をするのに何かを羽織っているのだろう。
大慌てで頭を回転させて、迎えに来てくれるという言葉を断る方法を考える。迎えに来てくれたとして、先ほどと同じく、女性の視線に晒されるのは目に見えていた。それは御免被りたい。
「大丈夫です、さっきお会いした駅の近くにいるのでしたら、わたしの方から行きますので」
《でももうこんなに暗いし、平和な国と言われていても危険性はゼロじゃない。何より俺が、心配なんだ》
「っ……」
電話越しでも伝わる不安げな声に一瞬心が揺れる。わかりましたと頷きそうになり、はっと我に返った。
流されるところだったと頭を抱えると、彼女が面白そうなものを見る目で香穂のことを見ている。
「心配して貰えるのは嬉しいです。でも、わざわざここまで来て貰うのも申し訳ないですし、友人を駅まで見送ったり……あと、色々と準備がありまして」
主に今の香穂に必要なのは、心の準備をする時間だ。それと、何としてでも針の筵にならない方法。何とか納得してもらおうと、理由を並び立てる。
それから何回かの応酬のあと、何とか納得してもらい、待ち合わせ場所の有名ホテルのバーラウンジの名前を教えてもらう。
会う前に、すでに疲れてしまった。どこかげっそりとした香穂とは反対に優雅に赤ワインを傾ける友人は、ひどく楽しそうにルージュを引いたくちびるを緩ませている。
「……それでは、また後で」
《ああ。……カホ、》
「はい?」
《連絡をくれてありがとう。……本当に、もう一度会えて嬉しい》
ひどく嬉しそうに囁かれて、香穂は返す言葉を失ってしまう。真っ直ぐに向かってくる言葉は、困惑と喜びを香穂の胸に湧き上がらせる。
「わたしも、会えて嬉しいです。……っそれじゃあ、また後で!」
真っ直ぐに告げられた言葉に当てられたのか、香穂の口から静かに本音が零れ出る。気付いたのはすべて伝え終えてからで、香穂は慌てて会話を終わりにしようと早口になる言葉を紡いだ。
じわりじわりと頬が熱い。
電話先で、微かに笑い声がした。
《また後で、》
機嫌の良さそうな声で返ってきた言葉のあと、小さくリップ音が耳に届く。
電話越しにキスをされたのだと気付いたときには、羞恥で通話を切っていた。頬どころか、身体中が熱を帯びて、ひどく熱い。
「……お熱いラブコールだこと」
「他人事だと思って! しかも今から会いに行くなんて、心の準備できてない……っ」
「今夜だって明後日だって変わらないでしょ。寧ろ日付が伸びたら余計逃げたくなるんだから、さっさと片付けちゃった方がいいのよ」
「うっ」
「それに、香穂も会いたかったんならいいじゃない。女は度胸って言うでしょ。胸張って行きなさい」
すでに何杯目なのだろう。赤ワインの入ったグラスを傾けながら彼女は言う。
「でも今日は始めから約束してた日で、」
「あたしと香穂はいつでも飲めるでしょうが。二週間くらい、あたしの方が忙しくなるから難しいけど、予定わかったらまた連絡するし。それに、近くに住む友人に連絡取ったら香穂の代わりに一緒にご飯食べてくれるって言うから、気兼ねなく行って頂戴?」
「……腹括って行ってきます」
「行ってらっしゃい。あ、どういう形に収まったか、メッセージでもいいから教えてね?」
「どうもこうも、ならないって」
そう呟き、財布からいくらか抜き取って、机の上に置く。
「ごめんね、ありがと、沙良」
「いいえ?」
ひらひらと手を振る彼女に別れを告げ、香穂はスタッフの声に見送られて店を出た。
店を出てすぐ、ひとりの男性とすれ違った。彼は香穂が今しがた出てきたイタリアンバルの扉の中へと消えていく。
扉が開き、閉まる音を微かに耳で拾いながら、香穂は待ち合わせ場所のバーラウンジがある、この国でも有名なホテルへと向かった。
――が、やはり心はそう簡単に追い付いてはくれない。逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、先へ進むにつれてスピードが落ちる足をのろのろと進める。
途中寄り道をしつつ、遅い足取りでいつもより倍近くの時間をかけ、香穂は目的地へと到着した。
そうして、冒頭部へと至る。
胸張って行きなさい、と友人に背中を叩いてもらったが、このホテルの内装を見たら場違い感を感じずにはいられないだろう。何とかエレベーターに乗り込んだが、扉の上で階数を表示する数字を見ているとだんだんと胃が痛くなってくる気がして、香穂は視線を逸らした。
