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一章、嘘 ――Drug Trip――
15.山本一葉、きみは誰?(2)
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「お姉ちゃん、学校ではどんな感じなんだろう」
いっちゃんでいいよ、と前置きして、
「さっきも言ったけど、あたしは知らないんですってば」
形のきれいな目を、少し吊り上げる。
(ちょっとこわい子だな)
と広松は苦笑して、この双葉よりずっとおとなしそうに見えて、怒れば物まで投げるという一葉は、どんな子なのだろう、と益々笑みを苦いものにした。
「成績はあたしよりいいですよ。そもそもいっちゃんくらいの子は、みんな私立に行っちゃったから。うちは貧乏だから、ひとりが私立に行ったら、もうひとりは公立でしょ。親がそんな話をした途端、あたしは公立に行くって言ったの」
「気を利かせてくれたのか」
「違うよ。受験勉強が嫌だから。あたし知ってるもん、いとこの姉ちゃんが中学受験のとき、夜中の一時まで勉強してるって聞いて、あたしは絶対やんねー、とかほざいてたもん」
仲の悪い姉妹だったろうに、双葉はよく話してくれた。その間だけでも、行方不明になった現実を忘れられるからだろうか。一瞬あとには消えてしまう幻でも。
「あの人は昔っから優等生だよ、あたしとは違って。いるじゃん、悪いことしても先生がまさかと思って、怒られない奴。あたししょっちゅうそういう子のとばっちりで、『あなたが先導したのね』って怒られてきたけど。いっちゃんみたいな奴は、いっつもいいとこ取りしてんの」
聞けば聞くほど、一葉にはオニになる理由などない。それどころか、家を出る理由も、犯罪に巻き込まれる理由も。
(折角足を運んできたが、これはまだ市野沢百合子の方が脈があるかな)
「運動も得意だし、あの人に苦手なものなんてないんじゃない」
「きみは」
「算数と通知票の右側」
右側、と聞き返すと、双葉はにやりとした。
「担任が勝手に生徒の人格決めつける欄ね」
それから双葉は、一葉の写真を見せた。髪をきっちりと二つに分け、中学校の指定ジャージを着て、友だちと写っている。程良く日に焼けた頬に浮かべた、文部省推薦、といった感じの笑みに、広松は思わず身を引いた。それは、「鬼」なんて言葉を跳ね返す、清潔な明るさだ。
「あたし、いっちゃんのこと、ずっと大っ嫌いだった」
じっと写真をみつめる双葉から、笑みが消えている。「あたしの持ってないもの全部持ってて、嘘つくのも立ち回るのもうまくて。ずっと憎ったらしくてしょうがなかった。でも、いなくなってから、ようやく気付いたの」
かすかに、その目はうるんでいる。
「本当のいっちゃんは、どこにいたんだろうって。あたしの前では、あんなにキレやすかったいっちゃんが、親にも先生にも優等生って言われて、クラスの子たちにもやさしくて、友だちもたくさんいて。じゃあ、あのいっちゃんはなんだったの? ものすごい目であたしを睨むんだよ。でも外ではあんな目、絶対しないなんて――」片手で涙をぬぐう。「怖いなんてもんじゃない。そんなかわいそうなことってないよ……」
震える肩をそっとたたくと、泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と謝るから、広松は慌ててしまった。
世の中には器用な奴がたくさんいる。いつあのようなすべを覚えるんだろう、と広松は常々思ってきた。三十五年も生きてようやく知ったのは、初対面から立ち入った話をしてはいけない、ということくらいだ。人は波のように引いてゆく。
「こんな話をさせてすまなかったね」
双葉は首を振る。「あたしは―― 何か思うと、人に言わずにはいられないんです。話すのが好きだから、いいの」
まだ赤い目を細めて笑う。「自分のこと話すのって楽しいよね。みんなで話すときも、あたしの好きなことが話題になるもん。すんごい盛り上がっちゃう」
周囲を呆れさせながらも、はしゃぐ双葉の姿が目に映る。その明るさに惹き付けられる者もあれば、市野沢百合子の級友、知子が言ったように、逃げてゆく者もある。内面をさらけ出せば、知り得る可能性が狭まることもある。
(その選択は、個々人に与えられた自由だ。損得じゃない、なりたいイメージに沿った方法を選べばいい)
山本一葉の選択が、広松とも双葉とも違ったというだけだ。
だが山本宅からの帰り道、ふと気が付いた。双葉に見せた姿が、ありのままの一葉だったわけではない。優等生と言えば聞こえはいいが、地味で目立たない一葉にとって、明るく派手な妹はわずらわしい、心を乱す存在だったかも知れない。
