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文化祭2日目 まちわびた日
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「────ひろとぉ」
その声に、通話口の向こうから大きく息を吸う音が聞こえる。顔を覆っては天を仰ぐ愛宕の姿が、目裏に浮かぶようだった。
なぜなら俺の隣で、猫田もまた同様に天を仰いだから。
シャープな横顔に浮かんだ笑みは引き攣っており、一筋の汗が、その輪郭を伝う。前方──中央棟と西棟の連絡通路を凝視する、その視線を追って。
「…………最悪」
連絡通路の陰から現れた青年に、猫田が悪態を吐く。
そのシルエットには、見覚えがあった。
「原…………」
俺の呟きに、青年──原は、ゆったりと微笑んだ。
「ひろと」
ただその笑みに、平生とは異なる違和感を覚えざるを得なくて。
咄嗟に踵に寄った重心。厚い手のひらに、背を支えられる。
「様子が変だ」と言えば、「いつも以上にね」と返ってくる。
『あれが正気かどうか確かめる』と、電話口で愛宕が言った。その声には、「どうか正気であれ」と、蜘蛛の糸よりも儚く切実な祈りの色が伺えた。
俺の背に手を添えたまま、猫田がスマホをスピーカーモードに切り替える。すると、『おおい』なんて愛宕の声が、広い廊下に響き渡って。
『こんにちは、高級男娼!』
「…………俺は、お前を心から軽蔑する」
「ひろと」
『だめそう』
「…………」
「ひろと、すき」
『あいつ、多分委員長しか見えてないよ』
俺もまた、天を仰いでいた。何も言う気になれない。
気力ごとゴッソリ吸い取られた気分のなか。そのまま蕩けそうなほどに撓んだアンバーに、胸がザワつく。
「なんでこんなことに…………」
「抑制剤だ……」
「…………」
「原、抑制剤飲んでないんじゃない」
引き攣った笑みのまま唸る猫田に、通話越しに愛宕が言葉を引き継ぐ。
『あのポンコツ、今日に限って遅刻してきよったろ』
「……大顰蹙だったな」
『調子戻ってきたんやない、委員長』
「薬が効いてきた」
ありがとう、と。小声で会話を交わす俺達をよそに、微笑むだけだった青年が、一歩足を踏み出す。
凄艶、と。そう評されるような色香を纏って、原はやおらこちらへと手を伸ばして。
「ひろと」
甘い声が、俺の名を紡ぐ。
心臓が、一際強く脈打つようだった。
「…………?……っ??……?」
そして心臓に灯った熱は、瞬く間に燃え広がっては身体を内側からぐらぐら蝕む。
胸を掻きむしりたくなるような切なさに、また、思考の輪郭が分からなくなる。
「ひろと」
「ひろと、ねえ、ひろと。こっち来てよ」
名前を呼ばれる度に、口から上擦った声が漏れる。膨れ上がる桃の香りは、先刻のΩ質のそれとは比べものにならないくらいに、甘美で、瑞々しくて。
────そして、魅力的だった。
気付けば、引き寄せられるように足を踏み出していた。
「……っ、」
不意に、視界が黒く塗りつぶされる。
大きな手に、背後から目元を覆われていた。
「しっかりしろ、委員長!」
切羽詰まった叫びに、幾分か熱が引いていくようだった。
『…………猫田クン』と。通話越しの呼びかけに、俺の目を塞ぐ手がわずかに強張るのが分かった。
『ここで最悪なんは、委員長があれに捕まること』
「…………ああ」
『委員長みたいな雑魚耐性は、手も足も出ずに食われるけんね。冗談抜きで、頭から丸呑み』
「どうしたら良い」
猫田の心中を知ってのことだろうが、珍しくも神妙な声音で、愛宕は『よく聞け』と言う。
『隙ができたら、お前はⅡ型の足止め。委員長は、西階段から一階に降りろ。そんで委員長は真っ直ぐ……ええと。とにかく逃げろ。そのΩかできるだけ遠いところに』
そんな指示に、猫田は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
無理もない。隙。隙と言ったって、此処は一本道だ。しかも、しっかり捕捉もされてしまっている。
「お前、無茶言う────」
『亀山クンがそっち行った』
猫田が息を呑む。
「おい原!サボるな!」
同時に、中央棟──原の右手から、響いてきた声に耳を疑った。
紛れもなく俺の声だったからだ。開けた視界を、丸い目で此方を見下ろしてくる猫田が占拠する。
ブンブンと首を振った。俺は喋ってない。だが、虚を突かれたのは俺達だけでなく、原の視線も声の方向へと注がれて。
同時に、縮こまった背を思い切り押される。
投げ出された身体と、急激に開ける視界。状況こそ把握は出来ないが、やるべきことだけは明確で。俺の爪先は、反射的に西棟に向いていた。
走れ、と。
