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地元編

特殊会話 弟と陰口

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ベッドに大の字になったまま、天井を眺める。クーラーに冷えた部屋の中で、窓から差し込む陽光の暖かさを享受する。おなかがぽかぽかする。
 弛まぬ研鑽に励む同級生、今も社会の歯車としてせっせこ働いている社会人。彼らに想いを馳せながら怠惰を貪るこの背徳感の、何と甘美なことか。
「……至福の時間…………」
「兄貴、ただいま」
 至福の時間が終了した。
 課外に出ていた弟がお帰りなすった。いまだに課外は午前中までらしい。
 ノックと共に届いた弟の呼び声に、気づかないふりをしようかな、なんて。そんな血迷った考えが脳裏を過った瞬間に、部屋のドアが開け放たれる。しまった、鍵をかけるのを忘れていた。
「わぁ、だらしない」
「だっ……」
「あ、寝たままで良いよ」
 ズンズンと無遠慮に入室してきたかと思えば、弟は太々しくも勉強椅子に腰掛ける。ぽんぽんと俺のお腹を叩いては、「あったかーい!」と無邪気に喜んだ。俺は俺でこの異常者に対してへそ天などと云う無防備を晒す度胸もないので、身を起こす。
「寝てて良いって言ったのに」
 残念そうに眉根を寄せる弟は、見るにかなり機嫌が良さそうだ。俺が、どうしたのと尋ねる前に、弟が「今日ね」とご機嫌な声音で口を開いた。
「春野に聞かれたよ、兄貴の連絡先」
「春……美樹ちゃん?」
「そう。やるね、兄貴。春野、学年でも結構人気あるんだよ」
「教えたの?」
「だめだった?」
 気遣わしげに首をすくめる弟は、側から見れば大層労しい。だが、俺はあいつのそれがパフォーマンスでしかないことを知っている。胸に湧き起こる感情といえば精々、『何を企んでいる?』という警戒心だけであって。
「兄貴は春野の事、そういう目で見てる?」
「『そういう目』?」
「セックスできる?」
「馬ッッッッ鹿!」
 急に心臓に悪いことを言い始めた弟に、思わず咽せる。表現があまりにも露悪的すぎて、お兄ちゃん驚いちゃった。
「で、できないできない。無理無理無理」
「何で?可愛いでしょ、春野」
「可愛いけどほら、まだ15だしね」
「一つ違いじゃない?」
「まぁ、まあそうだけど……」
 体感的には10違う未成年なのだ。性的興奮だとか何とかいう前に罪悪感が勝るわ。曲がりなりにも真面目に社会人してきた身としては、ちょっと想像しただけでもゾッとする。
「じゃあ、歳取ったらアリなんだ?」
「う、うーん?成人したらまあ……いやでも、あっちが嫌だろ、オッサンにそんな目で見られても」
「あはは。一つ違いでオッサンとか。一部の人にタコ殴りにされそうな時間感覚してるね」
 カラカラと笑う弟は、やはりどこまでも上機嫌だ。何だ、何がそんなに嬉しいのだ。身構えると、弟は目を細めたまま、ゆるりと首を傾げる。「うん」と呟いた拍子に、細い前髪がサラと揺れた。
「やっぱり連絡先教えなくて良かった」
「ん?」
 今何と?
 混乱のまま声を上げた俺に、弟は邪気のない目で「どうしたの、兄貴」と言った。どうしたの兄貴じゃない。
「お前さっき教えたって……」
「そんなこと言ったっけ?」
「いやいや、」
「『ダメだったか』とは聞いたけど」
 納得がいかない。
 釈然としない表情で黙り込む俺の額を、弟は楽しそうに突く。頬杖をついたまま、薄く目を開く。長い前髪の隙間から、彩度の高い翠色が顔を出した。
「それにしても、貴船のブランドはすごいね」
「お兄ちゃん、若者の会話の速度についていけない」
「お兄ちゃんって一人称、もう二度と使わない方が良いよ」
「…………」
「本人は将来有望で?そうでなくとも秀才とのパイプがゲットできるかも。春野は中々賢い」
 爽やかな笑みのまま吐き出されるのは、矢張り露悪的な言葉だった。俺は今度こそ、弟の相貌を凝視した。単純に気になった。どんなつもりでそれを言っているのか。
「二股に寝取り。清楚なナリをして、ヤることはヤってる。春野からしたら、同級じゃ子供っぽすぎたのかな」
「…………」
「兄貴の無駄に高い童貞力が功を奏したね。『アリ』だなんて言われてたら、どうしようかと思ってた。実兄が頭からバリバリ喰われて行くのを黙って見──」
「明希」
 名前を呼べば、弟は口を噤む。
 鼻白んだような表情からは、やはりその真意は読み取ることができなかった。
「美樹ちゃんはお前の悪口なんて一言も言わなかったぞ」
「そっか。それで?」
「お前、そんな性格悪かったっけ?」
「ええ?おれは事実を言っただけ。警告だよ。兄貴は何が言いたいの?」
「……別に。変わったなって思っただけ」
 乾いた翠目から視線を逸らす。こちらの言葉を待つような沈黙が心地悪かった。
「随分カッコ悪い奴になったな」
 再び、重苦しい沈黙が場を支配する。弟の相貌を見ることはできない。そんな勇気があったら今頃起業している。
 やや於いて沈黙を割いたのは、ふふ、なんて云う弟の笑み聲だった。わりかし深刻なやり取りをしていたはずだが、笑う要素がどこかにあっただろうか。
「そうだね。らしくなかった」
「……っ、」
「俺が悪かったよ、ごめんね兄貴」
 壮絶な笑みだった。一片の曇りすらない笑みで、薄っぺらい謝罪の言葉を吐く。あれだけボロクソ言われてこうも涼しく受け流してしまう方が、人間としては既に異端であると自覚してほしい。気味が悪くて仕方がない。
 表情を強張らせる俺の額を、「それだけだから」と突いて腰を上げる。弟は実に悠然とした足取りで部屋の出入り口に向かって、半身で振り返って。
「じゃあ、また夕飯で。俺課題しなきゃだから」
 扉が開いて、また閉じる。パタン、という音を最後に訪れた静寂の中、俺はまたベッドの上に全身を投げ出した。
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