いっそのこと一階毎に止まってくれればいいのにと思ったが、結局エレベーターは途中どこにも止まることなく、目的階へと到着してしまった。
行ってらっしゃいませ、と笑顔のアテンダントの女性に見送られてエレベーターを降りると、すぐにバーラウンジのカウンターが目の前に広がっていた。
一気にしっとりとした雰囲気を感じる。
バーテンダーらしき男性がカウンターの中でシェイカーを振っていた。
「いらっしゃいませ。待ち合わせですか?」
「っはい。……この方と、八時に約束しているんですけ、ど」
カウンターの奥からやってきた男性スタッフに尋ねられ、香穂は少しよれてしまった彼の名刺を見せる。彼は笑みを浮かべている表情を変えず、ご案内致します、とカウンターの前を通り過ぎ、奥へと進んでいく。
そのあとを恐る恐る着いて行くと、カウンター席の奥にはソファー席もあるようだ。
香穂が案内されたのは、一番奥に用意された、ソファー席だった。
窓際に置かれたテーブルと、寄り添うように置かれたふたつのソファー。
その先のガラス張りの窓からは街中が一望できる。暗がりの中、ビルの明かりが灯り、夜空と相まってとても美しい。こんな夜景は今までに見たことがなく、香穂は思わず、すごい、と呟いた。
そこへ、コツリ、と静かに床を叩く音がした。
「カホ」
呼ばれた名前は紛れもなく自身のもので、そして、名前を呼んだその声は聞き覚えのあるものだった。
香穂は、ゆっくりと振り返った。
窓の外に広がる夜空とは比べものにならないくらいに美しい濃紺の瞳が甘く、優しい色を持っている。
香穂が知っているよりも短い髪は、見知った銀色をしていた。一歩ずつ歩みを進めると同時にふわりと揺れる。
整った顔立ちに、すらりとした四肢。
やはり、身に付けているスーツがよく似合う。色合いは黒ではなく、紺色だろうか?
柔らかく微笑んで香穂を見つめるその表情は、あの世界で過ごしていたあの日々に目にしていたものと、同じものだった。
足音が止まる。手を伸ばせば届く距離に、彼の姿がある。
気付けば、香穂を案内してくれた男性スタッフの姿はなくなっていた。
「ルーデンドルフ、だんちょ」
掠れた声で香穂の口が紡いだのは、あの世界で、本人の前では一度として呼んだことのない、彼の名前だった。
驚いたように少しだけ彼が目を見開く。そしてその表情が笑みに変わるまでに時間はかからなかった。
「今はもう団長ではないから、ファーストネームで呼んで欲しいな」
「な、ならルーデンドルフさんでも、」
「カーホ?」
「だ、だけど!」
渋る香穂に、彼の囁きが耳元に落ちる。
「なら、名前を呼ぶのと――それとも、ここで口付けられるのと、どちらが良い?」
色気を孕んだ声に、香穂の頬が一気に火照る。人気のあまりない奥まった席だからとは言え、誰かに見られていないとは限らない。
どちらの選択肢を取るかなど、わかりきっていた。
「……ッカ、カイル……さん」
緊張のあまり、思わず噛んでしまった。そして、さすがに呼び捨てで名前を呼ぶことはできなくて、敬称を付け加える。
男性の名前を呼ぶことが、ないわけではない。社内でも後輩や、先輩でも同じ名字を持つ男の人が複数いる場合は、名前と敬称、役職で呼ぶこともある。
なのにどうして、彼の名前を呼ぶことがこんなに緊張するのだろうか。
ひどく、顔が熱を帯びている。彼の表情を見られず、香穂は俯いた。
静寂が広がる。聞こえるのは、少しの話し声とそれから足音、カクテルを作るシェイカーの音。
お互いの間に広がる静かさに耐え切れず、香穂は恐る恐る顔を上げた。口を開かないということは、もしかしたら不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。そう思って。
――けれど、顔を上げた香穂の目に飛び込んできたのは、その端正なかんばせを朱に染め、視線を逸らして口元を手で覆っている彼の姿だった。
予想外の表情に、香穂はぽかんとその姿を見つめてしまう。
「……ここまで、名前を呼ばれるのが嬉しいと思ったのは初めてだ、な」
「え?」
「っいや、何でもないよ。……カホ、」
名前を呼ばれて、手を差し伸べられる。
ぱちくりと瞬きをして、じっとその手のひらを見つめ――そして香穂は答えに行き当たった。
けれど今までに経験がなく、この手を本当に差し出していいのか迷ってしまう。