愛宕と猫田の声が重なると同時に、真っ直ぐに駆け出す。
怠い足をどうにか持ち上げて、階段を下った。
その声に、通話口の向こうから大きく息を吸う音が聞こえる。顔を覆っては天を仰ぐ愛宕の姿が、目裏に浮かぶようだった。
なぜなら俺の隣で、猫田もまた同様に天を仰いだから。
シャープな横顔に浮かんだ笑みは引き攣っており、一筋の汗が、その輪郭を伝う。前方──中央棟と西棟の連絡通路を凝視する、その視線を追って。
「…………最悪」
連絡通路の陰から現れた青年に、猫田が悪態を吐く。
そのシルエットには、見覚えがあった。
「原…………」
俺の呟きに、青年──原は、ゆったりと微笑んだ。
「ひろと」
ただその笑みに、平生とは異なる違和感を覚えざるを得なくて。
咄嗟に踵に寄った重心。厚い手のひらに、背を支えられる。
「様子が変だ」と言えば、「いつも以上にね」と返ってくる。
『あれが正気かどうか確かめる』と、電話口で愛宕が言った。その声には、「どうか正気であれ」と、蜘蛛の糸よりも儚く切実な祈りの色が伺えた。
俺の背に手を添えたまま、猫田がスマホをスピーカーモードに切り替える。すると、『おおい』なんて愛宕の声が、広い廊下に響き渡って。
『こんにちは、高級男娼!』
「…………俺は、お前を心から軽蔑する」
「ひろと」
『だめそう』
「…………」
「ひろと、すき」
『あいつ、多分委員長しか見えてないよ』
俺もまた、天を仰いでいた。何も言う気になれない。
気力ごとゴッソリ吸い取られた気分のなか。そのまま蕩けそうなほどに撓んだアンバーに、胸がザワつく。
「なんでこんなことに…………」
「抑制剤だ……」
「…………」
「原、抑制剤飲んでないんじゃない」
引き攣った笑みのまま唸る猫田に、通話越しに愛宕が言葉を引き継ぐ。
『あのポンコツ、今日に限って遅刻してきよったろ』
「……大顰蹙だったな」
『調子戻ってきたんやない、委員長』
「薬が効いてきた」
ありがとう、と。小声で会話を交わす俺達をよそに、微笑むだけだった青年が、一歩足を踏み出す。
凄艶、と。そう評されるような色香を纏って、原はやおらこちらへと手を伸ばして。
「ひろと」
甘い声が、俺の名を紡ぐ。
心臓が、一際強く脈打つようだった。
「…………?……っ??……?」
そして心臓に灯った熱は、瞬く間に燃え広がっては身体を内側からぐらぐら蝕む。
胸を掻きむしりたくなるような切なさに、また、思考の輪郭が分からなくなる。
「ひろと」
「ひろと、ねえ、ひろと。こっち来てよ」
名前を呼ばれる度に、口から上擦った声が漏れる。膨れ上がる桃の香りは、先刻のΩ質のそれとは比べものにならないくらいに、甘美で、瑞々しくて。
────そして、魅力的だった。
気付けば、引き寄せられるように足を踏み出していた。
「……っ、」
不意に、視界が黒く塗りつぶされる。
大きな手に、背後から目元を覆われていた。
「しっかりしろ、委員長!」
切羽詰まった叫びに、幾分か熱が引いていくようだった。
『…………猫田クン』と。通話越しの呼びかけに、俺の目を塞ぐ手がわずかに強張るのが分かった。
『ここで最悪なんは、委員長があれに捕まること』
「…………ああ」
『委員長みたいな雑魚耐性は、手も足も出ずに食われるけんね。冗談抜きで、頭から丸呑み』
「どうしたら良い」
猫田の心中を知ってのことだろうが、珍しくも神妙な声音で、愛宕は『よく聞け』と言う。
『隙ができたら、お前はⅡ型の足止め。委員長は、西階段から一階に降りろ。そんで委員長は真っ直ぐ……ええと。とにかく逃げろ。そのΩかできるだけ遠いところに』
そんな指示に、猫田は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
無理もない。隙。隙と言ったって、此処は一本道だ。しかも、しっかり捕捉もされてしまっている。
「お前、無茶言う────」
『亀山クンがそっち行った』
猫田が息を呑む。
「おい原!サボるな!」
同時に、中央棟──原の右手から、響いてきた声に耳を疑った。
紛れもなく俺の声だったからだ。開けた視界を、丸い目で此方を見下ろしてくる猫田が占拠する。
ブンブンと首を振った。俺は喋ってない。だが、虚を突かれたのは俺達だけでなく、原の視線も声の方向へと注がれて。
同時に、縮こまった背を思い切り押される。
投げ出された身体と、急激に開ける視界。状況こそ把握は出来ないが、やるべきことだけは明確で。俺の爪先は、反射的に西棟に向いていた。
走れ、と。
愛宕と猫田の声が重なると同時に、真っ直ぐに駆け出す。
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