ふと、織江を思い出す。嫉妬? などと冷めた目を向ける。思わず頭に血が上り、いい加減仕事を辞めたらどうだ、と口走る。彼女に見せる姿が本来の広松徹と言われたら、大変な侮辱だ。ほかの誰の前でも、あのように声を荒らげたり、傲慢な態度を取りはしない。
(だが織江にはどう映るだろう)
外では言いたいことも言えず、苦笑ばかり浮かべているだらしない男が、私の前じゃあ、あんなに怒鳴り散らして―― 彼女の目の奥にはいつも、そんなあざけりがちらちらと燃えている。
一葉は、双葉を面白くないと思っているから、ちょっとしたことで怒り出す。
(ならばやはり、オニになる理由はない)
学校の友人に見せるおだやかな姿が、本来の彼女なら。夜響はいつも言っていた――ただ、自由になりたいだけ――
(この土地に夜響が現れたのは、単なる偶然か)
広松は、あ、と声をあげた。昨日、守も夜響を見たと言っていた。守と織江を見た夜響は家族を懐かしく思い、ここへ帰ってきたのではないか。
(市野沢百合子の所には現れていないだろうか)
広松は急遽、さいたま市へ向かった。
百合子が母と住んでいたのは、田圃の中にずんと立つ大きなマンションだった。近くに綾瀬川が流れ、時折、鉄橋がごうと鳴る。農道をゆく人や釣りをする人に、今話題のオニを見なかったかと尋ねても、怪訝な目をされただけだった。だがマンション下の公園で遊ぶ子供たちは、見たよ、と自慢げに答えた。
「月曜の夜だよ、花火やってたらあそこに」
目を細めて屋上を指差す。犬小屋で目覚めた日の翌日か、と考えたくもないことを思い出してしまった。夜響は何をしに、こんな辺鄙な所へ来たのだろう。
夜響の姿を見ないまま、もうすぐ一週間が過ぎる。まだ心を失わずにいるだろうか、悪い人間にだまされていないだろうかと、日増しに思い出す時間が増えてゆく。「鬼」と分かっていても、無邪気に姿をさらす夜響を憎めない。しかし封じると断言したのに、身の危険を冒してまでして、からかいに来るのは不思議だ。あの雨の降る晩、危害を加えに来たとも思えない。ならば――
(俺を惑わしに来たのか、それとも)
家族をばらばらにするために? 織江が出て行った理由は、夜響のあの行動がもとになっている。
違う、と強く首を振る。あの日、夜響は哀しい目をしていた。あんたはオニでもないのに人を傷付ける、と言った。
俺を頼って……
まさか、と一笑に付す。それは奢りに思えた。
いっちゃんでいいよ、と前置きして、
「さっきも言ったけど、あたしは知らないんですってば」
形のきれいな目を、少し吊り上げる。
(ちょっとこわい子だな)
と広松は苦笑して、この双葉よりずっとおとなしそうに見えて、怒れば物まで投げるという一葉は、どんな子なのだろう、と益々笑みを苦いものにした。
「成績はあたしよりいいですよ。そもそもいっちゃんくらいの子は、みんな私立に行っちゃったから。うちは貧乏だから、ひとりが私立に行ったら、もうひとりは公立でしょ。親がそんな話をした途端、あたしは公立に行くって言ったの」
「気を利かせてくれたのか」
「違うよ。受験勉強が嫌だから。あたし知ってるもん、いとこの姉ちゃんが中学受験のとき、夜中の一時まで勉強してるって聞いて、あたしは絶対やんねー、とかほざいてたもん」
仲の悪い姉妹だったろうに、双葉はよく話してくれた。その間だけでも、行方不明になった現実を忘れられるからだろうか。一瞬あとには消えてしまう幻でも。
「あの人は昔っから優等生だよ、あたしとは違って。いるじゃん、悪いことしても先生がまさかと思って、怒られない奴。あたししょっちゅうそういう子のとばっちりで、『あなたが先導したのね』って怒られてきたけど。いっちゃんみたいな奴は、いっつもいいとこ取りしてんの」
聞けば聞くほど、一葉にはオニになる理由などない。それどころか、家を出る理由も、犯罪に巻き込まれる理由も。
(折角足を運んできたが、これはまだ市野沢百合子の方が脈があるかな)
「運動も得意だし、あの人に苦手なものなんてないんじゃない」
「きみは」
「算数と通知票の右側」
右側、と聞き返すと、双葉はにやりとした。
「担任が勝手に生徒の人格決めつける欄ね」
それから双葉は、一葉の写真を見せた。髪をきっちりと二つに分け、中学校の指定ジャージを着て、友だちと写っている。程良く日に焼けた頬に浮かべた、文部省推薦、といった感じの笑みに、広松は思わず身を引いた。それは、「鬼」なんて言葉を跳ね返す、清潔な明るさだ。
「あたし、いっちゃんのこと、ずっと大っ嫌いだった」