香穂の瞳が困惑げに揺れながら、彼を見つめる。視線が絡み合い、向けられたのは甘く微笑みかけてくれる深い夜のような瞳だった。
ゆっくりと、胸元で握り締められていた手のひらの力が弱まっていく。
恐る恐る差し伸べられた手に己の手を重ねると、そっと指先を包まれて。
香穂はカイルに手を引かれ、目の前のソファー席へとエスコートされるのだった。
初出 : 2017/10/02-04/30 web拍手
天高く聳えるそのフォルムは、テレビ番組の特集などでよく取り上げられている。
曰く、泊まりの客でなくとも利用できるレストランが季節ごとにフルーツを変えて提供する、ビュッフェ形式のスウィーツがとても美味しいのだとか。平日休日関係なく、開店前から並ぶ人たちの姿を香穂がテレビ越しに見たのは、ほんの数週間前だったように思う。
今日は休日だが、時間が時間なので列はできていないし、上品な橙色の外灯が灯っているだけだった。
一泊宿泊するのに、平日の一般客室でも数万、スイートルームに至っては数十万というお値段の、この辺りでも有名な高級ホテルの扉を恐る恐る潜りながら、香穂は肩に掛けていたバッグの紐を強く握り締めた。
――敷居高すぎる、もう帰りたい……!
内心回れ右をしてしまいたい気持ちを押さえ付け、香穂はフロアマップから待ち合わせを指示された場所を探す。
迎えに行くよ、と言ってくれた電話越しの言葉を何とか説得して、友人と別れて店を出たのが二十分ほど前の話だ。
彼女と食事をした場所からここまで、普通ならば徒歩でも十分ほどで着くことができる。
にも関わらず、それよりも倍以上の時間が掛かったのは、足取りが重く、なかなか前に進めなかったからだ。途中、心の準備をするためという名目であちらこちらに寄り道をしたことも、理由のひとつではあるが。
タクシーではなく徒歩でここまで来たのも、目的地に永遠に着かなければいいのに、と思ったからだった。
現実は無情で、目的地に向かって歩けば何れは着いてしまうし、こうして目的地の敷居を跨ぐことになってしまったわけだが。
待ち合わせ場所であるバーラウンジは、一番上の宿泊階のひとつ下の階にある。重たい足を動かして、人が降りて空になったエレベーターへと乗り込んだ。さすが高級ホテルと言うべきか、中にはアテンダントの女性がいて、声を掛けてくれる。眩いくらいの笑みを浮かべた彼女に目的階を尋ねられたのでバーラウンジのある階を答えると、ゆっくりと扉は閉まり、上へと登っていく。
思わず張り詰めていた息を吐きながら、香穂はどうしてこうなったのか、ここに至るまでの出来事を思い出した。
始まりは、もう二度と会えないと思っていた人と再会したことが発端だった。香穂の名前を愛おしそうに呼んだ、想い人。
冷静になって考えれば、彼がこの世界で、スーツを着て、香穂もよく知る外国の企業の役員のひとりだなんて、おかしいことのはずなのだ。だって香穂が彼と会ったのはこの、地球という世界ではなかったのだから。
赤の他人が、何らかの方法で香穂が思い出にしようとしている過去を知って、彼を装っている。そう考えた方が自然なくらいに、疑問点ばかりで。
けれど事情を尋ねる前に、香穂は待ち合わせを約束していた友人にその場から離脱させられ――遅れるよう、彼女が連絡をしてくれたらしい――予約していたイタリアンバルで、何があったのか洗いざらい吐かされたのだ。
幸いだったのは、香穂が、彼女にはあの四年間の話をしていて、ある程度の事情を知っていたことだろうか。
憔悴して、やつれて。ようやく普通の食事を戻さずに食べられるようになったころに、夢を見たのだと笑われてもおかしくないあの四年間の話を彼女へと話した。
香穂も、真面目に受け取ってくれるとは思っていなかった。いい年をした女が、まるで十代の夢見る乙女のようなことを口走っている自覚はあったからだ。
けれど彼女は香穂の話を馬鹿にするどころか、話してくれてありがとね、と笑った。見惚れてしまうくらいの、男前な笑みで。
年甲斐もなく頭を撫でられて、涙ぐんでしまったのは仕方ない。その日も確か彼女が選んだお店だったが、個室で良かったとそのときほど思ったことはない。
そしてこの世界に帰ってきて月日が経ち――やっと思い出にできるかと思ったころに、香穂は彼とよく似た青年に、会ったのだ。
――香穂、この話、あたし以外にした?
