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夢を語る人
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若い頃の彼は夢を追っていた。
それは具体的な夢だったが、彼はその輪郭ばかりを眺めていて、いつになっても夢の実現に向けた努力はしなかった。
彼には恋人がいた。
夢を語る彼の姿に惹かれた彼女は、なかなか夢を叶えない彼がそれでも好きで、ずっと彼を支えていた。
だかさすがに彼もこれではいけないと思い、夢に向けての努力を始めたが現実は厳しかった。そんな中、彼は決断した。
彼女と別れたのだ。
彼も彼女のことがとても好きだったから、これは彼にとって痛みが大きかった。
彼は、現実の中で次第に遠ざかる夢の実現に失望を感じ、夢は所詮夢で、自分はそれを叶えられそうもない。だから自分に見切りをつけた方がいいと、心ならずも彼女に言ったが、彼が夢を語る姿が好きだという彼女は、むしろその方がいいと言って離れなかった。
ある日彼は逃げるように彼女の前から姿を消した。
彼は彼なりにこれでいいと思っていた。
別れてしまえば、彼女も夢から覚めるだろう。悪夢という夢から。
そして何十年も経った。
彼は何をやってもうまくいかず、結局ホームレスになり、さすがに夢を追う年齢でもなくなっていた。かつて見た夢はとうに忘れていた。
しかし彼はまた違う夢を見始めていた。今度はそれが実現出来そうな気がしていた。
それは今だから見られる夢だった。そして彼にしか見られない夢だった。
ある日、彼はついに動き始めた。ダンボールの家をたたみ、石鹸で綺麗に身体を洗い、拾った服と靴の中でこの日のために取っておいた一番見栄えのするものを身につけた。
そして大きなリュックを背負い、街へ歩き出した。
途中、意外なことが起こってしまった。
街を行く彼を、いつしかつけている者がいた。
振り返ると、微笑むその姿形はずいぶん変わってしまったが、たしかにそれは彼女だった。
上品な身なりをしているところを見ると、彼は自分の判断が間違っていなかったと思った。
「まだ夢を追っているのね」
彼女はいきなりそう言った。図星なだけに彼は驚いた。
彼は別れてからの身の上話を簡単にした。それを聞いて彼女は、もしかしたらこの街であなたを何度も見かけたかも知れないけど、それは夢を忘れたあなただったから分からなかったのかも知れないわと言った。
まるで夢を見る人見ない人が分かる能力者のような物言いだった。
あれから自分は夢を語る人を追い続けた。そして何人も見つけ、結ばれた。
しかしみんな夢を実現させた。そのたびに自分は潤い、そのたびに別れた。叶ってしまった夢には、夢はなかった。もう夢を語らない人はつまらなかった。だから別れた。そんな経緯を、彼女は話した。そして今見ている夢を語ってほしいと彼に頼んだ。
「動物園に行くんだ。その先に夢があるんだ」
と、彼は言った。彼女はついて行くと言った。彼はいいよと言った。
彼女は楽しかった。夢を語る彼がまた現れたのだ。
「動物園に着いたら、どんな夢があるの?」
彼女は聞いた。
「着いたら話すよ」
彼は言った。彼女は期待した。
動物園に着いた。どちらもそこそこの身なりをしていたから普通の夫婦に見えた。
園の動物を少し見た頃合いで、彼は物陰に入った。彼女に手招きし、リュックを開けた。
そこには巨大なハンマーが入っていた。
「もし可能ならね、このハンマーでコブラの展示ケースを割って中に入ってさ、噛まれるんだ、コブラに。それが今の夢なんだよ。生きていても希望はないし、それにもう死んでもいい歳なんでね、いやむしろもう死にたいな。だから死ぬ気で試したいんだ。コブラに噛まれたらどうなるのかをね。こんな夢見る奴いないだろう?だからやりたくて仕方ないんだ。ウキウキしてる」
彼は嬉しそうに語った。
彼女はうっとりと彼を見た。
コブラの展示スペースに着いた。
幸い他に人はいない。
コブラがとぐろを巻くガラスケースの前に立つ彼の顔。
久しぶりに見る、彼の生き生きした顔だった。
彼女は嬉しかった。だから言った。
「割っちゃだめ!」
薄暗く青い室内の、意外と簡単に割れそうなガラスの面に、にらむような彼女の顔が映っていた。
