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地元編

⭐︎特殊シナリオ 人でなしの独白(上)

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 あ、金の斧銀の斧だ。
 課題の英文を読みながら思った。
 木こりが落とした斧とは全く違う、ピカピカの斧を持って、女神が池からヌッと現れる。
 長年抱いてきた既視感に、最も近い物だった。
 あの日池に落とした兄は、全く違う何かになって戻ってきた。

 赤色と緑色と黄色の飴玉が並んでいた。どれが良いかと聞かれたけれど、違いがわからなかったので何となく真ん中を選んだ。食べ物も服も友達も、全部同じだったのでいつも真ん中を指した。
 だからそれが欲しいと言う人間がいたら、全部快く譲った。快も不快も満足も不満もないので、何となくずっと微笑んでいた。
 たくさんの人が、寄ってきたり離れて行ったりした。
 「虫みてぇなやつ」と、ある日兄がこちらを指差して言った。よく理解できない言葉が、妙に記憶に残っていた。だから蜘蛛の巣に掛かった蝶々を見かけた時、気付けば足を止めていた。
 うぞうぞと蠢くそれは、ただただ本能でだけで抵抗をしていた。そこには意思も表情も無い。
 生物学的には何もかも違うそれを見て、確かに自分だと思った。グルグル巻きになって、動かなくなって、生きているか死んでいるかもわからない状態で捕食される自分を、簡単に想像することができた。
 ほとんど初めて興味を惹かれた光景を、何となくずっと眺めていた。

 それからよく、虫が目につくようになった。
 目についた蝶の羽を毟ってみたり、蟻の行列を踏みつけてみたり、何度も石を振り下ろしてダンゴムシを潰してみたりした。
 潰れたりちぎれたりするそれらは、やっぱりぜんぶ俺だった。
「明希、何してんだよ!」
 クラスで飼っているカブトムシを持ち去った時、クラスメイトの男児は悲鳴を上げた。俺はそれをほとんど無視して、水たまりにカブトムシを沈めた。金切り声をあげた男児は、猛然と俺の手からカブトムシを奪い取った。
 それからクラスメイトや色んな大人が駆けつけてきて、大騒ぎになった。眠かったので、出まかせを言って適当にその場を収めた。寝て起きると、クラスメイトの男児が悪者になっていた。俺の出まかせのせいでそうなったらしい。クラスメイトは蹴られたり毟られたりしていたけど、俺ではなかった。
 
 小学五年生の冬、池の傍を歩く兄を見た時、意味もなくその時のことを思い出した。
 だから強風が吹いた折に、帽子を池に投げ込んだ。俺の悲鳴に振り返った兄は、すぐに状況を理解して、池の柵を乗り越えた。枝を片手に、ぷかぷか浮かぶ俺の帽子を、一生懸命に引き寄せていた。
 その背を押す。そう言えば、あの時結局カブトムシを沈められなかったなと思ったから。
 兄の身体が、池の中に吸い込まれていく。バシャバシャと波打つ水面。だんだん弱くなっていく水飛沫が気になって、柵を乗り越えてもっと近くで眺めて。
「おい!何してるんだ!」
 遠くから聞こえてきた大人の悲鳴に、眉根が下がった。俺は精一杯焦った表情をして、「にいちゃんが池に落ちちゃった」と金切り声を上げた。

 三日後、あの日池に落とした兄は、全く違う何かになって戻ってきた。
 信じられないくらいに俺を構い甘やかすようになったし、何かにつけてこちらの顔色を伺うような言動を見せるようになった。意味のわからない奇行に走ったかと思うと、俺の反応を必ず伺いにやってくるのだ。
 自尊心が高く、活発で、静かな人間を面白くないと思っている。『面白くない』俺に極力関わろうとしなかった兄からは、想像も付かない変化で。口でこそ頑なに「池でのことは覚えていない」と言っていたが、時折見せる表情は、怯えと呼ばれるそれであった。
 わかりやすく、かつどうでも良い嘘をなぜそうも必死に吐き通すのだろうと思った。大声で騒ぎ立てると予想していたぶん、拍子抜けだ。
 静かに越したことはないので放置していたが、破天荒な奇行の合間に覗く、妙な冷静さと歳不相応な知性が、よく視界の端をチラチラした。

 中学2年生の夏、近所で火事があった。
 人が焼け死ぬところなんて物を、初めて見た。
 燃え盛る家の中に閉じ込められた少年。顔も名前も声も。よく知っている少年が炎に巻かれ、なす術もなく弱っていく姿に、肌が粟立つような感覚を覚えた。
 皮膚を焼くその熱さに焦がれて、燃え上がった灰の色を確かめることに、どうしようもなく執着して。
 わけのわからない言葉を喚きながら、体に巻き付いてくる大人たちに、俺はほとんど初めて『殺意』とすら呼べるような怒りを覚えていて。

「明希!」

 妙に鮮明に届いた呼び声に、ほぼ反射で視線を向けていた。兄が見たことのない表情でこちらへやってくるのが見えた。そしてあろうことか、俺の頬を思い切り張った。
 驚いて、頭が真っ白になる。
 張られた頬を見て、兄の顔を見て。
 じわりと胸を侵食したのは、やはり先刻と同じ類の殺意だった。
 邪魔で邪魔でたまらない。あってもなくても変わらなかった物が、急に視界に映り込んでくる。レンズの端にこびりついた塵みたいな不愉快さ。意識してしまうともうだめだった。
 後で確実に処理しよう。
 そんなことを頭の片隅で考えながら口にした、適当な言い訳。平生の兄ならば、何か言いたげにしながらも納得し、引き下がっていた類の誤魔化し。
「とぼけるなよ」
 けれども兄は、俺の言葉をいとも簡単に一蹴した。
 子供の駄法螺を切り捨てるような鋭さで、俺を叱った。
 『物のわかりの良い兄』の皮を脱ぎ去った男は、やっぱり全く知らない男のように見えて。目障りで腹立たしいことに変わりはないけれど、俺はと言えば「らしくないね」なんて言葉をほぼ無意識に溢していた。
ほとんど純粋な好奇心から出た言葉だった。
 その瞬間の兄の表情は、如何とも忘れ難い。理由こそわからないが、俺は当時の兄の反応を、この後何度か夢の中で反芻することとなる。
「………大切だったんだ。お前のことが」
「……思ってた以上に」
 尻すぼみになって、地面へと落とされた視線。見るからに混乱している兄を目の前に、俺もまた、まだら色の困惑が胸中に生まれるのを感じていた。
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