本屋に行くと連絡をしたあとのことを一部始終伝えると、何かを考え込むような仕草をした彼女は香穂にそう尋ねてきた。首を横に振ると、尚更黙りこくってしまう。
こんな夢物語、親友とも呼べる仲である彼女以外に話せるはずがない。家族にだって話していなかったものを、他人に話せるはずがなかった。
テーブルの上には香穂が彼から手渡されたメモが一枚、少しだけよれてはいるものの、存在感を主張していた。おもて面には、縁がなくてもブランド名くらいは聞いたことのある外国企業の会社名と連絡先が記載され、その下には何度も確認してしまった、上級管理職の役職名が踊っている。
そして、役職名のさらに下には、滑らかな字で彼の名前が書いてあった。
――“Kyle Edomond Ludendorff”
何度も、その名前を目で追った。彼女にも確認してもらって、目の錯覚ではないことを思い知る。
これだけの大企業に勤め、あの若さで重役を勤めているのだから、ネットで検索すれば何か情報が得られるかもしれない。そんな彼女の助言に従って名前を入力して検索すると、彼がモデルを務めた自社製品のプロモーションが一番にヒットした。その次に出てきたのは、彼が答えたインタビュー記事を日本語に翻訳したものだった。
簡単な経歴も情報として拾うことができたが、香穂は騎士団団長と言う役職に就いていた彼しか知らない。わかったのは姿形が似ていて、名前と年齢が同じことぐらいで、それ以外の情報の真偽の程は調べようがなかった。
けれど香穂が思っていた以上に、この世界での彼も有名人で、より一層、尻込みしてしまう。
例え「やっと会えた」というあの言葉が、耳元で囁かれた愛の言葉が本当だったとして、住んでいる世界が違うのならこのまま知らないふりをして関わり合いにならない方がいいに決まっている。
奮発して頼んだ少し高いスパークリングワインで喉を潤しながら、香穂はちらりと名刺に視線をやった。
裏面には、彼の個人用のものだろう連絡先が書いてある。
「……香穂」
「うん?」
頼んだ料理にちまちま手を付けながら、呼び掛けられた声に香穂は視線を上げる。
真剣な目で見つめてくる友人に、伸ばしていたフォークが止まる。
「香穂は、どうしたいの。あの男に会いたい?」
問い掛けられた言葉に、香穂は一瞬息をするのを忘れてしまう。
会いたい、かと聞かれたら、会いたい気持ちはもちろんある。何せずっと、想いを寄せて――忘れられなかった人なのだ。会いたくないわけがない。
しかし同時に、会わない方がいいのでは、という気持ちも存在していた。彼と過ごした記憶は、想い出になり掛けている。そのまま想い出にするのならば、会わない方が得策だろう。
それに、彼は本当に香穂の知る彼自身なのだろうか。
もし何らかの方法でこの世界にやってきた、もしくはこの世界に生まれ変わった彼自身だったとしても、以前と似たような状況の今、香穂が彼の言葉を素直に受け取ることも難しかった。
ならばこの連絡先を破り捨てて、会わなかったことにしてしまった方がいい。
そう思おうとしたのに、待ってると言った彼の表情が思い出されて決意が鈍ってしまった。
「わたし、は……」
先ほど喉を潤したばかりなのに、ひどく乾いているような気がする。答えが出ないまま声にしてしまったせいで、言葉に詰まる。
会いたい。会いたくない。天秤が片方に傾いては、すぐに反対側へと秤を落とす。
ふと、香穂は落としていた視線を横に走らせた。そしてはっと、我に返った。窓側の席だったため、香穂の目には窓ガラスに反射する自分の姿が映る。
そこに映るのは夢の中で見た二十歳くらいの自分ではなく、二十代も終わりに差し掛かっている、自分の姿だった。日本人は童顔に見えるとは言うけれど、さすがに二十歳には見えないだろう。
――ああ、そっか。わたしもう、ルーデンドルフ団長と会ってたときと同じ年じゃ、ないんだ。
彼と会ったという衝撃が強すぎて、すっかり忘れていた。
