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39 光を掴む

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深い深い海の底に沈んでゆく感覚。
暗くて、何も見えなくて、何も聞こえなくて、何も感じなくて、
自分というものが消えてゆく。
このまま身を任せておけば、きっと楽になるんだろう。
悲しみが消える。苦しみが消える。

…………

でも、寂しい。すごく寂しくて、辛い。

────助けて。

そう願った時、真っ暗だった世界に光が現れた。
光の中に佇むその人が神様のように見えた。

「ああ、まただ」と思った。
これまで何度、この人に助けられてきたんだろう。
幼い時も、少し大きくなった時も、そして今も。

大きくて温かな手がゆっくりと差し出される。
その手を掴みたい。
でも、穢れた手で触れてしまうことに躊躇する。

戸惑っているうちに、自分という存在が徐々に暗闇に溶けてゆくのが分かった。
やがて視界も闇に覆われて光が見えなくなる──そう思った時、縋るように手を伸ばした。
心が、そうしたいと願ったのだった。





「…………」
「楓、目を覚ましたのか! ……ああ、良かった」

事件に幕が引かれてから、もう何時間も経っていた。
ようやく目を覚ました楓の手を握り、康介が嬉しそうに声を上げる。

「麻酔はとっくに切れてるはずなのに全然起きてくれないから、心配したぞ」
「…………」
「でも良かったよ。ちゃんと目を覚ましてくれて……
 おい、無理に体を起こさなくて良いぞ」
「大丈夫……うぅ」

よろよろと上体を起こしたかと思うと、楓は頭を押さえて辛そうに呻いた。
頭に巻かれた包帯と相俟って、その姿は酷く痛々しい。
何が出来るわけでも無いが、康介は楓の頭を優しく撫でてやった。
少しでも、痛みがどこかへ飛んでいってくれるように。
やがて頭から手を離した楓が、ゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫か?」
「うん。もう平気」
「本当かなあ」

心配そうに覗き込む康介に向かって、楓は微笑んで見せた。
青白い顔をしていた。
それから楓は微笑みを仕舞い込んで、不安そうに問いかけた。

「ねえ、康介さん」
「何だ?」
「事件はあれからどうなったの?」
「……終わったよ。全部終わった。解決したんだ。何もかも」
「そう……」
「ああ。だから、お前はもう安全だ。何も心配しなくていいから、
 自分の治療に専念するんだぞ」
「うん」

事件の顛末について、康介は極々簡素な言葉だけで済ませた。
少し伏せたその目に複雑な感情が渦巻いていることを察して、
楓はそれ以上は何も訊かなかった。

「とりあえず、今夜一晩は入院だな。
 軽くて薄いガラスの花瓶だったのは幸いだが……
 頭を殴られてるから、しっかり検査しないと」
「うん」
「明日の精密検査で問題が無かったら、すぐに家に帰れるから」
「うん。早く帰りたい」
「そうだな。俺も早く連れて帰りたい」
「…………」
「そんな寂しそうな顔をするなって」

少し顔を曇らせた楓を励ますように、康介が彼の肩をポンと軽く叩く。

「え? そんな顔してた?」
「ああ、してた。まあ、今日は病院だから隣で寝てやることは出来ないけど」
「うん」
「その代わり、ずっと横について手を握っといてやるから」
「え?」
「怖い夢を見て飛び起きても大丈夫。俺が傍に居るから安心しろ。
 安心して飛び起きれば良い。全部、悪い夢だって解らせてやるから」
「自宅に帰るんじゃないの?」
「医者に頼み込んで、深夜付き添いの許可を勝ち取ってやったんだよ」

康介がしたり顔で笑う。
すると楓も安心したように微笑んだ。
が、次の瞬間には楓の顔から笑顔が消えていた。
『悪魔の声』が聞こえたのだと思い、康介は咄嗟に楓の手を握る。

「大丈夫か?」
「う、うん」

首を縦に振って「大丈夫」だと示そうとするが、楓のその顔は酷く青褪めていた。
唇は小刻みに震えていて、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
『悪魔の声』が酷い言葉で楓を罵っているのに違いなかった。
それを察した康介が楓を抱き締めて優しく背中をさする。

「思えばこの二週間、何度肝を冷やしたかなあ」

この二週間で楓は何度も命の危機にさらされてきた。
浦坂実による理不尽な復讐心。横井祐子による歪んだ恋愛感情。
いずれも、康介に向けられていた感情が楓にスライドされてしまったのだ。
肉体的にも精神的にも酷く傷つけられたその姿は、
いわば康介の身代わりになったも同然なのだ。

「でも、またこうやって抱き締めることができて良かった」

楓の治療はまだまだ続く。
特に精神の方は、これから先何年も……否、もしかしたら一生続くのかもしれない。
康介は、それに徹底的に付き合うことを心に決めている。
その思いを込めて、より強い力で楓を抱き締めた。

「生きていてくれて、ありがとう」

精一杯の愛情を込めて囁いた。
康介の言葉を受けて、楓は目に溜めていた涙をあふれさせる。

「僕の方こそ、生きてて良かった。……助けてくれてありがとう」

温かい涙を流しながら、楓は康介の言葉に応えた。
そして、震える手で康介の背中に手を回し、ぎゅっと彼の服を掴んだ。

「──!」

康介は思わず目を見開く。
初めてのことだったのだ。
楓が、こんな風に抱き返してきたのは。
見開いた康介の目からも、じわりと涙があふれた。

お互いに抱き締め合う形で、しばらくの間そうやって過ごした。
やがて、体力が尽きた楓の体から力が抜ける。
眠りに就いたのだ。

楓をベッドに横たわらせて、康介はその横につけた椅子に座った。
手を握り、眠る楓の顔をじっと見つめる。
今は穏やかな、その顔を。

「愛してるよ」

意識の無い楓に声を掛ける。

「楓、俺の可愛い楓」
「お前は俺の宝物だ」
「俺にはお前が必要だ」
「お前と一緒にいられるだけで俺は幸せだ」
「一緒に生きていこう。ずっと」
「愛してるよ」
「愛してるよ」
「愛してるよ」

ありったけの愛情をひたすら言葉にした。
横井祐子によって潜在意識に刷り込まれた呪いの言葉を打ち消すように。

それは、一晩中ずっと続けられた。
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