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第一幕、リオが天使になった日

08、天にいる御使(みつかい)のようなもの

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「ひゃっ」

 悲鳴が口をついて出た。右足を置いていたレンガが欠けて、地面へと落下したのだ。

 心臓が口から飛び出しそうになったとき、屋根裏部屋の窓に影が差した。

「オリヴィア!」

 リオの声が聞こえると同時に窓が開いて、白い腕が伸びてきた。

「つかまって!」

 声をひそめてリオが叫んだ。私の両腕を支えると、細い腕には似合わぬ力強さで引き上げてくれる。

 私は両足で外壁を蹴って、屋根裏部屋に転がり込んだ。

 ドサっと音を立ててリオがベッドに倒れる。狭い屋根裏部屋の窓は、ベッドのすぐ近くにあった。

「馬鹿!」

 リオは私の頭を自分の胸にいだいて、泣きそうな声を出した。

「オリヴィア、なんでこんな危ないことするの?」

 リオの胸にうずめていた顔を上げて反論しようとしたら、

「僕の大切なオリヴィア――」

 突然、リオが私の額に唇を押し当てた。

 えっ!?

 驚きに思考が止まる。リオが元気だった喜びさえかすむほどだ。

「かわいい。会いたかった」

 リオは私の耳に頬をすり寄せて、ぎゅっと抱きしめた。

 いやいや待て。私の弟、こんな子だった!?

「リオ、豚に激突されて頭でも打った?」

 心配して尋ねると、

「ひどい」

 リオはふくれっ面して立ち上がり、窓を閉めた。特に痛みをこらえる様子もない。怪我も手術も作り話だったのだろうか?

「会えない間に、オリヴィアへの想いがつのっただけだよ」

 私に背中を向けたまま、リオはぽつりと言った。

「私もずっと会いたかった」

 すぐに答えると、リオは振り返って満足そうにほほ笑んだ。ベッドサイドに置いたオイルランプに照らされて、彼の頬は薔薇色に色づいている。

「リオ、真実を知りたいの。アンナは、リオがパオロんの豚とぶつかって怪我を負ったって言うんだけど――」

「うん、そういうことにしておいて欲しいんだ」

 リオは自嘲気味な笑みを浮かべてベッドに腰を下ろした。

 なぜだろう? 会えなかったのはたった十日くらいなのに、リオが急に大人になってしまった気がする。

「どうしてリオも本当のことを話してくれないの?」

 私は鼻の奥がツンとするのを必死でこらえていた。

「僕は来月になったら遠くに行かなくちゃいけない。でもオリヴィアにはこの村で静かに暮らしてほしい」

「無理だよ!」

 私は思わず大きな声を出しかけて、口を押さえた。

「おかしいよ、リオ。私とずっと一緒にいたいって言ってくれたじゃん! 『オリヴィアお姉ちゃんから離れないもん』って!」

「僕、『オリヴィアお姉ちゃん』なんて呼んだことないよ!」

 リオは赤くなって否定した。おかしいな。私の妄想の中だけだったかな?

「とにかくオリヴィアには、普通の村娘として幸せになってほしいんだ。僕はいつか素晴らしい歌手になって君を迎えに来るから」

 私は息を止めたまま首を振った。呼吸したら嗚咽が漏れそうだったから。リオが私の幸せを願ってくれているのに、私の行き先は決まっているんだ。

「オリヴィア、苦しそうな顔してどうしたの? 僕に話して。なんでも話してっていつもお願いしてるじゃん」

 リオは私の髪を撫でながら、歌うように優しい声を出した。

「私、人買いに売られるんだって」

 下を向いて両手でスカートを握りしめたまま、私は白状した。でもリオの治療費のためとは言わなかった。

「は?」

 隣から氷のように冷たい声が聞こえて、私は思わずリオの顔を見た。やわらかい頬からは笑みが消え、とび色の瞳は光を失っていた。

「アンナがそう言ったのか?」

 リオは固い声で尋ねた。彼のまとう空気が別人のように変わってしまったのが怖くて、私は恐る恐るうなずいた。

「大嘘つきめ。地獄に落ちろ」

 リオは聞いたこともないような低い声を出した。彼の頭上にのしかかる勾配天井が、屋根裏部屋を余計に狭く見せて息がつまりそうだ。

 私は意を決して口を開いた。

「アンナはリオになんて言ったの?」

「家にはお金がない。だから人買いに売るつもりで女の子を引き取った。僕は働き手としてもらってきた。でも僕の声が認められた。もし僕がソプラニスタになるなら、オリヴィアは人買いに売らないって」

 リオは無表情のまま淡々と語った。

「ソプラニスタ?」

「男性のソプラノのこと」

「リオは、それになるの?」

 尋ねると同時に、私の頭に胡散臭い男の言葉がよみがえった。「すでに事は為された。少年には新しい人生が待っている」――

「ひどい!」

 全てを察した私の手は、わなわなと震えだした。

「あの女、リオが私を思う気持ちを利用して、リオに手術を受けさせたってこと!?」

「ごめん。僕、馬鹿で」

「は?」

 問い返した自分の顔が、恐ろしい形相になっている自覚がある。

「僕、あの女にだまされちゃった」

「なんで謝るの?」

「だって、『天にいる御使みつかいのようなもの』にされちまったんだぜ」

 リオは薄笑いを浮かべたまま、彼らしくない口調で言った。

 一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。だが子供のころから読み聞かせられてきた聖書の一節がよみがえった。

 ――彼らはめとったりとついだりすることはない。彼らは天にいる御使みつかいのようなものである――

 私、リオを守れなかったんだ。頭の一部が冷静さを取り戻して、冷たい恐怖と怒りがしたたり落ちる。

「私は姉として、弟のリオを守るのが使命だったのに」

 無力感が全身を襲う。足元が砂になって、ぐるぐる回って吸い込まれていくようだ。

「僕は君の弟なんかじゃない」

 リオの無情な言葉が深々しんしんと私の心に突き刺さった。



─ * ─


かわいい弟であるはずのリオにまで拒絶されたら、オリヴィアはショックで生きていけない!
リオの言葉の真意は?
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