香穂の容姿は、大学生だった二十歳くらいのころと比べても大きく変わっていない。けれど二十歳になりたてのころと二十代も後半の今では、自信や勇気と言った精神的な面が悪い方に変わってしまった。
例え年齢に釣り合いが取れても、あんな美しい人の隣に立つ自信や勇気はない。
膝の上に重ねた手のひらに、ぎゅっと力を込める。そして視線を上げて、友人へ視線を向けた。
「会わないことにしようかなって。……もう想い出に、したいし」
なるべく声を震わせないようにしたいのに、出てくる言葉は震えてしまう。
気を紛らわせるためにワイングラスを手に取って、香穂はそれを一気に呷ろうとする。けれど、香穂がグラスを持ち上げる前に伸びてきた手が香穂の動きを封じた。
視線の先に映るのは、真っ直ぐに香穂を見つめる、彼女の姿だ。
「アタシが聞いたのは《会う》《会わない》じゃなくて、《会いたい》か《会いたくない》かなんだけど。香穂の気持ちを聞いてるの。……まったく、いつも変なところで意地を張るんだから」
彼女の、鮮やかに彩られた爪先がテーブルを滑る。そして広がっていた名刺をひっくり返してその手に持つと、にっこりと笑みを浮かべて、香穂の名前を呼んだ。
「スマホ、出して頂戴」
「え?」
「あの男に電話するから。アタシのスマホで掛けてもいいけど有名人みたいだし、連絡先知る人は少ない方がいいでしょ」
「だ、だから会わないって、」
「じゃあ、会いたくないの?」
「それ、は……」
思わず、言葉が途切れる。
真っ直ぐに向けられた視線は、まるですべてを見透かしていると言わんばかりで。
「会わないで後悔するなら、会って来なさい」
持ち上げられたグラスの中で、赤ワインが揺れる。その先で彼女が、あのときと同じ男前な笑みを浮かべて笑っていた。
「失恋したら、一緒に泣いてあげるわよ」
「っ枯れるほど泣いたし、もう……泣きたくないんだけどな、あ」
「もうすでに泣きそうなのに、何言ってるの。ほら、思い立ったらすぐ行動、勇気が出ないなら掛けてあげましょうか」
「……ううん、大丈夫……たぶん」
香穂はバッグからスマートフォンを取り出し、ロック画面を解除して画面をタップする。そして彼女から差し出された名刺の電話番号に目を走らせながら、数字をひとつひとつ、押していく。
最後の数字を押し終わり、コールボタンをタップすると、耳元に押し当てた。
心臓が、大きく跳ねる。
一度目のコール音が、鳴って。
《――っカホ?》
一度目のコール音が鳴り終わる前に耳に届いた声に、香穂の方が驚いてしまった。
それよりも、どうして香穂からの電話だと、気付いたのだろうか。そんな疑問を感じたが、それよりも久しぶりに聞いた彼の声にスマートフォンを持つ手が震えてしまった。
香穂は、何とか声を絞り出す。
「そう、です。……突然連絡して、すみません」
《いや、……連絡貰えないかと思っていたから嬉しいよ。ありがとう》
「いえ……それであの、」
少しお時間を頂けませんか、とそう続けたかったのに、思っていた以上に意気地なしだったらしい。言葉の続きは音にならなかった。
目の前で、取り分けたサラダを食べていた彼女が怖いくらいの笑みを寄越してくる。さり気なく視線を外していると、電話先の彼が話を進めてくれた。
《連絡をくれたってことは、俺は期待して、いい?》
「っはい」
《良かった。なら君の空いている時間を、って言いたいところなんだけど、……実は仕事でこの国に来ていて、三日後に本国に戻らなければならないんだ。俺から声を掛けたのに、ごめん》
「い、いえ」
《今空いているのが、明後日の夜か、それか急だけど今夜ぐらいしかなくて……どう、かな》
「明後日か、……今夜」
彼の予定を復唱して、ちらりと聞き耳を立てていた彼女へ視線をやる。
今夜は、彼女との約束があるから無理だ。となると、明後日の夜に改めて、と言うのが良いだろう。香穂自身もまだ頭の中がこんがらがっていて、気持ちの整理ができていない。
