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夜会チョコレイト

天野商事のきつね憑き

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「厠に行く」ということを何とか遠回しに伝えると、「ではまっすぐ戻ってくるのだよ。危ないことがあったらすぐまわりに助けを求めなさい。よいね?」と過剰に心配された。大げさでは、と思いつつ、子槻は心配性の気があるので素直に頷いておいた。やはり不安そうな顔で見送られながら、広間の扉へ歩き出す。

 子槻には言わなかったが、足の裏が痛い。草履は全体的に底が厚いが、靴はかかとの部分だけが高くて、足が折れ曲がるからだろう。足が全部包まれているのも窮屈だ。つくづく洋風の履物は脱ぎたくてたまらなくなる。

 足をかばいながらゆっくり人のあいだを縫っていると、耳に低い音が引っかかった。

「あの娘、さっき天野商事のきつね憑きと踊っていた……」

 早速子槻の評判を落としてしまったかと背中が冷たくなったが、それより気になる単語があって、迷っているふりをして歩みを落とす。

「ああ、天野商事のきつね憑きか。あれだろう。一度死んだはずなのにきつねに憑かれて生き返ったという」

「病気を治すため祈祷して逆に憑かれたのではなかったか?」

「どちらにせよあの髪の色がきつね憑きの証だろう」

 聞こえてくる声音はあきらかな揶揄で、春子は勇気を出して声のほうを振り返った。含み笑いをしていた燕尾服の男性ふたりが、春子の視線を受けて露骨に顔をそらす。春子はぱっとしない気持ちながらも、広間の出口へ歩き出した。

 天野商事のきつね憑き、とは子槻のことだろう。たしかに子槻の髪はきつねのような色合いをしているし、瞳も赤かったが。そう考えたところで、思い出した。どこかで見た色合いだとは思っていたが、このあいだ部屋にいた人懐こいねずみと同じなのだ。

 そういえば子槻は最初に会ったとき、自分はねずみだ、神だ、とよく分からないことを言っていた。あのねずみは子槻だったのか。

(いや……さすがに、それは)

 人がねずみになるなどということを無邪気に信じられるほど、春子は子どもではなかった。不思議なことが本当におこればすてきだな、とは思うが、空想を信じるかはまた別の話だ。

 けれど、子槻には尋ねてみたかった。「きつね憑きなのですか?」とはさすがに失礼すぎて聞けないが、春子は子槻のことを何も知らないのだ。

 なぜ、『涙香』のことを知っているのか。

 もう少し、子槻のことを、知りたい。



 厠は外で、館から少し離れた場所にあった。用を済ませて、春子は広間へ戻ろうと歩き出す。あたりには橙色のガス灯がぽつぽつと立っていて、石張りの足元と西洋式の庭園を淡く浮かばせていた。

(ちょっとくらいなら、いいかな)

 子槻はまっすぐ戻ってくるようにと心配していたが、少しひとりで落ち着きたかった。春子は西洋庭園へ足を踏み入れる。

 黒の曲線を描く鉄の柱に、葉が絡みついている。両脇には白く厚い花弁の花と淡い紫のすみれが咲いて、空気に甘い香りが含まれているようだった。道の先には柱と同じ黒の曲線でできた腰かけと東屋があり、ああいうところで慕い合う男女が語らったりするのだろうか、とわずかに鼓動が速くなった。

 連鎖のように子槻の顔が浮かんできてしまったが、すぐにかき消した。子槻が春子に優しいのは、恋慕ではなくて多分父親のような慈愛だ。春子の父は春子が覚えていないくらいに亡くなったそうなので、想像でしかないのだが。
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