じっと写真をみつめる双葉から、笑みが消えている。「あたしの持ってないもの全部持ってて、嘘つくのも立ち回るのもうまくて。ずっと憎ったらしくてしょうがなかった。でも、いなくなってから、ようやく気付いたの」
かすかに、その目はうるんでいる。
「本当のいっちゃんは、どこにいたんだろうって。あたしの前では、あんなにキレやすかったいっちゃんが、親にも先生にも優等生って言われて、クラスの子たちにもやさしくて、友だちもたくさんいて。じゃあ、あのいっちゃんはなんだったの? ものすごい目であたしを睨むんだよ。でも外ではあんな目、絶対しないなんて――」片手で涙をぬぐう。「怖いなんてもんじゃない。そんなかわいそうなことってないよ……」
震える肩をそっとたたくと、泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と謝るから、広松は慌ててしまった。
世の中には器用な奴がたくさんいる。いつあのようなすべを覚えるんだろう、と広松は常々思ってきた。三十五年も生きてようやく知ったのは、初対面から立ち入った話をしてはいけない、ということくらいだ。人は波のように引いてゆく。
「こんな話をさせてすまなかったね」
双葉は首を振る。「あたしは―― 何か思うと、人に言わずにはいられないんです。話すのが好きだから、いいの」
まだ赤い目を細めて笑う。「自分のこと話すのって楽しいよね。みんなで話すときも、あたしの好きなことが話題になるもん。すんごい盛り上がっちゃう」
周囲を呆れさせながらも、はしゃぐ双葉の姿が目に映る。その明るさに惹き付けられる者もあれば、市野沢百合子の級友、知子が言ったように、逃げてゆく者もある。内面をさらけ出せば、知り得る可能性が狭まることもある。
(その選択は、個々人に与えられた自由だ。損得じゃない、なりたいイメージに沿った方法を選べばいい)
山本一葉の選択が、広松とも双葉とも違ったというだけだ。
だが山本宅からの帰り道、ふと気が付いた。双葉に見せた姿が、ありのままの一葉だったわけではない。優等生と言えば聞こえはいいが、地味で目立たない一葉にとって、明るく派手な妹はわずらわしい、心を乱す存在だったかも知れない。
ふと、織江を思い出す。嫉妬? などと冷めた目を向ける。思わず頭に血が上り、いい加減仕事を辞めたらどうだ、と口走る。彼女に見せる姿が本来の広松徹と言われたら、大変な侮辱だ。ほかの誰の前でも、あのように声を荒らげたり、傲慢な態度を取りはしない。
(だが織江にはどう映るだろう)
外では言いたいことも言えず、苦笑ばかり浮かべているだらしない男が、私の前じゃあ、あんなに怒鳴り散らして―― 彼女の目の奥にはいつも、そんなあざけりがちらちらと燃えている。
一葉は、双葉を面白くないと思っているから、ちょっとしたことで怒り出す。
(ならばやはり、オニになる理由はない)
学校の友人に見せるおだやかな姿が、本来の彼女なら。夜響はいつも言っていた――ただ、自由になりたいだけ――
(この土地に夜響が現れたのは、単なる偶然か)
広松は、あ、と声をあげた。昨日、守も夜響を見たと言っていた。守と織江を見た夜響は家族を懐かしく思い、ここへ帰ってきたのではないか。
(市野沢百合子の所には現れていないだろうか)
広松は急遽、さいたま市へ向かった。
百合子が母と住んでいたのは、田圃の中にずんと立つ大きなマンションだった。近くに綾瀬川が流れ、時折、鉄橋がごうと鳴る。農道をゆく人や釣りをする人に、今話題のオニを見なかったかと尋ねても、怪訝な目をされただけだった。だがマンション下の公園で遊ぶ子供たちは、見たよ、と自慢げに答えた。
「月曜の夜だよ、花火やってたらあそこに」
目を細めて屋上を指差す。犬小屋で目覚めた日の翌日か、と考えたくもないことを思い出してしまった。夜響は何をしに、こんな辺鄙な所へ来たのだろう。
夜響の姿を見ないまま、もうすぐ一週間が過ぎる。まだ心を失わずにいるだろうか、悪い人間にだまされていないだろうかと、日増しに思い出す時間が増えてゆく。「鬼」と分かっていても、無邪気に姿をさらす夜響を憎めない。しかし封じると断言したのに、身の危険を冒してまでして、からかいに来るのは不思議だ。あの雨の降る晩、危害を加えに来たとも思えない。ならば――
(俺を惑わしに来たのか、それとも)
家族をばらばらにするために? 織江が出て行った理由は、夜響のあの行動がもとになっている。
違う、と強く首を振る。あの日、夜響は哀しい目をしていた。あんたはオニでもないのに人を傷付ける、と言った。
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