答えは決まったと、明後日で提案しようと香穂が口を開こうとする。しかし答えを口にする前に、フォークを持ち、サラダを食べていたはずの彼女の鮮やかな指先がテーブルをコツコツ、と叩いた。
香穂がそろりと視線を上げると、友人が口元をゆっくりと開き、声を出さずに言葉を紡ぐ。「こ、ん、や」満面の笑みを浮かべながら、彼女はそう囁いた。
「え、」
《カホ?》
「何でもありません。明後日の夜か今夜ですよね。なら、あさ、」
香穂の言葉が途切れる。目の前に座る友人は、テーブルに肘を立て、指先を組みその上に形のいい顎を乗せて、怖いくらいの美しい笑みを香穂に向けていた。
「か、ほ?」と、声にはならない言葉が彼女の口から吐き出される。音はないはずなのに、どうしてか背中には嫌な汗が伝い、後退りをしたくなってしまう。
そして、こうして彼女に微笑まれると香穂は逆らえなくなってしまうのだ。
「……お時間宜しければ、今夜、お会いできますでしょうか。時間は……八時くらいで」
もちろん時間も、彼女の指先が示した時間だ。
《俺は大丈夫だけど、カホはいいの? 彼女と、一緒なんだろう?》
「あっ、と、……彼女も別件で、用事ができたようで早めに解散しようと思っていたところなんです。だから大丈夫です」
ちらりと彼女に視線を走らせると、よく出来ました、と言わんばかりに満足げな笑みを浮かべ、サラダを口に運ぼうとしていた。
香穂はつい、そんな彼女を恨めしげに見てしまう。
しかし恨めしげに思っていた気持ちも、電話先の彼の言葉に驚きに変わってしまった。
《なら、八時前くらいに着くようにそちらに迎えに行くよ。今どの辺りにいるかな?》
電話先で衣摺れの音がする。恐らく、外出をするのに何かを羽織っているのだろう。
大慌てで頭を回転させて、迎えに来てくれるという言葉を断る方法を考える。迎えに来てくれたとして、先ほどと同じく、女性の視線に晒されるのは目に見えていた。それは御免被りたい。
「大丈夫です、さっきお会いした駅の近くにいるのでしたら、わたしの方から行きますので」
《でももうこんなに暗いし、平和な国と言われていても危険性はゼロじゃない。何より俺が、心配なんだ》
「っ……」
電話越しでも伝わる不安げな声に一瞬心が揺れる。わかりましたと頷きそうになり、はっと我に返った。
流されるところだったと頭を抱えると、彼女が面白そうなものを見る目で香穂のことを見ている。
「心配して貰えるのは嬉しいです。でも、わざわざここまで来て貰うのも申し訳ないですし、友人を駅まで見送ったり……あと、色々と準備がありまして」
主に今の香穂に必要なのは、心の準備をする時間だ。それと、何としてでも針の筵にならない方法。何とか納得してもらおうと、理由を並び立てる。
それから何回かの応酬のあと、何とか納得してもらい、待ち合わせ場所の有名ホテルのバーラウンジの名前を教えてもらう。
会う前に、すでに疲れてしまった。どこかげっそりとした香穂とは反対に優雅に赤ワインを傾ける友人は、ひどく楽しそうにルージュを引いたくちびるを緩ませている。
「……それでは、また後で」
《ああ。……カホ、》
「はい?」
《連絡をくれてありがとう。……本当に、もう一度会えて嬉しい》
ひどく嬉しそうに囁かれて、香穂は返す言葉を失ってしまう。真っ直ぐに向かってくる言葉は、困惑と喜びを香穂の胸に湧き上がらせる。
「わたしも、会えて嬉しいです。……っそれじゃあ、また後で!」
真っ直ぐに告げられた言葉に当てられたのか、香穂の口から静かに本音が零れ出る。気付いたのはすべて伝え終えてからで、香穂は慌てて会話を終わりにしようと早口になる言葉を紡いだ。
じわりじわりと頬が熱い。
電話先で、微かに笑い声がした。
《また後で、》
機嫌の良さそうな声で返ってきた言葉のあと、小さくリップ音が耳に届く。
電話越しにキスをされたのだと気付いたときには、羞恥で通話を切っていた。頬どころか、身体中が熱を帯びて、ひどく熱い。
「……お熱いラブコールだこと」