「私のためよ!」
彼女の顔がコブラに重なった。
それは具体的な夢だったが、彼はその輪郭ばかりを眺めていて、いつになっても夢の実現に向けた努力はしなかった。
彼には恋人がいた。
夢を語る彼の姿に惹かれた彼女は、なかなか夢を叶えない彼がそれでも好きで、ずっと彼を支えていた。
だかさすがに彼もこれではいけないと思い、夢に向けての努力を始めたが現実は厳しかった。そんな中、彼は決断した。
彼女と別れたのだ。
彼も彼女のことがとても好きだったから、これは彼にとって痛みが大きかった。
彼は、現実の中で次第に遠ざかる夢の実現に失望を感じ、夢は所詮夢で、自分はそれを叶えられそうもない。だから自分に見切りをつけた方がいいと、心ならずも彼女に言ったが、彼が夢を語る姿が好きだという彼女は、むしろその方がいいと言って離れなかった。
ある日彼は逃げるように彼女の前から姿を消した。
彼は彼なりにこれでいいと思っていた。
別れてしまえば、彼女も夢から覚めるだろう。悪夢という夢から。
そして何十年も経った。
彼は何をやってもうまくいかず、結局ホームレスになり、さすがに夢を追う年齢でもなくなっていた。かつて見た夢はとうに忘れていた。
しかし彼はまた違う夢を見始めていた。今度はそれが実現出来そうな気がしていた。
それは今だから見られる夢だった。そして彼にしか見られない夢だった。
ある日、彼はついに動き始めた。ダンボールの家をたたみ、石鹸で綺麗に身体を洗い、拾った服と靴の中でこの日のために取っておいた一番見栄えのするものを身につけた。
そして大きなリュックを背負い、街へ歩き出した。
途中、意外なことが起こってしまった。
街を行く彼を、いつしかつけている者がいた。
振り返ると、微笑むその姿形はずいぶん変わってしまったが、たしかにそれは彼女だった。
上品な身なりをしているところを見ると、彼は自分の判断が間違っていなかったと思った。
「まだ夢を追っているのね」
彼女はいきなりそう言った。図星なだけに彼は驚いた。
彼は別れてからの身の上話を簡単にした。それを聞いて彼女は、もしかしたらこの街であなたを何度も見かけたかも知れないけど、それは夢を忘れたあなただったから分からなかったのかも知れないわと言った。
まるで夢を見る人見ない人が分かる能力者のような物言いだった。
あれから自分は夢を語る人を追い続けた。そして何人も見つけ、結ばれた。
しかしみんな夢を実現させた。そのたびに自分は潤い、そのたびに別れた。叶ってしまった夢には、夢はなかった。もう夢を語らない人はつまらなかった。だから別れた。そんな経緯を、彼女は話した。そして今見ている夢を語ってほしいと彼に頼んだ。
「動物園に行くんだ。その先に夢があるんだ」
と、彼は言った。彼女はついて行くと言った。彼はいいよと言った。
彼女は楽しかった。夢を語る彼がまた現れたのだ。
「動物園に着いたら、どんな夢があるの?」
彼女は聞いた。
「着いたら話すよ」
彼は言った。彼女は期待した。
動物園に着いた。どちらもそこそこの身なりをしていたから普通の夫婦に見えた。
園の動物を少し見た頃合いで、彼は物陰に入った。彼女に手招きし、リュックを開けた。
そこには巨大なハンマーが入っていた。
「もし可能ならね、このハンマーでコブラの展示ケースを割って中に入ってさ、噛まれるんだ、コブラに。それが今の夢なんだよ。生きていても希望はないし、それにもう死んでもいい歳なんでね、いやむしろもう死にたいな。だから死ぬ気で試したいんだ。コブラに噛まれたらどうなるのかをね。こんな夢見る奴いないだろう?だからやりたくて仕方ないんだ。ウキウキしてる」
彼は嬉しそうに語った。
彼女はうっとりと彼を見た。
コブラの展示スペースに着いた。
幸い他に人はいない。
コブラがとぐろを巻くガラスケースの前に立つ彼の顔。
久しぶりに見る、彼の生き生きした顔だった。
彼女は嬉しかった。だから言った。
「割っちゃだめ!」
薄暗く青い室内の、意外と簡単に割れそうなガラスの面に、にらむような彼女の顔が映っていた。
「私のためよ!」
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