「他人事だと思って! しかも今から会いに行くなんて、心の準備できてない……っ」
「今夜だって明後日だって変わらないでしょ。寧ろ日付が伸びたら余計逃げたくなるんだから、さっさと片付けちゃった方がいいのよ」
「うっ」
「それに、香穂も会いたかったんならいいじゃない。女は度胸って言うでしょ。胸張って行きなさい」
すでに何杯目なのだろう。赤ワインの入ったグラスを傾けながら彼女は言う。
「でも今日は始めから約束してた日で、」
「あたしと香穂はいつでも飲めるでしょうが。二週間くらい、あたしの方が忙しくなるから難しいけど、予定わかったらまた連絡するし。それに、近くに住む友人に連絡取ったら香穂の代わりに一緒にご飯食べてくれるって言うから、気兼ねなく行って頂戴?」
「……腹括って行ってきます」
「行ってらっしゃい。あ、どういう形に収まったか、メッセージでもいいから教えてね?」
「どうもこうも、ならないって」
そう呟き、財布からいくらか抜き取って、机の上に置く。
「ごめんね、ありがと、沙良」
「いいえ?」
ひらひらと手を振る彼女に別れを告げ、香穂はスタッフの声に見送られて店を出た。
店を出てすぐ、ひとりの男性とすれ違った。彼は香穂が今しがた出てきたイタリアンバルの扉の中へと消えていく。
扉が開き、閉まる音を微かに耳で拾いながら、香穂は待ち合わせ場所のバーラウンジがある、この国でも有名なホテルへと向かった。
――が、やはり心はそう簡単に追い付いてはくれない。逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、先へ進むにつれてスピードが落ちる足をのろのろと進める。
途中寄り道をしつつ、遅い足取りでいつもより倍近くの時間をかけ、香穂は目的地へと到着した。
そうして、冒頭部へと至る。
胸張って行きなさい、と友人に背中を叩いてもらったが、このホテルの内装を見たら場違い感を感じずにはいられないだろう。何とかエレベーターに乗り込んだが、扉の上で階数を表示する数字を見ているとだんだんと胃が痛くなってくる気がして、香穂は視線を逸らした。
いっそのこと一階毎に止まってくれればいいのにと思ったが、結局エレベーターは途中どこにも止まることなく、目的階へと到着してしまった。
行ってらっしゃいませ、と笑顔のアテンダントの女性に見送られてエレベーターを降りると、すぐにバーラウンジのカウンターが目の前に広がっていた。
一気にしっとりとした雰囲気を感じる。
バーテンダーらしき男性がカウンターの中でシェイカーを振っていた。
「いらっしゃいませ。待ち合わせですか?」
「っはい。……この方と、八時に約束しているんですけ、ど」
カウンターの奥からやってきた男性スタッフに尋ねられ、香穂は少しよれてしまった彼の名刺を見せる。彼は笑みを浮かべている表情を変えず、ご案内致します、とカウンターの前を通り過ぎ、奥へと進んでいく。
そのあとを恐る恐る着いて行くと、カウンター席の奥にはソファー席もあるようだ。
香穂が案内されたのは、一番奥に用意された、ソファー席だった。
窓際に置かれたテーブルと、寄り添うように置かれたふたつのソファー。
その先のガラス張りの窓からは街中が一望できる。暗がりの中、ビルの明かりが灯り、夜空と相まってとても美しい。こんな夜景は今までに見たことがなく、香穂は思わず、すごい、と呟いた。
そこへ、コツリ、と静かに床を叩く音がした。
「カホ」
呼ばれた名前は紛れもなく自身のもので、そして、名前を呼んだその声は聞き覚えのあるものだった。
香穂は、ゆっくりと振り返った。
窓の外に広がる夜空とは比べものにならないくらいに美しい濃紺の瞳が甘く、優しい色を持っている。
香穂が知っているよりも短い髪は、見知った銀色をしていた。一歩ずつ歩みを進めると同時にふわりと揺れる。
整った顔立ちに、すらりとした四肢。
やはり、身に付けているスーツがよく似合う。色合いは黒ではなく、紺色だろうか?
柔らかく微笑んで香穂を見つめるその表情は、あの世界で過ごしていたあの日々に目にしていたものと、同じものだった。
足音が止まる。手を伸ばせば届く距離に、彼の姿がある。
気付けば、香穂を案内してくれた男性スタッフの姿はなくなっていた。
「ルーデンドルフ、だんちょ」
掠れた声で香穂の口が紡いだのは、あの世界で、本人の前では一度として呼んだことのない、彼の名前だった。
驚いたように少しだけ彼が目を見開く。そしてその表情が笑みに変わるまでに時間はかからなかった。
「今はもう団長ではないから、ファーストネームで呼んで欲しいな」
「な、ならルーデンドルフさんでも、」
「カーホ?」
「だ、だけど!」
渋る香穂に、彼の囁きが耳元に落ちる。
「なら、名前を呼ぶのと――それとも、ここで口付けられるのと、どちらが良い?」
色気を孕んだ声に、香穂の頬が一気に火照る。人気のあまりない奥まった席だからとは言え、誰かに見られていないとは限らない。
どちらの選択肢を取るかなど、わかりきっていた。
「……ッカ、カイル……さん」
緊張のあまり、思わず噛んでしまった。そして、さすがに呼び捨てで名前を呼ぶことはできなくて、敬称を付け加える。
男性の名前を呼ぶことが、ないわけではない。社内でも後輩や、先輩でも同じ名字を持つ男の人が複数いる場合は、名前と敬称、役職で呼ぶこともある。
なのにどうして、彼の名前を呼ぶことがこんなに緊張するのだろうか。
ひどく、顔が熱を帯びている。彼の表情を見られず、香穂は俯いた。
静寂が広がる。聞こえるのは、少しの話し声とそれから足音、カクテルを作るシェイカーの音。
お互いの間に広がる静かさに耐え切れず、香穂は恐る恐る顔を上げた。口を開かないということは、もしかしたら不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。そう思って。
――けれど、顔を上げた香穂の目に飛び込んできたのは、その端正なかんばせを朱に染め、視線を逸らして口元を手で覆っている彼の姿だった。
予想外の表情に、香穂はぽかんとその姿を見つめてしまう。
「……ここまで、名前を呼ばれるのが嬉しいと思ったのは初めてだ、な」
「え?」
「っいや、何でもないよ。……カホ、」
名前を呼ばれて、手を差し伸べられる。
ぱちくりと瞬きをして、じっとその手のひらを見つめ――そして香穂は答えに行き当たった。
けれど今までに経験がなく、この手を本当に差し出していいのか迷ってしまう。
香穂の瞳が困惑げに揺れながら、彼を見つめる。視線が絡み合い、向けられたのは甘く微笑みかけてくれる深い夜のような瞳だった。
ゆっくりと、胸元で握り締められていた手のひらの力が弱まっていく。
恐る恐る差し伸べられた手に己の手を重ねると、そっと指先を包まれて。
香穂はカイルに手を引かれ、目の前のソファー席へとエスコートされるのだった。
初出 : 2017/10/02-04/30 web拍手
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